02/01 Tue.-3
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「お姉さん!」
そう、聞こえたような気がした。
リンは、はっと顔を上げた。
魚市場から仕入れてきたばかりの新鮮な魚が、すでに店頭に並べられている。
買い物客は、昼前に第一次ピークがくるが、こんな朝早くから魚を買いにくる人間はいないので、表の掃除でもしようかと思っていた時だった。
箱の中に、閉じこめられたようなこもった声―― もしも、その声が本当であったとしても、物凄く小さな音量だったはずだ。
しかし、リンには聞こえた。
彼女の耳は、特別製で。
5軒先の、柿の実が落ちる音さえ聞きつけてくる、と言われるほどの地獄耳だったのである。
だから、自分の中で何よりも、リンは耳を信用していた。
その声が、一体誰のものであるかさえ、この時の彼女ははっきり確信していたのだ。
しかし、車のドアが開いて、見慣れた顔が飛び出してくるまで、信じることが出来なかった。
メイが帰ってきたなんて。
近所の町工場の娘で、母親を早く亡くしたせいで、リンのことを本当の姉のように思ってくれていた。
リンだって、彼女のことが可愛いくて構っていた。
親同士が、仲がいいというのもあったが、本当の家族のように育ったのだ。
メイの父親が忙しい時は、一緒にこの家でご飯を食べたし、彼女の初潮の時に面倒を見たのだって、誰あろうリンだった。
金貸しが、彼女を連れて行ったと聞いて、どれだけ心配したことか。
どうにか、見つけられないかと調べてはみたものの、全然手がかりは見つからなかった。
意を決して、旦那と二人で花街の方にも入ってみた。
しかし、メイの名前を見つけることは、出来なかったのである。
おかげで、少しは救われたのだ。
名前を聞かないということは、『そういう危ないところに、いないかもしれない』という、最後の望みにすがることが出来たからだ。
そうして、1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎ―― 子供に、『メイおねーちゃんは?』と聞かれる度に、胸を痛める日々が続いていたのだ。
「メイ!」
信じられない心に捕らわれながらも、大きな声で彼女を呼んだ。
あの黒い髪も、あの顔も。
間違えるはずなんかなかった。
「リンお姉さん!」
嬉しさに、弾け飛んでしまいそうな勢いで、すぐそばまで来た身体を、リンはぎゅっと抱きしめた。
ああ、間違いない。
メイが、本当に帰ってきたのである。
リンの頭には、『母を訪ねて三千里』や、『家なき子』で、最後に母と再会する子というシーンが頭をよぎった。
子供の頃は、「よかったね」と男泣きしていたのだが、いま、本当にその時の母親の気持ちを、理解したような気がしたのだ。
しかし、今この瞬間は余計なことを考えずに、ひたすらに彼女との再会を喜ぶことにした。
が。
メイは、一人ではなかった。
遅れて運転席のドアから、見知らぬ男が出てきたのである。
「……あん?」
リンは、目を細めた。
うさんくさげに、相手を見ると―― スーツを着て、ネクタイこそしめているものの、顔に品性はなく、目つきに柔和さのない男だった。
よさげな車に乗って、よさげな服を着て、そうして顔つきの悪いヤツの商売なんて決まっている。
成金だ。
しかも、人から金を吸い上げるタイプの。
その第一印象から、リンは一瞬にして、彼が金貸しであると判断した。
メイを連れ去り、食い物にしたヤツに違いないと。
もしや、この男がメイにひどい真似を!
リンの頭の中には、『情婦』だの『愛人』だの『虐待』だの、ロクな文字が浮かばなかった。
頭にかっと血が昇る。
彼女自身に借金があるワケでもないのに、人生をメチャクチャにしただろう男が、憎くてしょうがなかったのだ。
「あんたが金貸しかい? この子にどんなひどいことをしたんだい!」
一度カッとなると、後先を考えることが出来ない。
お前の悪いところだと、夫に言われるのだが、これはもう性分なのだからしょうがない。
2、3発殴りつけてやろうと、リンは男の方に足を踏み出した。
たいていの男は、彼女の上背と、気性の激しさに臆して、この瞬間で逃げ腰を見せるのだが、男は微動だにしない。
それがまた、ひどいヤクザものに見えて、更に頭に血が昇る。
しかし、その身体は引き留められた。
誰あろう、メイに。
「お、お姉さん! お姉さん、違うの! 違うんだったら!」
腕に、必死でしがみついてくる。
彼女とのつきあいも長いので、これからリンがどういう行動に出ようとしているのか、きっとすぐに分かったに違いない。
ヤクザものを殴った後の報復とか、そういうことを考えて引き留めた―― にしては、ちょっとメイの様子は違っていた。
まるで、あの男を守るかのような一生懸命の表情だ。
おや?
リンは、その瞳に押されて動きを止める。
一体、どういうことだろう。
「か、彼は…その…えっと…あの……私の…」
問いただそうとすると、途端に彼女は言い淀んで。
強い口調でこられると、いつもメイはそんな風になってしまう。
悪いクセだ。
『もっと、シャキシャキ答える!』
短気なリンは、子供の頃からそう言い続けてきたが、どうやら生まれつきのものは、なかなか治らないらしい。
その上、メイの顔は真っ赤になっていた。
照れているようだ。
照れているせいで、余計に口が動かなくなってしまったのか。
照れる?
あの男との関係を聞いて、顔を赤らめるということは。
リンは、メイをじっと見た後、男の方に視線を投げた。
愛想の悪い、仏頂面がそこにはあって。
まさか。
また、メイを見る。
もじもじしている。
「もしかして…メイ、あんたの『いい人』かい?」
意を決して、リンは彼女に聞いた。
こくり。
ああ、やっぱり。
リンは、自分の予測と答えが合致していることに気づいて、小さく吐息をついた。
どういう経緯があったかは分からないが、あのヤクザものと彼女は、恋仲になってしまったようである。
おそらく、彼女の立場を考えると、借金絡みで芽生えた恋なのだろう。
多少、男の無愛想を考えると賛成しかねるところがあったのだが、それを言うなら、自分の夫の無愛想さもヤクザクラスだ。
それどころか、街をあるけばヤクザの方が逃げていく。
とりあえず、さっきまでの自分の勘違いを水に流そうと、笑いながらメイの彼氏をバシバシと叩いていると、表の騒動を聞きつけたのか、噂の無愛想な夫が顔を出してきた。
名前は、マサ。
元々は、向かいの八百屋の息子だった。
それを、リンが一本釣りしたのである。
どちらも長男長女で、店の跡目を継がなければならない身だった。
だから、結婚にはいろんなところから反対が来たのだが。
結局、どちらも継ぐということで決着がついた。
おかげで、マサは八百屋の仕事を。
リンは、魚屋の仕事をすることになったのだ。
将来的には、店を一緒にすればいいじゃない―― ついに、周囲は折れてくれた。
「お久しぶりです、マサさん! ユウちゃんは元気ですか?」
これまた久しぶりな顔に、メイは嬉しそうに挨拶をする。
はっ!
リンは、そこで思い出した。
ユウは。
「ああ、ユウなら…今日はカゼで学校を休んでいる」
マサが、顎で奥の家の方を指すような動きをした。
「お゛ね゛ぇ゛ぢゃーん゛」
鼻声でずるずるで、でも、彼女の声を聞きつけたのか、パジャマのままリンの子供が、執念で布団から這い出してきたのだった。




