第十一章 ~ 旅立ちと浄魂の滝 ~
夜明け前の静寂の中、トウマは一人、旅支度を整えていた。背負い袋には最低限の食料と水、そして宗真から渡された一枚の古い地図。それだけが、彼の新たな旅の供だった。
部屋を出ると、暗い廊下で二つの人影が彼を待っていた。
「……行くのか」
壁に寄りかかったシンが、静かに言った。その目には、いつもの皮肉めいた光はなく、ただ純粋な問いかけだけがあった。
「おう。行って、めちゃくちゃ強くなって帰ってくる。そんで、今度こそお前の背中をちゃんと守ってやるよ」
トウマは、にかっと笑ってみせた。その笑顔に、もう迷いはなかった。
「……勝手にしろ。だが、死ぬなよ。お前が死んだら、俺の刀がまた一人ぼっちになる」
シンなりの、最大限の激励だった。
隣では、ナナが腕を組み、そっぽを向いていた。
「……べ、別にあんたのことなんか心配してないわよ!ただ、あんたみたいなバカがいないと、こっちの調子が狂うだけ!さっさと行って、さっさと帰ってきなさい!もし迷子になったり、野垂れ死んだりしたら……末代まで笑ってやるから!」
涙声をごまかすような、ナナらしい毒舌。トウマは、その二人の不器用な優しさが、胸に温かく染みるのを感じていた。
「へへっ、任せとけ!じゃあな!」
トウマは手を振り、二人に背を向けた。もう振り返らない。夜明け前の薄明りの中、彼は祓い屋衆の屋敷を後にした。
***
浄魂の滝への道は、これまでの旅とは比べ物にならないほど過酷だった。地図が示すのは、人が踏み入ることのない険しい山道。道中、彼は何度も霊的な存在に遭遇した。木霊の囁きが精神を惑わし、獣の姿をした低級の妖怪が食料を狙ってくる。
以前のトウマなら、叫び声をあげて逃げ回るか、無我夢中で護符を投げることしかできなかっただろう。だが、今の彼は違った。
(落ち着け……気配を読め。ナナならどうする?シンならどう動く?)
仲間たちの戦い方を思い出し、自分の動きに反映させようと試みる。気配を極限まで消し、危険をやり過ごす。どうしても避けられない敵には、最小限の動きで、最も効果的な一撃を叩き込む。それはまだ荒削りで、ぎこちない動きだったが、彼の中で何かが確実に変わり始めていた。
三日三晩歩き続けた頃、彼の耳に、地鳴りのような音が届き始めた。
空気中の霊気が、肌を刺すように濃密になっていく。
「……近い」
木々を抜けた先、目の前に広がった光景に、トウマは息をのんだ。
そこには、天から落ちてくるかのような、巨大な滝があった。水しぶきは純粋な水のそれではなく、青白い霊気の霧となって周囲に立ち込めている。滝壺は底が見えず、ただただ深淵のような藍色に渦巻いていた。岩肌には苔ではなく、光る霊草がびっしりと生え、その場所全体がこの世のものではないと告げていた。
ここが、浄魂の滝。
「すげぇ……」
ただ、その圧倒的な存在感に気圧される。宗真の言葉が蘇る。「生半可な覚悟で挑めば、魂が砕かれる」。その言葉の意味が、今、痛いほどに理解できた。
トウマは一度、深呼吸をした。両親のいない自分を育ててくれた祖母の顔。いつも自分をからかいながらも見守ってくれた師匠の仮面。そして、町で出会った、かけがえのない二人の仲間の顔。
(俺は、もう一人じゃねぇ)
彼は覚悟を決めた。ゆっくりと滝壺へと足を踏み入れる。水は氷のように冷たいだけでなく、魂そのものを直接握りつぶすような、凄まじい霊的な圧力を伴っていた。
「ぐっ……う……おおおっ!」
歯を食いしばり、一歩、また一歩と滝の中心へ進む。そして、ついにその身に、天から降り注ぐ霊気の奔流を受けた。
ドゴォォォォォォンッ!
全身の骨が軋み、意識が飛び散りそうになる。魂が、その器から無理やり引きずり出され、洗い流されていくような感覚。
「がっ……あ……ぁ……!」
立っていることすらできず、水面に膝をつく。意識が遠のきかけた、その時。
「――ほう。久しぶりに元気な坊主が来たな」
声がした。
滝の轟音に負けないほどはっきり聞こえる、落ち着いた声――のはずだったが、どこか調子に乗った感じもある。
ふらつく視界の中、トウマが顔を上げた。
そこにいたのは――頭がやたらとでかくて、全身が深緑色をした、どう見ても人間じゃない奇妙な存在だった。
そいつはなぜか、滝のど真ん中で水の上にあぐらをかいて浮いている。
しかもポーズだけはやたら神々しい。
「……プフッ」
その瞬間、ぷくっと怒りマークがそいつのこめかみに浮かぶ。
異形の存在は、目を細めて低くつぶやいた。
「……笑ったな?」




