第2話 空間獣
幼いころ、千華はとても引っ込み思案の少女だった。
泣き虫の女の子で、些細ないたずらでもすぐに泣いてしまう。そんな様子を面白がって、近所では年上の子供たちからよくからかわれていた。
その姿を見かねた俺は、拙い魔術を武器にいたずらっ子を追い払ったり、からかわれないよう守ってやったりしていた。
だがその関係性も、千華が五歳になったときに、彼女の父親が気まぐれに木刀を持たせたのがきっかけで変わった。
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トラ型の空間獣がキュウゥゥーーッ、と息を吸い込むような遠吠えを上げる。
「どうする? 逃げる?」
「その聞き方がすでに逃げる気ないよね」
目をキラキラと――いや、爛々と輝かせながら、千華は俺に訊いた。
右手はもう背中の刀の柄に添えられていて、戦う準備万端といった感じ。首元までのショートカットヘアーは、抜刀を妨げない。
「今から逃げて、警察に連絡して、なんてやってたら新幹線間に合わないからな。いつもみたいに、どうぞお殺りください」
「りょーかい。じゃあ気持ち後ろ下がってて」
俺は言われた通り後ろに下がる。
俺たちの住居があるこの山は、魔力が集中しやすい地形となっているらしい。そういった魔力が集まる場所で起こる災害、それが『空間獣』だ。
何もない空間から突如現れ、獣のような形状を取る。だから空間獣。人間を見つけると襲い掛かってくる肉食動物みたいな存在だ。
ふつうの人間なら、生身で肉食動物に遭遇したならまず逃げる。空間獣に威嚇とか死んだふりとかは一切通用しないし、武道の心得があれば退治できるなんてこともない。
ないのだが、千華はその常識をひっくり返す。
「やーっ!」
刀を抜き、かけ声を上げながら空間獣へと向かう千華。
向かうとは言ったが、あまりに速過ぎて目で追うのがやっとだ。このスピードで走れば短距離走の世界記録を塗り替えるに違いない。
空間獣は千華の行動に戸惑ったかのように一瞬硬直するも、とっさに後ろへ跳び退いて、千華の横一閃を間一髪でかわした。
「まだ!」
かわされたと見るや、千華は刀を下から上に斬り上げる。空間獣は転げるようにこれも回避するが、体勢が悪かったのか、刃先が身体をえぐっていく。切り裂かれた体表からは、血の代わりに青い燐光が噴き出した。
――六歳のころの、今でも鮮明に覚えている記憶がある。
この山で山菜採りに夢中になっていた俺と千華は、気が付くと親たちから離れ、二人で迷子になっていた。
心細さに泣き出してしまった千華の手を引きながら、俺はどうにか知っている道を探そうと辺りをうろうろしていたそのとき、俺たちは運悪く空間獣に遭遇してしまった。
猛り狂いながら子供に食らいつこうと突進してくる空間獣から、子供の足で逃げ切れるはずもない。
絶望して目を閉じようとしたそのとき、俺は見た。泣きべそをかきながらも、近くにあった長めの太い枝を手に、空間獣と対峙する千華の姿を。
そして千華は一心不乱に枝を振るい続けて、最終的にはなんと空間獣を追い払ってしまったのだ。
親に保護されたあと俺がその顛末を正直に語ったことで、六歳の少女が空間獣を退治したというニュースはたちまち地元中に広まった。
それから千華がからかわれることはなくなった。そればかりか「これからは私が夏樹を守る!」と言い出し始め、以来小中学校でもかなりの時間を一緒に過ごしている。
魔術師でありながら女子に守られている俺は、自分でも情けない奴だと思う。でも魔術師以上に千華が人間離れしてるんだから、仕方ないよね?
そろそろ戦いも終わりそうだ。
俺は回想をやめて現在の千華の様子を確認する。
……うん、息一つ切れていない。
「このくらいにしとこっか」
トラ型の空間獣は必死の回避行動を繰り返したせいか、本当の動物でもないのに動きが鈍ってきている。
千華はどこか満足していない様子。だが諦めたように肩を回して刀を握り直す。とその姿がぶれて見えなくなる。
「おいおい、また強くなってないか……?」
数瞬後、空間獣を挟んで十メートルほど離れた位置に現れる千華。次の瞬間、空間獣は青白いフラッシュを放って爆発四散した。
「終わったよー」
「お、おう、お疲れさま。てか最初遊んでなかった?」
「最近また強くなった気がしたから、制限かけて一割くらいの力で戦ってみたんだけど……正直よく分からなかったんだよねー」
宮下千華、十五歳。
成長期の彼女はまだまだ強くなりそうです。
「時間はあるけど、遅れるわけにはいかないんだから、なるべく速攻で倒せよな」
「はーい、ごめんなさい」
「ま、終わったなら行こうか」
えへへ、とばつが悪そうに笑いながら、千華は刀をしまう。
そして俺が歩き出すと、肩が触れそうなくらい近くまで寄ってきて、俺の隣に並んで歩く。
なんというか、門出に不安があった俺だが……。
千華といると安心感があるな、物理的に。




