第五章 北の影
冬が深まり、王都ヴェルディンの城壁の上に氷が張る頃、配達ギルドはヴェルデン王国の十二の街と、その近郊の三十八の村に拠点を持つ組織に成長していた。
所属するのは、配達員、仕分け係、御者、護衛、事務員を合わせて七百名を超える。
配島はギルドマスターという肩書きを与えられたが、自分ではほとんどその名で呼ばれなかった。彼は今でも、現場では「ハイジマさん」だった。配達員たちが彼を呼ぶ時、その声には、配島が前世では聞いたことのない種類の親しみがあった。
配島は、配達ギルドが大きくなるにつれて、自分が「現場」から遠ざかっていくことを、警戒していた。
彼は毎週決まった三日間、必ず配達員と一緒に街を歩いた。配達車の馭者台に並んで座り、荷札の住所を自分の口で読み上げ、自分の足で客の家まで運んだ。
配達員たちは、最初、それを、奇妙に思った。
「ギルドマスターが、なんで、こんなことを」
「自分は、配達員ですから」
配島は、いつもそう答えた。
ガリクは、それを、頭を、振って、見ていた。
「お前さん、現場に立ちすぎだ。事務をやれる人間が、お前以外に、まだいない」
「ガリクさん」
「なんだ」
「現場に立たない管理者は、現場の声を、聞き間違えます」
「お前さん、自分の故郷で、その間違いを、たくさん、見てきたな」
「……はい」
ガリクは、それ以上、何も、言わなかった。
配達員たちは、配島が毎週彼らと一緒に歩く習慣を、すぐに当たり前の風景として受け入れた。
ハブターミナルの建設から半年。
春の終わり。
王宮で、配達ギルド設立の祝賀の宴が催されることになった。
主催は第三王女エリザ。出席者は、ヴェルデン王国の貴族、商人組合の代表、配達ギルドの主要な役員、そして他国の使節。
配島は宴の三日前から、礼装の仕立てと所作の指導で、頭が回らないほど消耗していた。
「下がる時の足は左から、右から、どっちでしたっけ」
「左よ。三度言ったわ」
ミレナは羽根ペンの先で、配島の襟元の刺繍をほぐしながら答えた。彼女は彼女で、藍色の絹のドレスを着ていた。配島が初めて見る、貴族らしい装いだった。
「ミレナさん」
「何」
「お似合いです」
ミレナは少しの間、手を止めた。
「あなた、そういう言葉、本当に下手ね」
「すみません」
「でも、嫌いじゃないわ」
配島は襟元をいじる手を止めた。何か答えるべきだったが、答えるべき言葉が見つからなかった。
ミレナは羽根ペンを置き、配島の襟元から、手を、離した。
「ハイジマ」
「はい」
「あなたは、自分が、似合うと、思わない人間ね」
「……」
「私は、私の家が領地を失ってから、自分のことを、似合う、と、思わなくなった。あなたは、たぶんもっと前から」
「自分は、似合う、という言葉と、無縁の人生でした」
「では、今夜、私と一緒に、似合う、ということを、覚えましょう」
ミレナは、そう言ってから、立ち上がった。
彼女のドレスの裾が、床を、軽く、掃いた。
配島は、その音を、しばらく、忘れられそうになかった。
宴の夜は、三日月だった。
王宮の大広間には、二百人近い客が集まっていた。長卓に並ぶ料理は、地方ごとの特産品を活かしたもので、配達ギルドが過去半年で運んだ商品の一部が、わざと混ぜられていた。北の山岳地帯のチーズ。南の海沿いの干し魚。東の麦畑の発酵酒。
エリザ王女は、玉座に近い席で、配島とミレナを左右に座らせていた。
乾杯の音頭を取ったのはエリザ自身だった。彼女は銀杯を掲げ、よく通る声で言った。
「我が国の血脈は、我が国の道にあります。道を細やかに繋ぐ者たちのために、今宵、杯を」
杯の音が広間に満ちた。
配島は手にした水のグラスを、軽く掲げて返した。彼は酒を飲まないと最初に決めていた。点呼の朝に、酒の匂いを残したくなかったからだ。
宴は穏やかに進んだ。
配島は地方の小貴族や商隊の長たちと、短い会話を重ねた。みな配島の顔と名前を知っていた。配達ギルドの仕組みを、自分たちの土地でも導入したいと申し出る者が三人、四人と現れた。
ボル・ホレスは、別の卓で、ヴェルデン王国の文化大臣と笑い合っていた。ガリクとノルトは大広間には呼ばれていなかったが、別棟で配達員たちと祝杯を上げていると、ミレナから聞いていた。
配島は、生涯で初めて、王宮の天井の下にいた。
彼は、その天井を、見上げた。
高い天井だった。装飾は、しかし、控えめだった。エリザ王女の好みかもしれなかった。
誰かが彼の隣に立った。
「ハイジマ・トオル殿」
声は若い男のものだった。
配島は振り向いた。
その瞬間。
配島の身体の真ん中で、何かが氷になった。
目の前に立っていたのは、二十代の男だった。長身で、背筋が異様に真っ直ぐで、白い軍装をまとっていた。袖口に施された刺繍は、配島の知らない国のものだった。胸には、銀色の小さな鎖が垂れ下がっていた。
顔立ちは、若い貴族のものだった。整っていて、感情の出ない目をしていた。髪は薄い色で、几帳面に分けられていた。
左目には、銀の単眼鏡。
配島は、その単眼鏡を、知っていた。
銀縁。同じ角度の傾き。同じ、人を斜めに見る癖。
「お初にお目にかかります、ギルドマスター殿」
男は微笑んだ。
左の口角だけを上げる、あの笑い方だった。
配島は、声が出なかった。
男は続けた。
「我が国の使節として、ノクスタリア帝国の参謀本部より遣わされました。ガル・ジングジと申します」
ガル・ジングジ。
配島の頭の中で、その音節が、解体された。
ガル。
ジン・グ・ジ。
神宮寺。
「お見知り置きを」
男は左手を胸に当てて、軽く一礼した。一礼の角度は、十五度。配島が前世で会社の朝礼で、何度も見せられた角度だった。
配島は、ようやく口を開いた。
「……ジングジ参謀」
「お知り合いを、思い出されたかのような顔ですね」
「いえ。あの」
「いや、構いません。私の名は珍しいですから。よく似た音の名を、聞いたことがある方も、多いでしょう」
男はもう一度笑った。
配島の前に立っているのは、間違いなく、神宮寺慶介だった。
顔の輪郭が違う。年齢が違う。体型も違う。
だが、配島は、確信した。
目の動きが、同じだった。
声の出し方が、同じだった。
左の口角の上げ方が、同じだった。
そして、なにより、配島を見下ろす、その視線の角度が、同じだった。
配島は、立っていた。
逃げなかった。
ノクスタリア帝国の参謀ガル・ジングジは、配島の沈黙を楽しむように、少し首を傾げた。
「ハイジマ殿。我が国でも、貴殿の評判は高い。配達ギルドの仕組みを、我々も学びたいと思っております。ぜひ、近日中に、王都にて意見交換の機会を頂きたい」
「……検討、します」
「ぜひ。物流は、国の血脈です。我々ノクスタリア帝国は、貴国とは、長く貿易の縁がございます。その縁を、より太く、より、効率的に、結ぶことができれば」
効率的に。
その語が、配島の耳で鋭く跳ねた。
神宮寺慶介は、その語が好きだった。
会社の朝礼で、彼は必ず「効率的に」と言った。「効率的に動け」「効率的に喋れ」「効率的に死ね」――最後のは冗談だったらしいが、配島はその冗談を笑えなかった。
配島は答えた。
「効率は、確かに大事です。ただ、自分は、効率より、まず、誰が、何を、いつまでに必要としているかを、見ることから始めたいと思っています」
ガル・ジングジは、わずかに眉を上げた。
その眉の上げ方も、同じだった。
「立派な信念です」
彼はそう言って、もう一度、礼をした。
「では、近日中に。お時間を、頂戴いたします」
ガル・ジングジが、二歩、卓の方へ歩いた、その時。
配島は、自分の口が、勝手に、動いたのに、気づいた。
「ジングジ参謀」
ガル・ジングジが、振り返った。
「はい」
「お国の物流について、一つ、お伺いしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「ノクスタリア帝国では、毎朝、輸送隊の出発前に、運転手の体調確認を、どのように、行っていらっしゃいますか」
ガル・ジングジの、左の口角が、わずかに、上がった。
しかし、目は、笑っていなかった。
「我が国では、上官が、配下の兵士の士気を、毎朝、確認します」
「士気、というのは、目に、見えるものですか」
「経験で、見えます」
「経験で、見える、ですか」
配島は、それ以上、続けなかった。
しかし、彼の声には、これまで彼の人生に、ほとんど、出たことのない、種類の固さが、混じっていた。
ガル・ジングジは、その固さを、感じ取った様子だった。
彼はもう一度礼をした。礼の角度は、最初と、同じく、十五度だった。
「ハイジマ殿。それでは」
彼は身を翻して、別の卓へ歩き去った。
配島はその背中を、長く見送った。
背中の歩き方は、神宮寺ではなかった。歩幅が大きく、軍人らしい運び方だった。これは、ガル・ジングジ、その人の身体の動きだった。
しかし、目と、口角と、声の運びは、神宮寺だった。
配島の隣に、いつの間にかミレナが立っていた。
「ハイジマ。顔色が、悪いわ」
「……はい」
「あの男、何者」
配島は答えに迷った。
迷ったうえで、彼は答えた。
「自分の、前の世界の、知り合いです」
ミレナは、表情を変えなかった。
彼女は配島の腕に、自分の指先を、軽く触れさせた。
「気をつけて、ハイジマ」
「はい」
「あの男の目は、あなたを見ていなかった。あなたの『仕組み』を見ていた」
配島は深く頷いた。
彼は、宴の喧騒の中で、ガル・ジングジの白い軍装の背中を、目で、追った。
ガル・ジングジは、別の卓で、ヴェルデン王国の財務大臣と話していた。
話しながら、彼の右手は卓の上の地方産の塩漬け肉を一切れつまみ上げ、口に運んだ。
その動作の中で、彼の左手は、卓の下に、隠れていた。
配島は、その左手の動きが、気になった。
左手が、卓の下で、何かを、書いていた。
右手で会話をしながら、左手で、何かを、記録していた。
神宮寺慶介は、左利きだった。
会社の朝礼で、彼は、いつも左手で、点呼簿に、印を押していた。
その夜の遅く、配島は王宮の控えの間の小窓から、城下を見下ろしていた。
ヴェルディン王都の灯りが、秋の終わりの霧の中で、ぼんやりとにじんでいた。
遠くの城壁の外側で、何かの炎が、不自然な大きさで、燃え上がっていた。
配島は目を凝らした。
炎は、東街道沿いの中継拠点があるあたりだった。
扉が乱暴に叩かれた。配島は振り向いた。
駆け込んできたのは、ノルトだった。礼装の上から旅装の革帯を巻きつけ、手には剣を握っていた。
「ハイジマ。緊急だ。東の中継拠点が、襲われた」
「誰に」
「鎧の紋が見えなかったが、軍隊の動きだ。盗賊じゃない。北の方角から来た騎兵、二十騎」
ノクスタリア帝国の方角だった。
配島は、宴の広間の方角を振り返った。
その広間には、たった今、ノクスタリア帝国の参謀が、笑顔で杯を傾けていた。
配島は、震える手で、礼装の襟をほどいた。
二度、深呼吸をした。
ノルトに向き直り、彼はようやく言った。
「ガリクさんを呼んでください。それから、配達ギルドの全拠点に、警戒態勢を出します」
ノルトは頷き、走り去った。
配島は窓の外の、遠い炎を、もう一度見た。
そして、自分の口の中で、忘れていた言葉が、ゆっくりと、形を取り戻した。
神宮寺慶介。
俺の仕事を、誰でもできると言った、あの人。
あなたが、来たのか。
また、俺の運んだものを、踏みにじりに、来たのか。
配島は、控えの間の机の上に、自分の手のひらを、押し付けた。
手のひらは、冷たかった。
しかし、震えては、いなかった。
彼は、礼装の上着を、椅子の背に、掛けた。
その上着の襟元には、ミレナが今夜のために縫い付けた、配達ギルドの紋章が、刺繍されていた。
配島は、その紋章を、しばらく、見つめた。
紋章は、簡単な図柄だった。円の中に、まっすぐな矢が、一本。
「お届けする」というだけの、図柄だった。
配島は、その紋章に向かって、小さく、頷いた。
そして、上着を、もう一度、羽織った。
出発の前の、点呼の代わりの、儀式だった。




