2つの縄張り
連れー彼と出会った当初はどうにか言葉を交わせる程度の関係だったが、それから10年以上行動を一緒にしてきたので私はそのまま連れと呼んでおく。
私は勤め先の料理屋で連れと知り合った。彼や彼の仲間がその店を行きつけにしていたからで、その時私は17歳だった。だが連れはオーナーの言う「近づかない方がいい」類の人種だった。彼らに応対するのは店の中でも上の人々だけで、皆が首筋や腹回りに大きな入れ墨をしていた。連れは金髪の刈り上げで首に太めの金の鎖をかけ、腕に茨の入れ墨をしていた。不思議とそのどちらも彼にはよく似合っていたが、声がとても低く、彼が何か話すたびに皆が息を潜めるのだった。中には耳を澄ませ彼の言おうとすることをどうにか聞き取ろうとする女の子もいた。だがそれを快く思わないのが店のオーナーだった。この人は私には大家でもあった。
「…彼には近づかない方がいい」
店のオーナーは私に言っていた。
「…君は彼に近づかない方がいい。彼にも彼の友達にも」
オーナーの言っていた『彼』とは、もちろん連れのことだ。他の女の子たちも少なからず顔を見合わせていた。私はほとんど話という話をしていなかったのだが、それでも皆から驚異の目で見られた。特にオーナーは、その日から私に意味ありげな視線を何度も送ってきた。連れと話した内容や彼との接点など、私はオーナーから事細かく聞かれた。仕事の出勤日数や日程なども、少しずつ変更されるようになった。だがその時点では何が起きているか私には解らなかった。配置換えになるか、持ち場が変わるのか、私に想像つくのがその程度だったためだ。実際蓋を開けてみると恐ろしいことが計画されており、私はその時初めて自分の置かれた場所の危うさを身を持って知ったのだった。それがきっかけで、私は店をやめ連れと動き始めた。もう10年は前の話だ。
働き出した頃、私は料理屋の店主に間借りしていた。査証も身元保証人もない私を引き受けてくれる人が他になかったからだ。彼は中国系アメリカ人でやや恰幅のいい中年男性だった。店も家も年季を経ていたが故障なく回っていた。ただ1つ気になったのは、日に何度もオーナーが私を見回りに来ていたことだ。その上、彼の手には高価な無線受信機が握られていた。誰と話しているのか解ったら私も間髪入れず逃げ出していたが、その時は無線機の金の出処も、オーナーの通信相手も私は知らなかった。店を辞め逃げ出すことを決めた一番の理由は他にあった。仕事を終え部屋に戻った時、知らない男に身売りしろとオーナーから言われたのだ。でなければそのままロシアに引き渡すと。それは私の何より恐れていたことだった。
米国に着いた当初、私は自分の荷物を全て持ち領事館に駆け込んだ。移民ビザができていないと言って。係員は受け付けてくれたがとても訝しそうだった。
「モニカ・アシュクロフト…それがお名前ですか?」
彼女は私に尋ねた。
「…残念ですが、あなたのお名前では移民ビザが申請されていません」
「申請されてない…ビザが…?」
「…されていません」
係員はため息交じりに答えた。
「今からでもお受けいたしますが…身元を保証できる方がこの国におられますか?」
「…いません」
私は俯きそう答えた。両親も既に亡くなっていたし、唯一頼りになる人物はスイス在住でフランス人だった。頼めるはずがなかった。
「…まだ17ですよね?」
係員は言った、
「…未成年の方ですと、保護者か身元引受人の同意がなければ発給できないんです」
彼女は言ったーそれで私も荷物を抱えたまま歩き回るしかなくなった。身元引受人が姿を消し頼りになる大人のいない中で、私は身を置ける場所を探し続けていた。
「…困ったことがあれば彼に頼めばいい」身元引受人のくれたメモに料理屋店主の名があった。そこに私は連絡し、身元を預かってもらったのだった。
「彼には近づかない方がいい」オーナーはよくよくそう言っていたが、それはどうやら私に向けてだけだった。他の給仕係は1人もそういう声をかけられていなかった。それで他の女の子たちも連れの席まで注文を聞きに行ったのだが、上の人間は誰一人その様子に注意を払っていなかった。皆私の行く時だけ念入りに探っていたーそれが私には不思議でならなかった。一方、連れはと言うと、私と話す時だけ穏やかになり他の女の子が行くと何故かぶっきらぼうになった。それはそれで上の人間の失笑を買っていたのだが、連れと顔馴染みになることがどういう影響を及ぼすか、私にはまだ理解できていなかった。
次に私が彼と会ったのは数週間後だった。仕事からの帰り道で、彼が路地で1人煙草を吸っているのを見かけたのだ。彼がいたのは私の借りたアパートと働いていた飲食店との中間地点のような場所だった。吸い殻を足でもみ消しながら、彼は地面を睨むようにして何やら呟いていた。その時はさすがに近寄りづらく、私も引き返そうとした。だが、私がそうするより早く、彼が顔を上げた。そして私に気づき彼は低い声で言った。
「…なんで俺を見てるんだ」
声は低かったが、棘はあっても凄みは少しも感じなかった。それで私は答えた。
「…この前、店でお会いしました」
通りかかっただけだと言いたかったのだがーなぜこの言葉が出てきたのか私自身不思議でならなかった。私の言葉に彼はぼやいた。
「…店?…どこの店だよ」
「…飲食店です。…十字路を右に曲がった料理屋」
私はそう言って店の場所を振り返った。私の視線と一緒に彼もそちらへ顔を向け、ああ、と呟いた。
「…お前があの時のウェイトレスか」
ー私はうなずいた。
「…今日、学校へは?」
彼に尋ねたが、彼は行っていないと答えた。
「…お前はどうなんだ。…お前だって学校行ってないんだろう?」
「…行きたくても行けない」
「学校へ行かれない…?」
彼の顔が暗くなった。
「…お前、親いねえのか」
「…いません」
「…家は?」
「…ここを少し先に行った左」
彼は再び顔を動かし、私に言った。
「…あの壊れかけか。…よく怖くねえな。いつ倒れても変じゃねえって言われてるのに」
ーそういう彼の顔には僅かに同情が見え隠れしていた。
「…中は意外と頑丈ですよ」
私は笑ってそう答えた。そうか、そう言うと連れも軽く口角を上げた。だが少しして彼はこう付け加えたのだ。
「あいつら冗談抜きでいけすかねえから…長居は考え直したほうがいいぞ。…店にいる子の半分は店主の肝煎りだし」
「…店の女の子がですか?」
私が聞くと連れは頷いた。
「…ああ、間違いねえ。…よく俺のダチをキャバレーに引っ張ってくからな」
連れの口調はとても忌々しそうだった。
その後私は続いて連れと世間話をした。
「…お前、いくつなんだ」
「…17」
「…17だって!?…俺と一つしか違わねえじゃねえか!何だってその年で移民になったんだ、しかも親なしで」
彼が目を丸くした。それから、
「…親がいねえから学校通えねえのか。…勉強どころじゃねえんだな。でも家賃はどうしてんだ」
「…オーナー夫婦が家主なので」
ー私は店のオーナーに部屋を貸してもらっていた。オーナー夫婦は中国人だった。近辺にアジア人街もあり、オーナー夫婦の家は人でよく賑わった。
「店のオーナーか…ずいぶん太っ腹だな」
彼は呟いた。私も驚いてはいたが、その頃はまだ背景にあるからくりに気づかなかった。
「…もとの国籍はどこなんだ?」
ー彼は不意に聞いた。
「…英国とイタリア」
「…二重国籍か」
それで私は頷いた。ー英国籍の父とイタリア国籍の母、その間に生まれたのが私だった。
「…店のオーナー、お前の両親と知り合いか?」
彼はそう聞いてきたが、私は笑って首を横に振った。父も母も米国には縁故がなかった。
「…あり得ない」
「…じゃあなぜお前を入れたんだろうな」
彼は不思議がっていた。国籍がない(つまり市民権がない)少女をなぜ自分の店に入れたのか。それは逆に言えば自分の縄張りに引き入れやすかったということだろう。私の話を聞くうち、連れは少しずつ思案顔に変わっていった。
「…早いうちずらかった方がいいぞ」
最後に連れはそう言った。それから私は彼と別れたのだが、次の晩には環境が百八十度も変わってしまった。
夕方に仕事から帰ると、見知らぬ男たちが私の借りた部屋に居座っていた。皆脂ぎっていて、腕や全身に入れ墨があった。顔立ちや彼らの使っていた言葉からアジア系だろうということは解ったのだが、なぜ自分の部屋に彼らがいるのか私には解らなかった。
「…君のお客だよ」
オーナーに相談すると彼は言った、何だか意味ありげな笑顔を彼は私に見せた。
「…君は寝るの初めてだろう?…初めての子は皆大歓迎だから、君にはたっぷり払ってくれるよ。男と寝たことのない子と寝れば、誰でもいい気持ちになれるからね」
それにーオーナーは続けた。
「彼らを満足させてくれるなら…僕が君の保証人になってあげる。…移民ビザも取れるようにしてあげるよ」
と。
「…彼らって誰ですか」
私は聞いた。
「添い寝が必要な人と思えませんが…私の客というのはどういう意味なんでしょう」
その瞬間、オーナーの顔が極めて暗く陰湿な表情を見せたのだった。
「…君はもう17歳だろう?」
オーナーは言った。
「…添い寝なんて不要なのは解ってるさ。彼らも君ももう子供じゃないんだから。僕が言いたいのは大人の相手だー彼らを君の男と思ってもてなしてくれないか」
「男…私の男ですか…?」
声の上ずるのが自分で解った。ーオーナーは私を娼婦として売りつける気だったのだ。
「…初めに言っておいたはずだよ」
オーナーは言った。
「…言うことを聞いてくれないと、店にも置けなくなるって」
それだけ言うと私を見据えた。
「体と引き換えに身元の保証を…」
私は膝から崩れ落ちそうだった。
「…悪い話じゃないと思うけど」
オーナーは言うのだった。ー私はそれを聞き首を横に振った。
「…娘さんが相談に来ても今のと同じこと言えるんですか」
オーナーが笑い出した。
「…僕に娘はいないよ。それに、妻と知り合ったのも客としてだったんだ」
つまりオーナーは馴染みの娼婦を身請けしたということだ。私は完全にうずくまりものが言えなくなった。
「…もう一度聞く。…男たちの相手をする気はないか」
私は床を見つめ泣き出した。
「…聞く気はなさそうだね」
そう言ったオーナーの目は初め会った時よりずっと冷たくなっていた。
「…聞けるわけがないじゃありませんか。私が何をしたので体を売れと仰るんですか」
「…そうか、なら解った」
オーナーは私の荷物を部下に用意させた。
「…君の荷物は全てまとめさせた。よそへ行って一人でやっていけるか自分で試したらいい」
オーナーは言った。
「…君が歩ける場所はもうどこにもない」
そう言って、彼は私を突き放した。そのため私は荷物を全てまとめ借りていた部屋を出ることになった。頼れるものはもうなかった。少なくとも、その時点において私が手を借りれる相手はなかった。だがむやみに逃げ回ることもできず、私は仕方なく最後の切り札を呼び出した。ーフランス人のリリュー警部。国際通話は料金もかかるがそれを惜しんではいられなかった。
名刺の携帯番号にかけて数分、呼び出し音5回目で警部につながった。
「…警部、モニカ・アシュクロフトです。いきなり済みません。…今お時間頂けますか」
電話口の警部に私はそれだけ言った
「モニカ…モニカだって…?」
向こうが必死で記憶をたぐるのが目に浮かぶようだった。それから警部は掠れた声で私にこう聞いてきた。
「…君は確かにアレクセイの養女か。今はもう米国にいるんじゃないのか」
「…はい、米国です。…ただ大変なことが起きてしまって」
ー私は警部に訴えた。警部の声が止まった。
「…何があった?」
「…査証が通っていませんでした」
「…何だと!?…米国の移民ビザが!?」
「…取れていませんでした。通るどころか申請もされていないって。…保証人がどこか行ってしまって、電話も通じません」
その後で寄宿先であった出来事も私は警部に伝えた。私が話し終えると警部は抑揚のない声で言った。
「…保証人の名前解るか?」
私は保証人の名を名刺通り読み上げた。走り書きする音が受話部分を通し聞こえていた。
「…この話は誰にも言っていないな?」
しばらくして警部の声が返ってきた。
「…他にはまだ」
「…解った。…背景を調べてみよう。だが当分動かないでくれ。…寄宿先だけは何とか都合してみる」
「…ありがとうございます」
「寄宿先は都合する」ーその言葉を聞けたというだけでも私は救われた気がした。だが、その願いはすぐに打ち切られた。
「…モニカ、我々は嵌められたらしい」
警部は重い声で言ってきた。
「…君の保証人だったロシア人、彼の名は実在しなかった。…あれは全くの偽名だ」
「じゃあ私を売り物にする気でここへ…」
「…恐らくそうだろう。…だが、英国でもイタリアでもドミトリーが目を光らせてる。戻ってくるのも難しい。俺も血縁はないから君の保証人にはなれないし…」
身を潜めて過ごすしかなさそうだー私にそう警部は打ち明けてきた。
「…調べだけは進めておく。…領事館には話をつけるからしばらくじっとしてくれ」
そこで話は一度終わった。査証がないのを、特例で入国させてほしいと掛け合ってくれるという意味だった。
警部が言おうとしていたことーイタリアや英国へ帰れるよう、ドミトリーや彼の手下を一掃しておこう、ということかも知れない。
査証がない以上保護を願うのは難しかった。あるとすれば、出生地の英国か、母の母国、つまりイタリアへ穏便に帰れるよう手配してもらうというくらいだった。だが次の日から警部へも繋がらなくなってしまった。唯一の救いは領事館の手配で近場のホテルに部屋を借りられた程度だ。それでも発砲音に囲まれ眠れた日はなかった。「早くずらかれ」そう言われた意味が、そこに来てようやく私にも身にしみて解ったのだった。
言葉を知らないというのはこういう時多く不利に傾く。まして私には身寄りもなかったから、不利などという言葉ではとても片付けられるものではなかった。連邦捜査局までも話が行き、私は捜査局の簡易宿所に寝泊まりすることになった。警部とやり取りしやすくするためだった。だが警部から私への連絡は一週間以上なく、私はそこからも出ることになった。礼を言い宿所を出てきたところで、私は再び彼と出会ったのだ。
「…宿泊の上限超えたんだな」
彼が言うので、私は頷いた。
「…この先行く宛あるのか」
「…ないけどなぜ?」
純粋な疑問だった。ーいかに興味本位でも、身元不明の人間に手を差し伸べる義理はないはずだからだ。彼は言ったー
「…俺も暇持て余してっから、何なら付き合ってやるよ」
珍しく大様な笑みを浮かべて。そして警部に電話をかけさせ、繋がったら自分に替われと連れは言ってきた。
「…悪いようにはしない」
これはオーナーにも言われたのだが、私にはこの少年の方が幾らか信用できる気がした。それで彼の言う通り警部に電話した。警部に断り、連れに受話器を差し出すと、彼は頷き話し始めた。話し始めてから30分近くして、通話はようやく終わった。それから彼は私を見てこう言った。
「…長い逃避行になると思うけど、あまり気を揉むなよ」
気を揉むなというのも無理な話なのだが頷く他なかった。それが私たちの同盟の始まりと言えなくもないだろう。その後で連れは息を吐き呟いた。
「…一つ忘れてたな」
何か、そう私が尋ねる前に、連れは私に手を差し出してきた。
「…俺はダグラス。ダグラス・パーカーだ。…よろしく」
それで私も彼の手を握り軽く自己紹介した。
「…モニカか。…いい名前だな」
「…ありがとう」
ーこうして私たちの逃亡生活が幕を開けた。
「…向こうが追いつく前にここを出るぞ」ダグラスは言い車へ私を案内した。中古だが手入れのされた車だった。
「…ロシアからこっちへも向かって来てるらしい。でも安心しな、射撃の腕にも、運転能力にも俺は自信ある」
この地域には縄張りが2種類あるーそう嘯きながらダグラスは運転を始めたのだ。
「2種類…?」
「…そう。…俺たち白人系と、お前の店のオーナーのようなアジア系だ」
アジアが捨てたものは俺たちがもらうーそう連れは私に言った。つまり、白人と非白人の縄張り争いに私は巻き込まれていたのだ。
連れが収監される日に私は彼の正式な名を聞いた。ダグラス・アンソニー・パーカー。米国東海岸で一、二を争う凶暴なギャングを連れは率いていた。娘の授業参観が終わると彼はそのまま独房へ消えた。後ろ姿はいつになく寡黙で、言いたいことを胸の奥に何個も
飲み込んでいるようだった。




