母
蜂のような魔物の巣が本当にあるのだとすれば、それはどこにあるのでしょう。山の中でしょうか。民家の軒にあったら恐ろしい。そんなことを考えながら歩いていると、
「あ、魔物」
エドワードさんが魔物を発見したようです。彼は自身の足下を見ていて、そこには少し大きめですが普通の蟻がいます。
「どこですか」
「見えない? こいつ」
私の質問に、エドワードさんは屈んで蟻を指差して答えました。あっ、そうか、黒いから魔物ですね。
「普通の蟻かと思いました」
「えっ……レイちゃんの世界は蟻も黒いのかい?」
「はい」
「他にも黒いのはいる?」
「えーっと……猫とか牛とかいろいろいます。全部黒いのも一部分が黒いのもいます」
「そうかあ……ちょっと見てみたいな、魔物じゃない黒い生き物」
あなたの隣に髪と目が黒い生き物がいますよ。
実は私は黒髪黒目なのだと言ったら、エドワードさんとジークさんは信じてくれるでしょうか。私が異世界から来たのだと信じてくれたぐらいだから、黒髪黒目についても信じてくれるかもしれませんね。でも、二人は本当に、私が異世界から来たと信じてくれているのでしょうか。そのことがときどき不安になります。
「さて、こいつはどうするかな」
そう言いながらエドワードさんは魔物を道端に落ちていた小枝でつんつん、とつつきました。魔物は何を思ったか、それまでどこに行くでもなくただうろうろと歩き回っていたのに、急に真っ直ぐ歩きだしました。
魔物の向かった先は地面にあいた小さな穴。魔物は穴の中へと入っていきました。
「巣……」
エドワードさんが小さく小さく呟いたのが聞こえました。
きっとこの小さな穴は、魔物の巣の入り口でしょう。
「報告書に書かないとな」
「そうだな」
ジークさんに同意したエドワードさんはなんだか嬉しそうでした。
「さーて、今度こそどうしようかな」
エドワードさんは嬉しそうに楽しそうに小さく笑いながら小枝で穴を塞ぎました。
「蟻の巣って塞ぎたくなるよね」
「そうですね」
私は高校生になった今でも蟻に意地悪したいときがあります。巣の入り口を塞ぐのはもちろん、蟻が歩くのを邪魔したり運んでいる物を取り上げてみたり。
ジークさんは何も答えずに小枝をぐっと押し込み、さらに上から土をかぶせ、土を手でぱんぱんと叩いて固めました。ふふ、ジークさんったら私の弟と同じことをやっていますよ。
「とりあえず塞いだけど、どうしようか。こんなんで魔物が消えるとは思えないし」
そうですね。どうせ小枝や土をどけて出入り口を復活させるか別の出入り口を作るでしょう。
「それにしても、蟻もどきの巣があるなら蜂もどきの」
エドワードさんは言葉を途中で切り、ふと頭上を見上げました。私も見上げてみれば、目に飛び込んできたのは木の実よろしく木の枝にぶら下がる大きな黒いものとその周りを飛び回る小さな黒いもの。
「……蜂もどきの巣もあるよね」
だからといってこんな近くになくてもいいのに。私たちが蟻もどきの巣を塞いでいる間に襲ってこなくて良かったです。
「どうしますか?」
「そうだなあ、とりあえず魔物が巣から出てこないようにしてくれるかい?」
魔法の出番ですね。蜂もどきからいきますよ。
【巣に入れー。出てくるなー】
飛び回っていた小さな黒いものが見えなくなりました。たぶん巣に入ったのでしょう。巣も魔物も同じ黒なのでよくわかりません。
次は蟻もどきです……ん? 地面が何ヶ所も小さく盛り上がっています。まさか。
【出てくるなっ】
今にも地面から魔物が一斉に出てきそうな感じだったので慌てました。
「これでいいと思います」
「ありがとう。今度こそ本当にどうにかしないと。でもどうしようか。魔法で巣ごと燃やすことってできる?」
「できると思います。でも……」
「でも?」
「あんまり自信ないです。失敗したら火事になっちゃうかもしれません……」
薪に火を点ける程度の魔法ならそれなりに自信があります。でも、魔物を倒せるような炎を出す魔法は大教会で魔法の上手な人に付き添ってもらって三回ほど使ってみた程度なのです。ここが周りに何も無い荒野のようなところならばやってみるのもいいでしょうが……。
「……それに、火事にはならなくても誰かがやけどするかも……」
こんなことを言ってやらずにいてはいつまで経っても上達しないのはわかっているのですが。
「あー……そういえば草原でレイちゃん自身にも水がかかってたっけ。じゃあ、火が駄目なら水がいいかな」
水の魔法ならそこそこ自信あります!……と言いたいところですが、まだまだ教科書が手放せません。えーっと、どの魔法がいいかな……これは弱いし、これは範囲が広すぎるし……あ、これ蜂もどきにいいな。でもなあ……やっぱりこっちがいいかな、使ったことあるし。
「あ、レイちゃん、やっぱり水はいいよ。教科書もしまっていい」
おや、エドワードさんは何かいい案を思い付いたようです。
「どうするんですか」
「女王に配下を食べさせる」
はい?
「で、一匹になったところで倒せば、父さんの言ったとおりなら、魔物も巣も消える」
おお! それならかなり楽……なのでしょうか。
「女王が強くなって大変な気がするんですけど……」
「別に女王一匹だけに食べさせなくてもいいさ。時間がかかるからね。とにかくなるべく数が少なくなってくれればそれで良し。配下が女王を食べたっていいと思うし」
女王が消えたら巣もなくなりそうな気も……あっでも、よくわからない存在の魔物のことだから、女王を食べた魔物が新しい女王になる可能性もきっとありますよね。
「それにさ、もしも女王がすごく強くなったとしても、こっちには魔王を倒した聖剣があるんだから大丈夫だと思うよ。そういうわけだからレイちゃん、魔法をお願い」
「はい」
えーっと、「共食いしろ」でいいのでしょうか。でもこれだと一匹だけ食べて終わりになるかもしれません。では、「残り女王一匹になるまで共食いしろ」とか?……これも駄目ですね。巣の中にどれほどの魔物がいるか知りませんが、もしかしたら、一日に一匹しか減らなくて女王だけになるのに何日もかかるかも。ならば魔物に急がせましょう。
【えーっと、なるべく早く残り女王一匹になるまで共食いしろ。一匹になったら巣から出てこい】
とりあえず蜂もどきに向かって言ってみました。時間がかかるようなら残る魔物の数を増やせばいいはずです。
「どんな魔法をかけたんだい?」
「なるべく早く共食いして、女王だけになったら巣から出てくるようにしました」
「何で“一分”とかじゃなくて“なるべく早く”?」
「いくら魔法でもできないことはできないと思うんです。……エドワードさん」
「ん?」
【手を挙げろ】
エドワードさんの両手が挙がりました。彼は護符を持っているからもしかしたら魔法が効かないかもしれないと思っていましたが、まだ護符の効果よりも私の魔力の方が強いようです。
「レイちゃん、何を?」
【空を飛べ】
エドワードさんはただ立っているだけです。結果は予想通りですが、ちょっと残念です。人間が空を飛ぶところを見たかったです。
「僕に何か魔法をかけた?」
「さっきのは手を挙げるように言いました。今のは空を飛ぶように言ってみました」
「そうかー。無理なものは無理か。ちょっと飛んでみたかったな。蟻もどきもお願い」
「はい」
蟻もどきに蜂もどきと同じ魔法をかけてみましたが、さて、どれくらいの時間がかかるでしょうか。
まずは三十分待ってみました。真っ黒な物体が木にぶら下がっていることを除けばいたって平和な光景のまま、変化はありません。
「まだかなー」
「『魔物はすごい勢いで仲間を食べちゃうのよ』って母さんが言ってた」
「ジークの母さんは魔物が共食いするところを見たことがあるのか?」
「仕事でどこかの街に行った時に見たらしい。そういえば、『食べた分大きくなるの』とも言ってた」
さらに十分待ってみました。暇です。ですがこうして木陰に座ってゆっくりできるのはいいことです。
「あ、そうだ。エドワードさん、黒い生き物を見てみたいって言いましたよね」
私は久々に携帯電話をバッグから取り出し、
「うん。ん? 何それ」
「科学技術が詰まった物です」
そしてこの世界に来てから三日目に切っておいた電源を入れました。
目的の画像を表示して、エドワードさんとジークさんに見せてみました。
「え、何これ、魔物? でも目が青い……これが、レイちゃんの世界の猫?」
エドワードさんとジークさんは不思議そうに携帯電話の画面を見ています。
「そうです。近所に住んでる黒猫のくろちゃんです」
「これ、絵?」
「絵じゃないです。写真です。どういうものかと聞かれてもうまく説明できないんですけど……本当にあるものをそのまま記録しておけるんです」
あ、そうだ、写真を見せれば私が本当は黒髪黒目だって信じてもらいやすくなるかも。
「これ、私のお母さんです」
私自身の写真を見せるのはなんとなく恥ずかしいので、まずはお母さんの写真を見せてみました。
「へえ。優しそうだね」
あれ? エドワードさんもジークさんも黒いことを驚くかと思っていたのにそのような様子はありません。
「綺麗な藍色がレイちゃんと同じだね」
……藍色って何が?……お父さんの写真も見せてみましょうか。
「レイの父さんか。賢そうだな」
あのー、ジークさん、髪や目について何か言うことは?
妹と弟の写真も見せてみると、
「レイちゃんの家はみんな髪の毛と目が藍色なんだね」
と、エドワードさんに言われました。
まさか、まさか写真でさえも正しく見えないなんて……。
お母さん、お父さん、恵、一……私は、私たちは黒髪黒目だよね? 私は間違っていないよね?
……もう携帯電話はしまいましょう。別に黒に見えていないからといって困ることはありません。私の唯一の自慢を見てもらえないのはほんの少し悲しいけれど、「綺麗」とは言ってもらえますし……。
「どうしたんだい、レイちゃん。落ち込んでるみたいだけど」
「あ、えっと、その、日本が恋しいなーって。それより魔物はまだなんでしょうかね」
「そうだね。いつまでかかることやら。いいこと思い付いたと思ったのになあ」
やっぱり一匹になるには時間がかかるようですね。魔法をかけ直そうかと思っていると、ジークさんが蜂もどきの巣を見上げて言いました。
「レイの魔法は効いてないかもしれない」
へ? どうして? エドワードさんもわからないようで首をかしげています。
「魔物には雄雌がない。それから子供を産まないと言われている」
そうですか。それと魔法が効いていないことと何の関係が?
「……そうか!」
エドワードさんはわかったようです。えーっと、雄雌がない……男女がない……子供を産まない……あっ!
「“女王”はいないから、私のかけた魔法は効果がないってことですか……」
ジークさんがこくりと頷きました。…………うわあああ! かなりの時間を無駄にしてしまったあああああ……!
「ごめんなさい。魔法をかけ直します……」
“女王”を“王”に変えてみましょうか。いいえこれでもだめかもしれません。何せ相手は魔物です。蟻や蜂の女王にあたる存在はいないかもしれません。
【なるべく早く残り一匹になるまで共食いして、一匹になったら巣から出てきておとなしくしろ】
これでいいはずですが、とても不安です。
不安なまま待つこと十分。
「あ……」
エドワードさんの声に視線を蜂もどきの巣の方に向けてみれば、
「あ、え、え、え……」
巣よりは少し小さいけれど、大きな真っ黒な蜂もどきがいました。すいか一個と半分くらいの大きさです。こ、怖い……。
蜂もどきはふらふらよろよろと飛びながらゆっくり高度を下げていきましたが、地面まであと五十センチくらいのところで飛ぶのをやめてボトッと落ちました。
「……ずいぶんと食べたんだな」
エドワードさんが半分呆れて半分感心したように呟きながら剣を抜きました。
「そーれっ」
彼はまるですいか割りのように蜂もどきに向かって剣を振り下ろしましたが、
「硬い……」
蜂もどきは頑丈でした。叩き斬ろうとしていたのに殴った感じになってしまいました。
「ジーク、頼んだ」
ジークさんは頷くと、聖剣で蜂もどきの胸をあっさりと刺しました。蜂もどきは、痛いのか苦しいのか両方なのかはわかりませんが、耐えるように体を丸めました。蜂もどきの体の聖剣が刺さっている所から黒いものがゆっくりと少しずつ出て空気に溶けていきます。普通の生き物でたとえるなら血を流している状態でしょうか。ジークさんが蜂もどきから聖剣を抜くと、黒いものの出る量が多くなりました。このまま何もせずに放っておいても蜂もどきは消えるでしょう。
蜂もどきの空気にとける速度が一段と上がったところで、私の足下の土が盛り上がり、
「うわっ」
黒いものが地中から少し顔を出しました。慌ててその場から離れると、すいか一個分くらいの大きさの蟻もどきが這い出てきました。こっちも怖いです。私のことを「食ってやる!」というような目で見てきますが動こうとはしません。おとなしくするように魔法をかけておいて良かったです。
蟻もどきはジークさんに真っ二つにされました。蜂もどきはそろそろ全部消えそうです。蜂もどきの巣も空気に溶けてなくなりそうです。では蟻もどきの巣はどうでしょう。普通の蟻と同じように土を掘って作ったのでしょうか。その場合、巣は消えるのでしょうか。消えるとしたらどのように? 崩れるとか? この辺りが崩落でもしたらどうしましょう。
蟻もどきが消えました。特に何も起こりません。ただ蟻もどきが出てきた穴がぽっかりとあいているだけです。穴を覗いてみると、あまり深くないところで曲がっています。これならたとえ穴に落ちてしまったとしてもすぐに抜け出せるでしょう。
盛り上がった分の土だけ穴の中に戻して、出発することになりました。
「魔物退治に結構時間かかったね。急いだ方がいいかな。雨降りそうだし」
「ごめんなさい。私が女王一匹にしようとしたせいで……」
「いいよ。最初に女王に食べさせようとしたのは僕だし。さ、行こう」
雨が本格的に降り始めるまでに近くの街に着きたいものです。




