閑話*4 夏空模様
もう時間が空きすぎて本当に申し訳ありませんでした! 私自身も随分と長い間この物語から離れていたせいで、書き始めてすぐ「君の名は?」となる人物が数人いまして⋯⋯(某ゲジ眉とか某金パとか)。本当に申し訳ないです。いますぐ梓君に全力で超スーパーライダーキックからのサソリ固めをきめられに行ってまいります。
※あと、今回ちょっとアレなシーンがあるので、R15タグを付けさせていただきました。いや、ぬるすぎてお前R15なめんじゃねえぞコラアという声が聞こえてきそうですが、一応保険ということでご理解いただけたら嬉しいです。
八月下旬。じっとりと蒸し暑い夏の残り香が夕方の空気に漂う中、床に寝そべって本を読んでいた俺は、響いたラインの着信音に目を向けた。
『日女川、今から暇?』
送り主は予想通り、いつも能天気な友人、斎藤大喜だった。
『忙しい』
とりあえず適当に返事をしておく。携帯を脇に置いて本のページをめくり、直後にまた鳴った着信音にイライラと眉をひそめた。
『嘘、暇だよな?』
『なんで?』
『返信早いからw』
『⋯⋯死ね』
ため息を吐いて本を置く。読んでいた推理小説は近頃話題になっていたもので、本屋でぶらぶらしていた時に衝動買いをした。確かにミステリー小説独特の手に汗握る展開と、繊細かつメランコリーな心理描写は良作であることを十分感じさせるが、この手の小説を読み漁っている俺には少し物足りないところがあった。先の展開が大方読めてしまうのである。
ぬるい空気を掻き回す扇風機を止め、台所に水を飲みに行く。コップの中のミネラルウォーターが喉を通りすぎるころ、また携帯が鳴った。
『暇なら、花火大会に行こうぜ!』
―花火大会?
そういえばそんな時期かとカレンダーに目をやる。
『暑いから嫌だ』
『えー、王子も呼んだのに?』
『なんでそこで蓮の話が出てくるんだ。行かねーよ』
『⋯⋯暮野は来るって言ってたのに⋯⋯』
『⋯⋯は?』
『夏祭りって言えば、浴衣なのに⋯⋯⋯⋯⋯』
―浴衣?
誰が?
『俺の家にある浴衣をせっかく着てもらったのに』
そういえば斎藤には年の離れた姉がいる。悪人面の奴とは違い色白の優しそうなお姉さんで、遊びに行くといつも手作りのお菓子を出して可愛がってくれた。確か蓮と背格好が似ていたような気がする。
『すっごく似合ってるのに!!!!』
『行く』
コップにもう一度水を注いで、勢いよく飲み干した。
♦♦♦
花火大会が始まるのは午後八時からだ。町の南に流れる川のほとりで開催される夏の一大行事で、市街からも大勢の人がやってくる。
ぎゅうぎゅう詰めの電車の中、二駅分を耐えきり駅から出ると、静かな住宅街から一転賑やかな祭り景色が広がった。いい匂いの湯気を生み出すたくさんの屋台が道の脇に立ち並び、色とりどりの浴衣を着た女の人がわたあめやフランクフルトを手に談笑しながら歩いている。熱気が一帯を取り囲み、そこにいるだけで酔ってしまいそうだ。
俺は薄手のシャツの上に羽織った夏物の上着を後悔しながら、シャツの襟元を扇いで持ち合わせ場所に急ぐ。途中何度か男に声を掛けられたが、不愉快そうに睨むと大体は去っていった。まだ浅い時間なので酒がそこまで回っていないのだろう。余計な暴力は振るわないで済んだと安堵していると、広場の端に不自然な人集りを見つけた。
―もしかして、いや、絶対にそうだろう。
がやがやと騒ぐ集団を押しのけるように進むと、案の定真ん中に蓮の姿があった。
「梓」
話しかけてくる人をにこやかにあしらっていた蓮の瞳が、俺を捉えて嬉しそうに輝いた。ひと夏を超えてさらに色気の増した完璧な美貌は、薄暗い提灯の灯の中でも鮮やかに光る。肩に垂れかかった絹のような黒髪と色素を抜いたが如く真っ白な肌。世の人間が焦がれる美を体現したような人物が、広場のベンチに腰掛け足を組んでいる様は、まるで映画の中のワンシーンのようだった。
「⋯⋯蓮」
俺は自分たちを取り囲む人たちの好奇と嫉妬にまみれた視線を気にしないよう意識しながら、幼馴染に近寄り手を取った。
「梓?」
不思議そうに見上げてくる蓮を立たせ、そして強引に人集りから連れ出す。広場を抜け人気のないところまで走りきってから手を離した。まだ不思議そうに首を傾げる蓮に無防備だとデコピンを食らわし、斎藤に居場所を伝えるために携帯を取り出す。ラインを送った後一息つき、蓮を見て、大変なことに気がついた。
「蓮、浴衣は?」
「え?」
額を擦っていた蓮は、顔を上げて奇麗な瞳をぱちくりさせた。
「だから浴衣。なんで着てないわけ?」
そうだ。俺は蓮の浴衣姿が見られると思って、わざわざここまで出向いたのだ。しかし今の蓮の格好は、淡い薄手のシャツに八分丈のパンツ、スニーカー。それもまたファッション誌の一ページを飾れるほど似合ってはいるが、俺の求めている物ではない。
「え、でも、浴衣持っていないし⋯⋯」
「だから斎藤に借りたんだろ?」
「? なんのこと?」
「だーかーら、斎藤の姉ちゃんに「日女川ーー!」
話のかみ合わない蓮にイライラと声を荒げると、背後から気の抜けた呼び声が掛かった。
「あぁっ!?」
噛みつきそうな勢いで振り返ると、声の主はひくりと頬を引きつらせ、その場に立ち止まる。
「なんだ、斎藤か⋯⋯」
「なんだってひどくない!? なんでそんな怒ってるの!?」
「タイミングの悪いお前が悪⋯⋯、斎藤」
「ん? 何?」
「浴衣ってもしかしてそれのことか?」
「ああ、意外と似合うだろ?」
そう言って浴衣の袖をくいっと引っ張りながら笑う斎藤。その後ろでげっそりとした顔をしている暮野もまた、浴衣を着て草履を履いていた。
「⋯⋯⋯⋯⋯」
くるり。
「ああっ! ちょちょちょ待てって日女川! どこ行くんだよ!」
「帰る」
「悪かったって! 確かにちょっと思わせぶりな良い方したけどさ、そうでも言わなきゃ日女川来なかっただろ?」
「うるさい! 何がちょっとだ、完全に俺のこと嵌める気だっただろうが!」
激怒する俺。その俺にしがみついて「やだぁ捨てないで~」と謎のオネエ言葉を発しながら暴れる斎藤。もちろん顔面にストレートを叩きこんだ。
斎藤が派手な音を立てて路地裏の地面に転がる。
「さ、斎藤!?」
「くっ、今日のはさすがに効いたぜ⋯⋯」
「懲りない奴だな」
「⋯⋯暮野、ちょっと冷たくない?」
困惑した表情で手を差し伸べる蓮に対し、暮野は冷めた目で一瞥しただけだった。いいぞ暮野、それこそが斎藤の正しい扱い方だ。
「それじゃあ俺は帰るからな」
めそめそと蓮に泣きつく斎藤にイラッとしながら背を向けて歩き出すと、誰かが走り寄る気配がしてジャケットの裾が引っ張られた。
「梓、帰っちゃうの?」
「ああ帰る」
「本当に、帰っちゃうの?」
「⋯⋯ああ」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
そんな悲しそうな目で俺を見るなあああああ!!
何これなんだコレ、なんか俺がすごく悪いことをしている気分になるんですけど!
身長差はそこまでないから(ただし俺の方が高い)女の武器”UWAME DUKAI”は使えないが、その分超至近距離に超々美形が泣きそうな瞳で見つめてくるというシチュエーション。しかも服の裾をちょっと掴むという萌えポイントまで掴んでやがる。
「⋯⋯か、帰る、から⋯⋯」
だがしかし俺も男。美形の色気ごときに惑わされるなど⋯⋯。
「帰らないで」
「はい」
惑わされました。
いやだって仕方ないじゃん。蓮のお願いを断れるやつとか、ゴ〇ゴ30かターミネ〇ターぐらいだって。
◆◆◆
「やっぱり人多いね」
「そうだな」
「なあなあ日女川ー、わたあめ半分こしようぜ」
「うるさい黙れ”さっきりんご飴を食べようとして開口一口目で本体を落下させ抜群のタイミングでリフティングテクを披露し俺の顔面にジャストミートさせた斎藤君”。一人で食いながらわたあめに巻きつかれろ」
「え、それは嫌だ」
ごちゃごちゃとした人ごみを進みながら、花火までの時間を適当に過ごす。露店は今が売り時と声を張り上げながら呼び込みをし、会場は祭りの熱気で溢れかえっている。
こうやって歩いていると文化祭の時のことを思い出す。あの時と違うのは、蓮が暮野の隣ではなく俺の隣にいて、にこにこと楽しそうに笑っていることだ。くそ、可愛いなコンチクショウ。
「日女川、暮野、王子、どこか行きたいところある?」
「蓮に任せる」
「俺も八王子と同じでいい」
「は? 何蓮のまねしてるんだよ、自分で考えろ」
「なるほどこれが特大ブーメランというやつか。理解した」
「⋯⋯おい暮野、お前喧嘩売ってるのか?」
「おいおいやめろよこんなところで。夫婦喧嘩か?」
「「違う!!」」
暮野と見事にシンクロしてしまった俺は、にやにやしながらふざけたことを言う斎藤にヘッドロックをかましながら、澄ました顔で奴の顔にわたあめを塗りたぐる暮野と睨み合った。どうでもいいけど暮野君、君おとなしそうな顔しといて結構やることえげつないですね。
「ぐえぇ、ひ、日女川マジで死ぬっ、やめてっ」
「さっきの言葉を撤回するならな」
「撤回? えっと、じゃあ痴話喧嘩?」
「⋯⋯暮野、やれ」
「わかった」
暮野が懐からキュートなボンボン付き髪留めと櫛を取り出し、無表情で斎藤を見据える。さすがにやばいと思った斎藤が、真っ青になって暴れ始めた。甘いな斎藤。暮野がなぜそんなものを持っていたのかはこの際置いておいて、貴様は今から“泣く子はさらに号泣する極悪人面ファンシー大喜ちゃん”に大変身させてやるからな。
「梓、斎藤、暮野、金魚すくいやりたい」
だがその考えは、超絶可憐な笑顔を浮かべてこちらを振り返った蓮によって、粉々に打ち砕かれた。
♦
「らっしゃい、何名様ですか?」
「4人です」
「4名様どうぞーー!」
主人から器と輪をもらいプールの周りにしゃがむ。水面を覗き込むと、祭り会場の提灯に照らされて表面を薄く橙色に揺らす水の中に、赤や黒をした色とりどりの金魚が泳いでいる。
水に器と輪を近づけ、できるだけ紙を塗らさないように気をつけながら水面近くにいる金魚を引っかけて放り込んだ。なかなか上出来だ。この調子であと4匹ほど入れると、くたくたになった紙に切れ目が走る。
嫌いじゃないけど得意でもないんだよな、金魚すくい。
今日はこれくらいか、と一息つき、みんなの調子を確認すると、どうやら斎藤が第一刀目を入水させようとしているところだった。
「見ろ日女川っ、これが俺のテクだ!!」
そう言って腕を大きく振り上げ、
「あ」
輪をプールに落下させた。
「ああああああ!!??」
斎藤が絶叫し、ギャラリーが大爆笑する。確かにあんな大声で布告すればみんな注目するし、“俺のテク”とやらが炸裂する前に撃沈すれば話にもならない。
「にーちゃん、そう気を落とすなって。もう一本やるからさ」
「おお、あざっす!!」
気前のいい主人から替えの輪を貰い一瞬で嬉しそうな顔になる斎藤に、「また落とすなよー」と野次が入る。「大丈夫! こんどこそは!」と斎藤が返し、また店回りにどっと笑いが起こった。どこに行ってもお騒がせな野郎だ。だがそれが斎藤の良いところだが。
もちろん底付近で悠々と泳ぐ大物を狙い一匹目から大穴を開けていたのは言うまでもない。
そのころ蓮は、お得意のイケメン補正で取りまくり⋯⋯ということもなく、一匹目で大穴を開けてしゅんとしていた。
この世の神様が全身全霊で作った最高傑作が蓮だが、どうも水が絡むとうまくいかないらしい。
「金魚⋯⋯」
いつもなら、「やったぜようやく蓮に勝てた!」と大はしゃぎ⋯⋯まではしなくても、心の中で会心のドヤ顔を披露するくらいには喜ぶのだが、蓮が余りに悲しそうな顔をするので仕方なく器の中から金魚を一匹蓮の器に流し込んだ。
「梓?」
「なんとなくだ。別に変な意味はないから勘違いするなよ」
照れくさくなって乱暴な口調になる俺に、蓮がふわりと微笑む。
「ありがとう」
「⋯⋯おう」
やばい、マジで可愛い。抱きしめたい。
⋯⋯は? 何を言ってるんだ俺は!
「よしじゃあこの調子でアズ〇オウも狙うか」
「梓、それを言うならトサキ〇トを狙った方がいいんじゃないかな?」
「え? 日女川それポケ〇ンGO? それとも照れ隠し?」
斎藤がすっかり使えなくなった輪を片手でもてあそびながら、呆れたように言った。しかしそんなことはどうでもいい。熱くなった頬をごまかそうと輪の持ち手部分で水を掻き回す俺に、蓮が訝し気に首を傾げる。
「いやあいいね彼氏さん、可愛いねえ」
にやにやと見下ろしてくる主人。熱い頬がさらに熱くなった。
「べ、べつに蓮は彼氏⋯⋯彼女? なんでもいいや。そんなんじゃねえ「ほらよ」
叫ぶ俺の前方を器を持った腕が通り、蓮の器に大量の金魚が流し込まれる。
「なっ!? 暮野、その数は!?」
「すごい⋯⋯、プロ?」
いつの間にか俺の隣に陣とっていた暮野が、いつの間にかゲットしていた大量の金魚を器の中に泳がせながら、澄ました表情でしゃがんでいた。その金魚の数、実に30匹。
「すげえなにーちゃん、やるね」
「こんなの普通ですよ」
感心する主人の前で輪を握り直すと、流れるように金魚を一匹すくいあげる。その華麗な輪さばきに周囲から感嘆の声が上がった。蓮もすっかり感動した様子で、大きな瞳をキラキラさせながら暮野に熱っぽい視線を向けている。
「暮野、かっこいい⋯⋯」
「俺のゴールデンフィッシュでよければ、いつでも君に捧げるぜ(キラッ)」
「素敵⋯⋯! 抱いて!!」
⋯⋯⋯⋯という妄想が頭の中をよぎり、同時に猛烈な闘争心が俺の中に燃え上がった。
なんだよ金魚ごときで。それくらい俺にだってできる!
すっかり破れてしまった輪を強く握り、縁の部分で金魚を引っかける。続いて3,4匹と器の中に入れ、とどめとばかりにさきほど斎藤を屠った“ヌシ”を華麗にゲットする。周囲がざわめき、俺は少し得意になって暮野の方を盗み見た。
「⋯⋯」
「⋯⋯(どうだ暮野)」
「⋯⋯(まだまだだな)」
「⋯⋯(何!?)」
今度は暮野が一度に五匹の金魚をすくい器の中に落とした。周囲がざわめき、無表情のまま得意げなオーラを放つ暮野に斎藤が緊張感の無い拍手をする。
暮野の表情筋を動かさないドヤ顔に腹が立ち、さらに上位の金魚を攻める俺と、数で圧倒的勝利を狙う暮野との間で勝負が始まり、店回りに人だかりができた。やんややんやと騒ぎ立てる祭り客に触発されて、上機嫌で四匹目のヌシを狙っていると、ここで隣に蓮がいないことに気がついた。
「蓮!?」
慌てて立ち上がり金魚の器と輪を斎藤に押し付けて人だかりを掻き分ける。
まずい、俺が金魚に夢中になっている間にいなくなるなんて。
蓮はその類まれなる美貌から、見知らぬ人に攫われかけたことなど一度や二度ではない。この頃はいつも俺や斎藤がそばにいることや、彼女自身が護身の体術を達人並みに身に着けてしまったことでそのような事件は大幅に減ったが、それでも何が起こるかは分からない。必死で群衆の中を脱出し、乱れた息を整えながら周囲を見渡すと、少し離れた場所にあるベンチに腰掛けている蓮の姿を見つけた。
ほっとして張り詰めていた息を吐き出し、蓮の元へと歩み寄る。俺に気づいた蓮が顔を上げ、にこりと微笑んだ。
「梓、おかえり。たくさん捕れた?」
「おかえりってお前、何してんだよこんなところで」
「熱気に酔ったから、休憩してたの」
そう言って柔らかく微笑む蓮に喉元まで押し寄せていた説教や文句が引っ込んでいった。
「まあ、それなら別にいいんだけど」
ため息をつきながら蓮の隣に腰掛けると、蓮が俺を見てくすりと笑った。その可憐さに心臓がどきっとする。
「⋯⋯なんだよ」
「梓の前髪、汗で貼りついてる」
「え? ああ、ちょっと焦ってたから」
「可愛い」
そう言って額に手を伸ばしてくる。蓮のひんやりとした指先が肌に触れ、思わず後ろに飛びのいた。
「え? あ、いや、これは⋯⋯その⋯⋯⋯⋯」
しどろもどろになる俺に蓮がさらに楽しそうに笑う。その様子にちょっとだけ敗北感を感じて、やり返しとばかりに蓮のわき腹を指でつついた。
「きゃっ!?」
蓮が飛び上がって小さな悲鳴を上げた。そして笑いを堪え切れず肩を震わせる俺を、赤面したまま睨みつけてくる。学校ではめったに見ることができない蓮の可愛い一面に、満足感と少しだけの優越感を覚えた。
そういえば昔もこんな風に何気ない悪戯をして遊んでたっけ。いつも冷静で大人っぽい蓮が取り乱す姿が面白くて、楽しくて、俺は何度怒られてもやめられずに悪戯を繰り返した。
でも今はそれだけじゃない。今は⋯⋯⋯⋯。
その時ベンチの前を仲良さげに通り過ぎていったカップルの、彼女が着ている浴衣に目が留まり、気づけば口を開いていた。
「あのさ、蓮」
「何?」
「来年また花火大会に来た時は⋯⋯⋯⋯」
—浴衣を着てくれないか?
「何? どうしたの?」
「⋯⋯⋯⋯なんでもない。さ、暮野たちのところに戻るぞ。慌てて飛び出してきたから、もしかしたら心配してるかも」
「分かった」
素直に頷いた蓮に微笑み返し、立ち上がろうとしたところで、ベンチの後ろにいた母親と男の子の会話が耳に飛び込んできた。
「お母さん、見て、蛙」
「ちょっと、やだ、どこで捕まえてきたの!?」
「向こうにある池のところー」
「早く放してきなさい!!」
「えーー!? やだあ」
「だめっ、放しなさい!!」
「やだあああああ!!!!」
号泣する男の子の手から蛙を奪おうとする母親。無理やり開かせた手から蛙を取り上げようとしたその時、嫌がった男の子が大きく手を振り上げ、その反動で蛙が宙に投げ上げられた。
「あ」
放り出された蛙は空中で放物線を描き、見事蓮の首筋に着地した。
「ひっ!!!???」
変な声を上げて咄嗟に立ち上がり背中を反らす蓮。そのせいで開いた襟首から蛙が服の中に落下した。
「ひゃあ!!!!????」
蓮が悲鳴と共に蹲った。慌ててそばに寄った俺の服を掴みしがみついてくる。
「あ、梓、取って、取って⋯⋯!!」
「ええええ蓮!? ちょっと待て落ち着け!!」
「んあっ」
なんて声出してるんだ蓮は!!
動転する俺の腕の中で、蓮がびくりびくりと肩を跳ねさせる。柔らかい身体が全身に押し付けられ、火を噴くように一瞬で顔が熱くなった。
「待て待て待て!! 蓮、そんなに抱き付かれたら取れないから!」
「んん⋯⋯っ⋯⋯うぅ⋯⋯」
大きな瞳に涙を湛え震えながら助けを求めてくる蓮に、心臓が大きく波打つ。
まずい、これは非常にまずい!
このままだと何かイケナイ事に発展してしまいそうで、俺は無理やり覚悟を決めた。
「ごめん!」
短く謝り、蓮の服の中に手を突っ込む。柔らかい素肌の感触と 温かさに一瞬意識が飛びかけるが、脳内で超どうでもいい暗記事項を全力で唱えることで耐える。
「3.1415926535897932384隣の客はよく柿食う客だパブロ・ディエーゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピーン・クリスピアーノ・デ・ラなんだっけなんでもいいやなんとかピカソおおおおっしゃあああ!!!!!!」
絶叫しながら蓮の服の中から蛙をゲットアウトした俺は、そのままの勢いで河川敷の方に投げた。そちらは花火大会に使われていないし、植物も他の生き物も豊富にいるから大丈夫だろ。
「蓮、大丈夫か?」
「⋯⋯疲れた⋯⋯」
⋯⋯うん。それは俺のセリフな?
とりあえずここを離れることが先決だ。さっきの騒ぎで随分と人が集まってしまったし、しかも蓮の麗姿にあてられて数人の目が据わっている。このままだと大切な幼馴染が襲われかねない。
俺はまだ腰に力の入らない蓮を支えながら立ち上がらせ、急いでその場を離脱した。
♦♦
花壇の端に座らせた蓮に、途中で買ったラムネを手渡し、俺もその隣に腰掛ける。栓を強く押し込んで開封し、一気にあおった。氷水から出したばかりの冷たいラムネが、しゅわしゅわと気泡を弾けさせながら喉を滑り落ちていく。そのまま一気にビンの三分の一ほど開けたところで、ぼんやりと中空を見つめる蓮に目をやった。
「⋯⋯飲まないのか?」
「え??」
もしかしてラムネ苦手だった? と俺が聞く前に、蓮はなぜか大層慌てた様子で首を振り、不自然な笑みを浮かべながら栓を押し込んだ。
「あっ、待⋯⋯」
制止の声も間に合わず、飲み口から溢れ出たラムネが手から腕へと伝う。滴る水に呆然としていた蓮が、頬を真っ赤に染めて慌て始めた。
「ご、ごめんさない⋯⋯!」
落ち着きなく鞄を漁りだす様子に、また何かやらかすのではないかという危機感を覚える。助けてやろうにも汗を拭いたタオルなんて渡せるわけもなく、仕方なく俺は蓮の手を掴み口元へ引き寄せた。
「え?」
そして濡れた手の平に唇を寄せ、舌で肌をなぞった。
「!!」
掴んだ蓮の手首がびくりと震え、身体を固くしたのが分かった。
「あ、梓!? 何を⋯⋯」
「ちょっと黙れ」
「⋯⋯っ!!」
反射的に引き抜こうとする腕を、さっきよりも強い力で握り絞める。
蓮が軽く息を飲んだ。身体を小刻みに震わせながら、顔を真っ赤にして首を振る。しかし俺は動作を止めない。
違う、止められなかった。
「あ、ずさ、やめて、離して⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
「っ! や、やだ⋯⋯」
蓮の泣きそうな声が頭上から聞こえる。やめなくてはならないのに、やめることができない。
脳髄に甘美な痺れが走り、たまらなくなって腕にまで唇を滑らせる。なめらかな肌から炭酸水ではない蓮独特の花のような香りが立ち上り、頭がくらくらする。
祭りの喧騒も、近くを通る人たちの視線も、どこか遠いもののように感じる。
甘い。甘い。甘い。
この世のどんなものよりも甘くて、柔らかくて、気持ちいい。
蓮のすべてが極上の蜜のように俺を酔わす。
試しに軽く腕の内側を吸ってみると、蓮が短く声を漏らして口を押えた。
冷静さを保とうとするかのように声を堪える蓮に、強力な嗜虐芯が首をもたげる。そんな可愛いことされても逆効果だ。もっともっといじめたくなる。
腰を引いて逃れようとする蓮の腰を、左腕で引き寄せ抱きしめた。
その時俺の中に、噛みついてみたいという凶暴な欲求が生まれた。いつもなら逆立ちしようと天変地異が起ころうと流されることがないだろう衝動に、今日は抗う気すら起こらなかった。ただ必死に声を押し殺して身を震わせる蓮が可愛くて、切なくて、苦しいほど愛おしい。
「っ!! 梓やめて!!」
不意に勢いよく突き飛ばされて我に返った。目の前にはリンゴのように真っ赤になった蓮が、手を胸の前で抱え込み怯えた目で俺を凝視していた。
彼女の瞳に張る涙と乱れた呼吸、そして細腕にはっきりと刻まれた赤い印。
頭が急激に冴え渡り、どうしようもない罪悪感だけが残る。
「ごめん⋯⋯!!」
慌てて立ち上がり必死に頭を下げる。
蓮は何も言わず、ただ俺を見つめている。最悪の事態が想像され、背筋に冷たいものが伝った。
「日女川? 王子? そこにいたのか」
斎藤と暮野が向こうから走ってくるのが見えた。蓮が露骨にほっとした表情をする。それを見て心の中に渦巻く罪悪感が一層増すのを感じ、同時に軽い苛立ちを覚えるのも分かった。
そんな自分の醜い内面に愕然とする。
「ほら見ろよこのジャンボ焼きマヨバナナ⋯⋯て、どうした? 二人とも」
「⋯⋯なんでもない。ラムネ買ってくる」
「え? ラムネ? ラムネならここに⋯⋯。日女川? おい待て、どこ行くんだよ!?」
不思議そうに蓮の顔を見ていた斎藤が、慌てたように叫んだ。俺はそんな斎藤に軽く手を振り早足でその場を立ち去った。一刻も早く蓮の前から消え去りたい一心で。
♦♦♦
日もすっかり落ち、屋台の明かりと提灯の灯だけが会場を照らしている。花火の時間が近づき、熱気も人の数も本日最高潮に達していた。そんな人ごみの中を俺は、一人で目的もなくぶらついていた。
考えているのはさっきのこと。なぜあんなことをしたのか、未だによく分からない。
「くそっ⋯⋯」
無意識に悪態が口を次いで出る。
気を抜けば怯えた目で俺を見つめる蓮が思い出され、さらに訳が分からなくなって髪をぐちゃぐちゃに掻き乱した。
昔は、こんな気持ちになることなんて無かった。
祭りになんて数えきれないほど一緒に行ってきたし、一つの焼きそばを分け合ったこともある。風邪の時は隠れて同じベッドに入って寝たし、ふ、風呂にも入ったことがある。
てか、今思うと昔の俺やばい! 無意識とはいえ、なんて大胆なことしてきたんだ。
羞恥で引火寸前になりながら通りを全力疾走していると、騒がしさの中に微かだが、口論のような声が混じっているのに気づいた。
少しためらってから、行ってみることに決めた。
♦♦
通りから少し外れたところ、休憩所の隅で3人の男が誰かと言い争っていた。隙間から覗く色鮮やかな浴衣と声から相手が少女だということが分かる。
「や、やめてください」
「いいじゃんちょっとぐらい。奢ってあげるからさあ」
「やだ、離して⋯⋯」
「ひゅー、泣き顔も可愛いじゃん。いいねぇ」
「何してる」
声を掛けると、男たちがだるそうにこちらを向いた。派手な色に染めた髪と着崩した制服。ポケットに手を突っ込みガンを飛ばしてくる様子は、明らかにまじめな人間のやることではない。我ながら面倒臭そうなことに首を突っ込んだものだ。俺自身人との付き合いが苦手で、未だ自信を持って友人と呼べる人間は両手の指で足りるというのに、どうしてこうもガラのよろしくない連中とは縁があるのだろう。
そんな緊張感の無いことを考えていると、連中の中で一番体の大きい、中央にいたアッシュブロンドの男が近づいてきた。
「なんだてめえ、何か用か?」
「ああ。嫌がってるだろ。離してやれ」
「はあぁ? 何お前何様? 関係ねえだろ、さっさとどっか行けコラァ!!」
「お前らがその子を解放したらすぐにでも消えてやるよ」
それとも言っている意味が分からないのかな? と挑発をこめて微笑むと、銀髪がぎりりと歯ぎしりした。
「ふざけんなよ⋯⋯」
ふざけてねーよむしろふざけてんのはお前の髪色だろ。何ファンタジーゲームの主人公みたいな色にしてるの? 似合ってると思ってるの? 言っとくけどそういう髪色は蓮みたいな相当人間離れした美形じゃないと似合わないからな。
と、いつになく饒舌になる俺に、銀髪男は目を血走らせて激昂した。
「うらあああああ!!!!」
銀髪が叫びながら飛び掛かってくる。
「よっと」
ひょいっと片足をずらして除け、ついでに男の足を引っかけて転倒させた。銀髪が顔面から地面にダイブしていく。ドシャアっという痛そうな音と共に砂利にキスする銀髪に、さっきから野次を飛ばしていた残りの男たちが呆然として沈黙した。
「野郎⋯⋯!!」
銀髪が鼻血を出しながらよろよろと起き上がる。顔も真っ赤で非常に滑稽だ。猿みたいだ。いや、これじゃ猿に失礼だな。
冷静さを失った銀髪が往生際悪く掴みかかってくるので、今度はその顔面に思いっきり蹴りを入れてやる。的確に弱いところを狙った俺の一撃に、銀髪が奇妙な悲鳴を上げて脇に置いてあるゴミ箱へ吹っ飛んでいった。
ドンガラガッシャーン。あ、痛そう。
「あ、兄貴――!!??」
真っ青になった残りの二人(口ぶりから察するに舎弟か後輩のようだ)が目を回してゴミ箱に顔面をインしている銀髪に走り寄り、そして担ぎ上げて全速力で退散していった。休憩所には俺と絡まれていた少女だけが残る。
「あ、あの、ありがとうございました!!」
そう言って頭を下げた少女は、美形の蓮を見慣れているはずの俺でさえも瞠目するほどの美少女だった。
ふわふわとカールした茶髪に小暗い中でもはっきりと分かる色白の肌。長いまつ毛が影を落とす、人形のように大きな瞳、可憐な唇。華奢な身体に牡丹模様が染め抜かれた浴衣を着て、髪に大きな花の髪飾りをつけている。はっきり言ってめちゃくちゃ可愛い。
「いや、礼はいい。それより気をつけろよ。祭りはああいう変な輩も少なからずいるからな。連れは?」
「い、いません⋯⋯」
褐色の宝石みたいな瞳を潤ませながら俯く少女に、どうしたものかと思わずため息が漏れた。少し考え、このまま一人にするのも無責任かと思い立ち、「じゃあ通りまで一緒に連れて行ってやるよ」と言いかけたその時。
「美緒お嬢様―? どこにいらっしゃるんですかーー?」
通りの方から誰かを探す数人の声が聞こえてきた。少女の肩がびくりと震える。
「ああ、知り合いか?」
「⋯⋯⋯⋯」
「よかったじゃねえか。じゃ、俺は行くわ」
「あの⋯⋯」
「⋯⋯ん?」
「⋯⋯お⋯⋯を⋯⋯」
「は? なんて?」
赤面して口籠る少女に首を傾げた。妙な空気が流れる中、少女が意を決したように口を開こうとしたその時、静寂に俺の携帯の着信音が鳴り響く。硬直する少女に一言謝って、携帯を取った。
「⋯⋯はい」
『日女川? どこいるんだよ、もう花火始まるぞ?』
「悪い、休憩所にいた。すぐ行く」
『じゃあたこ焼き屋の前で待ってるな』
「ああ」
電話を切り、少女に向き直った。
「悪い、連れが俺のこと探してるみたいだからそろそろ行くわ。お前も気をつけろよ」
「⋯⋯⋯⋯」
「じゃあな」
「あの⋯⋯!」
歩き出した俺を少女の声が止めた。
「名前、教えてもらえますか?」
「⋯⋯日女川梓。じゃ」
真っ赤になった少女の必死さに、思わず笑みが零れる。重かった気分が少しだけ軽くなった気がして、俺は斎藤たちの元に急いだ。
「⋯⋯⋯⋯日女川、梓君⋯⋯」
一人残された少女は、熱に浮かされた瞳で梓の消えた方向をいつまでも見つめていた。
♦♦
「全くいきなり消えるなよな。心配したぜ」
「悪かったよ本当に」
たこ焼き屋の前まで走った俺は、待っていた斎藤たちにこってりと絞られた。その間も蓮は、俺の方を見ずにじっと俯いたままだった。その様子に心がちくりと痛む。しかし、今は何を言っても言い訳にしかならないような気がして、俺も話しかけることができなかった。
空に大輪の花が咲き乱れるたびに歓声と拍手が沸き起こる。天に煌く色とりどりの光が地上に降り注ぎ、人々の影を幻想的に映し出した。
俺は花火ではなく、左斜め前方の、蓮の横顔を見ていた。
暮野の横で花火に目を輝かせる蓮はとても綺麗で、同時に消えてしまいそうな不安定な美しさも兼ね備えていた。
花火は一瞬満開の花を咲かせ、闇に散っていく。
美しいものは壊れやすい。だから触れてはいけないのに、俺は—。
ふと、ちらりと後ろを盗み見た蓮と目が合った。
蓮が白い頬を真っ赤に染めて目を逸らす。
俺は目を逸らさない。
空に赤い花が咲き乱れ、大量の光の雨を降らしながら消えていった。
胸に押し寄せる切ない痛みに唇を噛みしめながら、まだ右手に残る彼女の熱が消えないように、強く拳を握りしめた。