第七章 偽りの和平
春の入り口に、ノクスタリア帝国は、突然ヴェルデン王国に和平の使節団を派遣した。
使節団の長は、参謀本部から派遣されたガル・ジングジ参謀。
帝国側の表向きの目的は、両国の通商条約の見直しだった。これまで国境で発生していた小競り合いを終わらせ、より広い範囲で物資のやり取りを行いたい、と。
ヴェルデン王国の宮廷は、表向きはこの提案を歓迎した。
しかし、エリザ王女は、その夜配島とミレナを、王宮の裏庭に呼んだ。
藤の蔓の下のベンチに、エリザは深い灰色のマントを羽織って座っていた。
「これは罠よ」
彼女は前置きなしに言った。
「ノクスタリアが、自国の侵攻準備を整えるための時間稼ぎ。和平の交渉中は、両国は軍を動かせない。その間に、彼らは中継拠点をすべて建設し、兵糧を運び込み、こちらに気づかせず侵攻準備を完成させるつもり」
「証拠は」
「直接の証拠はない。ただ、彼らがあの参謀を使節として送り込んできたこと、それ自体が、私には警戒の理由になる」
ミレナが頷いた。
「ガル・ジングジが、宮廷の目の前に身を晒すのは、彼自身が囮、ということ。彼を見ていれば、私たちは、別のことに目が行かなくなる」
配島は配達員の朝の報告を思い出した。
「南二区に、ノクスタリアの『観光客』が増えています。それも、ここ二ヶ月で急速に」
「彼らは、何をしているの」
「市場の人と、世間話をしています。ただ、誰がどこに住んでいるか、どこが配達ギルドの拠点か、誰が責任者か、を、それとなく聞き出しているように見えます」
エリザは目を閉じた。
「内側からの破壊工作の準備、ね」
「自分も、そう疑っています」
エリザは目を開け、配島の目を見た。
「ハイジマ。あなたに頼みたいことがある」
「はい」
「和平の調印式は、十日後。私はその前にガル・ジングジ参謀と、二人きりで会う場を設けたい。あなたに、私の隣に立ってもらいたい」
「……自分に、ですか」
「あなたなら、彼の目を、読める」
配島は息を吐いた。
「読めるか、自信はありません」
「読めなくていいの。彼に、あなたを、見せたいの」
「自分を、見せる」
「彼が、何を恐れているか、知りたい。彼の表情の動きを、私が記録する」
配島は頷いた。
「分かりました」
会見の場は、王宮の小さな控えの間だった。
配島はガリクと相談して、いつも通りの旅装で臨むことにした。礼装ではなかった。彼が一番、自分らしく動ける格好だった。
ガル・ジングジは白い軍装で、現れた。
左目の銀の単眼鏡は、相変わらずだった。
配島は控えの間の壁際に立っていた。
エリザ王女が、卓を挟んで、ガル・ジングジの正面に座った。
ジングジは礼をした。十五度の礼。
「殿下。お時間をいただき、ありがとうございます」
「ジングジ参謀。今日は、書類の話ではなく、あなた個人の話を、伺いたいのです」
「私個人の」
「あなたは、たいへん若くして参謀本部に入られた。経歴を、教えていただけませんか」
ガル・ジングジは微笑んだ。
「特別な経歴ではありません。北方の国境警備の小隊から、ある戦いでの功で、参謀本部に推薦されました」
「ある戦い」
「三年前の、テルベ峠の小競り合いです。私は、補給線の組み立てを担当しました」
配島はその答えを聞いて、眉を上げた。
補給線の組み立て。
神宮寺慶介が、こちらの世界で頭角を現した、その最初の仕事。
それは、運行管理者の前世の知識を、そのまま流用しただけのものだった。
エリザは静かに頷いた。
「補給線の組み立てを、あなたは、どこで学ばれたのですか」
「祖父が、軍人でした。父も、軍人でした。家学です」
嘘だ、と配島は思った。
神宮寺の家系が軍人であるはずがなかった。彼は前世で、自分の父親が居酒屋を経営していると、何度も話していた。
配島はガル・ジングジの目を、じっと見た。
彼の目は、エリザを見ていなかった。
彼の目は、エリザの胸元のブローチや、卓の上の書類や、控えの間の壁の装飾に、視線を散らしていた。
配島はその動きを、知っていた。
それは、嘘をつく時の、神宮寺慶介の、目の動きだった。
会見の最後、ガル・ジングジは礼をして退出する前に、配島の方を向いた。
「ハイジマ・ギルドマスター」
「はい」
「貴殿のギルドの仕組みは、本当に見事です。我が国でも、参考にさせていただいております」
「光栄です」
「一つだけ、お伺いしてもよろしいか」
「はい」
「貴殿は、毎朝、部下に『点呼』というものを、行っていらっしゃると伺いました。あれは、貴殿の故郷の伝統ですか」
配島の手が、わずかに震えた。
あの儀式の名前を、神宮寺慶介の声で呼ばれることは、配島にとって特殊な意味があった。
配島はできるだけ平静な声で答えた。
「自分の故郷では、当たり前の習慣です」
「貴殿の故郷とは」
「東の、海の向こうの、小さな島国です」
「ほう。私の故郷とは違うようですね」
「あなたの故郷は」
「私の故郷は、ノクスタリア帝国北部の、雪深い谷です」
配島はその答えに頷いた。
頷きながら、彼は確信した。
ガル・ジングジはヴェルデン王国の使節団の前で自分の前世の話を、絶対にしない。
彼は転生者であることを、隠している。
そして、点呼については自分の故郷の伝統である、とは絶対に言わない。
なぜなら、配島と同じ故郷から来た、と認めることになるからだ。
ガル・ジングジは礼をして退出した。
扉が閉まった後、エリザは長い息を吐いた。
「ハイジマ。あなたの読み通りよ」
「はい」
「彼は、嘘をついていた。視線が、ずっと卓の上を泳いでいた」
「自分も、そう思いました」
「でも、ハイジマ。あなたが今日、彼の前で見せた表情も、興味深かった」
「自分の表情、ですか」
「あなたは、彼を恐れていなかった」
配島は自分の手のひらを見下ろした。
手のひらは、確かに震えていなかった。
半年前の自分なら、神宮寺の前で確実に、手が震えていたはずだった。
会社の朝礼で、神宮寺が前の列に立つだけで、配島の指先は、点呼簿を取り落としそうになるほど、強張った。
だが、今配島の手は、震えていなかった。
それは、配島が、強くなったから、ではなかった。
彼の周りに、彼を見ている人が、いるからだった。
ガリクの目。ミレナの目。ノルトの目。マリアの目。ハンナの目。
その目の数だけ、配島の手は、震えなくなっていた。
彼は自分でも、それに、ようやく気づいた。
「殿下」
「何」
「自分は、神宮寺さん、いえ、ガル・ジングジを、最初、敵として、見ていました」
「ええ」
「でも、今日会ってみて、別のことに、気づきました」
「何」
「あの人は、孤独です。自分の周りに、自分を見てくれている人が、たぶんいません」
エリザは、長く配島を見つめた。
「ハイジマ」
「はい」
「あなたが、いずれ、彼に勝つとしたら、それは、あなたの仕組みの大きさで、勝つのではない。あなたの周りにいる人の数で、勝つの」
配島は深く頷いた。
会見の翌日。
配達ギルドの南二区の中継拠点で、最初の異変が起きた。
配達員の一人、ヤン・ハフナーという二十二歳の男が、朝の点呼の場で、奇妙な振る舞いを見せた。
ヤンは、配達ギルドの結成当初から働く、古参の配達員だった。明るく、よく笑い、配達先の老人たちに好かれる男だった。
その朝、ヤンの「笑い方」が、わずかに違った。
点呼を担当していたのは、配島本人だった。
「ヤン・ハフナー、おはようございます」
「おはよう、ハイジマさん」
「体調は」
「絶好調」
「絶好調ですね。ありがとうございます」
ここまでは、いつも通りだった。
しかし、その後、配島はもう一つ、いつもの問いを足した。
「昨日の夕方、北三区の市場で、誰かに会いましたか。配達員以外で」
ヤンは、一瞬、瞬きをした。
その瞬きの長さが、いつもより、わずかに長かった。
「いや、誰にも会ってないですよ」
配島はにこやかに頷いた。
「分かりました。本日もよろしく」
点呼を終えてから、配島はガリクの肩を叩き、小声で言った。
「ガリクさん。ヤンを、今日一日、追ってください」
「何かあったか」
「ヤンが、いつもの彼じゃありませんでした」
「分かった」
その夕方、ガリクの報告は、配島の予感を裏付けた。
ヤンは、配達の途中で、南二区の人気のない裏路地に、二度入った。一度目は午前。二度目は午後。
二度とも、見慣れない男と、短く言葉を交わしていた。
ガリクはその男の人相を、配島に伝えた。
「中年の男だ。痩せていて、背が高く、左の頬骨に、薄い切り傷の痕がある」
切り傷の痕、で配島は気づいた。
諜報官の長が、二週間前の報告書で、ノクスタリア帝国の工作員のリーダー格として、写しを回していた人物だった。
配島はヤン・ハフナーが、すでに敵の手の内にあることを、確信した。
彼はその夜ミレナとガリクとノルトを集めた。
「ヤンを、捕まえに行きません」
「なんで」
ノルトが、不満そうに尋ねた。
「彼は、ただの末端です。捕まえても、得られる情報は、限定的です」
「じゃあ、どうする」
「彼を泳がせます。彼が、ヤン・ハフナー本人の振りをして、何をしようとしているのか、見届けます」
ミレナが、配島の顔を見た。
「ハイジマ。あなた、ヤンが、本物のヤンじゃない、と疑っているの」
配島は机の上に点呼の記録簿を広げた。
半年分のヤン・ハフナーの記録が、そこには並んでいた。
「ヤンは、毎朝、自分の点呼に、こう答えていました。『今日も最高、ハイジマさん』。半年間、一度も変えませんでした」
配島はその記録を、指差した。
「今朝、彼は初めてこう答えました。『絶好調』」
ガリクが、息を呑んだ。
「お前」
「彼の身体の中に別の何かが、入っているんだと思います」
ノルトが、剣の柄に手を置いた。
「ドッペルゲンガー、ってやつか」
「ファンタジー、いえ、こちらの世界の言葉では、変身魔法、というものでしょうか」
「ハイジマ、お前、点呼を、半年続けてきて、それが今、初めて意味を持ったんだぞ」
配島は頷いた。
頷きながら、彼の頭の中で何かが、繋がり始めていた。
点呼。
毎朝、相手の目を見て、名前を呼び、応答を聞く。
配島はヤン・ハフナーの、半年分の口癖を、知っていた。
神宮寺慶介は、ヤン・ハフナーの口癖を、知らない。
点呼が、敵を炙り出す。
配島の中でようやくその確信が、形を取った。
配島はその夜から、自分の作業を、新しい方向に、振り向けた。
彼は過去半年分の、配達ギルド全体の点呼の記録を、ハブターミナル中央の事務所に、運び込ませた。
点呼の記録は、毎日の点検簿の表紙の脇に付箋のように貼り付けられていた。誰の応答が、どんな声で、何という言葉だったか。配島が一日の終わりに、自分の字で書き加えていた。
そんなものを、半年分、書いていた自分を、配島は自分でも、奇妙に、思った。
しかし、その奇妙な記録が、今彼の最大の武器になっていた。
彼はミレナとガリクと、夜が明けるまで、その付箋を、読み返した。
「最高、ハイジマさん」「絶好調」「眠いです」「腰が痛い」「妻と喧嘩した」「妹が嫁に出る」「絶好調っす」「お疲れさまです」「ありがとうございます、今日も」――。
付箋の言葉は、配達員一人一人の、生きた声だった。
その夜が、明ける頃。
配島は十一人の名前を、別の羊皮紙に、書き出していた。
半年分の点呼で、彼らの応答が、わずかにずれていた配達員たち。
全員が、別人に、入れ替わっているとは、限らなかった。
しかし、十一人の中には、確実に敵がいた。
ミレナが、その羊皮紙を覗き込んだ。
「ハイジマ」
「はい」
「あなたの点呼が、半年で、これだけの精度で、配達員一人一人を、見ていた、ということ」
「結果として、そうだったみたいです」
「最初から、そういう目的で、点呼をしていたわけじゃ、ないのに」
「自分はただ毎朝、続けていただけです」
ミレナはしばらく何も、言わなかった。
それから、彼女は低い声で、呟いた。
「あなたの、その『ただ続ける』が、こちらの世界で、武器になったの」
配島は答えなかった。
答えは、彼自身、まだ持ち合わせていなかった。




