第十二章 ~ 浮き胡瓜と地獄堕ち ~
「――ほう。久しぶりに元気な坊主が来たな」
声がした。
滝の轟音に負けないほどはっきり聞こえる、落ち着いた声――のはずだったが、どこか調子に乗った感じもある。
ふらつく視界の中、トウマが顔を上げた。
そこにいたのは――頭がやたらとでかくて、全身が深緑色をした、どう見ても人間じゃない奇妙な存在だった。
そいつはなぜか、滝のど真ん中で水の上にあぐらをかいて浮いている。
しかもポーズだけはやたら神々しい。
(な、なんだ……こいつ……)
トウマは目を瞬かせた。岩崎宗真から聞かされた「滝の主」のイメージは、仙人のような、あるいは神仏のような荘厳な存在だった。だが、目の前にいるのはどう見ても違う。言うなれば、偉そうなカッパか、あるいは苔むしたダルマか。そのアンバランスな姿と、尊大な態度のギャップが、トウマの思考を直撃した。
(いや、まて。見かけで判断しちゃダメだ。宗真の旦那も言ってた。ここは聖地だって。こいつが滝の主なのは間違いない。礼儀正しく……礼儀正しくしないと……)
必死に自分に言い聞かせる。だが、一度ツボに入ってしまったものは、もう止められない。
巨大な頭、真緑の肌、そしてなぜか得意げに組まれた足。その全てが絶妙に滑稽だった。
こみ上げてくる笑いを、トウマは必死にこらえようとした。口元を両手で押さえ、肩を震わせる。
「ん……んんっ……!」
だが、ついに限界が来た。
「……プフッ」
ほんの小さな音だった。だが、滝の轟音と霊気の渦巻くこの空間で、その音は奇妙なほどはっきりと、緑色の存在の耳に届いた。
ピクッ、とそいつの眉が動く。
そして、ぷくっと怒りマークがそいつのこめかみに浮かぶのが、トウマにもはっきりと見えた。
異形の存在は、目を細めて低くつぶやいた。
「……笑ったな?」
地を這うような、低い声。先ほどの余裕ぶった声とは明らかに違う、怒気をはらんだ声だった。
トウマは全身から冷や汗を噴き出しながら、ブンブンと首を横に振った。
「い、いえ!滅相もございません!笑うだなんて、とんでもない!」
「嘘をつけ。貴様、今、確かに笑った。このワシの、神々しくも完璧なフォルムを見て、鼻で笑ったであろう!」
(フォルムって言ったぞこいつ!)
トウマの心の中のツッコミは、口には出せない。
「ち、違います!滝の霊圧がすごすぎて、ちょっと息が変になっただけで……ゲフッ、ゴフッ!」
わざとらしく咳き込んでみせるが、完全に手遅れだった。緑色の主は、ゆっくりと立ち上がる。水面から数センチ浮いたまま、腕を組んでトウマを見下ろした。
「言い訳は聞かぬ。ワシは、この浄魂の滝を数千年守り続けてきた大いなる存在、『翠魂翁』であるぞ。無数の修行者がワシの前にひれ伏し、教えを乞うてきた。そのワシを、初対面で嘲笑うとは……万死に値する愚行だ、小僧!」
翠魂翁と名乗った主は、大げさに言い放った。その言葉の節々から、プライドの高さがにじみ出ている。
トウマは、もはやごまかしきれないと悟り、作戦を変更した。彼はその場に土下座する勢いで頭を下げた。
「も、申し訳ありませんでしたァァァ!どうかお許しを!そして、どうか!どうか俺を、弟子にしてください!修行をつけてください!」
なりふり構っていられない。シンとナナの顔が、影山の顔が、脳裏をよぎる。強くなるためには、この変な色の主に頭を下げるしかない。
だが、翠魂翁はふんと鼻を鳴らした。
「断る。ワシは礼儀を知らぬ者に教えるほど、暇ではない。それに、貴様からは礼儀以前に、品性というものが感じられぬ。単純で、スケベで、頭のネジが数本飛んでおるわ」
「なっ……なんでそこまで分かるんだ!?」
「ワシの魂慧眼にかかれば、人の魂なぞ赤子の手のようによく見えるわ。……ともかく、不合格だ。とっとと立ち去れい。これ以上この聖地をその阿呆面で汚すな」
冷たい拒絶の言葉。
トウマの頭の中で、何かがプツンと切れた。
彼は勢いよく顔を上げ、四つん這いのまま翠魂翁ににじり寄った。
「そ、そんなこと言わずに!お願いします!俺、強くならなきゃいけない理由があるんです!世界一の祓い屋になるって約束したし、守んなきゃいけねぇ仲間もいるんだ!」
「知ったことか。貴様の個人的な事情など、ワシの悠久の歴史の前では、塵芥に等しいわ」
言葉が通じない。このプライドの塊の緑ダルマには、正攻法は無理だ。
トウマは最後の手段に出た。
「うおおおおおっ!」
彼は叫びながら、翠魂翁の足にガシッとしがみついた。
「なっ、貴様!何をす──……離せ!この無礼者!ワシの神聖な足にその汚い手を触れるな!」
「いやだ!修行つけてくれるって言うまで、絶対離さねぇ!」
「このクソガキがァァァ!」
翠魂翁は足をブンブンと振ってトウマを振りほどこうとするが、トウマはスッポンのように離れない。
「離さねぇったら離さねぇ!」
「ええい、鬱陶しい!」
業を煮やした翠魂翁は、忌々しげに舌打ちすると、ふわりと体を浮かせた。いや、浮かせたというより、凄まじい勢いで上昇を開始したのだ。
ギュオォォォォン!
「うわあああああああ!?」
トウマは、翠魂翁の足にしがみついたまま、滝の流れに逆らって空へと打ち上げられた。凄まじいGと霊圧が、彼の全身を押しつぶす。
「ちょ、ま……死ぬ死ぬ死ぬ!内臓が口から出──……ぐえっ!」
景色が目まぐるしく変わる。滝壺がみるみる小さくなり、周囲の山々が眼下に見えてくる。雲を突き抜け、さらに上へ、上へと昇っていく。
どれくらいの時間、昇り続けたのか。
やがて翠魂翁は、空高く、滝の源流よりもさらに上空でぴたりと静止した。下界は遥か彼方で、白い雲海が広がっているだけだ。唯一聞こえるのは、遥か下から響いてくる滝の轟音と、吹き荒れる風の音だけ。
トウマは涙と鼻水とよだれでぐしゃぐしゃになりながら、必死に翠魂翁の足にまとわりついていた。
翠魂翁は、そんなトウマを忌々しげに見下ろし、そして言った。
「……やれやれ。これほどしつこい蝿は久しいわ。よかろう、小僧。貴様の覚悟、どれほどのものか、試してやろうではないか」
その声は、どこか楽しんでいるようにも聞こえた。
「いいか、小僧。ワシを笑った罪は重いが、その根性だけは、まあ、虫けら程度には認めてやる。ならば、試練を与えよう」
翠魂翁は、芝居がかった口調で続けた。
「貴様がそれほどまでに修行を望むのならば、今すぐワシを離し、この高さから飛び降りてみせよ」
「……は?」
トウマの思考が、一瞬停止した。
「もちろん、ただの落下ではないぞ。この下には、浄魂の滝が生み出す、凝縮された霊気の渦がある。そこを通り抜けるのだ。生身の人間が通れば、魂ごとミンチになるのが関の山。故に、死ぬ確率は、まあ……九割九分九厘といったところかのう」
楽しそうに、翠魂翁は言った。
「さあ、どうする?この手を離し、一世一代の大博打に挑むか?もし生き延びることができれば……特別に、ワシの修行の末席に加えてやらんでもない」
さあ、選べ、と。その目は、トウマがどう反応するかを試していた。恐怖に泣き叫ぶか、あるいは、蛮勇を奮って飛び降りるか。どちらにせよ、最高の見世物だ、と。
トウマは、翠魂翁の足にしがみついたまま、ゆっくりと下を見た。
雲海が遥か下に広がっている。その雲の切れ間から、小さく滝壺が見えた。いや、見えた気がしただけかもしれない。高すぎて、現実感がまるでない。ただ、そこにあるのは「死」だけだということだけは、本能で理解できた。
霊気の渦が、まるで巨大な口を開けて、獲物を待っているように見えた。
(……死ぬ)
一瞬、考えた。ここで飛び降りれば、もしかしたら奇跡が起きて、とてつもない力が手に入るかもしれない。
だが、すぐにその考えを打ち消した。
(……いや、死ぬ。絶対死ぬ。奇跡なんて起きるか、アホ)
彼はシンとナナの顔を思い浮かべた。影山へのリベンジを誓った、あの夜を。
こんなところで、こんな意味の分からない理由で死んで、何になる?
仲間を守るために強くなりに来たのに、その仲間を悲しませてどうする。
トウマは、ごくりと唾を飲み込んだ。
そして、顔を上げ、翠魂翁の顔をまっすぐに見つめた。
その目は、恐怖に濡れていたが、同時に妙に乾いた、醒めた光を宿していた。
そして、彼は言った。
「いやだ」
たった三文字。平坦で、何の感情も乗っていない、純粋な拒絶。
「……はぁ?」
翠魂翁は、素っ頓狂な声を上げた。彼の予想していた反応の、どれとも違ったからだ。
「き、貴様、今、何と……?」
「だから、『いやだ』って言ったんだよ」
トウマは、先ほどまでの必死の形相はどこへやら、呆れたような、面倒くさそうな顔で言った。
「なんで俺がそんな馬鹿な真似しなきゃなんねーんだよ。死ぬって分かってて飛び降りる奴がいるか。あんた、頭おかしいんじゃないの?」
「なっ……ななな……!」
翠魂翁の顔が、怒りで緑から赤黒く変わっていく。
「だ、だが、修行は!強くなりたいのではなかったのか!」
「なりてぇよ!なりてぇけど、死んだら意味ねぇだろ!あんた、本当にバカだな!」
「バカとはなんだ、バカとは!このワシに向かって!」
「うるせぇな!そもそも、そんな無茶なこと言ってくるような奴に、まともな修行ができるとは思えねぇ!」
トウマは、もう完全にキレていた。
「俺が死んだらどうすんだよ!責任取れんのか、ああん!?」
「知るか!貴様が勝手に飛び降りるのだ!」
「だから、飛び降りねぇって言ってんだろ!」
完全に論理が破綻した口論。
だが、次のトウマの一言が、決定打となった。
「大体な、死んだ俺を誰が修行するんだよ、この浮き胡瓜がッ!」
「………………え?」
浮き胡瓜。
その、あまりにも的確で、あまりにも間抜けで、そしてあまりにも不敬な渾名を聞いた瞬間、翠魂翁の思考は完全に停止した。
数千年の彼の歴史の中で、彼にそんなことを言った者は、一人もいなかった。
彼の頭の中で、何かが、音を立てて砕け散った。
神聖さも、威厳も、プライドも、何もかも。
「う……う……」
翠魂翁の全身が、わなわなと震え始める。
「うき……きゅうり……だと……?」
「ああ!?なんか文句あんのか、この緑色のデカ頭!」
トウもはや怖いものなしだった。
「この……この……このクソガキがああああああああああああああああっ!!!!」
翠魂翁は、生まれて初めて、理性のタガが外れるのを感じた。
怒りのあまり、彼は自身が宙に浮いていること、そして力を制御しなければならないことすら、完全に忘れていた。
バランスが、崩れた。
霊力の制御が、途切れた。
「あっ」
翠魂翁が、間抜けな声を出す。
次の瞬間、二人の体を支えていた浮力が、すっと消えた。
「「……………………え?」」
一瞬の静寂。
そして、二人分の重さが、万有引力の法則に従って、落下を開始した。
「「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!」」
二人の絶叫が、雲海を切り裂いて響き渡る。
トウマは翠魂翁の足にしがみついたまま、翠魂翁は威厳も何もなく、ただただ落下していく。
凄まじい風圧と霊圧が、二人を襲う。
ブオオオオオオッ!
トウマの顔の皮がめくれ上がり、口からよだれが一本の線となって天に伸びていく。
「あべべべべべべべべべべべべ!」
翠魂翁も無事ではなかった。自慢の(?)でかい頭が、圧力でびよーんと縦に伸び、まるで奇妙なナスのようになっていた。
「わ、ワシの頭がぁぁぁぁ!ワシのフォルムがぁぁぁぁ!」
彼らはきりもみ回転しながら、雲を突き抜け、眼下に広がる壮大な自然へと、猛スピードで突っ込んでいく。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!!!!!!
浄魂の滝の滝壺に、巨大な水柱が上がった。
それは、まるで巨大な隕石が落下したかのような、途方もない衝撃だった。




