41 晴天
朝九時を過ぎた平地に着くと茹だるような暑さは異常だった。
弥彦はあやめの手を引き、沼田市の建物館へと向かう。途中で凍らせたペットボトルを二本コンビニで買った。あやめは引き摺られるように歩く。
「今日じゃなくてもいいんじゃない?」
熱中症警戒アラートが空に木霊する。
「折角、会えたんだから散歩くらい大丈夫だろ?」
弥彦の小麦色の肌が日中活動的なのを物語っている。
あやめは群馬に来てから、買い物の手伝いに夕方からしか歩いていない。夏は嫌いなのである。
「ちょっと待って。何か飲むから……」
建物の影に隠れる。あやめは麦茶を水筒から、蓋へ注いだ。氷はまだ冷たい。
「弥彦は飲まなくて大丈夫なの?」
「まだ、そんなに歩いてないし大丈夫だよ。十キロも歩いてないだろ?」
携帯のアプリはまだ四キロ弱だった。
上之町歴史建物建造物群は目と鼻の先だ。弥彦はリュックから団扇を出しあやめを扇いだ。
「目的地はあそこ?」
「そう、そう。洋館だよ。」
大きな道路に面して五軒の明治時代の建物が移設されている。
「あやめはああ言うの好きだろ?城趾を見に来るんだから……」
「悪くないわね……。建造年は?」
「沼田に関係してる建物でないんだよ。建て壊されそうな文化財になりそうなのを、寄せ集めただけだから……」
「そうなんだ……。でも、大正の建物だと思うわ。行きましょう……」
あやめのやる気が出た。
旧土岐家住宅洋館の扉は重かった。中に入るとクーラーの冷気に直ぐ汗が流れ出す。
入口に案内係の女性が立っていた。弥彦が入館料を払うと、あやめに向かって奥の部屋を指さした。
「まって、まだ。見てる」
入口にある土岐頼稔座像の説明を見ている。
1742年に沼田藩主にまでなった人物のようである。この建物は東京渋谷で大正十三年に土岐章子爵に寄って建てられたようだった。
応接室には既に弥彦がソファーに腰を降ろしていた。
「こっちの方が涼しいんだよね。」
あやめはバックに手を掛けて、中を弄った。
「お金いくら?」
「いいよ。これくらい……」
弥彦の顔色を見て、あやめはバックから手を引いた。どうせ受け取るタイプではない。そんな気がした。あやめは弥彦の向かいのソファーに座る。
「そのソファーもカーテンも寄贈された当時の物なんですよ。」
奥の入園券を切った女性が話し掛けて来た。
「フローリングも本当の木です。子爵の地位ですので、昔のお金持ちは凄いです」
「お詳しいんですね」
「学芸員なもので……、その、余り来館客は来ないもので……」
「寂しいものですね。こんなに素敵なのに……、説明をありがとう御座います」
あやめは悲しそうな顔をした。
「じゃ、そろそろ。中を見て回ろうか……、部屋数が少ないから直ぐ終わるけどね」
廊下に出て八畳の和室に出た。床の間が素敵な部屋だった。立派な茶釜のため小さな畳が出来てる。
廊下が素通しの引き戸の窓になっていて日光が良く入って来る。
「畳はスリッパ脱いで頂ければ上がってもらって大丈夫です」
入口からさっきの女性の声がした。
あやめは喜んで、スリッパを脱いだ。畳が古い感じも良い。土壁を観ながら、あやめは微笑んだ。
「素敵な場所ね……」
「そうかな?普通の和室じゃない?あのさあ、あやめは……」
弥彦があやめに話掛けてくる。弥彦の両親の事を話しているようだった。弥彦は色々な話をしながら、歩いている。
二人は一階から二階にあがる。弥彦は止めどなくあやめに話掛けていた。
「あやめ?話を聞いてる?」
あやめはゆっくり振り返り、困った顔をして苦笑いした。建物に夢中で聞いてない。
「聞いてるよ……」
「なら、いいんだけど……」
弥彦の不服そうな表情にあやめは咄嗟に口を付ける。
「親御さんも何がしたいんだろうね?」
弥彦の表情が和らいだ。
「だろ?あやめでもそう思うだろ?」
弥彦が又話し出した。又、同じ話だろう。
弥彦にとっては家の近くにある建物であるが、あやめにとっては珍しい場所なのだ。それに好きな時代でもある。話を聞く方へ気持ちが入らないのも仕方なかった。
弥彦の話は両親の話、友達の話、学校の話、進路の話だった。あやめにとっては気になる話題ではなかった。
仕切りに「東京はいいなあ」といって来るのが辛かった。こんなに自然豊かな場所に住んでいるのに……とあやめは思った。
「どうして、そんなに東京がいいの?」
あやめが問うた。
「だって群馬は何もないよ。やっとファーストフード店が出来だばかりだよ。それにいつ潰れても可笑しくない。そんな街楽しいかな?」
「でも、空は青いわよ。東京では空は見えない。星座もないのよ」
「東京にだって空はあるさ。あやめが気付いてないだけで……」
「私が鈍感とでも云いたいの?」
弥彦はムッとしている。言葉を飲み込んだ。そして、あやめに強めの口調でいった。
「あやめは恵まれているのに、それを感謝しないのはどうかと思うよ?」
「感謝?弥彦は私の何を知っていると言うの?」
「そりゃあ、出会って間もないけど、あやめは生まれも育ちも恵まれているのに、どうでも良いみたいな顔をしているからさ……」
「そんな事、思ってもいないわ!弥彦の両親が貴方に理解がないのを結び付けないでよ!私だって言葉通りに悩んでいないって決め付けないで!」
「お嬢様だから言える言葉だよ!世間を知ってる顔じゃないと思うよ」
「馬鹿にしないで!」
あやめが怒り出した。弥彦の言葉は自分を全て知ってる風な口ぶりだった。自分を品定めして卑劣極まりない言葉だった。
「自分の不幸を私で埋めようとしないで!誰だって一人で生きてるのだから!理解できない事はいくらでもあるわ!それを知りもしないクセに勝手に決め付けて欲しくないわ!」
あやめは母親の事を思った。あやめに詳しい事は分からない。だが、顔に出さない事を努めていた。
「怒れば直ぐ謝ってくれると思う所がもう、幼いよ」
あやめは呆れて言葉を出すのを辞めた。
この人に何を言っても伝わらない。弥彦にとっては自分が上なのだ。だから、あやめを傷付けてもどうでもよい人間なのだ。
弥彦はそんなに偉い人なのだろうか?年上だから偉いのだろうか?人生経験があるから偉いのだろうか?
あやめをゴミ箱のように扱う。
「さようなら」
弥彦の方が不幸なのだからあやめを傷付けても構わない。大変な弥彦を助けるのが当たり前みたいな考え方に呆れた。
「どうか一人で幸せにでも不幸にでもなって下さい!私には関係ない!」
あやめは何かを言おうとする弥彦を尻目に離れて行った。
この人とは一生分かり合えない。本心からそう思った。
あやめは洋館を一人で出て行くと、田舎道を歩き出した。振り返りはしない。なんて時間の無駄遣いをしたのだと思った。




