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その名で私を呼ばないで  作者: 久住 ゆかり
プロローグ〜モニカの回想

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1/3

離散のきっかけ

 何度も自分たちが引っ越す理由を娘にどう伝えたらいいだろう?ーあるいは自分の親が2人とも実名でないということに娘が気づいたら?娘が大きくなるにつれて私たちの心は不安で占められ、互いに顔を見合わせて黙り込むことが増えた。連れが授業参観に出てから、どの教師もどの児童も娘に進んで話しかけなくなったらしい。いじめたり仲間はずれにしたりはなかったが誰も積極的に娘とは過ごそうとしなくなったという。娘がだいぶ大きくなってから私は本人の口からそれを聞いた。

 私も子供は嫌いではない。そして私の連れも。だが私たちは決して子供を持とうと考えてはこなかった。なぜなら子供を育て上げるような準備はできていなかったからだ。正確には子供を育てられる環境になかったと言うべきだろう。それでも1人娘を授かり彼女を育ててきた。だが私たちが自分の娘、つまり彼女に良い見本を示せたかどうかーその点では大いに疑問が残る。とはいえ娘を手放すという考えは最後まで私たちには思いつかなかった。そのためずっと夜逃げのようにー実際そうだったのだがー街を転々としながら私たちは娘を育ててきた。

 娘が学校に上がってからは私たちは相談に相談を重ね、学校へは母親の私が行くことに決めていた。だが娘は同級生から父親に会いたいとせがまれたと言う。私は何度となく顔を出していたが、次こそお父さんに来てもらってと娘に皆言ってきたらしい。だが、個人的に連れに出てほしくない理由が私には多分にあった。

 「…なぜお父さんがいいの?」

私はそう聞いてみた。普通の家庭なら、お父さんにはお仕事があるしお母さんでいいでしょう、と説得していたかも知れないが私はそうはしなかった。娘は少し目を伏せてから私にこう言った。

 「アマリアのお父さんなら絶対かっこいいよね、て皆言うから」

 「…つまりお友達があなたのパパに会いたがっているていうこと?」

 「…うん。それに、お父さんが普通の日休みで出てこれる子もけっこういるから」

 「本当…そういうお家もあるのね」

私はそう相槌を打った。ー父親が自営業か自由業で、曜日や日時に関係なく仕事を空けられるからだろう。娘は自分の父親も同じだと思っていたらしく、学校に顔を出すよう頼んでほしいと私にせがんでいた。

 「…お父さんも出てこれるでしょう?一度だけでいいからお父さんと交代して」

娘は言った。ーどうしても参観日に私ではなく連れに出てほしいらしかった。

 「…かなえてあげたいのはやまやまだけど、そういうわけにはいかないのよ」

 「…どうして?お母さんのんびりしたくないの?」

 「…気持ちは嬉しいけどそうはできないのよ」

私は娘に言った。私が米国にやってきてから十年以上過ぎていた。そしてこの時娘は12歳だった。そろそろ思春期になるという微妙な年代だ。同級生に気になる男の子が一人いるとかいないとかいう話も娘の口から出始めていた。この年頃の子を無理に押し込めるのは気が引けた。ーそれで私も黙ってしまった。

 「…お母さんお願い。次の授業参観はお父さんに出てもらって」

 「アマリアー」

私は答えに困った。父親が顔を出せない理由を、娘にどう話したらいいだろうか。学校行ったらお父さんが戻ってこられなくなる、などと馬鹿げたことを言おうとしているわけではない。ただただ自分たちがやっていけなくなる、要は暮らしに困るということなのだが当時の娘の年代でそれが理解できるはずもなかった。いろいろ考えながらも私は食事の準備を始めたが、なかなか手は進まなかった。

 「…私はお父さん大好きだから、皆にこんな素敵な人なんだって知ってもらいたいの」 

 「…パパ喜ぶわよ、きっと」

ーだが声はかえって暗くなってしまった。

 「…何だか嬉しそうじゃないね」

声の変化に気づき娘は言った。私はめまいをこらえるのがやっとでただ頷くしかできなかった。

 「…どうしたの?お母さん大丈夫?」

娘が私の顔を覗き込んだ。ー私は深呼吸を何度も繰り返してやっとのことで大丈夫だと言った。そして思い切って私は娘にこう尋ねた。

 「もしパパが顔を出したら…私たち離れ離れになると思うわ。それでも大丈夫?」

 「…大丈夫じゃない。でもなぜ?」

 「…理由はうまく説明できない。私も自分の目で見たわけじゃないから」

でも、国中にパパの顔写真が行き渡ってるの。ー私は娘にそう伝えた。だから父親を公の場に出すとー彼が一度でも学校へ顔を出すと、皆別れて暮らすしかなくなる。それでも構わないかと私は娘に聞いたのだ。

 「…大丈夫じゃない。ちっとも大丈夫じゃない」

娘は首を横に振った。彼女も泣きそうになり、細かく体を震わせていた。

 「…でもどうしてお父さん顔を出しちゃだめなの?」

 「…パパは一度居場所が知れたらずっと家に戻れなくなってしまうの」

そうやってその時は話を収めた。だが娘には他にまだ心配な点があったらしく、連れの帰って来るまで私のそばを離れなかった。そして19時を回る頃、ようやく連れが姿を見せた。

 「ただいま。ー2人とも元気だったか」

 連れの声に娘は目を輝かせた。

 「お帰りなさい」

言うなり連れの胸に飛び込む娘。娘は見れば見るほど連れによく似ていた。彫りの深い端正な顔立ち。瞼は一重でどこか大人びて見えた。皆がこの子の父親に会いたいと思うのも解らなくはなかった。聞けば彼の父親はアイルランド系だったという。私の連れは典型的なブロンドで暗めの金髪に濃い青の瞳、やや太い眉を持っている。女子という女子が見とれてしまうほどの美形だが、だからといって連れを出すわけには行かないのだった。唇は固く閉じて目は前を見据えるようにしている。また、眉が横一本線で、彼の対人不信や情の薄さをよく表していた。顔つきからして確信犯や愉快犯のように高笑いしてみせるのでなく、彼はむしろ凄みやそれに近い何かをその表情に落とし込んでいた。目つきも暗くずっと光はなかった。実際に彼は仲間と恐喝や窃盗、殺人を繰り返して過ごしてきたという。15歳からの数年間。それがあって何年も連れは指名手配されていたのだった。

 法に触れるとはどういうことかー10代始めの子どもたちにそれを解らせるのは難しい。大人でさえ理屈では解っていてもということはよくある。ましてそれを一番多感な世代に言い聞かせなければならないのだから、簡単に終わるはずがなかった。それに誰であれ自分の身内が犯罪者だなどと思いたくはない。だが現に指名手配されているし目撃者もいるという。罪が重いほど監視は厳しくなるし、刑期は長くされる。それを知っている以上、連れを自分から差し出す気にはとてもなれなかった。いや、その前に私自身も警察に追われているかも知れないのだ。もし私たち両方が刑務所入りになったら、娘はいったいどうなるのか。

 連れは娘の額に口づけし心底から幸せそうにしていた。ひとしきり娘の相手をした後で彼は私のそばへ来て後ろから私の両肩を抱きしめた。

 「…お帰り。ごめんなさい、食事できてないのよ」

私が言うと、

 「ああ、構わない。…ゆっくりやってくれ」

連れは笑ってそう言った。

 「…お母さん大丈夫なの?私代わるよ」

先刻から目眩っ気の取れない私を見かね娘が言ったが私は断った。

 「…大丈夫、すぐ治るわ」

言ってはみたがそう簡単に治らないことは自分でも解っていた。ー原因はただ一つ。授業参観に父親と私とどちらが顔を出すかというだけなのだが、簡単に折れていい話ではないことも私にはよく解っていた。2人いるうち片方でも勾留されたら、娘の世話はいったい誰に頼んだらいいのだろう。 

 「…どうしてもお父さんでなきゃいけないの?」

 私はもう一度娘に聞いた。娘はその質問に軽く唸った。 

 「どうしても、というか…」

娘は言いにくそうに顔を伏せた。

 「…言える範囲でいいから言ってちょうだい。お母さんが顔を出す子もまだ相当いるんでしょう?」

 「…そうなんだけど、お母さんしか顔出さないのクラスで私だけなんだって」

娘は言った。

 「…何の話をしているんだ?」

私たちの様子を見て連れが尋ねた。

 「…授業参観のことよ」

私は答えた。

 「…そうか。次はいつになるんだ?」

 「来月初めらしいけど…今度は私じゃなく父親のあなたに来てほしいんですって」

最後はため息混じりになってしまった。ー連れの方も目を丸くしていた。

 「何だって…この俺に?」

 「…クラス中の子がそう言うの。それに先生も」

お父さんどうしたらいい?ー娘の質問に連れも私も考え込んだ。1つとしていい知恵は浮かんでこなかった。

 「…他の子はお父さんお母さん両方学校へ出てこれるのかな?」

連れは娘に尋ねた。すると、

 「そうでもないみたい。ただ…」

娘はまた顔を伏せた。

 「…何だい?言ってごらん」

連れは優しく娘に促した。娘は少しずつ言葉にし始めた。

 「…私がお父さんの名前を出せないから、お母さんしかいないんじゃないか、て思ってる子もいるみたいで」

その言葉が連れの顔を曇らせた。ー彼は物心つくまでに実の父親と引き離され、母親の再婚相手と暮らしていた。

 「『お母さんしかいない』、か…」

連れは静かに呟き目を閉じた。幼い頃の景色を彼は思い浮かべていたのかも知れない。

 「…でも、あなたの苗字はお父さんから借りているのよ」

私は娘に伝えた。ー父親を外へ出せない代わりに父親の姓を子供に名乗らせる。顔は見せなくても、認知はされていると周りに知ってもらうためだった。父親のいない子ー死別して片親になってしまう場合もあるのだろうが、その場合はこういう呼ばれ方はしなかった。多くの場合父親のいない子とは父親から認知されなかった子、つまり私生児を指す。そのため自分の娘が他から父親のいない子と見られるのを、彼は一番恐れていた。

 「…どこにでもある苗字だけどな」

連れは軽く笑った。だがその名字が誰とつながっているかで周りの目が変わる。父親から認知された子かそうでないか、それは戸籍を見ればすぐに解る。

 「…君のことを父親なしで育った子だと見ている子がいるんだね」

 「…違うの。その子たちのお母さんが、あの子は父親を知らない可哀そうな子だから放っておきなさいて家で私のことを言ってたんだって」

 「…だからママの代わりに出てきてくれと言っていたんだね」

ー娘は切なそうに頷いた。

 「…それから、私がお父さんとのことを話しても信じてもらえなくなって」

連れは目を閉じ2度大きく頷いた。私も聞いていて胸が痛くなった。自分の子を私生児とみなされるほど親にとって辛いことはないのだ。 

 「…どうする?」

 私は連れに聞いた。娘が他の子の親に私生児と思われているー連れにはそれが一番堪えていたはずだ。彼は腕を組んでしばらく考え込んでいたが、やがて低い声で言った。

 「…解った。次は俺が行こう」

だがその顔は翳ったままだった。

 「…本当?来てくれるの?」

対照的に娘はごく嬉しそうにしていた。ただ、連れも私もそれには目を留めないようにしていた。彼女はまだ12だ。この年頃の子に大人の想像しうることを思い浮かべよと言っても無理だろう。なので娘が嬉しそうなのを見ても私たちは頷くだけだった。

 「アマリア…初めママに頼んだ時ママが君に言ったこと覚えてるよな?一度でも俺の居場所が解ったら家族が離れ離れになるんだって」

娘は頷いた。

 「…覚えてるわ。お父さんの居場所知れたら皆離れ離れになるんだって」

 「…あれは俺のありのままだ。娘の君を驚かしたくて言ったわけじゃない。俺は警察に追われてるーもう何年も前から」

連れは静かにそう言った。 

 「お父さん…それ本当?」

 「…本当だよ。君のママにも俺は自分のしたことは全部話した。それでもママが俺について来れたのはママが同じくらいひどい目に遭ってきたからっていうだけなんだ。…どうしても俺に来てほしいなら行くけど、ひょっとしたら、これが家族揃って過ごす最後になるかも知れない」

 「お父さん…本当に捕まるの…?」

娘の顔から血の気が引いていった。

 「…解らない。ただ、人の集まる場所へ出たら捕まりやすくなるんだ」

連れは寂しげな目をして答えた。 

 「だが娘の君を私生児と勘違いされるのも俺は嫌だ」 

 「お父さん…」

娘は泣きそうになっていた。だが連れは少しして娘にこう告げた。

 「…だから、次の参観日には俺が行こう」

 「お父さん…来て大丈夫なの…?」

 「…大丈夫とは言い切れない。でも俺が行けば少なくとも父親を知らないという誤解は消えるだろう?」

連れは娘にそう答えた。自分が捕まるかどうかよりも、娘に対する私生児という烙印を彼はまず剥がしたいらしかった。だが私は少し不安を覚え、連れにそっと尋ねた。

 「…本当に学校へ行くの?」 

連れは低い声でこう答えた。

 「…行くよ」

だが、娘のためという言葉は彼の口からついに出てこなかった。その代わり夜になって彼は私にこう言った。

 「もう見切りつける時期になっていたのかもな…」

私たちは2人とも外に仕事を持ち働きに出ていたが、彼を見かけるたびどこかで見た顔だと周りが囁き合っていたのだという。本名と違う名で動いていたから、人に聞かれるたび人違いだと彼は答えたそうだがー

 「…隠れるのはもう限界かも知れない。お前もそのつもりでいてくれ」

直に言われると私も頷く他なかった。 

 そして、参観日がついにやって来た。娘から少し遅れて昼過ぎに連れは学校へ行ったのだが、彼が姿を見せるなり皆が息を呑んだ。そして次の瞬間、他の子の親が恐怖に顔色をなくし固まった。

 「あのおじさんの顔何かで見た…」

娘の周りにいた子どもたちも不安そうに呟いたという。これがつまり指名手配にかけられている者の現実なのだ。

 「…あれがアマリアのお父さん?」

私の連れを見て大人も子供も口々にそう言ったそうだ。

 「そう言えば、あの子のお母さんごく静かな人だったけど…どこの出身かしら」

母親たちは私のことまで気にし始め彼の様子を窺っていたという。

 「そうよね…昔マフィアのボスを殺して騒ぎを起こした人に似ていない?」

 「そこまではいかないでしょうけど…」

マフィアのボスを撃ち殺した女、それはそのまま私自身だ。私は自分の目の前で母に自殺され、その母の銃を抱えて母の再婚相手を射殺した。だがそこまで娘に聞かせたことは一度もなかった。連れも私も、自分たちの生い立ちについて深く掘り起こして聞かせる気にはとてもなれなかったのだ。理由はただ1つ。小さな子に聞かせるには刺激が大きすぎたからだ。

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