幕間:嫉妬の受難・妬-1
えー、毎度毎度何回更新が遅れるんだてめぇは、という感じですよね。本当、申し訳ない……。
実は途中まで書いていたものを〝全没〟にしまして、一から書き直していました。
もっと早い段階でそう決意していればここまで遅れなかったんですが、私もまだまだアマチュアです。
深夜手前。フラフラと、ユーリは自室に覚束ない足取りで入室するとそのままベッドへと足を向ける。
普段は寝付きが悪い、とソファで睡眠を取っている彼女だが、今日は肉体面と精神面の両方が疲労困憊しており、寝付きよりも快眠を優先した結果として半ば無意識でベッドを選んだのだ。
ユーリはそんな快眠を保証してくれようベッドの上に、使わなかったが故に積まれていたものを投げやりに叩き落とすと、そのままの勢いで倒れ込んで深い深い溜め息を吐く。
「……クソが」
最早罵詈雑言もその程度しか漏れ出ない。それほどまでに、ユーリは心身共に参っていた。
彼女のこの惨状は今から数時間前。人族との戦争に際した現状報告を会議にて報された事に起因する。
結果としては散々な有り様と言わざるを得ない。
ティリーザラの王都セルブを蹂躙する筈だった軍団長達からは一切の定期連絡が来ず、カーネリアに向かわせた遊撃部隊からも連絡は無く、更には我が国の英雄であるエルダールがティリーザラに名を轟かす女剣士ガーベラを討ち損じた。
そして兵糧拠点を奪われた挙句、南へと侵攻していた第四副軍団長エルウェが率いていた部隊は壊滅し、全体的な戦線はたった一日でかなり追い込まれてしまった……。
これ以上の負けっぷりはそうそうあるものではない。
だがしかし、これはある意味で致し方無い事でもあったりする。
(それもこれも、全部あのクソ野郎が現れてから……全部……っ!!)
あの日。ユーリが一人で生きていかなければならなくなったあの瞬間から、彼女は今日のこの日を〝復讐〟という絵の具で絵を描く為に生き、五十年を費やした。
そして本来ならばそんな五十年に及ぶ努力と奸計が、ティリーザラからの絶え間ない敵情の流入と奴等の悲惨な惨状の報告、そして眼前に積まれた敵の死体の山を築いている筈だった。
だがそれも、たった一人の人族の介入で全てが裏返り、攻め入るどころか逆に追い込まれる結果になってしまっている。あのクラウンという少年、ただ一人の手によって……。
(……いや。私の慢心も原因ではある、か……。潜入エルフからの情報網が太かったせいで、頼り切りになっていた……。次善策を用意すべきだったんだ……)
ティリーザラに潜入していたユーリ直属の工作員エルフ百八名から流入される情報はかなり重宝されていた。
彼等から齎される様々な情報は正確にアールヴへ伝わり、例えどれだけの軍事力、どんな作戦を企てようが看破し、後出しジャンケンの如く必ず有利に立てるよう立ち回れる地盤を築いていた。
だが逆に言えば、アールヴにとってティリーザラからの情報源はその潜入エルフ達からのもののみであり、それが潰されてしまえば一切のティリーザラの情報が断たれてしまうのだ。
では何故潰された際の次善策を用意していなかったのか?
それはユーリが潜入エルフをティリーザラが潰せるわけが無い、と慢心していたからに他ならない。
潜入エルフは先述したように合計で百八名おり、その誰もがユーリが自ら手塩に掛けて訓練を施した優秀な人材達で構成されていた。
彼等はユーリの望み通り巧みにティリーザラの至る所に身を潜め、あらゆる妨害工作と情報漏洩を熟していたプロフェッショナル集団である。
変装や偽装に長けた彼等は正体が判明する可能性は低くく、仮にバレたとしても簡単には口を割る事すら無く、万が一喋らされたとしても彼等は仲間の居場所をそもそも知らない。
全員を潰すにも時間が掛かり、既に妨害工作で弱り始めていたティリーザラの国力では更に時間が掛かってしまう……。
そういった点からユーリはそれ以上の策を講じる事を〝無駄な労力〟と断じ、他の方面へと力と思考を向けていたのだ。
だがそんな無茶を、クラウンによってたった数ヶ月でひっくり返された……。ユーリにとって、それを知った瞬間ほど冷や汗をかいた事はない。
(まあ、それはいい。私の慢心とミスだ。受け入れよう……。だが何故……何故今度はコチラの情報が筒抜けなんだっ?)
ユーリも馬鹿ではない。今日の戦況を耳にした時、彼女は率直に至った。
明らかにこちら側の情報が向こうに漏れている、と……。
でなければ初見では殆ど看破不可能な筈の奇襲作戦が全て失敗する事などまず有り得ない。それこそ王都街中に偶然にも軍団長達よりも優れた強者が居り、立ち塞がりでもしない限りは……。
だが現実としてそれは起こっている。ならばもう、事前に知っていた以外には無い。
(ハーティ……はそこまで情報は持っていなかった。なら国内に内通者が? 大臣達……だが出不精で人族と接する機会など皆無な奴等が内通する理由なんて……)
と、そこまで思い至った時、唐突に猛烈な睡魔がユーリを襲う。
睡魔は活性化していた脳を曇天が覆うが如く翳らせていき、徐々に思考が鈍っていく。
(だ、めだ……。流石に、寝てしまわない、と……。まとも、に……)
抗いがたい眠気にユーリは素直に主導権を明け渡し、入眠する。
そして見るは過去の夢。
彼女が女皇帝となり、復讐を誓う、その瞬間の第一歩となった過去である。
「ど、え、なん、え?」
突然戦場へと放り出されたユーリは困惑し、自身を見下すアパノースに縋るような目を向け、涙ぐむ。
「なん、で? なんでわたし、こんな所に?」
「……アンタはエサよ」
エサ……、と唐突に言われてもユーリには理解が出来ない。
だがそれが意味する事に何一つ良い意味などありはしない事は肌で理解出来、ユーリは途端にアパノースに対して恐怖を滲ませ目線を逸らす。
そして彼女の中にあるもう一つの揺るぎない信頼を抱く人間を探すように辺りを忙しなく見回したが、虚しくもその目が待望の人を捉える事はない。
「アイツなら来ないわよ」
「──っ!?」
アパノースからの冷たい声音に咄嗟に振り向いたユーリは、その理由を同様な目で訴える。
「……アイツはね。アンタを匿ったせいで独房に入れられたのよ」
「……え?」
「分からない? ダークエルフなんて薄汚いガキ拾ったせいでアイツは罪人になったって言ってんのよっ!! アンタのせいでっ!!」
激情に任せて叫ぶアパノースは、その感情に突き動かされるがままユーリの首を鷲掴み、縫い付けるようにして地面に押し倒す。
「がっ!?」
「アンタに……。アンタにさえアイツが会わなきゃこんな事になんてならなかったのよッ!! アイツが逮捕されて処刑される事もッ!! 私がこんな事しなきゃなんないのもッ!! 全部全部アンタのせいッ!!」
「ぐ……え゛……」
「……ッ!!」
ユーリの苦悶の表情を目の当たりにしたアパノースは、そこでユーリの首を掴む自分の手に絞め殺すには充分なほどの握力を加えている事に気が付き、咄嗟に彼女の首から手を離す。
アパノースの任務は今この場の前線にてユーリの存在と素性を表明し、アールヴの引き籠もっている皇帝を引き摺り出す事。
処刑しても良いとは言われていたが、だからと言って何もせぬまま彼女を絞め殺しては全く意味が違って来る。そこは決して間違えてはいけない。
「がはっ! げほっ、げほっ!!」
「……チッ。来い」
咳き込むユーリに、アパノースは知った事かと彼女の襟首を掴んで引き摺り、戦闘に巻き込まれないよう隠密系のスキルを発動しながら慎重に移動。
道中「離してっ!!」と暴れるユーリを適度な暴力で黙らせながら森の中でも比較的見通しが良い場所を探し、そこで高さのある安定感が出る岩を《地魔法》で生成してそこへとユーリを放る。
そして雑に投げ飛ばされ痛がるユーリに向けアパノースは更に《地魔法》を発動し、ユーリの手足を枷のように拘束すると、まるで磔にでもするかのように高い位置へと彼女を掲げ、思い切り息を吸い込んだ後に高らかに発声する。
「『すぅーっ……。聞けぇぇっ!! 愚かで土臭い草人間共ぉぉっ!!』」
スキル《拡声》の権能により辺り一帯に響き渡ったアパノースの声は、その周辺で争っていた人族とエルフ族の両者の注目を一気に集め、数秒前の喧騒からは想像も付かないほどの束の間の静けさが空気を支配する。
「『遠からん者は音に聞けっ!! 近くば寄って目にも見よっ!! そこにて磔にされるわ其が帝国皇帝の最大最悪の汚点っ!! 皇族の血を引きしダークエルフの子であるぞっ!!』」
その声明が《拡声》の効果範囲全てに行き渡り、今度は違う種類の空気が行き渡る。
疑念、欺瞞、虚偽……。人族の兵士達は自国による欺瞞作戦と秘中の作戦の可能性に至り、エルフ族もまた全く逆の視点で同じ可能性を願うようにしてユーリを見上げる。
そしてそこに晒されるユーリの容姿を見て、エルフ族の兵士達は絶句した。
自分達エルフ族と共通する長く尖った耳を持つにも関わらず、本来白魚の如き肌の色は日焼けとは違う色彩の浅黒さをしており、鮮やかな筈のブロンドの髪色は鈍い銀色に染まっている。
これだけならばまだ、敵方がエルフ族を捕まえて偽物を拵えた、と考える者も居たであろう。
だがそんな楽観的な思考は虚しく。ユーリの恐怖心で絶え間無く流れ落ちる涙の奥に見える瞳の色を見て、エルフ族の兵士達は更に絶望した。
ユーリの瞳の色は新緑色──だが単なる新緑色ではない。
新緑色の中に、まるで瞳孔を中心として広がる後光のように霊樹トールキンの葉の如き眩い黄金色が存在し、徐々に新緑色にグラデーションする独特な配色をしているのだ。
この独特な配色は単なる一介のエルフ族には存在しない。この色は紛れも無く〝皇族の血を引く者〟にしか受け継がれない、紛れも無い皇族の証なのである。
勿論、この事実を人族は知らない。故に真似しようにもその皇族の証の色までは再現など不可能であり、つまりはエルフ族の兵士達の眼前にて晒され磔にされているダークエルフ──ユーリが、間違いなく皇族の血を引く者である事を証明していた。
「『お、おい……嘘、だろ……』」
「『へ、陛下に……穢らわしいダークエルフの、子供が?』」
「『な、んで……奴等が、そんな奴をっ!?』」
様々な疑問が敵である人族の兵士達を無視して次々と静寂を突き破り浮上し始め、徐々に語気に怒りの感情が滲み始める。
「『陛下は俺たちにウソを吐いていたのかっ!?』」
「『あんな穢らわしい存在が生まれた皇族に従う価値なんてあるのかっ!?』」
「『陛下……信じていたのにぃ……』」
兵士達の感情は怒りと失望に塗り替えられ、次々と戦闘放棄するかのように武器を手放し、磔のユーリの元へ集っていく。
そして彼女に対し、集まった兵士達は感情の赴くままに罵詈雑言の嵐を叩き付け始めた。皇帝が居ない今、その矛先がユーリへと向かったのだ。
口汚く、醜く、醜悪極まりないその光景は戦場とはまた違った地獄であり、その余りの凄惨な様子は、嗾けた張本人であるアパノースですら身震いを覚える。
が、この状況で最も辛い思いをしているのは、間違い無くユーリ張本人である。
「……」
ユーリに投げられる罵倒は全てエルフ語。
人族であるヒルドールに育てられたユーリは現時点ではエルフ語など解らず、皆が理解出来ない言語で騒ぎ立てているようにしか聞こえない。
……だがそれでも、エルフ族の兵士達の声音には子供でも充分に理解出来る程の憤怒と憎悪が滲んでおり、その感情がどういうわけか自分に向けられている、とユーリは理解してしまう。
そしてその理由が先程アパノースから告げられた言葉と結び付いてしまい、ユーリの中で最悪な形で固まっていく。
『アンタに……。アンタにさえアイツが会わなきゃこんな事になんてならなかったのよッ!! アイツが逮捕されて処刑される事もッ!! 私がこんな事しなきゃなんないのもッ!! 全部全部アンタのせいッ!!』
(……ああ、わたし。生まれて来ちゃいけなかったんだ……)
ユーリの瞳から、光が消える。
大好きなオジサンであるヒルドールとの日々は、間違いなくユーリにとって幸福な毎日だった。
このままこの幸せが続くならばどれほど良いだろう。
このまま二人で何気ない日々が送れたならばどれほど良いだろう。
そう願いながら毎日床に就き、毎日毎日朝を迎えていた。
だが、それが間違いだったと。過ちだったのだとユーリは深く深く後悔する。
(わたしが生まれたから、この人達は怒って、憎んでる……。わたしが生まれたから、アパノースはわたしを嫌って、わたし達を裏切った。わたしが生まれたから、オジサンは……死んじゃう)
もういっそ、このまま自分を縛る岩で絞め殺して欲しい……。そこまで精神的に追い詰められたユーリは、それを願うように改めてアパノースへと視線を向けた。
すると──
「……ふふ」
「……え」
未だ、罵詈雑言の暴風は止まない。
だがそんな中、アパノースのその小さな小さな、思わず漏れ出てしまった微笑が、嫌にハッキリと耳に届いた。
それは明らかな嘲笑。
他者を蔑み、無様な姿を見て愉悦に浸る卑劣な笑い。
そんな笑いが、ユーリの中で固まり掛けていた絶望に意図せずヒビを入れる。
「……なんで──」
なんで自分がこんな目に遭っているのに、あの人は蚊帳の外から傍観しているの?
なんで少なからず笑い合った時間を共にした自分を見て、そうやって笑っていられるの?
なんでわたしは幸せになっちゃいけないの?
なんで……なんでわたしはそっち側じゃないの?
未完成だった絶望は、別種の湧き上がる感情によって徐々に塗り変わっていく。
それはユーリがこんな目に遭う以前から心胆の奥底に仕舞い込み、ずっとずっと眠らせ続けていた感情。
きっとヒルドールとの日々が続いていれば生涯噴出する事は無く、然りとて決して消化などされない、極々一般的でありふれていて、そして果てしなく醜い、一つの感情……。
その感情の名は──
「ユーリィィィィッッ!!」
「──ッ!?」
突如、聴き馴染んだ声がユーリの耳に届く。
誰より信頼し、誰より幸福を望み、そして誰より深い愛情を抱く、愛しい愛しい人の声が。
「お、オジサンッッ!!」
「な、はぁぁっ!?」
ユーリの視線の先、声のする方。
そこには道中のエルフ族の兵士達を何の躊躇いもなく次々と斬り伏せ、真っ直ぐユーリに向かい突撃してくるヒルドールの姿があった。
そして磔にされるユーリの元まであっという間に接近すると、その足元に屯ろしていたエルフ族の兵士達を薙ぎ払うようにして蹴散らし、あらかた片付けるとアパノースの《地魔法》による磔を斬り刻む。
磔による支えを失ったユーリは重力に従い自由落下するが、それを地面を蹴り跳び上がる事で難なく空中で優しく受け止め、着地する。
「な、なんで……なんでっ!!」
彼の唐突な出現に、既に現場から様子を見るだけであったアパノースは頭を殴られたような衝撃と驚愕と焦燥を発露し思わず叫んだ。
「あ? なんでってお前……」
ヒルドールはゆっくりと受け止めたユーリを地面に降ろした後、今まで信頼していた同僚に向けて来た事の無い感情の視線でアパノースを睨み付ける。
「それ、本気で言ってんのか? アパノース」
「な、何がよ……」
「……いや。もういい」
諦めたように息を吐くヒルドール。
そんな彼に苛立ちを覚え、しかしアパノースは上手くいっていた任務の行方が突如として不明瞭になった危機感に身震いし、腰に佩く短刀へと手を掛ける。
「……止めとけ」
「あ、アンタこそ……。こんな事してタダで済むと思って──」
「思ってねぇよ」
「──っ!!」
不安がるユーリの頭に優しく手を置きながら、ヒルドールは一切の迷いも淀みもなく淡々と口にする。自身の、決意を……。
「思ってねぇよ。でももう知った事じゃねぇ」
「は、はい?」
「もう腹括ったんだよ。俺は……ユーリと二人で生きていく」
恐らくそれは、アパノースが最も聴きたくなかった言葉であり、逆にユーリにとっては現状この上なく一番に望んでいた言葉。
遂数分前とは打って変わって二人の心境が逆転しているこの状況に、アパノースは今までに無いほど憎々し気にユーリを睥睨し、悲痛に叫ぶ。
「な、んで……。なんでそんなダークエルフのガキなのよッ!?」
「……あぁ?」
「ねぇ、どうして? どうして私じゃダメなのッ? 同じ人族で歳も近い私じゃなくて、なんでそんな気色悪い生まれのクソガキを選ぶのよッ!? おかしいじゃないッ!!」
必死の形相で叫ぶ彼女の言葉は、しかし何やら少し歪んでいた。
人族として、ティリーザラ王国の兵士としての誇りや資質を問われるものばかり思っていたヒルドールは困惑し眉を顰める。
何故アパノースはこの場で、そんな〝嫉妬〟に塗れた私情を叫ぶんだ? と……。
「お前、何言って……」
「だってそうでしょッ!? アンタはそんな女なんかじゃなくて私を選ぶべきなのよッ!! なのになんで? なんでよりにもよってエルフ族の──しかもダークエルフのガキなのよッ!? 第一なんで──」
「はぁ……」
ヒルドールは支離滅裂になりつつあるアパノースの言葉を深い嘆息を吐く事で遮り、諦念の籠った眼差しで彼女を見遣って本音を吐露する。
「人族とかエルフ族とかダークエルフとかようぉ……。んなもんもう面倒臭ぇんだよバカヤロウがっ!!」
「な……面倒臭いって……」
「前々から思ってたんだよ。おんなじ人の形して、考えて、感情があって、家族があって、笑い合えるって分かってんのに、なんで殺し合わなきゃなんねぇんだよ? バッッカじゃねぇの?」
「んなっ……。そ、そんな事、普通考えないわよっ!? エルフ族は私達人族の敵っ!! それ以外に何を考えんのよっ!?」
「うっせぇ黙れッ!! ……俺達を裏切ったくせして、一々口挟みに来んな」
冷徹に言い放ったヒルドールは、アパノースにゆっくりと剣の切っ先を向ける。
本来味方であるはずの、アパノースへと。
「……本気?」
「先に短刀に手ぇ掛けといて、今更何言ってんだお前」
二人の目線が交錯する。
ヒルドールの目には確かな決意と殺意。
アパノースの目には迷いと焦燥、そして困惑。
最早どちらが倒れるかなど、自明の理である。
「ゴポッ……ガポッ……」
口から吐血し、首元には皮一枚繋がった状態で地面に仰向けに倒れるアパノースを、ヒルドールは見下す。
「……」
ヒルドールはアパノースを一思いに即死させるつもりでいた。
綺麗に首を切り離し、何の苦痛もなく死なせてやる事が、自分が最低限許せる裏切り者のアパノースに対するせめてもの情けだと、そう思ったからだ。
だがアパノースの首に刃を滑らせる際、思わず視界に入ってしまった彼女のなんとも情けない泣き出しそうな顔にを見てしまい、僅かな迷いが生じてしまった。
結果、首に滑る刃の入りが甘くなり、上手く切り離してやれなかった。それをヒルドールは恥じ、短い謝罪を口にする。
「楽に死なせてやれなくて、すまない。本当、俺はハンパ者だ」
剣を鞘へと仕舞い、最早心音が止まったアパノースに背を向けると、木陰に身を潜めていたユーリの元へと歩み寄り「ほら、行くぞ」と声を掛けて彼女を連れ出す。
「……お前達も止めとけ。無駄に命は散らしたくない」
振り返らぬままそう告げた相手は、この一連の出来事に一切付いていけず、ただ傍観する事しか出来なかったティリーザラ軍の兵士達。
エルフ族の兵士達を斬り伏せていたまではまだ良かったのだが、人族であるアパノースに手を掛けた時点で完全な味方ではないと察し、先手を取る意味でもそれぞれに武器を向けているのである。
「俺たちは、ただ生きていくだけだ。今も、これからも……。だから──」
そうして再びヒルドールは刃を構える。
今度は裏切った一人の女性ではなく。
「邪魔すんなら、お前たちでも叩っ斬る」
ヒルドールの目に明確な殺意が再び灯る。
つい先程、ヒルドールは自分達が苦戦していたエルフ族の兵士達を何の苦労も無く撫で切りしてのけ、息一つ切らさずにダークエルフの少女を救って見せた。
そんな自分達より遥かに強者である男に目を向けられ、剣を突き付けられたティリーザラ軍の兵士達は気圧され互いに顔を見合わせると、ゆっくり一人一人が構えていた武器を降ろし、戦意を無くしていく。
「……ありがとう」
ヒルドールは一言礼を口にすると、足元にしがみ付くユーリに「行くぞ」と声を掛けながら抱き抱える。
そして倒れる何も言わぬ死体となったアパノースを一瞥した後、彼はその視線をティリーザラとは反対──アールヴの方に向け直してから一気に地面を蹴り込み、走り出した。
二人の新たな門出、その僅かな可能性を信じて……。




