第12話「夢の中の庭園と目覚めの口づけ」
儀式の準備は整った。
リゼットが眠るベッドの周囲には、幾重にも魔法陣が描かれ、部屋中に満ちた魔力が空気を震わせている。
オーギュストが祭壇の前で詠唱を続けている中、ギルバートはリゼットの隣に横たわり、彼女の手をしっかりと握った。
「いいか、ギルバート。精神世界へ潜るのは君一人だ。そこで彼女の魂を見つけ出し、連れ戻すんだ」
「ああ」
「制限時間は夜明けまで。それまでに戻らなければ、君の魂も向こう側に囚われる」
「わかっている。……行ってくる」
ギルバートは目を閉じ、意識を深く沈めていった。
浮遊感と共に、肉体の感覚が遠のいていく。
次に目を開けた時、ギルバートは見知らぬ場所に立っていた。
そこは、どこまでも広がる灰色の荒野だった。空は鉛色で、風もなく、音もない。ただ果てしない静寂と、孤独だけが支配する世界。
「リゼット……!」
ギルバートは叫んだが、声はすぐに闇に吸い込まれて消えた。
彼は走り出した。あてもなく、ただ直感を頼りに。
彼女はこの世界のどこかで、一人で泣いているはずだ。
どれくらい走っただろうか。
時間の感覚もない世界で、ギルバートの足が止まった。
遠くに、一点だけ色が残っている場所があった。
小さな、ガラス張りの温室のような建物。
ギルバートは息を切らして近づいた。
温室の中には、美しい花々が咲き乱れていた。外の荒涼とした世界とは対照的な、楽園のような空間。
その中心で、リゼットが膝を抱えて座っていた。
「リゼット!」
ギルバートが扉を開けて呼びかけると、リゼットはびくりと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は虚ろで、ギルバートを見ても焦点が合っていないようだった。
「……誰?」
彼女はつぶやいた。
「私、もう疲れちゃった。ここで、お花たちと一緒に眠るの。もう、痛いのも、悲しいのも嫌だから」
彼女の心は、現実世界の過酷な運命から逃れ、この夢の楽園に閉じこもろうとしていたのだ。
「リゼット、俺だ! ギルバートだ!」
ギルバートは彼女の肩を掴んだ。
「嫌だ……知らない。帰って。私を一人にして」
リゼットは拒絶し、暴れた。温室の植物たちがざわめき、蔦がギルバートの体に絡みついて彼を引き剥がそうとする。
「離せ! リゼット、思い出せ!」
ギルバートは蔦を引きちぎり、彼女を強く抱きしめた。
「お前がいないと、俺はダメなんだ! お前が俺の庭を救ってくれたように、今度は俺がお前を救いたい!」
「……!」
「お前が咲かせた薔薇を、まだ一緒に見ていないだろう! 俺の隣で、これからも笑っていてくれると……そう約束したじゃないか!」
ギルバートの叫びが、リゼットの心の殻にひびを入れる。
彼女の瞳に、わずかに光が戻る。
「……ギルバート……様?」
「そうだ、俺だ。……愛している、リゼット。世界中の誰よりも」
ギルバートは彼女の顎を持ち上げ、口づけをした。
ただの接触ではない。彼の魂そのものを、生命力を、彼女の中に注ぎ込むような、深く、情熱的な口づけ。
温室全体が、眩い光に包まれる。
灰色の荒野に、色が戻っていく。空が晴れ渡り、大地に草花が芽吹く。
「ん……」
リゼットの体温が戻ってくるのを、ギルバートは感じた。
彼女が、彼を抱きしめ返してくれた。
光の中で、世界が溶けていく。
***
「……うっ」
現実世界。
ギルバートが目を開けると、窓の外から朝日が差し込んでいた。
隣を見ると、リゼットの閉じていた瞼が、微かに震えていた。
「リゼット……?」
長い睫毛が揺れ、ゆっくりと、その翡翠色の瞳が開かれた。
焦点が結ばれ、ギルバートの顔を映す。
「……ギルバート、様……?」
かすれた、けれど確かな声。
「ああ……リゼット。おはよう」
ギルバートは彼女を抱きしめ、男泣きに泣いた。
オーギュストが部屋の隅で、目元を拭いながらガッツポーズをしているのが見えた。
「ギルバート様、泣かないで……。私、怖い夢を見ていました。でも、貴方の声が聞こえて……」
リゼットは弱々しく微笑み、ギルバートの涙を指で拭った。
その指先には、確かな温もりが宿っていた。
「もう離さない。二度と」
ギルバートは彼女の手の甲にキスをし、誓った。
長い夜が明け、二人にとっての新しい朝が始まったのだ。




