第十八話 あやかしの匂い
おもむろに菊地は話題を変えた。
「そういえば、もうすぐハレー彗星が最接近しますね。旧都は大騒ぎでしたよ。皆さんは怖くありませんか?」
「まさか。ただの彗星ですもの。恐れたりはしませんわ」
琴音が首を振ると、よし江と弥生も口をそろえて、
「その通りですわ。〝不吉な箒星〟なんて出鱈目もいいところ」
「みんな迷信に振り回されすぎよ」
と一笑に付した。
「ほう、桜町のお嬢さまたちは先進的ですな」
愉快そうな石清水に、よし江が言う。
「あら、琴音さんは隣村にお住まいですのよ。ねっ?」
「ええ……」
「隣村って、蛇ノ目村ですか?」
琴音に尋ねる石清水が怖い顔になった。
「そうですが……ご存知なのですか?」
「いや、地図で見た程度ですがね」
かぶりを振った石清水の顔に、また軽薄な笑みが戻る。
「隣村といっても、ここまで遠いでしょう? こちらに寄宿舎があるのですか?」
「いえ、毎日、人力車で送り迎えしてもらっていますので」
琴音が言うと、石清水は大仰に目を見張った。
「そいつはまた……」
「涼風家はご立派な家柄ですもの。海藤家はご存知でしょう? あの海藤家の分家なのですわ」
なぜか弥生が得意げに胸をそらす。
「こいつは驚いた。ええ、ええ、海藤家は知っていますとも。なあ、菊地?」
にやりとした石清水が、菊地と顔を見合わせる。
「ええ、もちろんです。華族ですから」
即答した菊地が、琴音に向きなおる。
海藤家は桜町を拠点に、旧都でも幅広く事業を展開している。遠く離れた帝都にも、海藤家と取り引きしている会社はあるので、石清水たちが知っているのも不思議はない。
ただ、海藤家の名が出てから石清水と菊地に緊張が走った気がする。
(わたしには、どこまでも家柄が付きまとうのだわ)
自分を叱責している養父母の顔が思い浮かび、琴音は軽く頭をふった。
(「家」とは関係なしに、わたしを純粋に恋うてくださる方はいない……)
ふつふつと苛立ちが募ってきた琴音は、思わず養父母をなじった。
「立派な家柄なのは海藤家であって、涼風家は大したことありませんわ。父も母も、ハレー彗星を『凶星だ』といって怯えております。頭の古い、前時代的な『家』ですわ」
「……ご両親をそのように言ってはいけませんよ」
諫めるように口を開いたのは菊地だ。
「琴音さまを女学校に通わせ、人力車の車夫を雇っているのは、他ならぬご両親ではありませんか」
切れ長の瞳を鋭く光らせて正論を言う菊地に、琴音の語気も強まる。
「まあ! 我が家の事情もご存知ないのに、あんまりな言いようですわね。折角、よし江さんたちとカフェーを楽しんでいたのに、貴方の所為で台無しですわ。帰りましょう!」
席を立った琴音が、よし江と弥生をうながす。
「お待ちください! 菊地! なんてことを言うんだ、貴様は!」
慌てた石清水が菊地を叱責し、琴音を再び座らせようとする。何事か、とカフェーの客たちがざわめく。
「ご気分を害したなら謝りますから、どうか機嫌を直してください」
「いいえ、ここで失礼します。行きましょう」
琴音はきっぱりと石清水を振り切り、よし江と弥生を急き立てる。二人は困惑しながら立ち上がった。
琴音が財布を出したのを見て、石清水が焦った声を出す。
「あっ、ここのお代は私が……」
「結構です! 自分たちが飲食した分は、自分たちで払いますので」
にべもなく言い放った琴音は、微動だにせず突っ立ったままの菊地を横目で見たあと、二人を連れて【カフェー夢見草】を出た。
「琴音さん、いったいどうなさったの?」
おそるおそる、よし江たちが尋ねるが、琴音は真っ赤なリボンをゆらしながら、
「どうもしないわ。あの石清水という方、どうにも品がないんですもの。家が帝都の呉服屋だなんて、信用ならないわ。わたしたち、きっとからかわれたのよ」
と言い切って、早足で大通りを進んでいく。
「でも、菊地さまは素敵だったわね」
「そうね。まるで舞台役者のように美しいお顔だったわ。佇まいにどこか品格も感じられたし……」
きゃあきゃあ、と二人がはしゃいでいる声を背中で聞きながら、琴音は考えを巡らせていた。
あの石清水と菊地は身分を偽っているに違いない、と――。
例の〝黒い霧〟を見たわけではない。しかし、それが「嘘をついていない」証左にはならぬ。強烈な悪意を伴わなければ、琴音の瞳には映らないからだ。
何よりも、あの菊地という眉目秀麗な男が放っていた、懐かしい匂い――。
「あっ……」
かつて琴音が結びついていた河童や烏天狗など、あやかしの匂いと同じであったことに気づいてしまった。
短気を起こしてカフェーを出てしまったことを悔いたが、今さらどうしようもない。
(あの人と、もう少し話してみたかった)
それは琴音の本心だが、蓋をして断ち切ったはずの、あやかしとの縁がふたたび結ばれる時が来たのではないか……?
そうした予感に、琴音の胸はざわついた。




