光の翼、闇を超えて⑦
――沈黙。
闇の王ヴァルギルスの姿は、もうどこにもなかった。
燃え盛る戦場を覆っていた圧力も消え失せ、ただ風だけが吹き抜けていく。
大きく息を吐き、エスペランサをゆっくりと下ろした。
その刃が最後の輝きを放つ。
やがて輪郭が光へとほどけていき、俺の手の中で再び羽根のペンダントへと姿を変えた。
「……終わったんだな」
小さく呟き、手のひらに戻った羽根を見つめる。
そしてリリアへとそっと差し出した。
「返すよ。君とあの人との絆の証だから」
リリアは瞳を潤ませながら、震える手でそれを受け取った。
「カケル……ありがとう」
リリアは大切そうにペンダントを胸元へと戻す。
涙に濡れたその顔には、確かな微笑みが浮かんでいた。
――その刹那。
静寂に包まれていた空間が、突如として軋みを上げた。
ヴァルギルスが消滅した場所に亀裂が走り、音を立てながら黒い裂け目が広がっていく。
周囲に残っていた闇の靄が、吸い寄せられるようにその中へ収束していった。
やがて、ぽっかりと口を開けた裂け目の奥に、異質な光景が浮かび上がる。
「これは……」
無意識に一歩、裂け目へと近づいた。
その向こうに広がっていたのは――懐かしすぎるほどの街並みだった。
見慣れた信号機。
雑踏を行き交う人の波。
そして、どこにでもあるコンビニの看板。
「……っ」
思わず息を呑む。
間違いない。
あれは――俺が生まれ、生きてきた世界だ。
「それは恐らく、元の世界へ帰れる裂け目だろう」
背後から響いたアビス様の声に、振り返る。
「本当ですか!?」
「恐らくな。ただし、その裂け目は不安定だ。長くは持たん。放っておけば、すぐに消滅してしまうだろう」
その言葉を聞いた途端、心臓が大きく高鳴った。
帰れる。
ずっと望んでいたはずの、元の世界へ。
それなのに――こんなにも突然、決断を迫られるなんて。
頭の奥で、忘れかけていた記憶が洪水のように溢れ出す。
母の優しい声。
父の不器用な笑顔。
駆け寄ってくる妹。
懐かしい家の匂い。
かつて当たり前だった日々が、胸を締めつけるほど鮮明に蘇ってくる。
「……っ」
息が詰まり、目を伏せた。
はっとして振り返る。
そこには、リリアがいた。
他の仲間たちよりも一歩前に出て、ただ俺を見つめている。
その背後では、皆がそれぞれの表情を浮かべながら、俺の答えを待っていた。
セレナは悔しげに唇を噛みしめている。
ヴァネッサは腕を組んだまま何も言わず、それでも確かに俺を見据えていた。
エルザは大きな一つの瞳を俺へ向け、決して目を逸らそうとはしない。
エリシアは胸の前で両手を重ね、祈るように震える肩を必死に抑えていた。
ライアとトーラもまた、真剣な眼差しで俺を見守っている。
そして――リリア。
赤い瞳が、まっすぐに俺を見つめていた。
その顔には微笑みが浮かんでいる。
けれど瞳の奥には、覚悟と哀しみが複雑に入り混じっていた。
「……いいのよ。戻っても」
その一言が、心を抉った。
「…………」
何も答えられない俺に、リリアは問いかける。
「帰りたかったんでしょ?」
その声は、微かに震えていた。
「寂しくなるけど……嫌だけど、貴方がそうしたいなら、私は止めないわ」
胸が、締めつけられる。
リリアは俺の選択を尊重しようとしている。
本当は離れたくないはずなのに。
それでも、自分の気持ちで俺を縛ろうとはしない。
その優しさが、何よりも苦しかった。
裂け目へと向き直り、そっと目を閉じる。
胸に浮かぶのは、家族の顔。
そして、懐かしい日常。
けれど――その光景はどこか遠く、もう手の届かないもののように思えた。
(俺はもう……)
脳裏に浮かぶのは、共に戦い、共に笑い、ここまで旅をしてきた仲間たちの姿。
そして――闇に囚われた俺を、何度も呼び続けてくれたリリアの声。
ここで生きたい。
この世界で、皆と一緒に歩いていきたい。
その想いはもう、迷いようのないほど胸の中に根づいていた。
「カケル……」
微かな震えを帯びた声が、俺を呼ぶ。
振り向けば、そこにはただ俺を見つめるリリアがいた。
赤い瞳は涙で潤んでいる。
それでも彼女は、俺に向かって懸命に笑おうとしていた。
迷わず駆け出した。
考えるより先に、足が動いていた。
もう、背後の裂け目なんて目に入らない。
ただ――リリアのもとへ。
その身体を強く抱きしめ、彼女の唇に自分の想いを重ねた。
リリアの赤い瞳が大きく見開かれる。
けれど、やがてその目はゆっくりと閉じられた。
震える肩を抱き寄せると、リリアもまた、俺の背中へ力強く腕を回してくる。
触れ合う身体から、確かな温もりが伝わってくる。
重なり合うように響く、二人の鼓動。
そのすべてを感じながら確信した。
――俺の居場所は、ここだ。
唇を離した俺は、リリアの瞳をまっすぐに見つめた。
胸の奥が熱い。
喉が詰まりそうになる。
それでも、どうしても伝えたかった。
「……ただいま」
ほんの一瞬の沈黙。
けれど、その言葉に込めた意味を、彼女はすぐに悟ったのだろう。
俺が元の世界へ帰るのではなく、この世界に残ることを選んだことを。
そして――これからも、彼女と共に歩いていくことを。
リリアの目尻から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
それでも彼女は泣き笑うように顔をほころばせ、俺へ笑顔を向けてくれた。
「……おかえり」
その一言が、胸の奥へ深く沁み込んでいく。
俺は――帰ってきたんだ。
ここに。
リリアと、仲間たちの待つこの場所に。
その時だった。
「カケル!」
真っ先に声を上げたのはセレナだった。
「本当に……バカなんだから。どれだけ心配したと思ってるのよ……!」
黄金の瞳には、今にもこぼれそうなほど涙が滲んでいる。
それでもセレナは唇をきゅっと結び、泣き笑いのような顔で俺を睨んでいた。
「まったく……余の手を煩わせおって」
次に口を開いたのはヴァネッサだ。
腕を組み、いつものように平静を装っている。
けれど、その深紅の瞳もほんの少しだけ潤んでいた。
「よく戻ってきたな、カケル」
ライアはそう言って一歩前へ出ると、俺に向かって拳を差し出した。
俺も拳を差し出し、軽くぶつけ合う。
多くを語らなくても、それだけで十分だった。
「ったく、心配させやがって!」
トーラが豪快に笑いながら、俺の背中を勢いよく叩く。
「いてっ!」
声を上げると、トーラはますます楽しそうに笑った。
その目がわずかに潤んでいたことには、気づかないふりをしておく。
「……ほんとに、よかった」
エルザは大きな一つの瞳から、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
それでも、その顔には確かな笑顔が浮かんでいる。
言葉少ない彼女のその一言だけで、想いは十分すぎるほど伝わってきた。
「カケルさん……」
最後にエリシアが、胸の前でそっと両手を重ねる。
その瞳にも涙を浮かべながら、彼女は優しく微笑んだ。
「……おかえりなさい」
仲間たちの声と笑顔が、胸の奥を熱く満たしていく。
ああ、もう迷わない。
俺の居場所はここだ。
この仲間たちと共にある――。
仲間たちと喜びを分かち合っていると、ふと背後から涼やかな声が響いた。
「さて、カケル。これから忙しくなるぞ?」
振り返ると、アビス様が腕を組みながらこちらを見ていた。
その表情には、つい先ほどまで死闘を繰り広げていたとは思えないほどの余裕が浮かんでいる。
「えっ……どうしてですか?」
問い返すと、アビス様は意味ありげに小さく笑った。
「言っておくが、我は魔物娘との一夫多妻制を禁じてはおらんぞ?」
「……はっ?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
一瞬にして、場の空気が凍りついた。
仲間たちの間にざわめきが広がる。
「な、何言ってるんですか、アビス様!」
セレナが顔を真っ赤にしながら、慌てたようにアビス様へ詰め寄っている。
「おやまぁ……それは聞き捨てならないな」
ヴァネッサは口元を手で隠しながら、どこか楽しげにくすりと笑った。
「そ、それは……つまり……」
ライアは言葉を詰まらせ、気まずそうに視線を泳がせる。
その頬は、見る間に赤く染まっていった。
「へぇ……そういうのもアリってことか」
トーラは腕を組み、面白そうににやりと口角を上げる。
「え、えっと……その……」
エリシアは頬を赤らめ、困ったように両手を胸の前で重ねた。
それでも、どこか期待するような視線がちらりと俺へ向けられる。
「……やった」
エルザが小さく呟く。
その大きな一つの瞳は、隠しきれない喜びにきらきらと輝いていた。
はっとして、リリアの方を振り向いた。
彼女は――他の仲間たちのように騒ぐことも、慌てることもなく、ただ黙ってその場に立っていた。
けれど、その赤い瞳はわずかに揺れている。
頬もほんのりと赤く染まり、唇をきゅっと結んで、必死に平静を装っているのが見て取れた。
リリアは小さく首を傾げると、じっと俺を見つめながら静かに口を開いた。
「カケル? どうするつもりなのかしら?」
「……えっ」
声音は穏やかだ。
けれど、その言葉が冗談だけではないことくらい、俺にも分かった。
心臓が一気に跳ね上がる。
「え、そ、それは……」
情けないほどに声が裏返った。
視線を逸らしかける。
だが、リリアの赤い瞳に捕らえられ、逃げることすらできない。
すると彼女はすっと一歩近づき、ほんのり紅潮した頬のまま、俺へ問いかけた。
「さっきのキスは、お遊びだったのかしら?」
「い、いや! あれは……本気だったけど……!」
慌てて言葉を返す。
けれど焦れば焦るほどしどろもどろになり、自分でもまるで説得力がないのが分かってしまう。
「じゃあ、なんでそんな曖昧な態度なの?」
リリアは目を細め、さらに一歩詰め寄ってくる。
「いや、それは……その……」
胸がどくどくと早鐘を打つ。
どう答えればいいのか分からず、口を開いては閉じることしかできない。
ふと周囲を見れば、仲間たちも固唾を呑んで俺の答えを待っていた。
――いや、違う。
どう見ても、楽しんでいる顔だった。
そんな緊迫しているのか、ただ面白がられているのか分からない空気を破ったのは、アビス様だった。
「はっはっは! 頑張りたまえ、英雄」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!?」
俺の必死の抗議も、リリアの挑むような笑みと仲間たちの笑い声にあっさりとかき消されていった。
それでも、不思議と胸は軽かった。
こうして笑い合える温かな喧騒こそが、俺の選んだ居場所なのだと、改めて実感できたから。
賑やかな声に包まれながら、ふと空を仰ぐ。
戦いで荒れ果てた空には、いつの間にか薄雲の隙間から柔らかな光が差し込んでいた。
その陽射しは暖かく、まるで俺たちの新たな旅立ちを祝福しているかのようだった。
「……行こう、みんな」
俺がそう告げると、仲間たちはそれぞれに頷いた。
――この先、どんな未来が待ち受けていようとも、この仲間たちとなら歩いていける。
そう思うと、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
かつて憧れたヒーローのように、誰かを守れる自分でありたい。
でも、もう独りでそうなる必要はない。
俺には、共に歩いてくれる仲間たちがいるのだから。
ふと、頭上を影が横切った。
見上げると、一羽の鳥が翼を広げ、空高く舞い上がっていく。
その羽ばたきと共に、ひとひらの羽根がはらりと舞い落ちた。
俺たちは誰からともなく、その羽根の行方を見つめる。
風に乗り、光を浴びながら、羽根は空を舞う。
そして長い旅を終えるように、俺の足元へと辿り着き――静かに大地へ舞い降りた。
――羽根は、再び羽ばたくために舞い落ちる。
失い、傷つき、それでも立ち上がり、前へ進む。
きっと、俺たちも同じだ。
もう迷わない。
この仲間たちと共に、俺はこの世界で生きていく。
願いは翼へと変わり、空を越えていく。
そして俺たちもまた、新たな翼を広げ、未来へと歩んでいく――。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
本作は、私にとって長い時間を共に歩いてきた物語です。
書き始めた当初は、ここまで辿り着けるとは正直思っていませんでした。
途中で立ち止まり、迷い、筆が止まったことも何度もあります。
それでもカケルたちの旅を最後まで描き切ることができたのは、
読んでくださった皆さんの存在があったからです。
この物語は、華やかな英雄譚というよりも、
傷つき、迷い、それでも歩みを止めなかった者たちの旅路でした。
その一つの区切りとして、ここに最終章を置いています。
物語はここで幕を下ろします。
しかし、彼らの世界が終わったわけではありません。
カケルたちは今日もどこかで息をし、
選択し、迷い、そしてまた歩き出しているはずです。
まだ描かれていない景色も、語られていない想いも、
彼らの旅路の先には確かに残っています。
それらを、いつか再び言葉にする日が来るかもしれません。
そして、その先にある彼らの物語も、少しずつ描いてきました。
それでもなお、この物語の続きを思い描ける余白を、
ここにそっと残しておきたいと思います。
改めて、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
これからも、彼らの物語をお届けできたなら幸いです。
追伸:
カケルたちのその後を描いた『Re:Feather 続編』も公開中です。
シリーズ一覧からぜひご覧ください。




