14 過去の記録
翌朝、主寝室を出たエウフェミアはその光景に驚いた。
時刻はまだ朝の六時。しかし、ソファには既にアーネストが座っている。しかも、それだけではない。テーブルの上には分厚い資料が大量に積まれ、彼はそのうちの一つを手に取って眺めている。そして、近くに置かれた灰皿の大量の吸い殻が、長時間彼がそうしていることを表していた。
「会長?」
声をかけると、すぐにアーネストは顔を上げた。それから時計を見る。
「ああ。もう朝か」
「……もしかして、ずっと起きてらっしゃったんですか?」
「まあな」
何でもないように言われ、エウフェミアは言葉が出なかった。
徹夜なんて身体に良くないし、体調が心配だ。なぜ、そんなことをしたのかと思い、テーブルの紙の山に視線を向ける。それは見覚えのあるものだった。
「これは、資料室の報告書ですか?」
「ああ。昨日、レイランドの坊っちゃんに届けさせた」
「資料室の資料は会長にはお見せできないって」
「知ってるか? あの坊やを言いくるめるのは赤子の手をひねるより簡単なんだぜ」
意地悪そうに笑うアーネストに何も反論の言葉は出て来ない。確かに彼ならシリルを言いくるめ、資料を持ってこさせることはできそうだ。
それでも、気に掛かることはある。
「……ずっと、この資料を読まれてたのですか?」
昨日、エウフェミアには休むように言いながら、彼は一晩中働いていたことになる。普段から仕事に忙殺されているアーネストには大したことではないのかも知れないが、自分がぬくぬくと眠りについている中でずっと資料に目を通していたと考えると申し訳なさが拭えない。
アーネストは強い口調で咎めるように言う。
「変に後ろめたさは感じるなよ。単純に効率の問題だ。夜に俺が目を通して、朝のうちにお前に内容を伝えれば、今日一日を無駄にしなくてすむ。俺は日中寝られるからな。——そこに座れ」
エウフェミアが座ると、アーネストはソファの横に置いてあった紙の束を手にとる。
「昨日したのはあくまで仮説を立てるところまでだ。実際にその仮説が裏付けるような根拠か、あるいは間違っていることを示す反論材料が欲しい。——ここにあるのは、大精霊が関与した出来事の報告書だ。解決に大精霊の力を借りたもの。大精霊が引き起こし、精霊術師が解決したもの。そういった類だな。ひととおり読んだが、大精霊サマのお力を借りないといけないとき、出張ってくるのはほぼほぼ精霊爵サマだった。これを見てみろ」
彼は手元の資料をエウフェミアの前に置き、該当の文章を読み上げる。
「帝国暦三〇八五年八月。官吏が体調不良の精霊爵と話した際、『大精霊様へ祈りを届けられるのは私だけ』と返された。似たような記述が他にも五件ほど見つかった。それと当主が出て来ない場合、当主の子供や兄弟なんかが代理を務めているが、ソイツが次の当主に就いている。だから、当主がというよりは『当主に相応しい大精霊に愛されている精霊術師の命令なら、大精霊は聞く』と考えて良さそうだな。なら、ガラノス家当主でないお前でも水の大精霊に祈りを届けられる可能性は十分ある」
「……水の大精霊様が私を愛してくださっていれば、私の祈りは届くのですね」
エウフェミアと水の大精霊の邂逅は本当に短い間だった。彼女はこちらに興味を持ってはいたが、寵愛があったかは分からない。ただ、今はそれを疑っている場合ではないだろう。出来ることをやり、駄目だったらそのときに考えればいい。
「そうだ。後、面白い文章があった」
投げ渡されたのはまた別の報告書だ。帝国一九六八年。これはカフェ家が土の大精霊を鎮めた際の記録だ。内容を読み進める。そして、彼の言う面白い文章に行き着く。
「これは――」
「な? 試してみる価値はありそうだろ」
アーネストはどこか楽しそうに笑う。エウフェミアはもう一度、文章を読み直す。確かにこれは今までやっていなかった方法だ。
昨日と今日。アーネストが協力してくれて得た結果は、打開策を見出だせずにいた今の状況に一筋の光を差してくれた。
――これなら、きっと。
エウフェミアはぎゅっと報告書を握る手に力を入れる。アーネストは昨日と同じ質問を口にする。
「これで、上手くいきそうか?」
まだ確証はない。それでも、今日こそ上手くいきそうな、そんな予感がする。エウフェミアは「はい」と笑顔で頷いた。
◆
再びエウフェミアは祭壇の間に入る。ここにやってくるのは今日で三回目だ。三度目の正直、という言葉通りになることを期待したい。
「では、私は今日も外で控えていますね」
「シリル様」
部屋を出て行こうとするシリルを引き止める。
「今日はこの部屋でお待ちいただけませんか?」
その提案にシリルは怪訝そうな表情を浮かべる。
「私がいては祈りの邪魔になりませんか?」
「大丈夫です。シリル様には見守っていて欲しいのです」
それはアーネストからの指示だ。エウフェミアもこれから自分がやることを考えれば、近くに人を控えさせておくのは必要なことだと思う。そうでなければ、自分の命が危険になる。
「分かりました。では、端に控えています」
そう言ってシリルは扉のすぐ側に移動する。そのことに安堵し、エウフェミアは微笑む。
「私がどうなっても、本当に危ないギリギリまで手を出さないようにお願いいたしますね」
相手の反応を見る前に、エウフェミアは再び像へ向き直る。
これから何をするかはシリルには伝えていない。本当は伝えるべきかもしれないが、反対される可能性も考慮してのことだ。こちらの意図が無事に伝わることを祈る。
相手の反応を見る前に、再び水の大精霊の像へ向き直る。今からエウフェミアが考えるべきは水の大精霊の心を鎮めること。ただ、それだけだ。それ以外のことは頭からも心からも切り離す。
見上げる女性の像は美しい。人が想像する大精霊、その姿だ。エウフェミアはこれまでずっと、彼女に祈りを捧げていた。しかし、それは本当に正しい行為だったのだろうか。
あの像は本物の水の大精霊ではない。あくまで、人が想像した彼女を模した形。この神聖の場において、最も荘厳であることは事実だが、あそこに水の大精霊はいない。彼女がいるのは——目の前に広がる水の中だ。
八年前、水の大精霊がどこにいるのかと訊ねたとき、父は『あの方はどこにでもいるよ』と答えた。エウフェミアに会いに来てくれた彼女は湖の水に溶けた。ならば、彼女はどこにでもいる。今まで祈りに応えてくれなかったのは、エウフェミアの祈り方が悪かったからだ。
——どうすれば、私の祈りが届くのか。
そのヒントは今朝、二千年前の報告書から得た。
カフェ家の次期当主が怒り狂う土の大精霊を鎮めたとき、彼は自ら土に埋まることを希望した。その理由を『大精霊様と同じ場に身を置くことで、真に心に触れることはできる』と説明したそうだ。――その方法が有効的なのであれば。
精霊石を握りしめたまま、淵まで歩みを進める。静かに波打つ水面に、自らの姿が揺れて映る。そして、エウフェミアはためらいなく水に飛び込んだ。




