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2 川越の鰻重

「しかし、その前に、ちと腹が減ったのではないかな」

 と胡麻博士に言われて、百合菜が時計を見ると今は昼間の十一時半だった。まさに昼飯時である。

「確かに、お腹が減りました!」

 実際、百合菜はお腹がぺこぺこだった。新幹線の車内で駅弁を食べたかったのだが、川越で胡麻博士が何か奢ってくれそうな予感がしたので、我慢していた。


「そんな時は鰻だ。鰻を食べるのだよ。川越といえば、鰻重なのだ。早速、大正浪漫通りに行こう……」

 民俗学の研究がいつ始まるかと、歴女である百合菜はドキドキしているのだが、胡麻博士は食事を優先するつもりらしい。胡麻博士は意外と落ち着いている。歴史は逃げないとでもいうのかな、と百合菜は不満に思う。

 二人は駅前のバスに乗って、西武線の本川越駅の前を通り、名店街大通りの浄土宗の蓮馨寺(れんけいじ)の前で降りた。


 蓮馨寺も川越の重要なお寺の一つである。時は戦国、この川越の地を、後北条氏が治めていた昔の話である。大道寺政繁(だいどうじまさしげ)という城代の母が、大変信心深い人であったおかげでこの蓮馨寺を建立されたのだという。

 この蓮馨寺で学んだ僧侶に、有名な人で、東京の増上寺の存応(ぞんのう)がいる。存応は、徳川家康の帰依を受けて、増上寺は後に、徳川家の菩提寺となる。

 大正浪漫通りの付近には、蓮馨寺と神仏分離の際に引き離された神社で、縁結びの熊野神社がある。


 百合菜と胡麻博士は、この二箇所を参拝した。百合菜は、熊野神社を参拝しながら、いつか彼氏とこの神社に来よう、と思った。

(石田先輩……)

 石田先輩とは、百合菜が密かに思っている人物の名前だ。胡麻博士はただならぬ気配を感じたらしく、百合菜を見た。

「何かを、願っておるな……」

 百合菜は図星だったので、ドキリとした。

「いえ、何も……」

 照れ臭くなって笑った。


 川越の大正浪漫(たいしょうろうまん)通りというのは、川越観光のメインストリートである蔵造りの街並みよりも西武線の本川越駅寄りにあって、蓮馨寺(れんけいじ)の門前に当たる。百合菜は通りを歩きながら、ここらへんは、連雀町というらしいことを知った。それは門前で、連雀が売られていたからだと胡麻博士はいうが、連雀が何かは百合菜には分からなかった。

 ここらへんに来ると、すでに土蔵造りの建築がいくつも並んでいる。どっしりとした分厚い黒塗りの壁の店並みはさすがに迫力がある。


 このあたりに老舗の鰻屋がある。胡麻博士と夕紀百合菜はここで鰻重を食べることにした。


 入店して、テーブル席に着くと、胡麻博士は煎茶を飲みながら、百合菜になにか話しかけなければならないという責任感を感じ、あれやこれや当たり障りのない話題を考えたのち、

「学校は楽しいかね。えっ……」

 と尋ねた。

「授業はあまり楽しくないですね。嫌な先生もいるし。でも、八重ちゃんや由依ちゃんと一緒にいると、平凡な毎日でも、とても楽しくなるんです」

「ふむ。そうだね」

 八重と由依というのは、百合菜の親友だ。胡麻博士はその二人のこともよく知っていた。かつて紫雲学園で起こった連続殺人事件の時に知り合った仲だった。


「君は歴史が好きだそうだね」

「はい。平安時代の歴史が好きです。お寺や神社の歴史にも興味があって、夏休みには長野の善光寺に行きました」

「善光寺か、いいねぇ」

「はい。わたし、今すぐにでも、大学に入って、胡麻博士のお弟子になりたいんです」

 その言葉に、胡麻博士は若干責任を感じたのか、ちょっと焦った口調になった。

「それは気が早すぎるよ。百合菜君。高校生には高校生のうちにしておかねばならないことが山ほどあるのだよ。たとえば、わたしなんか、高校生の間は囲碁部だったのだが、大会なんかでも敵なしでね。数多くの伝説を残したものだよ。一度なんか、初手の一手だけで相手を投了に追い込んだこともある」

「そ、それはすごいですね!」

「そう。青春ってそういうもんだ。高校生のうちにできることを満喫すること。だから、君もまだまだ高校生のうちに多くの青春を味わわないといけないね」

「はははっ」

 百合菜は面白そうに笑い転げた。なるほど。こんな風変わりな胡麻博士の魅力に取り憑かれて、彼の門下になる若者は多い。その多くは大学を終えると巣立ってしまうのだが、なかには腰を据えて、研究の道に進む者もいる。

 胡麻博士は、目の前にいる百合菜に、弟子の学芸員、百合子のはじめて会った頃の姿を重ねているのだろう。

「人生はどっしりと構えなさい。未来に焦ってはいけない。常に今を生きなさい」

 胡麻博士は、呪文のようにそう呟くと、茶をすすった。


「胡麻博士……、川越には、どんな歴史があるんですか?」

 と百合菜は、胡麻博士のアドバイスがあまり響いていないらしく、何事もなかったかのように尋ねた。

「うん。川越かね。この地域は、平安時代の頃は、桓武平氏の秩父氏から出た河越氏によって治められていたそうだよ。その拠点は、今の川越ではなく、東武東上線の霞ヶ関駅にある常楽寺のあたりだったそうだ。河越氏は、もっと以前は、東武東上線の武蔵嵐山あたりを拠点にしていたというから、彼らはこっちの方に移動してきたわけだね」

「河越氏って、どんな方々だったんですか?」

「そうだねぇ。有名な人物では、河越氏の河越太郎重頼かわごえたろうしげよりの娘は、源義経の正妻だったそうだ。しかし、義経が反逆者という扱いになると、重頼も誅殺され、家も衰えてしまった……」

 そういう歴史を胡麻博士が述べていると、百合菜は重頼の娘に想いを馳せてしまって、また自分の世界に入ったようだった。


 河越重頼の墓は、今も観光客で賑わう菓子屋横丁(かしやよこちょう)付近の寺、養寿院(ようじゅいん)にある。養寿院は、河越氏の一族が開基した寺ということであるから、川越では、特に歴史が古いお寺ということになるだろう。

(河越重頼……)

 百合菜は興味深そうに心の中で呟いた。後から考えるとこれ重大なことになるのだが、今はそんなことは気づけるはずがなかった。


 そうしていると、ようやく鰻重が運ばれて来た。見た目にも美しい鰻重を前にし、百合菜は割り箸を一つ取って、一口、いただく。鰻の身は柔らかく、甘からいタレと一体となって、鰻通(うなぎつう)の百合菜の舌を喜ばせた。

「美味しい!」

「鰻、美味しいかね」

「とっても美味しいです。一日三食、このうな重でも飽きないくらい……」

「そうかね」

 胡麻博士は、嬉しそうな顔をしているが、奢る身であるせいか、心の中で財布の紐を固くしたようだった。

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