1.それはもう珈琲ではなく、砂糖湯の珈琲風味です
大きな観音扉を乱暴に開いて、不機嫌そうな男がホールへと出て来た。
スータンのような膝下まである白のジャケットを着崩し、中には黒のシャツに黒のズボン、黒のブーツ。ジャケットとは対照的である。
そこに栄える白い肌は女性から憎まれそうな程に綺麗で張りがある。
また漆黒の少し癖の強いミディアムの髪が顔の白さを、より強調し金の瞳は鋭く光り輝いていた。
通る誰もが目を奪われる美貌とは裏腹に、その瞳は怒りを孕んでいた。
ぶつけどころのない怒りを歩調に込めて、長い廊下を競歩で付き進む。
長い廊下の先は踊り場になっていて、その踊り場を抜けた先には、今までの荘厳な雰囲気の廊下とは一変。
煌びやかで豪奢な廊下が広がっていた。
世界は大きく分かれて三つの大陸並びに国が存在している。
二大公爵家が一つ、レーンディアが治める大国―アヴェルヌス。一つ、ローモンドが治める小国―パウェル。
その両国の境に位置して調停役を果たし、中立を律する中立国<ラ・アナウ>。
中立国の中央に鎮座する、上空から見ると綺麗な逆鉤十字というなんとも不吉で、非常識なほどに壮大な建造物を所有するパラレル対策機関中央本部通称―SS.BMO。
中立国-ラ・アナウはそのパラレル対策組織を中心に動き、世界もまたそれを中心に回っていた。
それほどこの世界にとってパラレルとは強大な存在であり、世界に多大な影響を及ぼす要素であった。
世界と並行し、実際に隣合わせで存在している世界――パラレルワールド。
SS.BOMはその数多くのパラレルワールドとの均衡と平穏を保ち続ける役割を担って行った。
その機関唯一の執行権限を持つ第13部。
通称――特別来賓室、略して特賓室には7名の機関構成員が配属されており、また一人の青年が保護されていた。
青年の名はセキ。
一か月前に突然、捻じ曲げられた歪んだ空間から現れた何とも不吉な不穏分子である。
そんな彼――セキは、機関内でも特別待遇である13部の広間兼談話室に設けられた真っ赤なベルベットのソファーで寛いでいた。
広間兼談話室。
その部屋は機関内の一角、エントランスの廊下から一際目立つ扉を入って一部屋挟んだ先にある、途轍もなく広く、豪奢な作りの一室である。
目が痛くなるほどの煌びやかで、普通の生活をしている人間にはまず触れることさえ出来ないような高級品の数々が並んでいた。
ベルベッドのソファーだってそうだ。
それが4つも部屋の中央を占め、片隅には簡易キッチンが設けられているのだが、それもまた一つ一つが職人によって作り上げられたような豪華さで、細かいレリーフも刻み込まれてある。
そんな場違いな部屋でも一カ月も過ごせば慣れるというものだ。
艶の良く、漆のような黒髪は耳を半分ほど隠すミディアムショートで、その瞳も同じ色をしている。
少し大きめな瞳と端正な顔立ち、すらりと伸びた四肢は印象的である。
黒のシャツと長いパンツはそれを強調して、骨格もしっかりしているようだ。
(全く、皆どこ行ったんだよ・・・)
朝食を終わらせた後、一斉に立ちあがって、どこかへと出て行ってしまったのだ13部構成員に「どこ行くのか」というセキの問いは聞こえなかったかのように流されて、こうやって気が付けば既に正午を回ろうとしている。
機関の朝食は早い。
腹の虫が悲鳴を上げていた。
セキ自身も悲鳴のような重々しいため息を付く。
それと同時に一部屋挟んだ談話室まで入口の扉が開く盛大な音が響いてきた。
セキはその音に顔を引きつらせて、来る嫌な予感に談話室の扉を横目で睨んだ。
「あ~!くそ、死ね!」
扉を開けるや否や、飛んできた誰に向けられたかは定かではない罵声。
その声の主は13部きっての美貌の持ち主――クロエだ。
強い癖のある黒髪を掻きむしりながら、スータンのような長い白のジャケットを無造作に脱ぎ、ソファーに投げようとした所を、後ろの長身の男が制してジャケットを預かる。
「まぁまぁ、落ち着けってクロエ」
長身の男――フランクは失笑気味にクロエを宥めながら、ジャケットの皺を伸ばして、これまた豪華なクローゼットへと仕舞う。
フタンクリンルーズヴァルト。それが彼の正式なファーストネームだ。
それでいてファミリーネームがアラン。
誰もが、ファーストネームとファミリーネームが逆だろ、とのツッコミを入れたくなる衝動に駆られる彼の名前故に、セキ以外の皆は彼のことを‘アラン’と呼んでいた。
本人は嫌のようだが、それが定着しているため諦めているらしい。
簡易キッチンへと足を向けたフランクに、定位置である一番広いソファーに鎮座して不機嫌そうな表情で新聞を手にとったクロエ。
セキに一瞥もくれないクロエに、セキは身の危険を感じながらフランクの方へと逃げるように、そっと足を向かわせた。
セキが予想していた通り、フランクはクロエのために珈琲を点てているようだ。
所謂お坊ちゃんであるクロエが好む高級豆を挽く所から始め、天然水を沸騰させて適度な温度を保ち、挽いた豆を図ってネルへと入れて点てていく。
珈琲の良い香りがセキの鼻腔を掠める隣で、フランクはクロエとは違いいつも通りのようだ。
「なぁなぁ、何かあったわけ?ってか、どこ行ってたわけ?」
後ろで発しているドス黒いオーラを感じでいるせいか、知らずの内に小声になって尋ねたセキに、小さく笑ったフランクの手元のネルからは綺麗な珈琲ドームが出来あがっていた。
その珈琲ドームが少しひび割れ出して、二度目のお湯を注ぎ始める。
「ちょっと定期報告会があってなぁ。そこで爺さんどもに説教されてんだよ」
なるほど、と頷いたセキはちらりと後ろを一瞥した。
未だに怒りを周りに放ちながら新聞を呼んでいるクロエの顔は新聞に遮られて見えない。
再び、フランクを視界に留めると綺麗な赤髪がセキの頬を撫でた。
ミディアムショート。クロエより少しだけ短い髪は燃えるような明るい赤色だ。
そこに碧眼、183センチの背に整った面長の顔ときたら、どこかの王子様のようである。
新聞を読みふけっているクロエも、中見は沸点の低い非常識人ではあるが、何故か見た目だけはやたらといい。
深淵のように深い漆黒の癖の強い髪に、それを照らすような金の瞳。
少し童顔ではあるが、フランク同様整っていて、肌は女性が羨ましがるほど白く綺麗だ。
フランクほどではないが、背も高く179センチ。自称は180センチらしいが。
ちなみにこれは機関個人登録をセキが盗みみた情報であったが、外見にも中見にもそれなりに自身のあるセキも、この2人を前にすると色んなコンプレックスが芽生えてくる。
3度目のお湯を注ぎ終わったフランクはお湯が落ち終わるのを待つ間に、カップを湯煎して、シュガーポットとミルクをクロエの座るソファー前のコーヒーテーブルへと運んだ。
「クロエもすぐに機嫌直すだろ。セキも座れよ」
「お茶もいいけどさ。俺、腹減ったんだけど・・・」
証明するように盛大になった腹の虫を聞いて、フランクは失笑する。
「知ってる。もうすぐすれば昼食が運ばれてくる筈だから、とりあえず珈琲でも飲んで、その腹の虫を収めとけ」
ぽん、と肩を軽く叩かれてセキはソファーに促されたため、いつも座っているクロエの斜め隣―――1人掛け用のソファーへと渋々腰を降ろした。
フランクはブラックコーヒーの入った高級コーヒーカップ3脚をそれぞれの前へと置くと各々が無言で好みの砂糖とミルクを入れる。
セキはミルクと砂糖を少量。
そんなに甘党ではないので、8:1:1くらいの割合である。
フランクは辛党でもあり、いつもブラックである。
問題なのはクロエであった。
フランクはいつも彼のカップだけ少し少なめに入れてある。あえてそうしているのだ。
理由は一目瞭然である。
一目で珈琲と分からなくなる量のミルクをぶっこみ、ティースプーン8杯の砂糖を入れる。
ザラザラと耳障りな音が、ティ-スプーン越しに聞こえてくる不快感といったらない。
甘ったるい珈琲ではなくなった珈琲の味を想像しただけで吐きそうになるセキであったが、毎日のようにそれを前で飲まれ、それが一カ月も経つと何の抵抗もなくなった。
全く、人間の慣れとは恐ろしいものだ、と自分の身で体験していた。
クロエはその珈琲を一口。鬼の形相が一瞬で幸せそうな表情へと変わる。
(あ~、あれだ。砂糖中毒の禁断症状が出てたのか。)
一定に糖分を摂って置かなければ禁断症状が出る。
クロエはそんな病気なのだとセキは勝手に自己完結していた。