記憶 2
もう立っていられなくなった私は、崩れるようにその場に倒れ込んだ。
『お前はどうしてそんなにも不出来なんだ? ウェインライト伯爵家には不要だな』
『……申し訳、ありません』
『お、お母様、ごめ、なさい……ごめんなさい……っ』
『……レーネの、せいじゃ……ないわ……それより、あなたの、腕が……』
『どうして、お母様を……!』
『……もういいよ、それで。俺がやったんだ、全部』
同時に覚えのない記憶が頭の中に流れ込んできて、これらは元のレーネの記憶だと気付く。魂は別人でも、脳や身体は覚えているのかもしれない。
そしてこれがレーネにとっての「思い出したくない記憶」なのだと、直感的に分かった。
「……っ、う……あ……」
だんだんと頭の痛みは増し、意識が遠のいていく。
どうにかしてこの薬を解毒しなければと思っても、もう立ち上がることすらできそうにない。
──きっと私がこんなことになったと知ったら、ユリウスやみんなは心配するはず。
だから、ちゃんといつも通りの笑顔でみんなのところに戻らなきゃ、なのに。
必死に伸ばした手は何も掴めずに空を切り、そのまま冷たい床に力なく落ちていく。
「……私はもう、こうするしかないのよ」
意識が途切れる瞬間、最後に聞こえたのは、泣いているようなジェニーの声だった。
◇◇◇
「……うえっ……頭がガンガンする……って、痛ったあ……!」
頭を押さえながら、ごろんと寝返りを打つ。するとゴンッと何かに足の指をぶつけてしまい、悶え苦しんだ。
「な、なに……?」
そもそも今寝転がっているのもベッドではなく薄いカーペットの上で、どうしてこんなところにと不思議に思った途端、最後の記憶が一気に蘇ってきた。
「そうだ私、ジェニーに──……」
そうして慌てて飛び起きた私は、言葉を失ってしまう。
「……嘘でしょ」
目を開けるとそこには、元の世界の私の部屋が広がっていたからだ。
しばらく座り込んだまま呆然としていたものの、じんじんと痛む足が現実だと教えてくれる。
部屋の中を見回すと、前回よりもさらに可愛らしく綺麗になっていて、やはりレーネが今もここで暮らしていることが窺えた。
「ど、どうしよう……」
以前、元の世界に戻ってきた時は爆発事故に巻き込まれたのがきっかけだった。今回は無理に記憶を戻そうとしたことが、トリガーになってしまったのかもしれない。
あちらの世界に戻れたきっかけは、元の身体に戻ったレーネが階段から飛び降りたからだった。
私が同じことをしたところで戻れる確証はないし、魔法がないこの世界で大怪我をして普通に死んでしまっては、何もかもが終わりだろう。
「ユリウスだって、不安になってるはずだし……」
レーネが自分の身体に戻った際、ユリウスはかなりショックを受けたようだった。
『俺に触れられるの、嫌じゃない?』
『……泣きそうになったの、人生で二回目かもしれない』
元のレーネがあの身体に戻っているのなら、間違いなくまた同じことになる。
実際は悪意があっても、側から見れば記憶喪失の姉のために「記憶を戻す薬」を飲ませただけなのだから、そう責められることもないはず。
「か、完璧な作戦すぎる……」
ジェニーの思うつぼで許せない気持ちも腹立たしい気持ちもあるけれど、かなり追い込まれた様子は心配でもあった。
「あんな薬を使うくらい、追い込まれていたなんて……」
ジェニーの行動は許せないが伯爵夫妻のもとで孤独で暮らし、ずっと圧をかけられていたのかもしれないと思うと、ただ責めることはできそうにない。
そう考えられるのは私が本来、彼女よりもずっと大人だからだろう。
「……あの記憶……」
何より、意識が途切れる前に見えた記憶の数々も気がかりだった。
泣き叫ぶレーネの声、血溜まりの中で倒れるレーネの母と、血塗れのレーネの右手は、もう見たくないと目を背けたくなってしまうものだった。
『一度、右肘から先を丸ごと失ったようですね。相当大きな事故だったでしょう?』
もしかすると、ハートフル学園の呪いに詳しい保険医のベルマンが言っていた「大きな事故」というのは、あの記憶のことなのかもしれない。
レーネの母が「病気ではなかった」という話とも、辻褄が合う。
「どうしてあんな状況になったんだろう……」
けれど、伯爵夫妻は一度も大きな事故に遭ったことないと話していたから、謎は深まるばかり。
『二度とその話はしないで』
すごく気になるものの、右手を失った際の話はユリウスにとってタブーらしかった。
そして一番気がかりだったのは、最後のユリウスとレーネの会話で。
『……もういいよ、それで。俺がやったんだ、全部』
何かを諦めたような憐れみを含むような、あんなユリウスの表情は初めて見た気がする。
本当に分からないことばかりで、私は何も知らないのだと改めて実感していた。
「お願いだから、レーネはもう自殺未遂みたいなことはしないでほしいな……」
目の前でまた飛び降りなんてしては、ユリウスやみんなの寿命が縮まってしまう。
ユリウスのことがとにかく心配で、今回は流石に二度目だし、どうかレーネが落ち着いた対応をしてくれることを祈るしかない。
「あ、でもルカと再会できたのかな」
この入れ替わりはお互いに望まないものだろうけど、ルカと十年ぶりに会えるのはきっとレーネにとっても嬉しいことかもしれない。
こんな状況になってしまった以上、レーネを心から心配して大切に思っている本当の父にも会えたら最高かもしれないけれど、流石に難しいだろうか。
「よし!」
前回は気絶時間が長かったのか、目が覚めてすぐに元の世界戻ったこともあり、レーネがここでどんな風に暮らしているのかすら知らないまま。
「とにかく、一度ちゃんとこちらの世界の状況も把握しよう」
今の私が元の世界に戻るためにできることはないだろうし、レーネがなんとかしてくれることを祈りつつ、できることをしなければ。
ひとまず部屋の中やスマホを確認してみようと、立ち上がった。
なんだか元の部屋よりもすごく良い香りがするし、丁寧に整理整頓されているし、自分の家なのに他人の家を物色しているような、妙な後ろめたさがある。
「きっと本当は、こういうのが好きだったんだろうな」
クローゼットを開けると、可愛らしいパステルカラーのワンピースが並んでいた。
レーネに転生したばかりの頃は服を買いに行く服がないくらい、クローゼットの中には地味で暗い色のドレスしかなかったことを思い出す。
あの屋敷では好きなものを選ぶことすらできなかったのだと思うと、この世界で自分らしく楽しく過ごせていたらいいなと願わずにはいられない。
「あ、流石に会社は辞めたんだ。あれは無理だよね」
クローゼットの中には、可愛らしいカフェの制服のようなものがかかっていた。
この世界の常識や知識がない中で、普通の会社どころか地獄のブラック企業で働くなんて無理に決まっている。
ポケットには色々と書かれたメモが入っていて、一生懸命に働いていることが窺えた。
学生で貴族だったレーネが見知らぬ世界で働くなんて、とても大変だったはず。
「……頑張ってるんだね」
会ったことはないけれど、いつしか彼女を自分の半身のように思っている。
レーネも私と入れ替わっていることに気付いているだろうし、彼女が私をどう思っているのかも気になるところだった。
時間に余裕があれば、置き手紙なんかをしてもいいかもしれない。
「やっぱりパスワードは変えてるよね……」
調査を続けた結果、スマホなどを発見したものの、パスワードが分からず開けなかった。
けれど普段使いしているらしい手帳は見つけることができたのは、大きな収穫だろう。
「では、少しだけ失礼して……」
勝手に見てしまうことに罪悪感を覚えつつ、ドキドキしながら手帳を開こうとした瞬間、コンコンとノック音がして、びくりと肩が跳ねた。
私が暮らしていたマンションは1LDKで、この部屋の他にもう一室ある。けれどまさか他に人がいたなんて思っておらず、驚きで心臓が早鐘を打つ。
「どうした? 家探しでもしているような音だったが」
「──え」
やがてドア越しに聞こえてきたのは聞き覚えのある声で、口からは戸惑いの声が漏れた。
『鈴音、いるのか?』
『一日連絡がないから、心配で来たんだ』
思い返せば前回ここへ戻ってきた時にも、彼と会ったことを思い出す。私が黙っていたせいか、やがて躊躇いがちにドアが開かれる。
そして現れたその人の顔を見た瞬間、私は息を呑んだ。
「ほ、本物の吉田……?」




