第5話(紅)
……これは、結界だ。
白石兄妹に意識を移していた為か、それともクレナが平和ボケしていたからか。どうやら知らぬ間にこの町は「敵」の結界に覆われていたらしい。
対象を時空から切り離す魔法の名は、「封鎖結界」――それに閉じ込められたクレナ達は、完全に狙われていた。
「……久玲奈、先に行け」
「え……?」
怪物の足はその巨体からは考えられないほど速く、クレナ達に隠れる時間すら与えてくれなかった。
無人の不気味さの漂う商店街の交差点まで躍り出た兄さんはクレナの手を離すと、何を思ったのか化け物の方へと振り向いた。
「これが夢やB級映画なら、木の棒でも持っていれば助かるんだがな……もはや、あれが着ぐるみである可能性に賭けるしかないか」
「にいさん……?」
「僕がちょっかいを掛けている隙に、お前は逃げるんだ」
無謀なことに、彗は無手で怪物を食い止め、クレナを逃がそうと言うのだ。
……だが、クレナは知っている。
これは映画の撮影でも何でもなく、あそこに居る怪物は「魔物」であると。
人を超えた力を持ち、その鎌で多くの命を奪ってきた。とてもではないが高校生男子一人に止められる相手ではない。
兄も今自分達を襲っている摩訶不思議な体験が、信じ難くとも現実であることを悟っているのだろう。
しかしそれを承知の上で、彼は自らの命を盾にしてまでもクレナを逃がしたかったのだ。
「行け!」
それはただ純粋に、妹を……クレナを助ける為の行動だった。
これまでにクレナが見たことがないほど必死の形相でそう叫ぶ彼の声とその背中は、まるでクレナが恋焦がれた本物の勇者のようで。
……だからこそクレナには、こう応えずには居られなかった。
「ぜったいに、いやだ」
もう二度と、勇者を死なせるものか。
私からもう二度と、奪わせるものか。
心の底からどす黒い炎が燃え上がってくるような感覚を覚えたクレナは、彼の懸命な叫びに抗うと、彼の背中にトンッと魔力を込めた人差し指を押し当てた。
「久玲奈……! な、何を……?」
「ごめん……」
その瞬間、虚脱感に襲われた紅井彗の意識はクレナの姿を慄然と見つめながら刈り取られていった。
力無く倒れていく兄の身体を受け止めたクレナは素早く上着のブレザーを脱ぐと、それを枕代わりに彼の頭の下に敷くなり一回り大きい身体をそっと横たわらせた。
……散々、心配を掛けてきたのだ。この分野ぐらいは、私に良い恰好をさせてほしい。
気絶させた兄を背後に、そう思いながら前に出たクレナは、向かってくる怪物の姿を見据えた。
あの「魔物」も狩りを楽しんでいるつもりなのだろう。獲物が逃げないとわかると、わざわざ恐怖を与えるようにその足をゆっくり進めてクレナの前へと出てきた。
「キラーマンティス……」
地球には存在しない生命体、「魔物」の一種であるキラーマンティス。それはかつて未来のクレナが仲間と共に召喚された異世界、「フォストルディア」にのみ生息している怪物である。
クレナの視線を受けたキラーマンティスは赤い複眼を光らせると、黒光りする羽を広げて彼女を威嚇してくる。
出会った者には死を与え、異世界の民からは森の殺し屋と恐れられていたものだ。あまりにも禍々しいその姿は、この日本で平和に暮らしている人間であれば恐怖に震え、発狂してもおかしくないだろう。
実際、この種族に殺された仲間も何人か居た。何十体ものキラーマンティスに取り囲まれながら、恐怖に泣き叫びながらその身体をズタズタに引き裂かれ、捕食されていく。その光景はあまりにも無惨で、目を覆いたくなるものだった。
しかし、
「それがどうした……」
今のクレナにとって怪物の威嚇は、内に伏せていた激情を爆発させる引き金にしかならない。
この魔物とは、未来のクレナも数え切れないほど戦った経験がある。
所詮は昆虫だからか仲間同士で連携を取ってくること以外に大した知能は無いが、人の気配を感じれば真っ先に喰らいに来る習性があり、非常に獰猛で危険な魔物である。倒せば倒すほど無数に沸き出てくる軍勢には顔を見るのも嫌になり、うんざりとした記憶だけが蘇ってくる。
そうなれば、否が応でも思い出してしまう。
彼ら魔物に対する、激しい憎しみと怒りを。
「なんで、おまえたちがいるんだ……」
クレナの身体を、紅蓮の炎が覆い尽くす。
適性のある地球人が異世界フォストルディアに渡った時、発現する「C.HEAT」現象――その固有能力。
正式名称はクリムゾン・ヒート。異世界召喚された勇者だけが扱える異能だ。
個人別に異なる能力として発現する「C.HEAT」は、使えば使うほどその力を増していく。しかし使いすぎれば代償として何らかの副作用を受けてしまうのが大きな欠点ではあるが、今のクレナにとって自身の異能の代償は大した問題ではない。
クレナに発現した「C.HEAT」能力はあらゆる穢れを焼き払う、「浄化の炎」。その穢れ、という定義は酷く曖昧なもので、クレナ自身が反吐が出るほど汚らわしいと思ったものならば大概のものは焼き払えるらしい。
この力を手にした当初、未来のクレナは自分自身が汚らわしいものだと認識していた為、危うく自分を焼き殺しかけたこともあったが……そんな致命的な欠陥は白石兄妹のおかげで克服したと言うこっ恥ずかしい過去がある。そんな自分語りだ。
未来のクレナが知る白石兄妹は、ここに居ないというのに……隙があれば思い出してしまう。
それが尚更、今のクレナの心に激情を掻き立てた。
「あのひとたちはこのせかいの……どこにもいないのにっ!」
この世界に居ない愛する人々のことを思いながら、クレナは一瞬にして「C.HEAT」で生成した「炎の剣」を右手に携える。
浄化の炎が剣という物質としてあしらわれたその武器は、未来のクレナが最後まで愛用していた自分だけの愛剣である。
クレナはその炎の剣を構えると、怒りを込めてキラーマンティスの巨体を睨む。
地球上のどの昆虫よりも巨大なキラーマンティスだが、この怪物はクレナが知る同種の中でも大きめに見える。それは、単に今のクレナが未来のクレナよりもやや身長が低いからというわけではないだろう。
どうやらこの魔物は、キラーマンティスの中でも優良な個体らしい。
対峙する怪物の標的が、自分で良かったと安堵する。このような怪物が街中で他の人間を襲えば、どんな被害になることか考えたくもない。
睨み合うこと数秒後、キシャア!と鳴き声を上げてキラーマンティスが飛び掛かってきた。
――瞬間、シュッと空気を裂く短い音が鼓膜に触れる。
人間だった頃のクレナでは、その動きに対応することは出来なかっただろう。キラーマンティスの姿が幽霊のように掻き消えたと思えば、次の瞬間、その大鎌でクレナの身体を真っ二つにしようと振り下ろしてきたのだ。
キラーマンティスはその巨体に見合わず動きも俊敏だ。戦闘力は魔物の中で中位程度。しかし数が多く群れる為、異世界に召喚された間もない頃の勇者達は幾度も手を焼いたものである。未来のクレナもまた、危うく彼らに殺される寸前まで追い詰められたことがあった。
――だが、六年間の実戦で鍛え上げられた未来のクレナの記憶を持つ、今のクレナは違う。
伊達に白石兄妹を守ろうとするほど、ヤワなつもりはなかった。
「キシャアアアッ!?」
キラーマンティスが、人間で言うところの悲鳴にも似た叫びを上げる。
激痛にのたうち回る彼の右腕には、先ほど振り下ろした筈の大鎌の姿が無い。
一閃の交錯にして、クレナが振り抜いた炎の剣が怪物の大鎌を斬り落としたのだ。
キラーマンティスとしては予想外の光景だろう。無力だと思っていた獲物を斬り裂こうと大鎌を振り下ろした次の瞬間、逆に自分の右腕が斬り飛ばされていたのだから。
「いたいか、がいちゅう? このぐらいで、しんでくれるな」
もがき苦しむカマキリ型の魔物の姿に、クレナは冷徹な声でそう吐き捨てる。
キラーマンティスは見た目の割には素早いが、それはあくまでも普通の人間と比較した場合である。
仮にも前の世界では魔王にさえ一矢報いた今のクレナにとって、雑兵に過ぎないキラーマンティス如き敵ではない。攻撃を見た後で回避に成功すれば、炎の剣でカウンターを決めるだけの簡単な作業だった。
――元より現在問題なのは、この魔物の存在ではないのだ。
最も大きな問題はクレナの目の前に居るキラーマンティスではなく――キラーマンティスとクレナの戦いを陰から眺めながら、高みの見物を決め込んでいるもう一つの存在にあった。
「……でてこないなら、みせてやる。つぎは、おまえがこうなる」
キラーマンティスが目の前に現れた時から……いや、その前からも。
白石兄妹を無人トラックが襲った時点で、クレナはその可能性に気付いていたのだ。
この地球に……キラーマンティスを召喚した、異世界の「召喚師」が居ることに。
召喚魔法――地球の存在を異世界へと召喚するこの魔法には、多数の種類がある。
その中で最も強力なのが、魔法陣式の召喚魔法だ。召喚対象者の足元に転送装置のような魔法陣を展開し、対象者を直接術者の元へと送り飛ばす。習得難度は恐ろしく高いがその成功率は高く、一斉に複数の対象を召喚することが出来る為に効率も良い。そして何より、召喚師が違う世界に居ても召喚することが出来るというのが最大の利点だった。
かつて未来のクレナは病室の中に居た十五歳の冬、この魔法陣式の召喚魔法によって地球から異世界フォストルディアへと連れ去られた。それが時を同じくして召喚された白石兄妹達との出会いであり、悪夢の始まりだったのだ。
そして先日白石兄妹を襲った出来事もまた、おそらく召喚魔法の一種である。
魔方陣式とは違うその召喚法の名前は「物体式召喚魔法」――わかりやすく言えば、トラック召喚である。
対象者の視点では「トラックに撥ねられたら異世界に居た」という突拍子も無い状況が生まれるこれは、仲間の誰かが言うには創作の世界などでは頻繁に見かけるシチュエーションであろう。しかしこれはクレナの召喚された異世界において、実在する召喚方法だったのだ。
召喚対象者を直接魔法陣に飲み込んで異世界に召喚するのが「魔法陣式召喚魔法」だが、これに対して「物体式召喚魔法」は召喚魔法陣の効果を物体に付与し、その物体と召喚対象者との接触を通して対象者を召喚する方法である。例えるなら蛇口から吹き出した水を直接浴びせるのと、蛇口から吹き出した水をバケツの中に入れて、その水を浴びせるかの違いである。
この「物体式召喚魔法」の方は魔法陣式よりも手順が回りくどく、手間が掛かる。加えて召喚対象者と接触させる物体はトラックのような重量物――対象者の体重に対して約150倍の重量(60kgの対象者に対しては9t程、70kgの対象者に対しては11t以上の重量物)でなければならない等の制約がある為、使いどころが難しい。
そしてこの召喚魔法には、もう一つ重大な欠点があった。
「ぶったいしきのしょうかんまほうは、いせかいからではつかえない……」
かつてあの憎き召喚師がクレナ達を召喚したように、レベルの高い魔法陣式召喚魔法は召喚師が違う世界に居ても召喚することが出来る。
しかし物体式の召喚魔法は召喚効果をトラックに付与し、そのトラックを対象者と接触させるまで遠隔操作をしなければならないという大きな手間が発生する為、遠く離れた異世界から扱うには消耗が激しすぎて扱えないのだ。それは王宮最強の召喚師である、「あの男」と言えども。
だが召喚師が異世界からではなく、現地で発動するとなれば話は別だ。
「ねぇ? そこにいるんだろう?」
現地に――召喚師がこの町に居るならば、トラック召喚のような物体式召喚魔法を簡単に発動することが出来る。
そうだ……どうして今までその可能性を考えなかったのだろうか。
フォストルディアの召喚師が自ら、この世界に乗り込んできた可能性を。
「ころしてやるから、でてこいよ」
気付いていた筈なのだ。
しかしそれはあまりにもおぞましくて、考えたくもなかった。
――クレナ達の生まれたこの町に、召喚師が潜んでいるなんてことは。
このキラーマンティスもまた、自分の意志でこの地球に訪れたわけではない。
この怪物を異世界フォストルディアから召喚し、クレナにけしかけてきた召喚師が居るのだろう。
都合よくクレナと兄さん以外の人間がこの町から消されているのは、人払いする為の「封鎖結界」をその召喚師が張っていたから。
つまり、その人物は今もこの怪物がクレナを殺すところを見ているのだ。
自分達による勇者の異世界召喚を妨害しうる、この紅井クレナを。
「ははは」
その時、クレナの心に浮かび上がってきたのは大きな高揚だった。
おそらく、今後の学校生活でも得られないような気分の昂ぶり。
思わず笑い声を漏らしながら、今もクレナを襲おうとするキラーマンティスの鎌を避け、斬り飛ばし、蹴り飛ばす。炎の剣でもう片方の腕を刈り取ったクレナは跳び上がって怪物の頭を蹴り、その片目を潰したのである。
「グォ……ッ」
「ははは、はははははははははは……!」
スカートを翻しながら跳躍したクレナは、武器を失った怪物の背中へと飛び乗って馬乗りに跨る。右手に携えた炎の剣を逆手に持ち、その背中をザクザクと突き刺した。
何度も何度も滅多刺しに、一撃で仕留められるところをあえて加減していたぶっていく。
怪物の背中から返り血として噴き出してきた緑色の体液が、クレナの頭から全身に渡って覆い被さってくる。その異臭の中で尚も、クレナは高らかに笑っていた。粘りつくようにベトベトした怪物の体液には毒が含まれているのだろう。纏わりついた部分から身体中の神経が痺れるような感覚を催したが、今はその痺れが性感帯に触れたように気持ち良く、焼き払う気になれない。
「あははははははハハハハハハハハハハハハハハハッ!」
自分でも何故ここまで込み上がって来るのかわからない高揚に酔いしれながら、クレナはロデオのようにのたうち回るキラーマンティスの身体を徹底的に痛めつけていく。
触角をもぎ取り、羽根をむしり取り、複眼を一つずつ丁寧に潰していく。
戦意を失い逃げようとすれば背中から飛び降りてその足をバラバラに斬り飛ばし、崩れ落ちていく様を見て恍惚とした表情を浮かべる。道端の昆虫を無邪気に虐殺する幼子のように、クレナは残酷な笑みを浮かべていた。
地に伏した体勢でもはやピクリとも動かず、原型さえ留めなくなった怪物の姿を見下ろしながらクレナは――ようやくその首を跳ね飛ばしてとどめを刺した。
そうして足元に転がり落ちてきた巨大カマキリの頭部を、振り上げた右足でぐしゃりと踏み潰す。
戦いを終わらせたクレナは、服に染み付いた体液を太腿から滴り落としながら天を仰いだ。
……どうだ召喚師? これが、お前の作り出した化け物だ。お前達が好き放題召喚した勇者の、成れの果てだ。
眼下に広がる凄惨な光景は全て、何処からかこちらの様子を見ているであろう召喚師に向けたものだ。
自慢のペットが為す術も無くやられていく姿は、さぞ悔しかろう。
そんな召喚師の狼狽えた顔を想像する度に、クレナは快楽の絶頂を感じていた。
やはり自分は、どうあっても平和には馴染めないらしい。
外側ばかり着飾っても、とっくにこの心は壊れていたのだ。
周りの人間に申し訳ないと思いながらも、未来の記憶と力を手に入れたクレナは「弱い者いじめをする」この時間こそが、何よりも充実していた。




