後編
〈十一月十四日午後九時〉
「え⋯⋯今なんて⋯⋯?」
目の前の男が放った言葉が信じられず、オリビアは呆然として呟いた。
目の前で息を切らしているニールの軍服や足元は雨に濡れ、それとは別に、顔中にうっすらと汗を貼り付けている。
この男は今しがた、訓練場にいたオリビアに『話がある』とだけ言って連れ出し、この部屋に押し込んだところだ。その切羽詰まった様子と、いつもより早すぎる情報収集からの帰りが、異常事態を物語っている。
「ラウレアイロの土地の権利書が⋯⋯ダコタに渡されました」
いつもヘラヘラとした態度のニールが、深刻な面持ちで言った。
「酒場の連中が突然騒ぎ始めて⋯⋯立ち退き要請の通達書が送られてきたそうです。実物も見せてもらって、はっきり確認してきました。町長の息子が、町長の代理で権利書を渡した、って」
嘘だ、と叫びたかった。どんなに痛めつけられようとも、ダコタに屈さず強い意志を貫いていたあの町長が、そう易々と権利書を渡すものか、と。
けれど、ニールが嘘を言っているとも思えない。何かの間違い、というのも無理がある。
息子が独断で動いた、ということなのだろうか。
「二週間以内に指定範囲内の住民が立ち退きをしなかった場合、強硬手段に出る、とも書いてありました」
それを聞いて、もう居ても立ってもいられなかった。オリビアは部屋のドアへツカツカと歩き出す。
「中尉、どこへ?」
ドアノブに手をかけたところで背後からニールに呼ばれ、ピタと動きを止める。
「ダコタ少佐のとこ」
「強硬手段中止の交渉に行く気ですか」
「⋯⋯⋯⋯」
「やめておいた方が良いです。今あんたが行っても、危険な目に遭うだけ——」
「分かってるわよッ!!」
叫んでからハッと我に返る。
「ごめん。今のは、八つ当たりだった」
——何をしているんだ私は。冷静さを欠いたら終わりだと、隊長から教わっただろうが。今まで尽くしてきてくれた部下に、何て仕打ちをしてるんだ。
「いいですよ。オリビア中尉が、どれだけこの町のために奔走してきたか、ずっと見てきましたから」
優しい声音に、思わず後ろを振り返る。ニールは気を害した様子もなく、微笑んでいた。
『任務不遂行』の文字が頭をチラつく中、それだけで救われた気がした。
——考えろ。最悪の状況でも、最善の策を。
目を閉じて、深呼吸を一つ。吐く息と共に、先走らんとする気持ちを逃がす。
静かに瞼を持ち上げて、頼りになる部下の顔をしっかりと見つめた。
「ありがとう、ニール准尉。けど、やっぱり行くわ」
「え、けど、もうどうしようも——」
「分かってる。だから——」
顔の向きをドアの方へ戻し、ドアノブを握る手に力を込めた。
「強行作戦の指揮は私が執る」
それだけ言って、ニールの反応も待たず部屋のドアを開けた。
***
〈同日午後十時三十分〉
ドスッ、と鈍い音がして、床にエイクが倒れ込む。構わず、ランダンは頬を押さえているエイクの襟をガシと掴んだ。
「お前⋯⋯どういうつもりだ⋯⋯」
ランダンの手が怒りで戦慄いている。エイクは目を逸らし、口を開こうとしない。その様子が癇に障ったのか、ランダンは再び拳を振り上げた。
「ストップ、ランダン。それ以上はやりすぎ」
ランダンが振り上げた右腕を掴んで止める。
事前に決定しておいた通り、通達書が届いた直後、チーム全員が『セレナーデ』に集まっていた。
皆一様にエイクへの怒りを露わにしていたが、一番感情的になりやすいランダンが真っ先に行動に移したことで、他のメンバーは冷静になれたとも言える。
ランダンはチッと舌打ちをして、エイクの襟を離した。
「けどエイク、説明はしてもらおうか」
座り込むエイクを立って見下ろし、真顔で言うと、エイクは口を戦慄かせながらゆっくりと開いた。
「もう⋯⋯限界なんだ⋯⋯」
憔悴しきった様子で訥々と語り始めた。曰く、ウォルターが軍に連行された日から、不安に襲われ碌に眠れていないこと。次に連行されるのは母親かもしれなければ、父親が再び連れていかれる可能性もゼロではない、もしかすると、昨日会った友達が標的になるかもしれない、という懸念が常に頭の中にあること。その状態で眠ると、自分の周りの人たちが軍に殺される悪夢を毎回見ること。自分が何かされる分には覚悟ができているものの、家族や友人を失うのは別の話であること。最近のウォルターの張り切りぶりも、エイクを追い詰めていたこと。
「みんなにとっては町長でしかなくても、僕にとっては、たった一人の父さんなんだよ⋯⋯。それにみんなだってそうだ。僕にとっては失いたくない友達だ。僕はこの町より⋯⋯家族や友人の方が大事だ。要塞が建ったとしても、戦争が起こるって決まってるわけじゃない。ダコタの言いなりになってる自覚はあるけど、死人が出るのと比べたら、そんなの些細なことだ」
エイクの口調は、だんだん迷いがなくなってきていた。
皆が反応に困っている中、エイクに近づいて手を差し伸べたのはセスだった。
「最近、何だかやつれてきてるなとは感じていたけど、そこまで思い詰めてるとは思わなかった。気づいてやれなくてごめんね。けど、そこまで悩んでいたのだったら、君は誰かに相談するべきだった。仲間を信頼しているのなら、尚更ね」
セスは責めるでもなく、いつもの穏やかな口調で言った。
「みんなが怒りたい気持ちは分からないでもないけど、今やるべきことは他にもっとあるんじゃないかい?」
最年長者のその言葉は、この場にいる三十五人の気を沈ませるには最も効果的だった。無論、ルイスにも。
セスはそのままエイクを引っぱり上げ、肩を貸しつつ、二階へ向かうべくルイスの傍をすれ違う。
「ありがとうセス」
ポソリと囁いた。
「私みたいな老いぼれが役に立てるのなんて、これくらいだからね」
セスはパチリとウインクして、エイクと共にその場を後にした。
ルイスは手をパチリと叩き、店内に集まった全員の注目を集める。
「さて⋯⋯それじゃあ会議を始めようか。議題は——今後のことについて」
ルイスは、チーム内で唯一武器の実践的な使用経験があることから、この集団のリーダーを任されていた。
「まず確認しておきたい。チーム結成時に了承してると思うけど、二週間後、籠城作戦を実行する。やっぱりやめたい、って人は今のうちに言って。命に関わる事態だ、別に誰も責めない。だから正直に言ってほしい」
周りを見渡すも、誰もが覚悟を決めた様子でルイスを見ていた。
「誰もビビっちゃいねぇよ。明日からでも準備を進めようぜ」
メンバーの一人が声を上げた。
「分かった。じゃあ明日からの方針だけど——」
——明日、か。
明日はオリビアとの約束の日だ。何があっても行くつもりでいたが⋯⋯呑気に遊んでいる場合ではないだろう。明日、一時だけ時計塔に行って、オリビアに会って断ってこよう。事情を説明すれば——彼女のことだ、責めはしないだろう。心配、させるだろうか。もしかしたら、自身も手伝う、とか言ってくるかもしれない。
こんな時にまで彼女を想う自分はきっと、もう恋も末期だ。
明日のオリビアの反応を胸中気にしながら、その夜は遅くまで話し合いに臨んだ。
——しかし翌日。ルイスが時計塔に足を運ぶ前に、朝一でオリビアから届いた手紙が、その必要性がないことを告げた。
***
〈十一月十六日午前十一時〉
ドサッ、と地面に転がり込む音が聞こえたかと思えば、パァン、とすぐさま銃声が鳴り響く。
「銃を構え直したときは必ず正しい位置でグリップしなさい! 装填不良起こすわよ!」
これ以上にないほど張ったオリビアの声が、訓練場全体に響き渡る。
「遅いッ! 構え直してる間に五発は打たれてる! 立て直しの始めの位置が違うのよ!」
夜の時間とは違い、訓練中のオリビアはかなり鬼教官だが、今日の訓練からさらに磨きがかかっている。他の軍人の指導をしている彼女を遠目に、ニールも体幹に力を入れ直した。
ダコタの元へ向かってから僅か数分後、どのような手を使ってか、オリビアは強行作戦の全権を奪取して戻ってきた。昨日は休日にも関わらず、返上して彼女は訓練場のあちこちに顔を出していた。作戦実行のメンバーを決定するためだったらしい。
そうして選ばれた軍人たち——その数なんと、僅か七名——は、本日より、作戦当日までの二週間、みっちりオリビアの特別指導で訓練を行っている。ニールもその一人だった。
現在は、銃撃中を仮定した戦闘訓練を行っている。滑り込むように地面を転がり、指定の位置まで来たら体勢を立て直し銃撃。軍学校の訓練でも同じような訓練をするため、誰もができるようにしたはずの動きなのだが、オリビアはその基礎的な動きを究極的にまで訓練させ、一分の隙もないよう追い込んでいる。
オリビアの訓練は確かに厳しい。が、一人ひとりに対するアドバイスが非常に的確で、改善点だけでなく、そのための解決方法も指導している。さらに、一つひとつの動きがどのような場面で役立つか、改善点を直さないとどのようなデメリットがあるのかなどを、端的かつ簡潔に教えているため、教えられている側からすれば非常に納得できるし、そのとき意識するべきことが明確に分かる。
馬鹿みたいな訓練量と、鋭く細かい視点からの指導。オリビアが訓練に参加するようになってからの四日間と、強行作戦チームの訓練を始めた今日だけでも、ニールの銃の精度は格段に上がっている。
「顔の向きは常に相手側! そんなんじゃ起き上がってすぐ脳天撃ち抜かれるわよ!」
厳しさに磨きはかかっているものの、訓練指導はいつも通りだ。
——あの調子なら、そこまで心配する必要もなかったか。
ずっと様子を気にしていた。予想外の事態に、相当ショックを受けていたようだったから。しかし流石と言うべきか、オリビアはすぐに作戦を切り替え、そのための最善を尽くそうとしている。恐らく、ダコタの指揮で住民が皆殺しにされることを恐れ、自らが指揮を執ることにしたのだろう。
けれど、何とまあ皮肉なものだ。オリビアは誰よりも住民側のことを一番考えて動いていたと言うのに、それ故に、住民側から一番嫌われるだろう役目を彼女が担うことになろうとは。
それでも迷わず指揮を執ると言った辺り、とてもオリビアらしい。そして——そんな彼女に、ニールはどうしようもなく惹かれている。
——別に、あの人が誰に嫌われようが関係ない。寧ろ、変な虫が湧いてこない分、俺にとっちゃ好都合⋯⋯なんて、性格悪ぃな、俺。
数メートル先の的を睨みつけながら駆け出す。数歩行ったら上体を屈める。地を蹴って、左手の平で身体を支えつつ、肩を使って一回転。小さく、速く、かつその間も視線は的の方へ。左膝が地面についた瞬間、同時に右足裏を地面につけ、足を固定したらそのまま上体を立て直す。〇.〇一秒以内に引き金を——引くッ。
パァン、と破裂音にも似た銃声が、一回、二回、三回。紙でできた的は、右から順に三枚、綺麗に落ちていった。
息を一つ吐くと、撃ち落とした的の方へ走っていくオリビアが、視界の端に映った。彼女は、ニールが撃ち落とした三枚の的を手に取った後、すぐにニールの元へ駆け寄って来る。
「ニール准尉は、そろそろこの動きはいいわね。上出来よ」
そう言って、先程回収してきた的を三枚、ニールに見せる。どれも真ん中に焦げた穴が空いていた。
「あざまーっす。中尉の教え方が上手いんで、案外早くできました」
ヘラッと笑うと、オリビアは挑戦的な笑みを浮かべた。
「あら、まだ余裕そうね。昼まで時間があるし、それまでは応用コースね」
「容赦ねー⋯⋯お手柔らかにお願いしまーす」
オリビアから直接指導を受けられる、この時間が好きだ。誰よりも早く上達すれば、オリビアから別の動きを、自分だけ教わることができる。さらに、軍人としての、オリビアへの距離が縮まる。
憧れと、恋慕。
今の自分なら、何でもできそう——なんて、いかにもな錯覚をする。我ながら単純で、オリビアと出会うまでの自分が聞いたら、馬鹿馬鹿しいと嗤ってしまうような話。
——上等だ。
何も悪いことなんかない。この際、とことん銃の腕を上げてやろう。それが出世に繋がるのなら、何も無駄なことはないじゃないか。
「——今から実践するから、よく見てて」
——憧れ、そして恋い慕うこの女性に、少しでも追い付けるようになる未来に繋がるのなら。
***
〈十一月二十一日正午〉
『ごめんなさい。急用ができたので、待ち合わせには行けません』
真っ白な便箋に、しなやかさのある上品な文字。
「まーたそれ読んでんのかよ。一人の女にフられたくれぇで、女々しいなぁ」
二階のリビングにあるソファに座って、ぼんやり手紙を眺めていると、後ろからランダンが呆れたように言ってきた。
「フられたんじゃ⋯⋯いや、フられたけど」
「どっちだよ」
「これは彼女が俺のことをフるための手紙ではないけど、もうとっくにフられてて、それでもデート続けて毎回告白して、その甲斐あってか、最近はどっちかって言うと誤魔化されてる感じで、けどそのデート断られて——あれ、じゃあ実質フられたってことになるのか⋯⋯って、ああ俺何言ってんだろう」
「はっは! 非の打ち所がない優等生、なんて言われてるルイスをこんなにする女って、相当だな」
ランダンがけたけたと笑う。真剣に悩んでいるだけに、思わずジト目になってしまう。
「おうおう、お前のそんな顔初めて見たわ。——変わったよなぁ、ルイス」
ランダンが飛び上がり、背もたれを飛び越え、そのままルイスの隣にドカッと座った。
「とっくにセスさんから事情は聞いてるよ。そいつが悪い奴じゃねぇなら、改めて顔くらい見せにくんだろ。ここの住所知ってんだからよ。俺もそいつに会ってみてぇし、お前もまたその女に会いたいと思うなら——」
右の拳をルイスに突き出した。
「死ぬわけにいかねぇよな。俺も、お前も、みんなも⋯⋯それにこの店もな」
「だから気合い入れ直せよ」と最後に言って、ランダンはニカっと笑った。
「ああ」
こいつが親友で本当に良かったと内心で思いつつ、ルイスは拳を彼のと突き合わせた。
「おら、そろそろみんな来るぜ? とっととテーブルとソファ片して、訓練の準備始めねぇと」
「そうだね。そういやランダン、さっき俺のこと『変わった』って言ってたけど、何が?」
「あ? んー⋯⋯簡単に言うなら、人間になった」
「俺はもとから人間なんだけど」
「ルイスはよ、昔から何にも無関心で——」
話しながら、テーブルを片すべく、ランダンと共にテーブルに手をかけていると、階段を上ってくる複数の足音が聞こえてきた。階段とリビングを繋ぐドアが開く。姿を見せたのは、メンバーのうちの六人とセスだった。
「おう、ルイス」
「いらっしゃい。みんなで一緒に来たんだ?」
「ああ。——そうだ、ルイス。いよいよ来たぜ?」
何が、と問う前に、セスが一通の封筒とペーパーナイフを差し出してきた。真っ白な封筒に、毒々しくさえ見える、真っ赤な封蝋。そこには、二丁の銃を交差させたマークが刻印されていた。駐屯軍の紋章だ。
この場にいる全員に目線を向けて頷き、セスから封筒とナイフを受け取る。ナイフを差し込むと、封蝋が細かくバラバラになって砕けた。
手紙を取り出して読み上げる。
「『最終通告。先日発送した通達書の通りに立ち退きを行うよう命ずる。従わなかった場合、エルト暦三十三年十一月二十九日午前〇時を以て、実力を行使する。その際、住民側に及ぶ被害に関して軍側は一切の責任を負わず、取り押さえを受けた者は叛逆罪として厳罰に処す』」
「ひゃー怖っ」
ランダンがわざとらしく身震いした。
「んなの破り捨てて、とっとと今日の訓練しようぜ——ルイス?」
ルイスは——手紙を持つ手に力を込めて、それ以上目線を下にやらないように、必死に目を本文側に向けていた。
手紙を開いた瞬間に覚えた違和感。読み上げているうちに、それは胸の内で恐怖として膨れ上がっていった。一字一句間違いなく読み上げていたはずの本文は、目で追いかけていただけで、内容など一切頭に入ってこなかった。
——いや、俺の勘違いだ。そうだ、きっとそうに違いない。
「⋯⋯なぁルイス、最後の行、何て書いてある?」
「え、あ⋯⋯」
「お前、気づいてんだろ。⋯⋯俺もまさかとは思うが、な」
ランダンは昔から勘の良い男だった。ルイスの様子がおかしいことをいち早く悟ったのだろう。
「何ですか?」
「ああ、バイロン。ちょっとな⋯⋯ほらルイス」
メンバーがルイスの様子の変化に気づき始め、いよいよ目を背けるわけにもいかなくなってしまった。
——この世には数多くの人間が存在する。筆跡だって、ある人と酷似することくらいあるだろう。だから、そんな馬鹿なこと、あるはずがないんだ。
ルイスは決心して、握り締めた手元をそっとずらした。
手紙の右下に、小さめの文字で記された二行。一行目には、『ラウレアイロ駐屯軍隊長 ダコタ・ジズオルド』。そして二行目には——
『中央憲兵隊中尉 オリビア・アズウェル』
「⋯⋯やっぱりな」
「どういうことですか?」
「この憲兵、ルイスが最近知り合った女だ。ルイスを利用して情報を聞き出してやがった」
「ルイスさんを騙してたってことですか?」
「ああ。酷ぇペテン師もいたもんだな、一般市民を騙ってルイスの善意を利用しやがって。親友としても、許すわけにいかねぇよ、その女。名前が書かれてるってことは、そいつが指揮する部隊が来んだろ。最後にルイスにネタばらしして完全勝利決め込むつもりなんだろうが、マウンティングさせるためだけに送り込んできた女なんざ、俺がとっととぶちのめしてやらぁ」
すぐ傍で行われている会話も、ただただオリビアの名前を食い入るように見つめているルイスの耳には、既に入っていなかった。
——その日を境に、ルイスの顔から笑みが消えた。
***
〈十一月二十五日午後六時三十分〉
「——三日後より作戦を実行する。それまでは、訓練ももちろんのこと、休養もちゃんと取るように。以上で作戦会議は終了。解散」
駐屯地の小会議室を、オリビアの合図で六名の軍人が退出していく。
オリビアだけは着席したまま、デスクの上に乗った資料をぼんやり眺めつつ、小さく溜め息を吐いていた。
「お疲れ様です、中尉」
ただの挨拶ではなく、心からの言葉だった。
強行作戦の指揮を任されてから、オリビアの仕事量は大分増えた。無論、オリビアが自ら用意を周到に進めているからなのだが、随分気を張り詰めているような気がする。
「ニール准尉。お疲れ」
その微笑みも、疲れを隠せていなかった。傷んだ髪はいつものことなのに、相まって、随分やつれているように見えてしまう。
「今日の睡眠時間は?」
「⋯⋯三時間」
「今日くらいは早めに上がってください。明日も明後日もあるんですから、今中尉に倒れられると困りますよ〜」
「そう、ね⋯⋯」
オリビアが、数多くの資料の散らばるデスクに目を落とす。一番上には、強行を行う酒場の内装写真があった。
駐屯軍が総出で情報収集を行った結果、指定範囲内の住民が皆立ち退きを行う中、この店だけは動きを一切見せなかった。監視を続けると、決まった近隣住民の若い男たちが出入りを繰り返していることが分かった。土地を渡すまいと考える住民たちで手を組んだのだろう。その他の者には立ち退きを行わせて被害を最小限に留め、団結した者はその店に集まり、当日は籠城して抵抗する気だという事実が発覚するまで、そう時間はかからなかった。
オリビアが多くを阻止していたとはいえ、それまでにも武器の密輸はあっただろうし、全てを阻止できたわけでもない。入手に成功した武器は、その店に保管されているのだろうと推測された。
「ああそうだ、これ」
ニールは後ろ手に持っていた紙束をオリビアに渡す。
「これは?」
「例の店に出入りしている住民をリストアップして、調べときました」
ニールの返答に目を丸くさせながら、紙束をペラペラと捲るオリビア。
「流石に写真まではつけられなかったんですけど」
「すごいわ⋯⋯この短期間でこれだけ詳しく調べられるなんて」
調査書には名前や年齢、職業、出身地に出身校等々、ありとあらゆる個人情報が書き込まれている。
「オリビア中尉がめちゃめちゃ頑張ってんの見たら、これくらいしますよ。俺ら、訓練まで中尉におんぶに抱っこですからね」
「ありがとう。住民側のことも調べる必要があったし、助かったわ」
笑みを浮かべて礼を言うオリビアだが、その顔にはやはり疲労の色が見える。
オリビアが一通り資料を確認していると、その手がはたと止まった。ある一枚を凝視している。どうかしたのだろうかとオリビアの手元を覗き込むと、『ルイス・リクーア』と名前が書かれていた。例の店の、店主の孫だ。
「ああ、そいつが今回のリーダー格ですよ。唯一の軍事学校卒業者なんで、まぁ必然的にそうなりますよね」
「⋯⋯」
何の反応も示さないオリビア。時が止まってしまったかのように、全身を硬直させている。表情は前髪に隠れてよく見えない。
「どうかしました?」
「⋯⋯⋯⋯いや」
かなりの間を開けて、オリビアは大きくかぶりを振った。捲ったページを全て閉じて、「何でもない」と言って不意に立ち上がる。
「部屋に戻って全部確認させてもらうわね。これ、ありがとう」
オリビアはもう一度ニールに礼を言って、デスクの資料を全て回収し、部屋を出て行ってしまった。
向けられた笑みはいつも通りだった。けれどなぜだろう。
「避けられた⋯⋯?」
そんな気がした。退出するまでの動作もどこか急いでいたようだったし、心做しか、あまりニールに顔を見せないようにしていた気もする。
「無理してねぇといいが」
誰もいない小会議室を退出するべく、ニールも遅れて立ち上がった。
***
〈同日午後十時〉
オリビアは自室のベッドの中で、先程ニールから貰った資料を眺めていた。既に全員の情報は確認し終えている。今はただ本当に、『ルイス・リクーア』の文字を、徒に眺めているだけだ。
「まさか、軍学校卒とはね」
——こんな形で、彼の新しい情報なんて知りたくなかった。
分かっていた。対抗勢力がルイスの自宅でもある『セレナーデ』を活動拠点にしていた時点で、彼もきっとチームの一員なのだろうと。けれど彼がリーダーの役割を負っているとは、可能性としては考えたが、早々に切り捨てていた。活動拠点が彼の店なのは場所的に最適だったからであって、主導者はもっと歳上の人物だろうと。
軍事学校の卒業者は滅多なことがない限り、ほぼ全員がどこかしらの軍に入隊するため、住民側に軍事経験がある者がいるとは露ほども考えていなかった。ましてや、それがあの男だなんて。
「当日は確実に出くわすでしょうね」
——好きだ、と思う。ルイスのことは。恋愛的な意味で。
今までずっと、友好的なものも含めて、他人からの好意的な感情はずっと疑いながら生きてきた。オリビアは——常に嘘を吐いて生きているから。
けれどルイスは、一度のみならず、何度も好きだと言ってくれた。
オリビアは自分の感情を素直に表現することがどうも苦手だった。彼を突っぱねるような態度だって散々取ってきた。不器用で、意地っ張りで、格好つけたがりで、女性らしさなど、申し訳程度のこの口調だけで、可愛げなど皆無に等しくて。しかし、それを知っても尚、彼は好きだと言ってくれた。確かめるように、念を押すように、何度も何度も。
言葉だけではない。態度や表情からも、オリビアを特別視していることは明らかだった。特に——時計塔の前で、その日最初に会う時のあの表情。嬉しさと愛しさと期待と満足感と——それはもう大袈裟なくらいに、幸せさをいっぱいに詰め込んだあの笑顔。見ているこっちまで、思わず破顔してしまいそうなくらいの。
いつの間にか、本当のことを言っても、彼なら自分を嫌わないかもしれないと、どこか期待していた。
——ねぇルイス。私が軍服姿で君の前に現れた時、君はどんな顔するのかしら。もう通達書は届いているはずだけど、君は私を⋯⋯恨んでいるかしら。
「決まってるわね」
嘲笑が漏れた。
資料を閉じて、枕の下にしまう。やがて、就寝時刻を告げる鐘の音が聞こえてきたため、そっと瞼を閉じた。
太陽に輝く、天使のようなキラキラした彼の笑顔を思い浮かべて、眠りに落ちた。
——翌日、身体を起こした際に見つけてしまった染みのついた枕は、迷うことなく裏返し、見なかったフリをした。
***
〈十一月二十八日午後十一時〉
「なぁルイス、本当にいいのか?」
弾丸を次々と銃に詰めていくルイスに、アルダが尋ねた。
三階、建物の最上階。ルイスの自室だった部屋は、全ての家具が隅に追いやられ、その物陰にルイスたちは身を潜めていた。セスもその中の一人だった。
「何が?」
「一応訓練してきたのに、俺ら何もしないって⋯⋯そりゃあ、付け焼き刃だけどな。全員分の銃がないとはいえ、まだ余ってるだろ? 軍相手にすんのに、使える武器全部使わねぇのは勿体無いって」
手紙が届いたその日の訓練より、セスやアルダを含む何人かは、立ち退きを迫られ生活が困窮し始めていた住民のサポート役に回るよう、ルイスから指示を受けた。店に残っていた食料を使って炊き出しを行ったり、各々知り合いに頼み込んで寝床を確保したり等。指示を受けた者たちは、疑問や不満がないわけではなかったが、ルイスの実力は周知の事実だったため、反論の声は結局上がらなかった。
そして迎えた当日。ルイスは今日になって、大幅な作戦の変更をメンバーに伝えた。
まず、銃器を使用し、戦闘を主として行うのは十二人。配置は、一階に五人、二階に六人、そして、三階にはなんとルイス一人。予備の銃を所持する若干名と、その他の者は、各々物陰等に隠れてやり過ごし、とにかく戦闘員のサポートに回り、自らの攻撃は一切しないようメンバーは指示を受けた。
その指示を出した当の本人は、銃の玉詰めを終えて、アルダを振り返った。その顔に、やはりいつもの優しい笑みはない。
手紙を受け取って以来、あれだけ常にニコニコしていたルイスが笑顔になったところを、セスは見ていなかった。こんなことは初めてで、内心戸惑ってばかりいる。
「恐らく相手は少数精鋭。重火器も使ってこない。なら、攻撃班に大量に人員や武器を割いても、犠牲者が増えて、使えるはずの銃弾も使わないで終わるだけだ」
ルイスは弾丸を詰め終えたマガジンを、グリップにカシャンと押し込んだ。
「なんでそんなこと分かるんだよ」
「⋯⋯あの人なら、そうする」
ルイスにしては珍しい、余りにも論理性に欠けた説明。
「嘘吐かれてたんだろ? 相手はルイスが思ってるような女じゃないかもしれな——」
瞬間、アルダは自分が失言をしたことを悟って口を噤んだ。ルイスと共に暮らして、もう六年になるセスでさえも、後ろのアルダを振り返ったルイスのそんな歪な顔は、初めてだった。
珍しい、なんてもんじゃあない。不吉にさえ思えるほどの異変が、孫に起こっている。
——本当に好きだったのか。そんな顔が、できるほどに。
様々な感情が入り混じった顔だった。
泣きそうな、怒ってそうな、悔しそうな。
アルダが黙ったのを確認したのか、ルイスはパッと前を向いてしまった。
「自分の命より、故郷であるこの町の方が大事だとか何だとか、誰がどう言っても、結局は命あっての物種だよ。それは変わらない。これが最善なんだ」
「で、でも、それじゃあ、三階に上がってくる軍の奴らを、ルイスが一人で相手することになるんだぞ」
「問題ない」
「⋯⋯⋯⋯そうか」
ルイスにはっきりそう言われ、アルダは何も言えなくなったようだった。
確かに、セスから見てもこの作戦は無謀に思える。ルイスがヤケになっているのならまだ口出しくらいするのだが、生憎そんな素振りは一切見せていないから、何も言えなくなってしまう。
実際、セスもアルダも、無論その他全員も、戦略を考えるどころか、この間まで武器の持ち方さえ知らなかったのだ。今回の作戦は、全てルイスに頼りきりにならざるを得ない。そんな中、あれこれ文句を言えるのは相当図太い奴だけだ。
「⋯⋯ルイスさん、いつになく怖い顔してますけど、大丈夫でしょうか⋯⋯」
アルダのすぐ後ろで、バイロンが心配そうに呟いた。
「それだけ真剣ってことだろ。主戦力じゃないからって、俺たちも油断してられねぇ。気ぃ引き締めとけ」
「⋯⋯はい」
未だに気がかりな点が残る中だろうに、二人は大人しく、ルイスから数歩後ろへ下がった。
部屋の空気が緊張で張り詰める。
セスは左薬指に光る、銀色の指輪をそっと撫でた。
——歳も歳だから、私は何もできないけど。でもせめて⋯⋯
「ルイスを守ってくれよ、カーラ」
今はもう亡き自身の妻に、セスは強く強く祈った。
***
〈同日午後十一時四十分〉
「様子はどう?」
僅かに欠けた月が姿を現しては、薄い雲に覆われていく。
レンガ積みになっている外壁を目の前に、オリビアは監視役のダンテに尋ねた。
「オリビア中尉、お疲れ様です。——マジでいつも通りですよ。今朝も店主が普通にゴミ出しとかしてましたし。通達状見てんのかってツッコみたくなるくらい」
ダンテは呆れた顔をしつつも、話を続けた。
「けど、午後からワラワラと男たちが中に入っていきました。数は三十四。あの家の住居人を合わせると、計三十六人ですね」
「⋯⋯うん、予定通りね」
ニールから貰った資料と数は一致している。
「でも中尉、ほんとに七人で行くつもりですか? 流石に少なすぎますよ。今からでも、監視役招集すれば——」
「心配無用よ。ぶっちゃけ、体裁のために隊組んだだけで、一般市民三十六人程度の制圧なら私一人でも何とかなるのよ」
「⋯⋯それ本気で言ってます?」
「相手の実力を測る自分の目を養えば、それが真実か冗談かは分かるわよ」
「それ、知らない方がいいやつじゃ⋯⋯。まぁ、了解です。くれぐれも気をつけてくださいね」
「ええ。万一照明弾が上がったら、基地に連絡して応援を頼むわ。くれぐれも、君の隊や君単独で入って来るような真似だけはしないこと」
「了解しました」
ダンテとの会話を終え、建物の入り口前に戻る。強行作戦のメンバーが待機していた。
「さて、そろそろ配置に——」
「あの⋯⋯オリビア中尉」
指示を出そうとしたところで、隊員の一人がおずおずと話しかけてきた。
「何?」
「やっぱり、重火器の使用も許可していただけませんか? この人数で小火器のみの使用というのは、いくら何でも無理が⋯⋯」
その言葉を聞いた途端、オリビアの細い眉がヒクリと動いた。
「それ本気で言ってる?」
その声音には、静かな怒りの色が見えた。
「相手は民間人よ。武器だって十分な準備もできていないはずの。それに対し私たちは? 普段から戦闘訓練を受けている上に、今も完全武装。ここまでの差があるってのに、まだ足りない? 情けないことこの上ないわね」
オリビアにしては珍しいほど、嫌味を内包した呆れ声に、メンバー全員は押し黙った。
「——自国の民に私たち軍人の銃口が向けられる意味を、よく考えなさい」
話は終わりだと言わんばかりに、オリビアはくるりと部下たちに背を向け、さっさと玄関脇に待機する姿勢を取った。
気まずい雰囲気を誤魔化すように、メンバーも各々、自身の配置についていく。ニールも移動し、オリビアの隣に、彼女と同じようにしゃがみ込んだ。
——ったく、始まる前からこんなんで大丈夫かよ⋯⋯。
ニールはこの重苦しい空気に、内心で頭を抱えた。
とはいえ、先程の無責任にも思える質問は、オリビアにとって許容し難いものだったのだろう。彼女らしいと言えば彼女らしい。
「ニール准尉」
ふと、目の前のオリビアがニールを振り返った。
「何です?」
「最後に一つ、君に命令よ」
オリビアは一拍置いてから、ニールの目を見て言った。
「死人を出すな」
それは酷く短い——言うだけなら簡単な、夢物語。
「はは。重火器使用不可で、さらにそれですか」
「ええ。もちろん私もそうする。でもこの指示は全員には出さない。できると思う人にしか言わない。この場では、私の他には君だけよ」
——君だけ。
俺は、やっぱり単純で馬鹿な男だ。
「イエス、マァム」
計画開始五分前。
間もなく、事件が始まる。
***
「合図は指示するわ。あとは手筈通りにね」
『B隊、了解しました』
『C隊、同じく』
左手に握った無線機のスイッチを押したまま、右手の懐中時計に視線を向ける。規則的に時を刻み続ける針を、射抜くように凝視した。
残り三十秒。
いい加減、覚悟を決める時だろう。
——君を諦める覚悟を、君に嫌われる覚悟を。そして、君に銃を向ける覚悟を。
残り十秒。
懐中時計の蓋を閉め、軍服の内ポケットに素早くしまい込む。そのまま、空いた右手を腰のホルスターにある愛銃にかけた。目を瞑り、脳内で残る秒数を数える。
「カウントスタート、四、三、二、一⋯⋯GO!」
若干ずれたスタートと共に、鍵のかかったドアを蹴破った。
***
「嘘、だろ⋯⋯」
隊員の一人が、目の前の光景に唖然として呟いた。
「え、三十秒で、五人⋯⋯?」
「まぁ、ニール准尉もいたからね」
「いや、俺、男二人の手打っただけですよ⋯⋯」
目の前には体格の良い男が五人、静かに床に伸びている。
「中尉だけ存在してる時空が違うとか⋯⋯?」
大真面目な顔をして呟く隊員。
「何馬鹿なこと言ってるの。ほら、さっさと拘束」
「あ、は、はいっ」
オリビアの声で正気に返った彼は、気を失った男らの腕を縛り始めた。しかし、そう言うのも無理はなかった。
「正気の沙汰じゃねー⋯⋯」
「なんか言った?」
「いいえ何も」
口ではそう言いながら、先程の光景を間近で直接見てしまったニールは、身震いしそうなところを必死に抑えていた。
この世のものとは思えなかった。少なくとも、ニールの知る限りでは、あれは人間のやる所業ではない。
飛び交う弾丸などまるで見えていないかのように、臆することなく相手を捉え、手に持つ銃だけを撃ち抜き、相手との距離を瞬時に詰め、首筋を打つなどして気絶させていた。この工程を、一人あたり六秒以下。
実際にその場にいたにも関わらず、事態を飲み込めないでいる。もしかすると、オリビアだけ違う時空に存在している、という仮説は、強ち間違っていないのかもしれない。
「拘束完了しました。⋯⋯⋯⋯オリビア中尉?」
散らばっていた男体は一つの場所にまとめられ、腕や足を拘束されていた。
既に次の階へ進む準備はできたわけだが、肝心のオリビアはカウンターの向こう——厨房への入り口を食い入るように凝視している。
「どうかしました?」
「⋯⋯⋯⋯ちょっと待ってて」
「え?」
声をかけた途端、オリビアは物凄い勢いで駆け出し、厨房へ入っていってしまった。
突然の彼女の行動に唖然として、すぐには動けないでいると、「ぅあッ!」と少し離れた所から悲鳴が聞こえた。トーンからして、男の声だ。
そして間髪入れず、一発の銃声。
「⋯⋯え?」
急いでニールは駆け出し、オリビアの後を追う。
「⋯⋯⋯⋯え」
奥の部屋でまず目に入ったのは、床に転がった三人の男と、たった今首筋に手刀を入れられ気絶した男一人、そしてそれを行った張本人オリビア。
「ニール後ろ!」
顔を上げたオリビアと、ばちっと目が合った瞬間だった。彼女の声にハッとして後ろを振り返ると、既に中華鍋を振り下ろし始めている男がいた。
——あ、やばい。
避けられないことを悟り、咄嗟に目を瞑る。
しかし、覚悟していた衝撃が襲ってくる前に、パァン、とすぐ後ろで鳴り響いた銃声と、男の呻き声が聞こえてくるのが先だった。
何が起きたのか瞬時に悟った。
目を開けると、右手から血を流して鍋を手放す男の姿が見えた。オリビアが咄嗟に、後ろから男の手を撃ったのだ。
すぐ様男の手首を掴み、次に反対の胸ぐらを掴み引き寄せ、思い切り腹に蹴りを叩き込んだ。
そこまで体格のある男ではなかったため、軽く吹っ飛ぶ。そしてその先には、また別の男がいる。
「うお⋯⋯ッ!」
見事、立っていた男に衝突。大きくバランスを崩し、派手に尻餅をついた。
と同時に、トタタ、と軽快な足音が聞こえ、すかさず金髪のポニーテールがニールを追い越す。
——綺麗だな。
荒れたように舞う髪を見て、思わずそんなことを思っているうちに、その人は尻餅をついている男に手刀を入れ、続いてその近くにいた男もあっという間に気絶させた。
部屋が一気に静かになる。
「さっきはさーせん。俺の不注意で」
「いや、さっきの蹴りは見事だったし、私も君も無傷、相手側に死人もなし。結果オーライよ」
オリビアがさらりと笑うと、店内側から遅れて、バタバタと忙しない足音がやってきた。
「オリビア中尉!」
「これは一体⋯⋯?」
呆然と呟き、急な事態を理解できない隊員と、床に転がって動かない、八人の男体。僅か数分前のデジャブである。
「隠れてた。全員武器を所持してたわけじゃないから、多分私たちが二階へ行った後に、拘束された人たちを開放して逃げるつもりだったんでしょう」
「なんで分かったんです? 厨房に人がいるって」
ニールは疑問を隠せず、思わず尋ねた。
「んー⋯⋯勘、というか、気配を感じた、みたいな?」
「はあ⋯⋯」
オリビアも根拠を持って答えられないのか、珍しく疑問系の回答だった。
この女性には、優れた戦闘能力だけでなく、動物並みの感知能力まで備わっているのか。ここまで来ると規格外だ。
「それで? もうその気配とやらはないんですか?」
「ええ。全員いるわね? 行くよ」
十一月二十九日〇時十五分。一階の制圧が完了した。
***
三階のドア前で一旦隊を待機させ、懐から懐中時計を取り出す。
時刻は〇時三十九分。ここまでは順調すぎる勢いで上ってきた。
一階と二階で拘束したのは二十四人。ちょうど三分の二。
残る十二人は恐らくこの部屋にいるのだろう。そして——彼も。
——いつも笑顔で私を迎えてくれていた彼は、今、どんな顔でこの部屋にいるのだろう。
想像ができなくて、少しの恐れ。
懐中時計の蓋をパチリと閉めて、懐にしまう。銃の残弾も確認してから、軽く深呼吸して気持ちを四散させた。
声は出さず、隊にカウント三秒前の合図を指で送る。
——三、二、一⋯⋯
刹那、左手でドアノブをがっしと掴み、勢いのままにドアを開け放った。
ガァン、とドアが激しく壁にぶつかる音も碌に聞かず、部屋へと踏み込む。
次の瞬間、奥側から鳴り響いた銃声。それを合図に、次々と銃弾の雨が的確にこちらへと流れ込んでくる。
「うがァッ!」
——今の声は、軍側だ。
味方の誰かが負傷したことは悟れたものの、いかんせん振り向く余裕がない。そう瞬時に判断し、前進を続ける。
降り注ぐ銃弾の間隙を必死に縫い続け、ようやく向こうの集団が射程範囲に入る。
左腰にかかった銃に手をかけながら床を蹴り、身体をできる限り縮めて、床を転がる。相手の視界から一瞬でも外れ、隙を突くためだ。すなわち——これで勝負を決める。
勢いに乗せて、銃を引き抜きながら一瞬で立ち上がる。
すかさず左手も添え、両手で自身の真ん前に銃を構える。
銃口の先には——ルイスがいた。
彼もまた、オリビアの胸に向かって、真っ直ぐ銃口を向けていた。片膝をついて、右片手だけでブレもせずに銃を構えている。
オリビアはチラリと後ろを見やる。
「っ⋯⋯」
目眩がしそうだった。隊員たちが、全員やられている。ニールまでも足を押さえて、床に蹲っている。
恐ろしい男だ。これが全て、今対峙している目の前の男一人の仕業だというのか。
——私でも敵うかどうか⋯⋯。
奥の方で隠れていた集団の中から、「ルイスさんすげぇ⋯⋯」と呆気に取られたように呟く青年が顔を出し、急いで他の男から引き戻されていた。
もう一度、目の前のルイスを見つめる。
真顔、だった。
笑っていない。
当たり前だ。
でもなぜだろうか。そんな彼を目の前にしても、ルイスのことを思い返す度、いつだって思い浮かぶのは——
——時計塔の前で待つ、君の笑顔だ。
睨み合うこと数十秒。沈黙の時間が流れる。
——ふと、ルイスの腕の力が抜けた。
銃が彼の手から離れ、音を立てて床を転がる。
警戒しつつ、オリビアは重力に従って落ちる銃を目で追っていた。
怪訝に思いながら、何のつもりかと再びルイスへ視線を戻して——頭に、殴られたような衝撃が走った。
ルイスが、両手を広げてこちらを見つめている。花の咲くような、優しい笑顔で。
——時計塔の前でオリビアを待つ、いつものルイスの顔。
——おいで。
そう呼ばれた気がして、目の奥が熱くなる。
腕の力が抜け、オリビアもゆっくりと銃を下ろし始めた——その時だった。
「オリビア中尉!」
「ルイス!」
両陣から、同じタイミングで叫び声が上がった。
ハッとして後ろを見ると、ニールが足から血を流しながらも、銃を構えていた。
その先には——
——ルイスが、撃たれる。
そう思った時には、身体は勝手に動き出していた。後ろへ身体の向きを変え、両手を広げる。
とにかく必死で身体を広げていた、その時。
「——双方納めよ!!」
鋭い静止の声が上がった。
その声に、オリビアは聞き覚えがあった。
「たい、長⋯⋯?」
オリビアに密命を告げた、タイラー・ブルーム中佐その人だった。
「ノールキア国王代理が決定し、ただ今隣国との不可侵条約が締結された! よってこの戦いに意味はない! 双方納めよ!」
オリビアは広げていた両手から、ダラリと力が抜けていくのを感じた。
「不可侵、条約⋯⋯」
「オリビアさん⋯⋯っ」
膝がガクリと折れ、床に頽れそうになったところを、ルイスが咄嗟に抱き止めて支える。
「あ⋯⋯」
その腕が温かくて、彼が生きているのだと実感した。
——ああ、間に合った。
「オリビア中尉」
不意に、前方から名前を呼ばれた。見上げると、そこに立っていたのはタイラーだった。
「あ⋯⋯は、はい!」
ルイスに支えられている体勢が気恥ずかしくなり、急いでルイスの腕から離れる。
「後始末は諸々俺たちがやっておく。お前は先に駐屯地へ戻っていろ。今日はゆっくり休め」
「⋯⋯はい。ありがとうございます」
見ると、タイラーは後ろに、憲兵の小隊を連れてきていた。負傷人の手当てから事情聴取まで、抜かりなく行ってくれるだろう。正直、オリビアも一杯いっぱいだったため、ありがたかった。
駐屯地へ戻る前に、オリビアはすぐ側にいたルイスへ向き直る。
——もう、ラウレアイロにいられる時間も、長くはないから。
爪先立ちになり、ルイスへ耳を貸すように手で示す。
ルイスは小首を傾げながらも、その耳をそっと傾けた。
「今日の十時、時計塔の前で待ってる」
「っ⋯⋯」
それだけを告げて、息を呑む彼には構わず、オリビアはその場を後にした。
***
〈同日午前十時〉
——水に入れる場所に行きたい。誰にも見つからない所。
オリビアは時計塔でそう言った。
移動中は互いに一言も話さなかった。
「ここです」
「へぇ。無茶なこと言ったなとは思ったけど、こんな場所あったのね」
連れてきたのは、前回のデートの時に連れてきた丘の、すぐ近くにある池だった。元々この辺りは町外れで、人通りは滅多にない。さらにこの池は森林の中にある。普通に生活しているだけでは、まずこの場所は見つからないだろう。
ラウレアイロでずっと育ってきた彼だからこそ知っている奥地だ。
「君にね、見てほしいものがあるの」
不意にオリビアは、ルイスの目を見て言った。
すると彼女は、自身の靴を脱いでその場に揃えて置いた。続けて、池の方向へ迷わずスタスタと歩き出し、そのまま池の中へ入ってしまう。
「え、お、オリビアさん?」
驚いて声をかけるも、オリビアは振り向きも止まりもせず、どんどん水の中へ入っていく。さっきのオリビアの真剣な表情を思い出し、今は引き止めない方が良いと、直感がそう告げた。
そうこうしているうちに、最初は足首程度までしかなかった水が、オリビアの膝を呑み込み、あっという間に腿にまで差し掛かる。彼女のズボンはとうに濡れ、水圧もかかって動きが次第に鈍くなる。西岸海洋性気候特有の気温で、冬でもあまり寒くないとはいえ、池の水温はかなり低いだろう。それでも、彼女は寒がる素振りもなく、構わずに進んでいく。
やがて、オリビアのしなやかな脚が全て水の中へ隠れ、彼女の細い腰に水位が達した時、彼女はピタリと止まった。
オリビアがくるりと振り返る。
「見てて」
距離があったためかなり小音だったが、確かに彼女はそう言った。
オリビアは再び前に向き直り——
静かに水の中へ姿を消した。
驚愕して、思わず足が一歩前に出るも、見ていてほしいと言ったオリビアを思い出し、気持ちを落ち着ける。
一分しても出てこなかったら自分も池に飛び込もう。
そう決意するや否や、ブクブクと池の中から無数の泡が浮かび出した。もうすぐオリビアが上がってくる合図に他ならない。
そんな全身ずぶ濡れになってまで、オリビアがルイスに見てほしいものとは何だろうか。緊張した心持ちで、彼女が上がってくるのを待っていたその時──呼吸が止まった。
ザバァ、と音を立てて、池の中から姿を表した——
——水飛沫と共にその黒い髪を振り上げる、美しい女神に。
時が、スローモーションのように感じた。
光を反射して、キラキラと輝く細かい水の粒が、彼女の周りを取り囲んでいる。
振り上げた髪の先が、その光の粒を生み出しながら弧を描く。
——ああ、綺麗だ。
この世のものとは思えない神々しさ。こんなに美しい光景は、今まで見たことがない。もしかしたら、この先も一生。
ルイスは暫し、呼吸も忘れて、池の中の女性に魅入っていた。
やがて彼女を取り囲んでいた粒が池の中へ消え、弧を描いていた長い髪も彼女の背中に張り付き、辺りが静寂に包まれる。
女性は上を向いたまま、長いまつ毛の上に乗った水滴をふるい落とすように、数回、細かく瞼を震わせた。もう一度完全に目を閉じて、そうして空の方を向いたまま、ゆっくりと目を開け——
瞬間、ルイスは駆け出していた。
靴も履いたまま、ざぶざぶと水をかき分け一直線に進む。
池の中の女性は驚いた顔をしてルイスを見たが、構わずに彼は女性の元へ向かう。
そうしてルイスは女性の細腕を強く掴み、背中からその身体を抱き込んだ。
「⋯⋯⋯⋯ル、ルイス?」
戸惑うような声が腕の中で聞こえた。それでもなお、ルイスは彼女をぎゅうと強く抱き締める。
「⋯⋯オリビアさんが、どこか、行っちゃうような気がして」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
不安、だったのだ。
憂いを帯びた表情で、遠くの空を見つめる彼女が怖かった。こうやって捕まえていないと、自分が知らないどこか遠くへ、オリビアが行ってしまいそうで。自分だけが、置いていかれそうで。
「行かないよ、どこにも」
腕の中でふっと笑う気配がして、抱き締めている腕に、細い指がそっと触れた。
「私ね、テマヒヴィナ人なの」
思わず目を見開いた。
——テマヒヴィナ。
それは、もうこの世界のどこにも存在しない、滅びた島国の名。
「聞いてくれる? 私の話」
そうして、彼女はポツポツと語り始めた。
***
——今から十四年前ね。私が九歳の時。
何の前触れもなく国の首都に爆弾が落とされてさ。しかも何発も。首都が壊滅するまでなんと三日よ? その時点で死者は三百万を超えてたらしいわ。冗談でも笑えない話よね。
私も家は首都にあった。けど、運が良かったのか悪かったのか、ちょうどその時、私たち家族は避寒に行ってて、首都から遠く離れた所にいたの。
とは言え、テマヒヴィナは突然の事態すぎて、戦争準備どころか兵もまともに集まらない状態。もうあと一時間後に、私たちが訪れていた地に敵軍が攻めてきてもおかしくなかった。だからすぐにでも海外に逃げなきゃいけなかったんだけど、飛行機も船も、まあやってるわけないわよね。既に敵軍に国中包囲されていたし、情報も碌にないまま動けば、自ら死地に飛び込むようなものだもの。
でも、私は船でこの国まで亡命してきた。
私、こう見えても実は、テマヒヴィナではその名を知らない人はいない程、大きな資産家の娘でね。父は国の商業連盟の総帥を務めていた人で、国の財政なんかにも大きな影響力を持っていたわ。
まあそんな事情なわけで、家には膨大な財産やら権力やらがあってね⋯⋯貿易ルートを通じて作られた、世界各国でのコネも。
戦争⋯⋯というか、セリウロスの襲撃から一週間後。ある朝、私は起きたら真っ暗な所にいた。
まあ焦ったわよー。だってその昨日の夜、私はベッドの上で、家族と一緒にちゃんと寝たのよ? それなのに朝起きたら視界は真っ暗で、目を開けているはずなのに、閉じている時と光景が変わらなくて、頭は大混乱。
ちょっと気持ちを落ち着かせて状況を確認してみれば、どうやら私は身体を丸められて、どこかに押し込められているようだった。硬くて狭くて⋯⋯身じろぎひとつさえままならない。それに何だか不規則にゆらゆら揺れていた。その揺れが船のものであることは、割とすぐに、その場で悟れた。
それに匂いもあってね。木の匂い。
木製の何かに私は閉じ込められていて、船で移動中だって状況が確認できたところで、視界が一気に明るくなった。
結論から言うとね、私、樽の中にいたの。酒樽の中。ふふ、笑っちゃうでしょ? 視界が明るくなったのは、樽の蓋が開けられたから。
樽の外にいたのは、明るい茶髪に深緑の目をした、全く知らない男の人だった。見るからにテマヒヴィナの人間じゃなかった。テマヒヴィニアンはほとんどが黒髪に青色の目をしているからね。
その時彼から知らされたのは、父があらゆる手を尽くして国外への逃亡ルートを調べたこと、そしたらすんごい遠回りだけど、逃げ道を発見したこと、その行先はノールキア王国であること、でも⋯⋯行けるのは娘の私一人だけで、両親は行けなかったこと、両親は、自分たちが逃げないことを知ったら、私は両親と共に国に残る決断をしてしまうだろうから、夜、私が寝静まる頃を見計らって、勝手にこの船に乗せたこと。
後から調べて分かったことだけど、父はその頃ノールキアと貿易していて、こっち側からは酒を輸出していたそうよ。もうその頃は、酒は自国で熟成させてから、瓶詰めして輸出するのが主流だった。樽は酒の香味に大きく影響するから、その方が品質保持のためにもなるし、何より類似品対策にもなるしね。
けど、瓶詰めすればそれだけ費用がかさむ。父が貿易で狙ったのはそこ。毎日酒を飲むのが当たり前の国であれば、家庭用の酒は別にそこまで品質は高くなくても、美味しくて安ければそれでいいはず、ってね。だから父は、家庭用の酒として、ファーキンに酒を詰めて、破格で酒を提供してた。——ああ、ファーキンっていうのは、樽の種類でね。元は単位の名前なんだけど、なんせその単位の定義も各国によって違うから、ファーキンって一口に言っても、国によってその樽の大きさは全く違うの。⋯⋯テマヒヴィナでは、一ファーキンは約三十五リットルだった。
察しがついた? そ。当時の私の体重三十四キロは、一ファーキンとほぼ同じ重さだったのよ。⋯⋯それ以上の重さの両親が入れば、輸入検査で一発でバレる。だから、両親は私だけを逃して、自分たちだけで国に残ったのよ。
テマヒヴィナのだと誰が乗っていようが構わず沈められちゃうから、私が乗っていたのはノールキアの船だった。予想外の襲撃だったし、テマヒヴィナに訪れていた他国の人間なら、割とすぐに逃してくれたのよ。
それで私は、その後特にトラブルもなくノールキアに到着して、正規の手段を踏んで戸籍も移して、施設に預けられて。ふふ、他国に命懸けで亡命なんて、映画みたいな話でしょ?
里親も募集はしてたわけだけど、まあ当然、この容姿じゃ奇異の目で見られるだけで、引き取り手なんか見つからなかった。
日々を送りながらノールキア語を習得して、学校に通い始めたのは中学校から。初等教育は全部自己学習だったけど、有名財閥の娘だからね。英才教育を受けてたのよ。だからぶっちゃけ、そこら辺の課程は全部終えてたから、特に困ることはなかった。
髪は学校に通い始めてから毎日染めてる。真っ黒な髪に青色の目の人種なんて、テマヒヴィニアンくらいだからね。存在するだけで世界的にも絶大な軍事力を誇る大国に狙われる対象になるのだから、迷惑を通り越して私は恐ろしい存在よね。まあ、目の色を変えるのは無理だったから、髪の色だけ変えて、ハーフって設定で今まで生きてきたんだけど。
え? どうやって軍人になったのか? 中学校を卒業してから、士官学校に入ったのよ。これはもう、中学に入る前から一人で決めてた。士官学校に入るには武術試験があったけど、まあそんだけ前から準備してれば、女でも合格できないことはなかったわよ。
軍人になろうとした理由?
——強くなって、国民を守って、少しでも私みたいな子を減らせるように⋯⋯⋯⋯とか、綺麗な理由が言えたら良かったね。でも違う。そんなんじゃない。
死にたかったからよ。
そう。私はずっと死にたかった。愛してた両親も、大切だった友達も、帰れる家も故郷も何もかもみーんな失ってまで、私は生きたくなかった。だから両親が私を勝手に船に乗せて逃したのは、完全に余計なお世話。みんな死ぬなら、私だってそこで一緒に死にたかった。
けど、私は生かされた。自殺だって考えたけど⋯⋯⋯⋯普通に死ねなくない? 両親が死に際で全力を注いだのは、私を生かすことだったのよ? 私が死ぬということは、その両親の頑張りを全部否定して、無駄にすること。それが全部わかった上で自殺なんて図太いこと、私にはできなかった。親のことは愛していたしね。
それで考えたの。両親の頑張りを否定しない死に方。それで出た結論は、軍人にでもなって殉職すること。
軍人はさ、人を守るのが仕事じゃない。他人の命を守って私は死ぬ。それだったら世間体もいいし、両親だってきっとあの世で、よくやった、って褒めてくれるだろうって思ったの。
それからは文字通り、死ぬ気で訓練したわよ。士官学校に入学しても、男女のハンデは大きい。それをカバーできるように、必死で訓練して、自主練して、勉強もして。過労死するならそれでもよかったし、訓練中に事故起こして死亡するでもよかった。だって私は死にたいんだもの。怖いものなんかないに等しかった。
でもそういう人間ほど、天は簡単に殺してはくれないのよね、不思議なことに。どんなに危険な訓練をしようと、結局私はこの通り、今日まで生き残ってる。士官学校なんか、なんと主席で卒業しちゃったのよ? 皮肉なものよね。
卒業してからは、勧誘を受けた憲兵隊に所属して⋯⋯それからは普通に仕事してた。士官候補生だった四年間、私は死ぬために必死に訓練してたわけだけど、結局生き残っちゃったし、やっぱり人間、そう集中力は続かない。疲れちゃったのよ、一日中死にたいって思いながら過ごすのに。だから、憲兵になってからはただ漫然と過ごしてた。
とりあえず事件は積極的に調べて、積極的に関わって解決してた。自分から事件に巻き込まれに行った、ってとこね。それで死ねたらラッキー、くらいに思って。
でもやっぱり全然、私の身には何も起こらなくて。そうやって仕方なく仕事に人生を捧げたような生活を送り続ける中で⋯⋯君に出会った、と。
ねえ、ルイス。私は君が思うような立派な人間じゃない。他人の命やこの国のことを想って、守ろうとしているようで、自分のことしか考えてない。他の人を大事にしてるんじゃなくて、自分のことを粗末にしてるだけ。両親に大切にされたにも関わらず、ね。
君にも少なからず嘘は吐いてきたし、ぶっちゃけ、猫被って接したときもある。私、今でも帝国の人間が憎い。濃紺の髪に赤い目⋯⋯思い出しただけで殺意が湧く。例えそいつが軍人じゃなくても、女でも、小さい子供でも、誰であろうと許せないし、実際に見たら皆殺しにしたくなるんだと思う。
ルイス。君は言ったわね。私のこと、『綺麗だ』って。君が想いを寄せていた綺麗なオリビア・アズウェルはもはやいないわ。私の本音は今言った通りで、結局私は汚くて醜くて嘘吐きで死にたがりの、救いようもない人間よ。
それでも君は————私のことが、まだ好き?
***
オリビアさん。俺ね、何もなかったんです。あなたと出会うまで。
俺、結構器用なんですよ。⋯⋯ええ、自惚れてるんじゃないんです。寧ろ、こんな能力なければ人生違ったのかなって、本気で何度も思いました。
結構器用だから、苦手なこととかできないことって、特になくて。何をやっても大体うまくできるし、何とかなる。困るようなことや大変な思いすることは滅多になかったんです。あってもすぐに解決できたし。
周りの環境にも何の問題もなし。極めて平和で平凡、代わり映えのしない毎日を送っていました。
別にそれらに不満はないし、幸せな証拠だって感謝もしてます。
でも⋯⋯なんとなく、虚しかった。そこだけ俺は、みんなと違ったんです。みんな好きなものや、本気になって取り組める何かを見つけて、それらを極めて、笑って、泣いて、怒って、悔しがって、楽しんで。人間らしく、キラキラと生きてた。
けど俺は、そんなものひとつも持ってなかった。何をやっても、何も感じなかった。勉強も、スポーツも、料理や裁縫も、楽器に美術も⋯⋯ある程度の結果を残して、『あ、上手くできた。よかったな』くらいにしか思えず終わる。
俺の中じゃ、毎日が凪いだ波のようで、何の変化もなかった。
それなりに努力もしたんですよ。小学校を卒業してから、今まで全く経験のない軍学校に入学して、勉強や訓練もして⋯⋯けど、そこでも何もなくて。卒業してから軍へ入隊を勧められましたけど、結局ピンとこなくて辞退しちゃいました。
その後は高校に入学して、色んなバイトも試したんですけど⋯⋯やっぱりダメでした。
告白されたことも何回かあって、その度に女の子と付き合ってみたり——とかもやってたんですけど、いつも大して長続きせずに、あっちの方からフラれちゃうんです。その時女子たちは、みんな総じてこう言うんです。『私のこと、好きじゃないでしょ』って。
別にそんなことなかったんですよ。みんな嫌いじゃなかったし、デート行っても、嫌じゃなかった。俺なりに、彼女たちと向き合ったつもりでした。何がいけないんだろうって、ずっと思ってました。
けど、あなたに初めて恋してから分かった。確かに、熱量が桁外れだ。俺が女の子たちに抱いていた愛情と、告白してきた時の彼女たちの愛情。それは質も量も、まるで違う。別物でした。
まあそんな感じで学生時代を終えたんですけど、興味のあることもなかったから、卒業後はとりあえず、同じ町で暮らしてた祖父の店を手伝い始めたんです。両親はその後すぐに都市に稼ぎに出ちゃいましたけど、俺はこの町に残りました。今思えば、もう諦めかけてたんですよね。それなりに努力してた頃なら、両親に付いて行ったんでしょうけど。
そして今、祖父の店を手伝い始めて四年。きっとこの先もずっと、平和で凪いだ世界で生きるんだろうなって思いながら、何となく日々を過ごしていたとき——あなたと出会った。
あなたは他の誰とも違った。強くて、凛としてて、綺麗で、かっこよくて。なのにちょっと抜けてるところがあって、おっちょこちょいで、可愛くて。
⋯⋯ふふ、すみません。怒らないで。
あなたを知れば知るほど、俺の知らないあなたが出てくる。その一つひとつに魅力があって、気づけばのめり込んでました。まるで沼みたいに。
⋯⋯それにね、あなたのことだけじゃないんです。あなたといると、その周りの景色も何もかも、違って見えるんですよ。
俺、あなたと出会うまで、空模様がこんなにも違うこと、知りませんでした。それまで俺の中じゃ、晴れ、曇り、雨くらいしかなかったんです。けどあなたは、待ち合わせた時、毎回いつも最初に空の話をする。『今日は青が濃いね』とか『雲の流れが速いね』とか『鱗雲が大きくなってきたから、これから雨が降りそうね』とか。そういう話題一つ取っても、俺には全てが新しかった。
ねえ、オリビアさん。以前あなたは言いましたよね。俺のこと、『優しい』って。
確かに、あなた以外のことは、優しいかもしれない。⋯⋯いや、違うな。無関心、なんです。別に、欲しくもないから誰かに譲る、ってのを繰り返していただけで。
でも俺、あなたのことになると、優しくなんてなれない。どうしようもなく、あなたが欲しくなる。俺の知らないあなたの表情や一面を全部知りたくなる。けど反面、その全部を俺だけのものにしたい。誰にも見せたくない。時々、俺の知らないあなたが、他の人は知っていたらどうしよう、なんて、焦ったり、苛立ったりもしました。はは、みっともないですよね、俺。けど俺自身も、こんな経験したことないからちょっと戸惑ってるんですよ。
まあそんなわけで、俺、あなたを手放す気なんて最初からさらさらないですよ。
それに俺——嬉しかった。
あなたがこうやって全部話してくれたこと、こうやって全部見せてくれたこと、こうやって俺とまた一緒にいてくれること。
——俺、あなたのことが好きです。あなたの全部が、好きです。あなたが嫌いなあなたも、俺は好きです。
殺人衝動? 実際に犯してないならいいじゃないですか。寧ろ、オリビアさんにも人間らしいところがあったんだ、って安心できたくらいです。
大丈夫。やっぱりあなたは、俺の好きなオリビアさんですよ。俺の気持ちは、変わってません。
⋯⋯オリビアさんは?
***
「好きだ、ルイス」
彼女はルイスを振り返り、泣きそうな顔をして笑った。
——誰もいない池の中で、二人そっと、触れるだけのキスをした。
***
〈十二月四日午前十時〉
「もう挨拶はいいのかい?」
開店前の『セレナーデ』の店内で、ウンベラータに水やりをしていたセスが、たった今帰った孫を振り返った。
その両手には、とんでもない量の土産を抱えている。花束、野菜や果物の詰め合わせ、お菓子、パン、その他日用品などなど。挨拶に回っていたら顔見知りの皆からプレゼントとして渡され、いつの間にか抱えるほどの量になっていた。
「うん。近所には一通り挨拶してきたし、病院にもお見舞いがてら行ってきたよ。聞いてよ、ランダンったら、大泣きして俺に飛びついてきたんだよ。『遠く離れても、俺とお前の友情は変わらないからな!』とかずっと叫んでてさ。死にに行くんじゃないのに、大袈裟なんだよ」
「はは、情熱的な彼らしいじゃないか。それに実際、ルイスの一番の親友はランダンだろう?」
「そうだね。ランダンには振り回されっぱなしだったけど、今思えば、俺が何にも興味を示してないことがわかってたんだろうね。だからランダンは、俺をあちこち連れ回してた。ほんと、感謝してる」
ルイスは抱えたプレゼントの中の、真っ赤なハンカチを見つめた。ランダンが涙と鼻水でびしょびしょに濡らした顔を拭った後、『俺の涙と愛情をたっぷり吸い込んだハンカチ、受け取れ!』などと言って、無理矢理押しつけてきたものだ。
感情的な彼らしい、赤色。とはいえ汚いから、後で洗濯させてもらうつもりだけど。
皆から受け取ったプレゼントを荷物にまとめ、花束は手に抱え、ルイスはボストンバッグを肩に提げた。
「本当に行くのかい?」
セスが穏やかな顔で聞いてきた。
「うん」
「あの人が、ルイスの大切な人、なんだね?」
「⋯⋯うん」
事件が起きてから今日まで、セスはオリビアのことについて、ルイスに何も尋ねてこなかった。セスなりに気を遣ったのだろう。
通告状にオリビアの名前を見つけてから、ずっと、考えていた。
合点がいった。オリビアが細身の割に筋力があるのも、自分の仕事について話をしたがらないのも。全てはオリビアが軍人だからだった。
ではそんな立場にあるオリビアは一体何を考え、何を思いながらこの手紙を書いたのだろう、と。果たして本当に、自分は利用されただけなのだろうか、と。自分が惹かれていた彼女は、全て虚像に過ぎなかったのだろうか、と。
オリビアが来てから上手く行かなくなった武器の密輸、町長の一件。全てにオリビアが関わっていたとするなら、どれもこれも回りくどすぎる。まるで──住民側はもちろん、軍側にも、自分の働きを知られないようにしているみたいだった。
そして思い立った。路上ギャンブルの一件は、どう考えてもオリビアは住民側に回っていた。オリビアが要塞建設を支持していたのなら、こっそりと兵士を呼んでおいて、その目の前でイカサマを見抜くこともできたはずだ。
あの時オリビアは周りの人間に、口外しないようにと念を押していた。あれは軍側に、住民が問題を起こしたことを知られないようにすると同時に、自分の働きを隠蔽する意味もあったのではないだろうか。
ではなぜそんなことをする必要があるのか。結論は意外と簡単に出た。
オリビアは、住民を守ろうとしていたのだ。軍人という立場を最大限利用して。
憲兵からそういった指示を受けたのか、オリビアの独断かは知らない。けれど、オリビアの行動は一度考えたらそうとしか思えなかった。
だって、強行にはオリビアが来た。逆に、オリビアではなくダコタだったらどうなっていただろう。重火器の使用も厭わず、住民は皆殺しにされてもおかしくなかったはずだ。けれど、オリビアが今まで表立って住民側の支持をしていたら、ダコタは警戒して、その強行をオリビアに任せることはしなかったはずだ。
どれもこれも、彼女の今までの回りくどいような働きがなければできなかった話。
この町⋯⋯いや、国の運命は、あの細い女性一人に全て託されていたのだ。そしてそれは——俺も同じ。
ルイスもオリビアに守られる対象でしかなかった。あの女性は国全体の未来を考えて行動していたにも関わらず、自分はその女性に気に入られることしか頭になかった。何度か一緒に出かけて、それで彼女のことを理解した気になって、本気で付き合えると思っていたのだから、今思えばあまりにも馬鹿すぎて、いっそ笑えてくる。
池の中で話をした時、彼女は自身を、自分のことしか考えていない人間だと言った。けど、それはこちらのセリフだった。彼女に守られているなんて知りもしないで、いつもの日常を当たり前のように過ごして、その上その守護者からの愛を乞うて。愚か者は、自分の方だった。
けれど同時に——オリビアの隣に立ちたいと、自然に思う自分がいた。
——オリビアと対峙した時。
美しい、と思った。
銃口と共に、真っ直ぐに向けられた視線。とにかく何もかもが真っ直ぐで、混じり気のない、本気の表情がただただ美しかった。
撃たれるなら、それでもよかった。それで彼女の功績の一部になれるならそれもいいと思ったし、仲間を裏切ることにはなるけれど、その代わり、全ての責任はルイスが取るつもりだった。万が一に備えて、その手配も進めていた。
しかし、その崇高な美しさだけがオリビアではなかった。彼女はそれと同じくらい——弱さを持った一人の女性だった。
自分の持つ髪色を毎日毎日、一日たりとも欠かさず染め続けた彼女の心境はいかほどのものだろう。悲しみか、憎しみか、それとも金髪への羨望か。何にせよ、少なからず辛い思いを抱いてきたことだろう。それを思うと、胸が詰まった。
守られるだけじゃなくて、自分も彼女を守れるような、そんな存在になりたかった。本気で彼女のことを好いているなら、一番に頼られる存在でありたいと願った。彼女が困っている時、一番に助けを求められる人間になりたかった。
オリビアは、ルイスの凪いだ世界に、色を与えてくれた。世界はこんなにも綺麗だったのだと教えてくれた。だから——
「もう行くね」
ルイスはドアノブに手をかけ——そこで、祖父の方を振り返った。
「セス。今までありがとう。こんな情けない俺を、今まで面倒見てくれて」
「私は別に、何もしていないよ。ルイスが自分で見つけた宝物、大切にしなさい」
「うん。じゃあ——」
——行ってきます。
ドアを開け、ルイスは店の外へ踏み出した。
途端、眩しいほどの太陽の光がルイスを照らし、彼は反射的に右手を目元にかざした。
***
「ふふ、昔の私みたいに、ルイスも良い男になったね、カーラ」
セスは一人、静かになった店内で、亡き妻に語りかけた。
「私のお願いをちゃんと聞いてくれてありがとう。今度君の好きなパイを焼いて持っていくよ。⋯⋯血なのかねぇ。本当に、昔の私そっくりだよ、ルイスは。パッとしない毎日に、突然星のように降ってくる存在がいて、気づいたら私たちも結婚していたね」
窓から店内に差し込んだ光が、セスの左薬指にはまる指輪を照らし出す。
「次にあの子に会う時が楽しみだ」
セスの言葉に反応するように、窓から優しい風が吹き込み、セスの髪を揺らした。
***
〈十二月五日午後一時〉
す、と静かにデスクの上に差し出された封筒に、タイラーは深い溜め息を吐かずにはいられなかった。
「朝から基地中を騒がせておいて、今度はこれか」
真っ白な封筒には、『退職届』の淡白な文字。
デスクに置かれたそれを挟んで向かい側に立つのは、よく見知ったはずの、けれど見慣れない、もう少しで毛先が床についてしまいそうなほど長い黒髪を下ろしたオリビア——であるはずの女性だ。
今日彼女は有給を取っていたはずだが、なぜだか軍服を身に纏い、タイラーに面会する目的で基地に姿を現した。
今日タイラーはとある理由のため、一日事務作業をする予定で、隊長室に閉じこもっていた。タイラーは普段、午前中はどこかしらの訓練場に赴いていることが多い。今日出勤していた者には居場所を伝えていたので、誰かに聞けばすぐに場所が分かっただろうに、訓練の邪魔をしてはいけないと思ったのだろうか、オリビアはタイラーを探して基地中の訓練場をしらみ潰しに探してしまったのだ。
結果、様子がおかしすぎるオリビアが、基地内を歩き回っていたと瞬く間に噂になった。それを聞きつけて、タイラーはようやく基地に放送を入れてオリビアを隊長室に呼び出したのだった。
——にしても。
本当に別人なのではないかと疑ってしまうくらいだ。噂が広まる理由は痛いほどに分かる。
いつも真っ直ぐ前を向いている顔は、今日は終始下がりっぱなし。その表情も弱々しく、平時の凛とした雰囲気は消え失せている。それでもピンと伸びた背筋は、彼女の元々の体位だからか、それとも、世話になった上司に対して挨拶をしなければならない責任感からか。
どちらにせよ、そのアンバランスささえもが痛々しく目に映る。
「すみません。でも、もうとても続けられません。本当は、この服を着る資格すらないんですが、着なきゃ隊長に会えないから」
オリビアは身を縮こませるようにして、自身の軍服の裾を、ぎゅっと強く握った。
「なんでそう思った」
「詳細はそれに——」
「俺はお前自身に聞いている。これは最終的に国王直属の国防に届くものだ。俺が納得できるだけの情報量が書いてあるとは思えん」
ここまで弱っている彼女に問い詰めるのは酷なことだと分かっているものの、事態が事態だ。彼女の本音は聞いておくべきだろう。
「⋯⋯あいつを、庇おうとしました」
絞り出したような声は、それだけ言って口を閉じた。
『あいつ』。
タイラーの中で、すぐに思い当たった人物がいた。
「ルイス・リクーア、だったか? 今回の市民側のリーダーだった」
オリビアは僅かに目を見開いたが、すぐに先程の表情に戻り、こくんと小さく頷いた。
「⋯⋯やっぱり、隊長は見ましたよね。あれはどう考えても任務不遂行です。私は情を優先させました。何の責任も持たない、自分勝手な行動でした。仲間が危険に晒されることも、分かっていたのに」
「だから辞める、と?」
またもオリビアは頷く。
「あと、この髪を見ていただければ分かるとは思いますが、私は元々この国の人間じゃありません。愛国心なんか、これっぽっちもないです。場合によっては国の命運を握り得る軍の一員としては、やはり私は役不足です」
今度は自身の髪を一束指で摘み、悲しげに瞳を揺らした。
「⋯⋯話は終わりか?」
「はい」
オリビアはその真っ青な目を、真っ直ぐにタイラーへ向けた。
「本気みたいだな」
「はい」
「そうか」
タイラーは一つ息を吐き、デスクに乗った白い紙を手に取って——封筒ごと真っ二つに破り割いた。
ビリビリィッ、と派手な音を立てた後も続け様に、ビリッ、ビッ、とどんどんその音を短くしながら奏でていく。
最終的に粉々になった紙切れを、タイラーはその場で指を開いて、これ見よがしに床に落とした。
青い目をまん丸くして、呆気に取られながらその一部始終を眺めていたオリビアは、ヒラヒラと舞う紙吹雪が視界から消える頃に、はっとしてタイラーを睨んだ。
「ちょっと、何するんですか?! 信じられない! どんな思いして私がそれ書いたと——」
「中尉、今お前は辞職の理由を二つ挙げたな。その一つ、任務不遂行についてだが、その証拠は?」
「え⋯⋯」
オリビアが言葉を詰まらせる。
「俺からお前に出した任務は、『市民側に被害を出さず、要塞建設問題を先延ばしにすること』だったはずだ。まあ、市民側に負傷者は出たものの、結果として死亡者ゼロ、命に別状がある者もいない。今回の責任を持ってダコタ少佐は罷免、要塞建設案は破棄。任務は全て遂行されている。これが実情だ」
「でも⋯⋯!」
「市民側を庇おうとした? 寧ろ俺が任務として頼んだことだ。その相手を『敵』とみなして、それを庇ったことに対して言及しているのか? しかし、それは証拠がない。証明ができないものは、ただの妄想でしかない。良くも悪くもな。——要するに、お前の任務については上出来という結果のみが存在するだけだ。だからお前が責任を取る事案は一切ない」
「っ⋯⋯、けど私は——」
「オリビア」
一言、名を呼んだだけでオリビアは口を噤んだ。
役職名なしで名前を呼ぶというのは、オリビアを軍人としてではなく、一個の人間とみなして話す合図だ。基本的に公私混同をしないタイラーが、仕事中に部下の名を役職名なしで呼ぶのは、異常以外の何物でもない。
「お前がこの国の人間ではなく、テマヒヴィナの人間であることくらい、とっくに把握している」
極めていつも通りの調子で、タイラーは言い切った。
オリビアは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「は、え⋯⋯⋯⋯はあ?!」
「何だ、俺が気づいていないとでも思っていたのか」
「いやいやいやいや、普通そう思うでしょう! 毎日毎日髪染めてやり過ごしてたのに!」
「別に髪を染めるのがいかんという規定はないし、大体、目の色は隠していなかっただろう。皆にはハーフだとか何だとか言って誤魔化していたみたいだが」
「⋯⋯そういえば、隊長から目の色のこととかは聞かれたことなかったような——いやでも、隊長の性格だから、てっきりそういうことに興味がないからだと⋯⋯。けど、青い目が特徴の国なんて結構ありますよ? なんでテマヒヴィナだと?」
「悲鳴の聞き分け方。以前に教えたな?」
「は、はい。悲鳴の語尾の母音には、普段発話している言語の発音の特徴がよく出るから、相手の出身国の手がかりが掴めるって⋯⋯」
オリビアはまだピンとこないような顔をしている。
「そうだ。それはオリビア、お前にももちろん当てはまる」
「それはそうですが⋯⋯私、軍に入隊してから悲鳴なんか上げたことないと思います。士官候補生時代でも、そう派手な悲鳴は上げなかったし⋯⋯」
「悲鳴にお国の発音の特徴がよく現れるその理由は?」
「咄嗟に出す声はいくら訓練しても矯正しにくいから、です」
「ご名答。そして咄嗟に出す声は何も悲鳴だけじゃない。オリビア、お前戦闘訓練で攻撃受けた時、腹に力入れると声が詰まるだろう。あれは声帯周りの筋肉——特に、声帯を閉じる役割を果たす外側輪状披裂筋が発達している証拠だ。だから身体に力を入れると、同時に声が詰まる。その特徴を持つ国で、かつ青目、その他諸々の細かい骨格も考慮すれば、自然とその答えに辿り着いただけだ」
オリビアは暫しポカンと口を開けていたが、突然、フッ、と吹き出すように苦笑いした。
「本当に⋯⋯隊長には全部お見通しなんですね。恐れ入りました。——けど、それが分かっていて、なぜ何も言わないでいたんですか」
やはりオリビアは、自身の人種に相当なコンプレックスを抱いているようだった。何十年と毎日髪を染め続けていたのだ。そういった心情を抱くのも無理はないだろう。
——らしくないな、と思った。少し考えれば、簡単に分かることなのに。
それを気づかせるべく、タイラーは口を開いた。
「当たり前だろう。使える人間かどうかが、人種なんぞで分かるか。オリビア、お前の苗字から察するに、帰化許可申請はしたんだろう? だったら、どこのどいつが何と言おうと、お前はノールキアの人間だ」
オリビアは真剣な顔でタイラーの話を聞いていたが、不意にグッと首を反らせ、上を見上げた。が、数秒で再び顔の位置を戻す。
「あー⋯⋯危うく隊長に泣かされるところでした。危ない危ない」
「何だそれは」
「鬼教官と呼ばれる隊長の前で泣いたらなんか負けな気がするので、軍に入った当初から決めていたことです。この人の前では絶対泣かない、いつかその無愛想な顔を面食らわせてやる、って」
そう言って、オリビアは勝ち気な笑みを浮かべた。
いつもの表情が戻ってきて、内心ほっと息を吐く。決して表には出さないが。
「ほう、それは殊勝な心掛けだな。なら、今度新しく考えた訓練メニューを⋯⋯と言いたいところだが、それももうできないな」
オリビアが首を傾げる。
「どういうことですか?」
「まだ皆には言っていないんだがな。オリビア中尉には大きく関わることだし、先に言っておいても良いだろう。もうそろそろ奴が来る頃だしな⋯⋯」
「奴?」
そもそも要塞建設問題にこれほど頭を悩ませた原因は、この人物にあると言っても過言ではない。こいつにどれ程の時間と労力を費やしたか知れない。その憎らしい奴の顔を思い出して、顔を僅かに顰める。
「ああ。二度手間になるし、本人が来たら説明し——」
話していると、コンコンッ、コンッ、とふざけたようなリズムでノックが響いた。
「噂をすれば何とやら。——入れ」
返事をすると、隊長室の扉が、バーン、と音を立てて、粗雑に開け放たれる。
「お邪魔しちゃいまーす」
聞こえてきたのは——嫌でも認めざるを得ない、自分とそっくりな声。
思わずため息を漏らしてから、その顔を見上げる。
部屋におもむろに入ってきたのは——
「え⋯⋯え? た、隊長が二人⋯⋯?」
「お。お姉ちゃん綺麗だねぇ。この後二人でどっかお茶でも——」
「入室十秒で俺の部下を口説くな。相変わらずだな、レスリー」
「おぉ、そっちこそ相変わらずの堅物だなぁ弟くんよ」
「その呼び方はやめろと何度言ったら分かる。兄と言っても五分だけだろうが」
「はは。ほんと、そりゃあ人生最高の五分だなァ。お前にとってはそれだけでも、兄は兄。覆せない事実さ。ほら、弟らしく『お兄ちゃん』って呼んでみ?」
「あ、兄⋯⋯?」
オリビアが会話の流れに付いて行けず、困惑しながら呟く。それもそうだろう。
「すまない、紹介が遅れた。こいつは俺の双子の⋯⋯一応、兄である——」
「レスリー・ブルームでっす〜。どうもどうも、不肖の弟がお世話になっておりますぅ」
「あ、いえ、その⋯⋯オリビア・アズウェルと申します⋯⋯」
オリビアは分かりやすく狼狽えながら、何とか自分の名前を述べた。
なかなか珍しい光景ではあるが、そうなる気持ちも頷ける。
「オリビア中尉、何か言いたいことがあるなら素直に言え。こいつはまあ、こんな感じでヘラヘラした性格をしているし、多少——いや、大分失礼なことを言っても怒らんから」
「めッッっっっちゃくちゃ似てますね。え、いや、そっくりもここまで来るとクローンですよ。同じ表情で隣に並ばれたら、どっちがどっちだか見分ける自信ありませんもん」
オリビアは内に溜めていたものを吐き出すように口を開いた。
「ただその⋯⋯」
ここでオリビアが視線を泳がせて口籠る。言いたいことは大体想像がついた。
「いいぞ、続けろ」
「正直性格正反対すぎて気持ち悪いです。顔も声も隊長なのに、ニコニコヘラヘラしてて、口説かれた時、一瞬悪夢でも見てるのかと思いました」
オリビアは心底不気味な光景を見たような顔で、そう早口で捲し立てた。
そう、タイラーとレスリーは一卵性双生児の双子である。それも、奇跡と言えるレベルでそっくりな。タイラーは自身でも、レスリーと瓜二つなことを自覚している。
「なっははー、言うねぇ、オリビアちゃん。タイラーの分の表情筋は、母親の腹ん中で全部俺が持ってっちまったからな。こいつの表情筋は死んでんだ」
レスリーはニカッと笑いながら、タイラーの頬を指でつついた。タイラーはその指を鬱陶しいと振り払う。
「うわあぁ、その顔で安易に笑わないでください! 隊長が崩壊してしまう⋯⋯」
オリビアはついに両手で顔を覆い、目の前の光景を遮った。
「お前は双子を、同じ魂を共有する特別な何かだとか思っているのか? だとしたら、断固として違うと断言しよう。こいつと俺は全くの別物で、こいつが笑っても俺は崩壊しないから安心しろ」
「まあ、マジでこの見た目からは想像つかないくらい俺らの中身は正反対だから、無理もねぇよ。言われ慣れてるし」
レスリーは諦めたように両手を広げ、肩をすくめた。
「えと、それで隊長のお兄様とさっきの話、何の関係があるんですか?」
少しは気持ちが落ち着いたのだろうオリビアが、顔を上げて尋ねた。図らずも本題に入る。
「ああ。実は隣国との不可侵条約を結んだ、ブランカ女王陛下代理というのがこいつだ」
「⋯⋯⋯⋯え?」
オリビアは信じられないものを見るような顔で、レスリーの顔を見上げる。
何だか今日は、オリビアが驚いてばかりだ。
「ん? そんなに俺のこと見つめて、ひょっとして俺のこと気になる?」
「恐らくあなたの言う『気になる』とはまるっきり意味が違いますけど、そうですね。気になります」
「お、気になっちゃうか! じゃあ二人でゆっくり話せる場所で——」
「違うと言ってるだろうが。話がややこしくなるから俺が説明してやる。結論から言って、ブルーム家は子爵位を与えられた一族だ。立派な貴族一家なわけだが、正直パッとしない家だ。貴族位と言えども、家は何百と存在する。お前が名前も知らないのは当然だ。もちろん落ちぶれたりなどはしていないが、もっと上の階級の貴族はいるし、そもそも子爵位の中でももっと有力な家はある。それに比べ、ブルーム家は伯爵家と共に地方行政の補佐や小都市の管理など、与えられた仕事を淡々とこなすだけの、至って普通の子爵家なわけだ」
「そ。んでさー、聞いちゃってよオリビアちゃん。タイラーったらよぉ、『周りのお偉い様たちにヘコヘコしてお伺い立てるのは性に合わん』とか言ってさ、勘当同然で家を飛び出しちまったんだぜ? ま、勘当制度は法律で正式に認められてねぇから、仕方なくブルーム姓を名乗っているがな。実際、タイラーは士官学校に通うと同時に家を出て行って、それっきり実家には帰ってねぇんだ」
「えっ、そうだったんですか。まあ、隊長らしいと言えばらしいですが」
「お前も他人のことは言えないだろうが。世界中ウロチョロしやがって。世界の国政調査などと分かりやすい名目を嘯いて、勝手気ままに放浪していたくせに。おかげでお前を探すのにどれだけ苦労したことか」
手がかりが一からどころか、ゼロの状態からのスタート。ここ最近の苦労を思い返すだけで頭が痛くなる。タイラーは思わず自身のこめかみを押さえた。
「いやいや、国政調査は強ち嘘じゃねぇって。ちゃあんと報告書も書いて、実家に送ってたしな。父さんはまだバリバリ元気現役だし、俺が心配する必要はねぇかなって判断しただけさ。しかもよぉ、俺がお前の言う『放浪』をしていたからこそ、お前は俺を頼ったんだろ? 隣国の言語、情勢、課題、みんな分かってるから」
「お前の外遊に関して咎めるつもりはない。俺はただ、行き先を誰にも、それこそ実家にすら告げず、気まぐれにふらふら色んな国を回って、気ままに報告書を書いて一方的に送りつけるだけの、お前のやり方について言及しているんだ。勘当された俺はともかくとして、縁を切る覚悟がないなら両親にくらい居場所を報告したらどうだ。それと、他国の国政調査なんぞする前に、自国の情勢についてくらい知っておけよ」
「まあ、それは悪かったって。まさか俺が国王代理になるとは思わないじゃん? けど俺のスキルが役立って結果オーライだったんだし、許せって」
「あの、実際不可侵条約締結までの期間って、一体どれくらいだったんですか?」
オリビアが控えめに尋ねた。
「ああ、こいつを発見してから隣国に送り出したら、その日中には締結された。後から聞いた話だが、条約締結までのまともな話し合いは一時間もかからずに終了したらしい。隣国側からは戦争のせの字も出なかったそうだぞ。何でも、隣国の首脳が突然感動して泣き出しながら、まともに条約内容も見ずに調印したとか」
「どういう状況ですかそれ⋯⋯」
「それは俺が一番聞きたい」
「えっへん! 俺の実力にかかればこんなもんよ!」
レスリーは分かりやすく両手を腰に当て、鼻を鳴らしている。
そんな兄を無視して、タイラーはオリビアに話を続けた。
「女王からは正式に王位継承の話が出ている。近いうちに選挙が行われる。が、女王代理として条約を締結した以上、十中八九こいつが当選するだろう。子爵位から国王が出るなど前代未聞ではあるがな、制度的には何も違反していない。ともあれ、ブランカ女王陛下の退位に伴った辞職ラッシュが予想される」
「あー、私も文書で読んだだけですけど、もう一種の恒例になってますよね」
そう、ノールキアでは、王位継承が行われる度に、数多くの官僚や軍人が一気に辞職するケースが起こっているのだ。
理由は簡単。それらの職は国王に忠誠を捧げるからだ。それが『国王陛下』という括りならばまだしも、現在であれば『ブランカ・リジェリオ国王陛下』その人に忠誠を捧げた場合、国王退位と共に忠誠が失われると考える者がいるのだ。ある意味、それは本物の忠誠だったということで尊重されるべき姿勢かもしれないが、それよりも人手不足は深刻な問題だ。一時的にとはいえ、国が不安定になる可能性があるのだから。
「ああ。だからその対策として、いくらか人事調整が行われることになった。というわけで、俺が近衛隊に異動になる」
「えっ⋯⋯隊長、金縁になるんですか」
軍の徽章は、それぞれ地方に配置されている駐屯兵が緑、憲兵は銀、そして近衛兵は金で縁取られているため、近衛隊は金縁と呼ばれることがある。
「ああ。そうすると、憲兵の隊長に穴が出る。その後任は——」
タイラーは自身の軍服の内ポケットに手を入れ、続いて胸についていた憲兵隊隊長を表す徽章を外し——その手を目の前に突き出した。
「オリビア大尉、君を推薦しようと思っている」
オリビアは目一杯瞠目し、今日一番の驚愕をその顔に浮かべた。
「いや、あの⋯⋯昇進は大変ありがたいお話ですが、実役停年がまだ足りません」
実役停年とは、軍人がある階級で勤務した年数のことである。この中には、休日や停職の日数は含まれない。
ノールキアでは、軍人は階級ごとに進級に必要な実役停年が定められており、それを満たさなければ進級できない。ちなみに中尉から大尉に昇進するには、実役停年は二年必要である。オリビアは二十二の時に中尉の階級を賜った。
「そりゃあ、例外として認めるしかなくね? 国の平和に大いに貢献した英雄なんだからさ、実役停年に拘って報奨金の他に何にもあげないってなったら、世論が大荒れになっちまうぜ」
レスリーが口を挟んだ。
国王として選定された暁には、その権限を認める張本人となるからだろう。
「でも、いずれにせよ隊長になるには佐官以上でないと。私じゃ階級不足ですよ。それこそ世論が大荒れです」
「そこはお前の働き次第だ。身を粉にして働け。それで早いとこ少佐の等位を得ろ。そうすれば何も問題ない」
「簡単にとんでもないこと言いますね。特例で昇級させてもらったのに、まだそんな無茶言うんですか⋯⋯」
オリビアは呆れたように呟きながらも、その口元には笑みが浮かんでいた。
「でも、ローレンス大尉が既にいらっしゃるじゃないですか。彼を少佐に昇進させて、隊長にするのが筋じゃないんですか」
「ああ、彼には話をつけた。曰く、『僕には愛する妻と可愛い子供が二人いるんですよ? 隊長業で残業漬けにさせるくらいなら、退職するまでずっとこの階級のままでいいので、家に帰して皿の一枚でも洗わせてください。そもそも僕、隊長なんて柄じゃないですし』だそうだ」
「大尉、何気に私を残業漬けの犠牲にしてますね」
とは言え、ローレンス大尉は愛妻家かつ子煩悩で、憲兵隊の中でも有名なため、オリビアも苦笑いで許すしかないのだった。
「それで、どうする?」
タイラーはずっと、オリビアに向かって徽章を握った拳を突き出したままだった。
オリビアは——穏やかな笑みを浮かべながら、タイラーの拳の直下に、両手で作った受け皿を差し出した。
「正直私は⋯⋯自分の命を落とすべくして、軍に入りました」
オリビアが静かにそう告げても、タイラーは別段驚かなかった。それは何となく理解していたからだ。
自ら死に向かっているとは思わなかったものの、身の危険を顧みていないのは、訓練や任務の取り組みぶりですぐに分かった。
だからまずタイラーは、受け身の取り方や作戦が失敗した際の対策などを教えるより、己が知識を全て叩き込んだ。
オリビアは自身の生に無関心だ。だから危険の回避や方法を教えても、彼女はまず実践で使おうとしないだろうと判断した。技術を身につけても、使わないのでは意味がない。
こういうときにはああしろ、ああいうときにはこうしろと事細かに指示し、彼女自身に考える余地を与えないことで、死へと向かう選択を奪ったのだ。
オリビアは幸い、頭が良かった。
タイラーから教わったことをスポンジのように吸収し、一度教わったことは忘れなかった。彼女は何事もまず頭で噛み砕いてから実践に移すタイプで、物事を効率的に行うことができ、無駄がない分成長速度も凄まじかった。群を抜いた彼女の出世ペースはそれ故だったと言える。
「でも隊長は、『自分の身を守ること』は一切教えなかった。受け身や退避の方法は、あくまでも他の仲間、ひいては国に迷惑をかけないようにするためのものだった。個人より集団全体を考える人だった。人によってはそれを冷酷だと非難するかもしれない。でも、今思えばそれは私の心を救ってくれていた。ほんと、今までなぜだか気づかなかったけれど、入隊当初は殉死することばかり考えていたのに、いつの間にか任務を遂行することに集中するようになっていた。死にたい思いが消えたわけじゃなかったけれど、隊長から教わることは全部が新しくて、興味深くて、実践でも役に立ったことは本当に、数が知れませんでした。だから——」
オリビアは口角を上げ、ニ、と気負いの表情を浮かべた。
「尊敬する先輩の後任——謹んでお受けいたします」
タイラーは、普段滅多に変わらない表情を、ふと少しだけ、ほんの少しだけ緩めながら、二つの徽章をオリビアの手の中に譲り渡した。一つは大尉を表す徽章、もう一つは憲兵隊隊長を表す徽章である。
「さて、憲兵隊隊長として、お前に初任務をやろう。新人教育だ。——入れ」
身体の向きを変えて、ドアの方向に向かって声をかけると、コンコン、と控えめなノックが聞こえてきた。
「失礼しまーす」
入ってきた人物を一目見たオリビアは——眉根を思い切り寄せて怪訝な顔をしながら、身体を硬直させた。
「今日から憲兵隊に配属されました、ルイス上等兵ですっ」
語尾にハートマークが見えそうなほど甘い声で、ひどく嬉しそうに挨拶する男は、端からオリビアしか見つめていなかった。
さて、当の本人は——
「⋯⋯はあ?」
口をあんぐり開けるしかないのである。
***
「というわけだ。まずはオリビア大尉、こいつを一から育ててやれ」
この人は何を平然とした顔で言っているのだろうか。
「いやいやいや。な、ん、で! そもそもこいつがここにいるんですか!」
「ん? 今彼が言った通りだ。彼は今日から憲兵隊配属になった」
「憲兵になるには佐官以上の軍人の推薦が必要なはずでしょう!」
「ああ、それならここにあるぞ。ほら」
タイラーはデスクから一枚の紙を取り出して広げ、未だ腑に落ちない態度を示すオリビアに見せる。
確かにそれは、どこからどう見ても正式な推薦書だった。
推薦者の名前には、何やら聞き覚えのある名が記されている。
「ギメル中佐って、あの『オネエ中佐』って呼ばれることで有名な?」
ギメル中佐は腕利きの軍人なことで知られているが、同時に癖のありすぎる人物としてもよく噂されている。なんでも、端正な顔立ちの男を見ると、とんでもない力で即とっ捕まえて、ウザ絡みをしてくるらしい。
「はい! 軍学校時代の俺の教官だったんです。『ルイちゃんのためならどこでもなんでも書いちゃうわん』って快くサインしてくださいました!」
「軍学校卒業時の成績も見せてもらったが、申し分ないぞ」
タイラーが別の紙を指の間に挟んで、ヒラヒラと示してくる。
「ちょ、見せてください!」
食い気味にタイラーに迫り、その手から紙をひったくる。
その紙には、卒業時にある実力試験の結果がずらりと並んでいた。
「嘘⋯⋯主席合格?! しかも座学以外、全科目私より上じゃない!」
卒業時に受ける実力試験は、軍への入隊適正検査の役割も兼ねているため、軍学校も士官学校も、全く同じ内容のものを受験する。すなわち、数値を比べるだけで優劣がはっきり分かるということ。
——何が『結構器用なんです』よ。器用貧乏なタイプなんだと思ってたのに、これじゃ器用富豪じゃない。
オリビアはショックを受けた顔を隠そうともせず、ギリ、と歯を軋ませた。
「ただ、最終的な決定打になったのはお前の報告書があったからだぞ」
「え?」
「住民側の指導の全般を担当していたのは彼だそうじゃないか。一通り目を通したが、作戦の立て方から実行まで、軍人としての素質、器量は十分にあると判断できたが?」
オリビアは思わず自身のこめかみを押さえ、項垂れた。
まさか自分の書いた報告書が、彼の入隊を後押ししてしまうなど誰が考えただろう。
「これからよろしくお願いします、オリビアさん」
またもハートマークを錯覚させるような甘ったるい声で、真新しい軍服に身を包む目の前の男は、嬉しさを余すことなくその表情に浮かべ——あろうことか上司もいる目の前で、オリビアの両手をぎゅっと握った。
オリビアの中で、カチン、と何か穏やかでないスイッチが入った。
「近い! 離れて! それから隊長と呼べーー!!!」
穏やかな晴れの日、中央憲兵隊基地に、新たな軍隊長の叫びが響き渡った。
***
〈十二月十日午後三時〉
「よ⋯⋯っとお。ったく、次期国王様に引っ越し準備させるとは何事だよ」
「まだ選挙は始まってもいないだろうが。迷惑かけた分、手伝え」
「へいへい。まあいいけどな。お前荷物少ねぇし」
憲兵隊宿舎にて、タイラーはレスリーにも手伝わせ、引っ越し準備として自室で荷造りを行っていた。
次期国王を決める選挙は二週間後に迫っている。新国体が樹立し、正式に新たな軍事体制が起動するまで、少しずつだが着実に準備は進んでいた。
「お、こっから猫ちゃん見える。休憩中みたいだな。⋯⋯ははっ、またじゃれあってるよ。ほんと、仲睦まじい夫婦だよなぁ」
レスリーは窓から、基地のグラウンドを覗いて呟いた。
『猫ちゃん』は、あの四本足の猫のことではない。レスリーはタイラーと話をするために度々憲兵隊を訪れていたのだが、たまたま訓練中だったオリビアを見てから、彼女のことをそう呼ぶようになったのだ。身体能力の高さや動きの俊敏さ、そして彼女の目元が猫に似ていることから来ているらしい。
本人は当初、『オリビアです』と呼ばれる度に訂正していたが、最近は諦めたらしく、猫ちゃん呼びされてもしっかり返事を返している。
タイラーもつられて窓の方を見やった。くっつこうとするルイスの肩を掴んで、鬱陶しそうに押しやっているオリビア。他の隊員たちは、今やお馴染みとなったその光景を笑いながら眺めている。
「おお、めっずらし。お前がそんな顔するなんて」
レスリーがタイラーの方を向くと、唐突に意外そうな声を上げた。
「そんな顔ってどんな顔だ」
「親の顔! 子供の成長を嬉しがる」
指摘された瞬間、言い得て妙だ、と素直に思った。
レスリーの言う通り、タイラーは内心安心していた。ここ最近のオリビアの様子が、以前よりずっと人間らしくなったと感じていたからだ。
オリビアはあの日から、自身の髪の色を染めなくなった。そして後日、隊全体にタイラーの異動とオリビアの隊長任命を告げ、それと同時に彼女は自身の出身を告白した。周囲は最初驚きはしたものの、オリビアが恐れたような差別や非難は全く起こらなかった。
それから、オリビアは周囲をよく見るようになった。もちろん長としての責任感もあるのだろうが、何よりも秘密を打ち明けられたことによる影響が大きい。自分一人の世界で生きていた彼女は、周囲の人間を認識し、信頼できるようになったのだ。
——ルイス・リクーア。オリビアに全てを打ち明けさせた、まさに鍵となる人間。
オリビアは自身の出身について話すことを、その文字通り、死んでもしないつもりだったのだ。オリビアの自殺願望が強かったのもあるだろうが、少なからぬ恐れを抱いていたはずだ。
が、オリビアはルイスに全てを話した。それはすなわち——自分の命よりその男を優先させたということ。
その証拠に、実際タイラーはその目で、身を挺して銃弾からルイスを庇うオリビアを目撃している。
自身の命さえ惜しくないと思える何かが、ルイスという男にはあったのだろう。
そしてそれは、恐らく——相手も全く同じことを考えている。
窓の外では、休憩を終えた隊員が、再び訓練に戻ろうとしていた。休憩中はふざけて合っていた二人も、訓練になるときっちり切り替えて、上司と部下の関係に戻る。オリビアはいつも通り、ルイスの指導という現在の仕事に集中している。
オリビアはもしかしたら一生、あの一瞬の真実を知らずにいるのかもしれない。
——タイラーが急いで『セレナーデ』の三階に向かい、まさに軍と住民の戦いが、物語で言う佳境の真っ只中に入っていた時。
部屋に足を踏み入れたタイラーがそこで見たものは、両手を広げルイスを背に庇うオリビアと——全く同じ体勢で、オリビアを背に庇うルイスの姿だった。
実はあの時、銃を構えたのは軍側だけではなかった。ほぼ同時に、住民側も一人、オリビアに銃口を向けていたのだ。
それに気づいたルイスは、図らずもオリビアと全く同時に、全く同じ方法でオリビアを守ろうとした。結果、オリビアとルイスは背中合わせで互いを庇いあっていた。だからルイスも多分、オリビアがあの瞬間、自分を守ってくれようとしたことに気づいていない。
「本当にお似合いだよ、あのカップルは」
タイラーは呆れながら呟いた。
——自分の命を粗雑に扱うのは関心できないが⋯⋯まあ、その分相手に傾倒し合っているなら、滅多なことがない限り大丈夫だろう。
オリビアは命をかけてルイスを守るし、ルイスも命をかけてオリビアを守る。お互いに、決して相手を死なすような真似を許さない。
——危なっかしい関係だが、ある意味最強の組み合わせなのかもな。
「ほら、手が止まっている。早く手伝え」
「へーへー」
タイラーは作業する手を再開させ、これから訪れるだろう新たな未来のための準備を、着々と進めていくのであった。
***
〈十二月十三日午前十時〉
「あ、オリビアさん! おはようございます」
「おはよう、ルイス。さて、行こうか」
場所は憲兵隊宿舎前。
オリビアとルイスは二人で休日を合わせ、出かける約束をしていた。
「えへへ、オリビアさんと久しぶりのデート、嬉しいです〜」
ルイスが頬を両手で押さえながら、蜂蜜のように甘くとろけた表情と声で言った。
途端に恋人という関係を意識してしまって、こちらまで頬が熱くなる。
「で、デートって⋯⋯! 君は今までロイマーグロールどころか、ラウレアイロから出たこともないって言ってたから、案内が必要でしょ! ラウレアイロは地方だからか、大分他人との距離が近かったけど、首都ではそんなに近所付き合いとかもしないから、距離感がだいぶ違うはずよ。社会勉強の意味もあるのだから、ちゃんと付いてきなさい」
「はい!」
ルイスがオリビアの隣に立ち、二人並んで歩き出す。
ふと隣を見上げれば、ラウレアイロで散々見慣れたはずの横顔が久しぶりに目に入って、ふと、隣に彼が並んでいることに安心感を覚える。
——もう、こうして出掛けることなんかできないと思っていたのに。
「俺たち、またこうやって一緒に歩けてますね」
オリビアは目を見開いた。まるで心の内を読まれたようで。
しかし、本当に嬉しそうに顔を綻ばせているルイスに裏があるようには到底思えなくて、彼も同じことを考えていただけなのだと分かる。
「ええ、そうね。けど、本来はもう少し先になる予定だったでしょ? 『必ず戻るから待ってて』って言ったのに、君の方からこっちに出てきちゃうんだもの」
「オリビアさんのことを信じてなかったわけじゃないんです。けど、俺も男ですよ? 好きな女性に全部任せて自分は待ってるだけなんて、面目も何もありません。それに、俺がそうしたかったんです。——オリビアさんの隣に、立てるようになりたくて」
ルイスは夢を語る少年のように、優しい声で言った。
「⋯⋯そう」
面と向かってそう言われると恥ずかしい。が、それ以上に嬉しさが込み上げる。
「私の隣に立ちたいだなんて、随分高大な目標を持ったものね。そう簡単には追い付かせないわよ? ルイス上等兵」
彼はオリビアを目標にして、努力しようとしている。器用貧乏ならぬ器用富豪の彼は、少し力を入れるだけであっという間に追いついてくるだろう。
しかし、それでは駄目だ。彼は初めて本気になろうとしているのだ。彼の『一番』になると心に決めたのなら、中途半端な応援をするべきではないだろう。
うかうかしていたら知らぬ間に追い越される。だったら、それ以上に自分も邁進して、いつでも彼の目標となれるように精進しよう。
——ルイスがいつまでも、私を追いかけてくれるように。そして私も、こうやってずっと、彼の隣を歩いていられるように。
オリビアの挑発は、ルイスの成長を願うと同時に、そうした自分への鼓舞の意味も含んでいた。
「っ⋯⋯はい! 望むところです!」
ルイスは顔をキリリと引き締め、意気込んだ笑みを浮かべた。そして——オリビアの手をギュッと握った。
「この手、離す気ありませんから」
「——ふふっ」
その表情が、握られた手の温度が、今までにないくらい逞しく思えた。ただただそれが嬉しくて、穏やかに晴れた午前十時の青い空に、思わず笑みがこぼれた。
後に、美しい黒髪に青水晶の瞳を持つ凛々しい女性と、桑色の髪に翡翠の瞳を持つ端正な顔立ちの男性が、その目覚ましい活躍により世間に名を残していくのは、また別のお話。
〈終わり〉
こんにちは、皆様おなじみおはぎです。
いやー、長かったですね。しかし今回で完結になります。
まだまだ表現の工夫や伏線の置き方などは勉強中の身ですが、これからも精進していきたいと思います。
ありがとうございました!




