15 この声は届くか
湖の孤島で生まれ育ったエウフェミアにとって、泳ぐことや水中に潜ることは慣れ親しんだ遊びの一つだ。
実際にこうして水に飛び込むのは八年ぶりのことだが、触れる水の感触は懐かしさを呼び起こすだけで、恐怖心は一切なかった。
目を開ければ、見えるのは青い水。上を見上げれば、白い光が差し込んでいる。
その美しい光景に目を奪われそうになるが、のんびりとしている場合ではない。
幼い頃兄とどれぐらい潜水していられるか競争をしたことがあるが、当時は二分程度しか保たなかった。大人になって肺活量が増えていたとしても、精々三分程度が限界だろう。息が続く間に祈りを水の大精霊に届けなければいけない。
(普通に頼むだけじゃ駄目なんだ)
祭壇の間でずっとエウフェミアは『心を鎮めてください』と頼み続けていた。しかし、そんな方法では水の大精霊の心には届かない。なら、どうすればいいのか。ずっと、そのことを考えていた。
幼い頃に会った彼女の姿を思い出す。楽しそうに笑う彼女は大聖霊というよりは、とても人間らしく見えた。その彼女が八年もの間、ずっとずっと心を乱している。それはなぜか。その答えをエウフェミアにも分かるような気がする。
シリルは言った。『当主が急逝し、大精霊様の心が乱れてしまう』ことがあると。そして、母は言っていた。水の大精霊は父のことを愛している、と。
エウフェミアはぎゅっと精霊石を握って、周囲の水に向けて祈る——いや、語りかける。
(水の大精霊様。水の大精霊様。私の声は聞こえますか。エウフェミアです。私、水の大精霊様のお気持ちが少しなら分かります。そう申し上げるのはとても失礼なことかもしれませんが、私には分かります。私もお父様たちが死んで、とても悲しかったです)
そう、彼女は——ずっと、悲しかったのだ。
エウフェミアが最愛の家族を失ったのと同時に、水の大精霊も大切な存在を失った。彼女もエウフェミアと同じだったのだ。
しかし、その事実を受け入れる前に屋敷に伯父一家が現れ、エウフェミアは新しい日常に適応することを求められた。だから、未だエウフェミアは家族の死をきちんと受け入れられていない。ずっと、その事実に向き合わずに生きてきた。——だから、今こそ向き合う必要がある。
(お父様に精霊術の勉強を教えて欲しかったです。お母様に料理や家事のやり方を教わりたかったです。お兄様ともっと、一緒に遊びたかったです。突然皆がいなくなって、悲しかったです。一人ぼっちになって寂しかったです。伯父様たちは私を屋敷に置いてくれましたけど、……私を家族には迎えてくれませんでした。だから、ずっと寂しかったです)
伯父一家にとってエウフェミアは家族ではなかった。そして、嫁いだイシャーウッド伯爵家でも。――エウフェミアはあくまで政略結婚で嫁いだ形だけの妻であり、マイルズはエウフェミアを妻として認めてくれなかった。
(でも、今は違います。水の大精霊様。私、自分の居場所を見つけました)
思い浮かべるのはハーシェル商会の皆の顔だ。アーネスト。トリスタン。ゾーイ。タビサ。それに他のたくさんの従業員たち。彼らはエウフェミアを『仲間』と、『同僚』と認めてくれた。
(家族ではありませんが、私を受け入れてくれる人たちがいっぱいいる場所です。私はもう一人じゃないって分かったから、私は家族の死を受け入れることができました。そして、水の大精霊様のお心に思いを馳せることができるようになりました)
きっと、一人っきりだったら、今もエウフェミアはその事実を受け止めることができなかっただろう。そして、家族の残滓を求めて、ガラノス邸へ帰ろうとしていたはずだ。
(水の大精霊様。私は水の大精霊様の悲しみの十分の一も理解できていないかもしれません。それでも、その深い悲しみと同じものを私も味わいました。だからこそ、水の大精霊様が傷ついたままでいるのを放ってはおけません。泣いていてほしくありません。笑っていて欲しいです。水の大精霊様は一人じゃありません。あなたにはたくさんの精霊たちと、私たちガラノスの一族がついています)
エウフェミアが今一人でないように。水の大精霊も一人じゃない。彼女のことを想う人間はたくさんいる。眷属の精霊たちだってたくさんいる。
(過去の全てをなかったことにはできません。それでも、悲しみを乗り越えて、一緒に前を向きませんか。これからの未来にはもっと楽しいことや嬉しいこともいっぱい待っているはずです)
自分より何千倍、何万倍も長く生きている大精霊に対して、こんな言葉は説教のように思われるかもしれない。それでも、エウフェミアは彼女に希望を持ってもらいたかった。
そのときだ。目の前の水が急に渦を巻いた。ここは川でも湖でもないのに、なぜ。そう思っているうちに、それは形を描く。
「——っぁ」
エウフェミアは思わず、息を吐いてしまった。大量に空気が漏れ、慌てて口を抑える。
目の前には女性が——水の大精霊がいた。しかし、それはエウフェミアの瞳が再び精霊を写し始めたわけではない。水が女性の形を作り出しているのだ。その容姿は先ほど見た彫像ではなく、八年前に会った妖艶な美女そのものだった。
女性の口が動く。
——これだから人間は嫌いじゃ。寿命の短さを理解し、その日に向けてゆっくりと心づもりをするつもりじゃったのに、ある日突然命を落とす。それも妾の知らぬところでな。本当に薄情な生き物じゃ。
その声は水の中に響いたわけではなかった。耳ではなく、頭の中に直接囁かれているようだった。
(……水の大精霊様)
——でも、そうじゃな。そなたの言うとおりじゃ。いつまでも嘆いていては妾を慕う皆に醜態を晒すことになろう。いい加減、気持ちを強く持たねばな。
そう言って、彼女の口元が緩む。それは以前見た無邪気なものとは縁遠い、どこか儚げなものだったが、確かに彼女は笑ってくれたのだ。水の大精霊はこちらに手を伸ばす。
——エウフェミア。どうかグレイトスの『 』を。
しかし、その姿は泡となって消える。最後の言葉を全て聞き取ることもできなかった。彼女が何を言おうとしたのか。そのことに想いを馳せる余裕は今のエウフェミアにはない。
先ほど空気を吐いたため、一気に息苦しくなる。急いで水面へと浮き上がる。
「エフィさん!」
すぐ目の前には焦ったようなシリルの姿があった。
彼が伸ばしてきた手を掴み、引き上げてもらう。
体中の水が服に染み込み、皮膚に貼りつく。寒さと疲労で、膝に力が入らない。水から上がると、そのまま倒れ込んだ。
全身をとてつもない疲労感が襲う。とてもじゃないが、自分の力で起き上がられない。
「エフィさん、大丈夫ですか?」
「…………は、い」
こちらを覗き込むシリルになんとか返事を返す。こちらの意識と反応があったことに彼は安堵の息を漏らす。しかし、その表情は緊張したままだ。
「今、人を呼んできます」
彼はエウフェミアに自身の上着をかけると、部屋を飛び出していく。水の大精霊の心が鎮められたのか。それを聞きたいのに、エウフェミアの体も口も動かない。
「誰か! すぐに来るんだ!」
その声が遠くで響くのを聞きながら、どんどん瞼が重くなっていくのに耐えられなくなる。そして、エウフェミアの意識は完全に闇に閉ざされた。




