光の翼、闇を超えて④
――暗い。
何もない闇の中、俺はただ一人、立ち尽くしていた。
どこからともなく浮かび上がる記憶が、ぼんやりと脳裏を巡っていく。
幼い頃、俺はヒーローに憧れていた。
テレビの中で悪を倒すヒーロー。
今思えば、ありふれた物語の登場人物に過ぎなかったのかもしれない。
けれど、当時の俺にはその姿が眩しくて仕方なかった。
――誰かを助けたい。
誰かの力になりたい。
そんな純粋な思いが、小さな胸の中には確かに息づいていた。
でも、成長するにつれて現実を知っていった。
最初は、いじめられているクラスメイトを助けようとした時だった。
勇気を振り絞って飛び込んだものの、武術の心得もない俺は、あっという間にいじめっ子に殴られ、痛みにうずくまった。
それでも、必死に食らいついた。
いつまでも諦めない俺を面倒に思ったのか、いじめっ子はしぶしぶその場を去っていった。
……勝ったと思った。
だけど、助けたはずのクラスメイトは俺の手を払い、こう言ったんだ。
「余計なことしないで」
その言葉の意味が、あの時の俺には理解できなかった。
胸に刺さった棘は抜けないまま、それ以来、俺は少しずつ誰かを助けようとする気持ちを失っていった。
苦しんでいる人がいても、見て見ぬふりをした。
助けを求める声を聞いても、耳を塞いだ。
やがて思い知ったのは――自分がこの世界にとって、あまりにもちっぽけな存在だという現実だった。
テレビやネットに流れる悲痛なニュースを目にしても、俺は動かなかった。
いや、違う。
できなかったんじゃない。
――しなかったんだ。
俺には、そんな力はない。
誰かを助ける力なんて、最初から持っていない。
そう思い込むことで、自分を納得させていただけだった。
その時、闇の中にふと人影が浮かび上がった。
細い肩。
震える指先。
潤んだ瞳。
――それは、もう二度と会えないはずの少女の姿。
「……ルミナ?」
俺の喉から声が漏れた瞬間、彼女は悲しげに首を振った。
そして、震える唇から零れたのは、俺を責めるような言葉だった。
「どうして……どうして助けてくれなかったの?」
その声が、刃のように胸を抉る。
俺は言葉を失った。
足元がぐらりと揺れたような感覚に襲われる。
頭の奥に、あの光景が蘇った。
俺が遅れたから。
俺が弱かったから。
俺が、何もできなかったから……。
――失われた命。
二度と戻らない温もり。
俺の手は、何ひとつ守れなかった。
「違うんだ……俺は……!」
言い訳のように声を張り上げる。
けれど、ルミナの瞳は俺を許してはくれなかった。
やがて、その姿が闇の中へと溶けていく。
代わりに、無数の声が周囲から押し寄せた。
『お前のせいだ』
『結局、何もできなかった』
『弱いくせに、助けようなんて思ったのが間違いだ』
耳を塞いでも、声は止まらない。
心の奥にまで染み込み、頭を締め付けてくる。
「……そうだよ」
力が抜け、その場に膝をついた。
「俺が全部悪いんだ……! 俺のせいで……!」
自分を責める言葉が、呪詛のように口をついて出る。
やがてそれは自暴自棄の響きを帯び、俺の心は少しずつ闇へと沈んでいった。
うずくまる俺の耳に――ふいに、別の声が滑り込んでくる。
低く、湿った声。
けれど、どこか甘美で、耳の奥を蝕むように響く。
『違うだろ……? 悪いのはお前じゃない』
その言葉に、心臓が一瞬止まったような気がした。
今まで俺を責め続けていた声とは違う。
だが――これは救いなんかじゃない。
その声の奥には、もっと深い闇が潜んでいた。
『悪いのは彼女を殺した人間たちだ。奴らを憎め。奴らを殺せ。奴らを滅ぼしてしまえ』
頭の奥に、黒い炎が灯るような感覚が走った。
ルミナを奪ったのは、確かに俺じゃない。
……憎い。
そう思った瞬間、胸の奥から焼けつくような怒りが込み上げてきた。
『お前は絶対的な力を得た。もう昔のお前じゃない。今のお前なら、命を簡単に奪える』
闇に沈んだ視界に、血と炎の幻影が広がっていく。
俺がその気になれば、すべてを踏み潰せる。
そんな光景が、次々と脳裏へ流れ込んでくる。
『悪を倒すヒーローになりたかったのだろう?』
声は囁く。
いや――囁きながら、嗤っていた。
『なら躊躇うな。殺せ。命を根絶やしにしろ。誰かを救うためには、誰かを殺さねばならんのだ……!』
その言葉が心の奥へ、そして全身へと染み込み、俺を支配しようとする。
気づけば、俺の手は震えていた。
握ってもいないはずの剣の感触が、掌に絡みついているような錯覚に陥る。
ヒーローになりたかった俺に、悪魔の声が囁く。
――その矛先を、すべて「敵」と呼べばいいのだ、と。
黒い囁きは、俺の心に根を下ろしていった。
ルミナの幻影が消えた闇の中に、今度は無数の人間の影が浮かび上がる。
俺を笑った奴ら。
俺を傷つけた奴ら。
誰も救えなかった俺を無力だと突き放した、この世界そのもの。
「……そうだ。憎い」
その言葉が、自然と口から零れた。
胸の奥で、煮えたぎるような熱が暴れ出す。
拳を握り締めれば、爪が食い込むほど掌に力が込もった。
『そうだ……! その憎しみを解き放て。お前はもう無力ではない。絶対の力を手にしたのだ』
その声に呼応するように、視界が赤黒く染まっていく。
やがて足元には、誰もが屍となって転がる光景が広がっていた。
悲鳴。
血の匂い。
燃え落ちる街並み。
その中でただ一人――俺だけが立っている。
「俺は……ヒーローだ」
口元から、乾いた笑いが漏れた。
だが、それは幼い頃に夢見たヒーローの姿とは、あまりにもかけ離れていた。
今の俺が思い描く「ヒーロー」は、悪を断罪する絶対者。
救うためなら、容赦なく滅ぼす者。
『そうだ、それでいい。ヒーローとは力だ。力とは殺すことだ。救うとは、選ばれなかった者を切り捨てることだ』
「……俺は力を持った。だから、邪魔する奴は……全部殺す」
その言葉を口にした途端、胸の奥に甘美な高揚が広がっていく。
恐怖も罪悪感も溶け落ち、残ったのは支配することへの昂ぶりだけだった。
暗闇が俺を抱きしめる。
その腕に身を委ねていった。




