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ノノメ  作者: 風風
修行の始まり
14/15

第十三章 ~ 地獄の鬼ごっこと遠い背中 ~

ゴボゴボッ……!

滝壺の底から、二つの影が水面へと打ち上げられた。


「ゲホッ、ゴホッ!ぷはぁーっ!」

トウマは、肺に入った水を必死に吐き出し、新鮮な空気を求めて喘いだ。全身が鉛のように重く、骨という骨がきしんでいる。あの途方もない高さからの落下と、霊気の渦による圧殺。生きているのが奇跡だった。


彼の隣で、同じように水面に浮かび上がった翠魂翁は、もっと悲惨な状態だった。いや、肉体的には無傷なのだろうが、その尊厳は粉々に砕け散っていた。自慢の(?)神々しいフォルムは見る影もなく、水浸しの海藻が頭に絡みつき、その深緑の肌は怒りのあまり赤黒く変色している。縦に伸びた頭も、まだ完全には元に戻っていなかった。


トウマは朦朧とする意識の中、その姿を見て、懲りずに口を開いた。

「……へへ……見たかよ、浮き胡瓜……。結局、二人とも生きてんじゃねぇか。約束通り……修行、つけてくれんだろ……?」


それが、最後の引き金だった。


「………………」


翠魂翁は、ゆっくりと、ギギギと音を立てるかのように、トウマの方を向いた。

その目に、もはや理性や知性の光はなかった。あるのはただ一つ。純度百パーセントの、殺意に近い、灼けつくような怒りだけだった。


「……き、さま……」

声が、地獄の底から響いてくるようだった。

「よくも……よくもワシの……ワシの完璧なるフォルムを……!このワシに……二度も……二度も恥をかかせおって……!!」


ゴゴゴゴゴゴ……!

翠魂翁の体から、凄まじい霊気が立ち上る。滝壺の水が、彼の怒りに呼応するように沸騰し始めた。


「よかろう……小僧ッ!貴様がそれほどまでに望むのならば、くれてやる!ワシ直々の、地獄の修行というものをなァッ!」

翠魂翁は、両腕を広げ、悪鬼のような形相で叫んだ。

「第一の試練!その名も、『地獄の鬼ごっこ』じゃあッ!」


「……へ?」


「ルールは至極簡単!ワシが鬼!貴様が子!ワシが貴様を捕まえる!以上じゃ!」

「え、それだけ……?」

「ああ、それだけじゃ」

翠魂翁は、にたりと、口の端を吊り上げた。

「――捕まえたら、貴様は死ぬ」


「やっぱりいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!?」


トウマの絶叫が響き渡るのと、翠魂翁が水面を蹴って突進してくるのは、ほぼ同時だった。

ビュンッ!

それは、もはや移動ではなかった。瞬間移動に近い。翠魂翁の拳が、先ほどまでトウマの頭があった場所を通り過ぎ、背後の岩壁に巨大なクレーターを作った。


ドッッッッカアアアアアン!


「ひゃあああああああああ!」

トウマは本能だけで体をひねり、辛うじてそれを避けていた。彼はすぐさま体勢を立て直し、陸地に向かって必死に泳ぎ始める。


「待てやコラァァァァァ!浮き胡瓜の恨み、その体に骨の髄まで刻み込んでくれるわァァァ!」

「だからその渾名やめろよぉぉぉぉ!」

いや、自分が言ったんだった!とトウマが心の中で絶叫する。


陸に上がったトウマは、もつれる足で必死に走った。背後からは、山を揺るがすほどの勢いで翠魂翁が迫ってくる。

「逃がすかァ!」

翠魂翁が手をかざすと、足元の水たまりから水の槍が何本も生え、トウマを襲う。

「うおっ、あぶねっ!」

トウマは転がるようにしてそれを避ける。地面に突き刺さった水の槍は、岩をも容易く貫いていた。


(やばいやばいやばい!これ、修行じゃねぇ!ただの八つ当たりだ!殺される!)


トウマは、浄魂の滝の特異な地形を必死に利用した。滝の裏側に広がる、霊草が光る洞窟へ飛び込み、狭い通路を駆け抜ける。だが、翠魂翁は壁など意にも介さず、一直線に洞窟を破壊しながら突き進んでくる。


「どこへ逃げようと無駄じゃ!この山全体が、ワシの庭じゃからのう!」


トウマは洞窟を抜け、再び外へ飛び出す。目の前には、天へと続くかのような巨大な霊木。彼は迷わずその幹を駆け上り始めた。

「こ、こっちだ!」

「小賢しいわ!」


翠魂翁は木を登るまでもない。彼は地面を踏みしめると、その巨木を根元から蹴り折った。

メキメキメキッ!と、山全体に響き渡る轟音。

「えええええええええええ!?」

トウマは、倒れていく巨木の上で、絶望的な悲鳴を上げた。


***


その頃、遥か遠くの町。

祓い屋衆の屋敷にある道場では、シンが一人、黙々と木刀を振っていた。


カッ、カッ、と、空気を切り裂く鋭い音だけが、静かな道場に響いている。

彼の体からは湯気が立ち上り、額から滴る汗が床に染みを作っていた。その振りは、ただの素振りではない。一振り一振りに、明確な殺意と、そして焦りが込められていた。

脳裏に焼き付いて離れない、鬼市での屈辱。影山の、自分を見下すあの目。そして、何もできずに倒れた自分の不甲斐なさ。


(足りない……。何もかもが、まだ……)


腰に差した妖刀『黒曜』が、主の激情に呼応するように、微かに不吉な脈動を繰り返す。その鬼の力を、従えるのではなく、喰らい尽くすほどの力がなければ、あの男には届かない。


その時、道場の入り口にナナが姿を現した。彼女は茶の入った湯呑みを二つ盆に載せ、壁に寄りかかって、しばらくシンの姿を見ていた。


「……あんた、最近根を詰めすぎじゃない?」

静かだが、芯のある声だった。

「そこまでして、何に焦ってんのよ」


シンは木刀を振るうのをやめず、荒い息を整えながら、前を向いたまま答えた。

「……別に」


「嘘おっしゃい。その背中が『焦ってます』って物語ってるわよ」


シンは、ぴたりと動きを止めた。そして、重い沈黙の後、ぽつりと言った。

「……トウマに先を越されるのは、癪だからな」


その、らしくない、素直な言葉に、ナナは少しだけ目を見開いた。

シンが続ける。


「あいつが……あのバカが、もし本当に強くなって帰ってきたら……」

彼は、ふっと自嘲気味に息を吐いた。

「今以上に、やかましくなる。隣でギャーギャー騒がれたら、調子が狂う。……面倒が増えるだけだ」


それは、シンなりの最大の虚勢であり、そして、トウマという存在を、好敵手として、仲間として、はっきりと認めている証だった。

ナナは、その言葉の裏にある本当の意味を、痛いほどに理解していた。彼女は、ふふっ、と小さく笑みをこぼした。


「ふーん……。まあ、せいぜいその面倒に置いてかれないように、頑張ることね」

彼女はそう言うと、盆に載せた湯呑みの一つを道場の縁に置き、静かに立ち去っていった。

残されたシンは、再び木刀を構える。その目には、先ほどよりもさらに強い光が宿っていた。


***


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」

トウマは、ついに滝壺のほとりの開けた場所で、追い詰められていた。

全身は傷だらけで、服はボロボロ。体力も、もう限界に近い。


目の前には、仁王立ちする翠魂翁。その怒りは、まだ収まっていないようだった。

「終わりじゃ、小僧。観念して、ワシの神拳の錆となるがよい」


(くそっ……!ここまでか……!)


トウマが死を覚悟した、その瞬間だった。

彼の脳内で、何かがカチリと音を立てた。


これまで、彼はただ恐怖と本能だけで逃げ回っていた。だが、極限の集中状態の中で、彼の感覚は嫌でも研ぎ澄まされていった。

彼は、感じ始めていたのだ。この場所を支配する、濃密な霊気の「流れ」を。


翠魂翁の怒りの霊気。滝が叩きつける清浄な霊気。地面から立ち上る、湿った霊気。それら全てが、複雑に絡み合い、一つの巨大な循環を生み出している。


(……これか)


宗真の言葉が、雷のように脳を貫いた。「お前の魂の器……『気』の総量は、そこらの祓い屋よりよほど大きい。だが、ザルから水が漏れるように、ただ感情と共に漏れ出しているだけだ」。


(俺の気は、今までずっと、ただ漏れ出てただけ……。でも、今は……!?)


この地獄の鬼ごっこの中で、彼は無意識に、その漏れ出る自分の「気」を、生存本能で制御しようとしていたのだ。翠魂翁から放たれる殺意の霊気を肌で感じ、滝の霊気でそれをいなし、地面の霊気を使って足場を確保する。

この場所の圧倒的な外圧が、彼の「ザル」のような魂を、無理やり形ある器へと叩き、矯正していたのだ。


翠魂翁が、最後の一撃を叩き込むべく、大きく拳を振りかぶった。

「喰らえぃ!」


もう逃げ場はない。絶体絶命。

だが、トウマの目は、翠魂翁の拳ではなく、その背後にある霊気の流れを見ていた。

滝の水しぶきが、風に乗り、渦を巻いている。


(――そこだ!)


トウマは、考えるより先に動いていた。

彼は、翠魂翁に向かって突進するのではなく、横に跳んだ。いや、跳んだというより、霊気の渦に体を乗せるように、滑り込んだのだ。


ヒュンッ!

彼の体が、ありえない軌道で翠魂翁の拳を紙一重でかわす。まるで、激流の中を泳ぐ魚のように、自然で、滑らかな動きだった。


「なっ!?」


翠魂翁の目に、初めて純粋な驚きが浮かんだ。

体勢を立て直したトウマは、翠魂翁から距離を取り、肩で大きく息をしていた。体はボロボロだが、その瞳には、先ほどまでの恐怖とは違う、確かな手応えの光が宿っていた。


翠魂翁は、振り上げた拳をゆっくりと下ろした。

彼の全身から立ち上っていた殺気が、すっと消える。


彼は、目の前のボロボロの少年を、初めて「修行者」として、じっと見つめた。

その口元に、ほんのかすかな、満足げな笑みが浮かぶ。


「……ほう」


「ただの五月蠅うるさい蝿ではない、か。面白い」


地獄の鬼ごっこは、終わりを告げた。 そして、本当の「修行」が、今、始まろうとしていた。

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