散りぬるをも、なお君を⑨
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年。
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
セレナ
種族:メデューサ
アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。
ヴァネッサ
種族:ヴァンパイア
とある古城に独り住んでいた。幻術・護身術を得意とする。
ライア
種族:リザードマン
流浪の剣士。エルザとは幼馴染。
エルザ
種族:サイクロプス
鍛冶職人。ライアとは幼馴染。
エリシア
種族:エルフ
精霊と心を通わせたり、精霊の力を行使できる。
トーラ
種族:ミノタウロス
ヴァルハールの町の自警団に所属。肉弾戦が得意。
雅
種族:ぬらりひょん
ジパングの妖怪娘達の取りまとめ役。
月嶺景継
種族:人間
ジパングを治めている人物であり、人間側の長。
黒い瘴気が地面を這い、空気を震わせる。
景継の手から滑り落ちた妖刀は、まるで意思を持つかのように闇をまとい、その姿を変えていく。
刀身はねじれ、脈動するような禍々しい長刀へと異形化した。
柄には浮かび上がるように複数の目が現れ、その全てがこちらを見据えている気がした。
そして――。
『…我が名は、闇朱羅』
言葉ではなく、直接、脳をかき乱すようなざらついた声が頭の奥で響く。
その瞬間、闇に包まれた空間の中心に、阿修羅を模したかのような幻影が現れる。
鬼面を戴き、四本の腕に刃を握る、多腕の影。
俺は剣を構えたまま、警戒心を抑えながら問いかけた。
「…喋れるのか、テメェ」
胸に走る痛みが、ようやく再生によって引いていく。
何とか立ってはいるが、さっきの一撃――尋常じゃなかった。
『景継に憑依し、破壊を求め、力を与えし――怨念の果て』
低く、どこか誇らしげな響きが脳を揺らす。
「お前が…黒幕か」
口にした言葉の響きに、思わず自分でも力がこもっていたことに気づく。
「なんで、こんなことを…どうして景継に?」
闇朱羅の幻影がゆらりと揺れ、両腕を広げた。
まるで人間のような仕草だった。
いや、それ以上に、意思を持つ“何か”としての存在感があった。
『その男は、愛する者を失った果てに“力”を欲した。故に我は“力”を授けたまでよ』
己を悪とすら思わぬ口ぶりだった。
だが、その“力”の代償がどれほど大きいかは、景継の姿を見れば一目瞭然だ。
「……ただの刀にそこまでの力があるなんて」
呆れとも、恐れともつかぬ声が口から漏れる。
『ひとえに我に宿りし、悪しき力の賜物よ』
(悪しき力…まさか…俺と同じ、“闇の力”なのか?)
考える間もなく、再び脳内に鋭い声が響いた。
『貴様の持つその“力”……』
幻影の目がぎらりと輝き、四本の腕が一斉に刃を掲げる。
『貴様を裂き、その芯にある闇を、我が糧とするのだ』
闇朱羅の声が、血と業の匂いを孕んで脳を灼くようだった。
俺は、鼻で笑って剣を構え直す。
「――へっ、やってみろよ!」
声と同時に、俺の姿は霧となって掻き消え、次の瞬間には奴の眼前に現れていた。
「はああああっ!」
急所などわからない。そもそもあの異形のどこが致命なのかすら判然としない。
ならば、せめてその武器を封じる。
俺は闇の剣を両手で構え、奴の一本の刀へと力任せに振り下ろす。
腕を狙うのではない。斬り落とせずとも、刀ごと叩き折ってやるつもりだった。
ガキィンッ!
金属がぶつかり合う、甲高い音。
俺の一撃は、奴の黒き刃によってあっさりと受け止められた。
(嘘だろ……!?)
まるで鉄壁。揺るがない一枚の壁に、全力の斬撃が弾かれたような感触が手に残った。
目の前の異形の存在――闇朱羅は、もはや幻影などではなかった。
輪郭が明瞭になり、肌の質感さえ伝わってくるほど、奴は完全に“そこに”存在していた。
そして、四本の腕。一本が防御に回ったまま、残りの三本の刀が静かに動き出す。
『遅い』
低く響く声。ぞわりと、背中を冷たいものが這い上がる。
次の瞬間――。
斜め上からの一閃。脇腹を薙ぐ水平斬り。足元からの跳ね上げ。
三方向から同時に迫る死の斬撃に、俺の反応は一瞬遅れた。
「っ――くっ!」
反射的に転移を発動。霧となり、斬撃の軌道から逃れる。
「……!!」
しかし転移先に奴が既に迫っていた。
(速い――!?)
声も出ないほどの速さ。気配を読む間もなく、奴の漆黒の刃が俺の胸を斜めに薙いだ。
布が裂け、肉が断ち切られる感覚。鋭い痛みが走り、肺の奥から血が逆流する。
視界が揺れ、口内に広がるのは、錆びた鉄の味。
(…転移が通じない…いや、それどころか…読まれてる!?)
混乱する思考を押しのけるように、次の斬撃が迫る。
今度は、四本すべての刀が舞うように襲い掛かってきた。
『その技、既に見切っておるわ!』
まるで演舞だ。美しく、そして絶望的に正確な死の舞踏。
縦横無尽の剣筋は、もはや人の反応速度では捉えきれない。
防御も回避もできない。せめて、と思っても、身体が言うことをきかない。
肩、腹、太腿、背中――斬撃のたびに肉が裂け、熱を帯びた鮮血が飛び散る。
一撃一撃が、確実に命を削っていくのがわかった。
痛い。熱い。寒い。
何がどうなっているのか、感覚が混濁していく。
呼吸が、苦しい。肺にうまく空気が入らない。喉が焼けるように痛む。
血の匂いが鼻腔を満たし、視界の端が赤く染まっていた。
(……まずい)
身体がいう事をきかない。
腕が動かない。足に力が入らない。
視界が滲む。まぶたが重たい。
(――終わる、のか……?)
誰かの名を呼ぼうとしたが、声は喉奥で掠れ、ただ血の泡を吐くだけだった。
思考の隙間に、あの日見た空が浮かぶ。
誰かの笑顔が遠ざかり、意識が、崩れ落ちるようにして暗闇へ沈んでいく。
そのときだった。
――キィンッ!!
甲高い金属音が、意識の淵に鋭く突き刺さった。
次の瞬間、俺の視界の前に、何かが閃いた。いや、誰かが……。
「――カケル!まだ倒れるな!」
怒気を含んだ声と共に、鮮やかな緑の影が闇朱羅の前に躍り出る。
振るわれた剣が、四本の黒き刀のうち一本を弾き飛ばしていた。
火花が散る。闇の波動が軋み、闇朱羅の気配がわずかに揺らぐ。
「……ライア?」
朦朧とした意識の中で、確かに彼女の姿が見えた。
「安心しろ。ここからは――私が相手になろう!」
彼女はそう叫ぶと、俺の前に立ちはだかるようにして構えを取った。
鋭く研ぎ澄まされた気迫が、空気を変える。
俺が沈みかけていた深い闇に、希望の光が差し込んだ気がした。
闇朱羅は目のような文様を浮かべた柄を軋ませるように鳴らし、四本の腕のうちの一つを静かに構えた。
『加勢か。だが無駄だ。我に勝てる道理などない』
重々しく、鬼面が言葉を吐く。瘴気を纏った刀がゆらりと揺れ、空気を裂く。
「侮るなよ。私はこの男ほど軟ではないぞ!」
瞬間、闇朱羅が四本の腕を振りかぶり、斬撃の嵐を解き放った。
金属が火花を散らす。斬撃に斬撃を重ねる連続の応酬。
ライアの動きは野生的でいて、無駄がない。
尾でバランスを取りながら後方へ飛び、二の太刀を寸前で受け流す。
肩口を浅く裂かれながらも、一歩も退かない。
(クソ…体が言うことをきかねぇ……)
痛みはまだ鋭く、再生の途中だ。だが、ライアが必死に剣を振るう姿を見て、胸の奥に何かが燻った。
だから、立たなきゃならない。
◇ ◇ ◇
私は、動き続ける四本の刀を睨みながら、歯を食いしばった。
風を裂く音。殺気の奔流。それをかわし、受け、流す。腕が痺れる。だが、まだいける。
けれど、問題がある。
目の前に立つ妖刀の怪物。
その腕から伸びた四本の刃は、どれも実体を持っているように思わせて、その実、まやかしに近い。
だが威力は確かで、気を抜けば即座に切り伏せられる。
それぞれの軌道が交差し、時に連携し、私の隙を狙ってくる。
……拮抗している。否、それは誤魔化しだ。
私は捌いているだけだ。押し切れていない。主導権を握れていない。
「ハッ!」
勢いよく踏み込んだ私の太刀筋が、奴の一撃とぶつかり合う衝撃。
目の前が大きく揺れた。――次の瞬間、私は宙を舞っていた。
地面に叩きつけられ、肺の中の空気が一気に抜ける。
「ぐっ……!」
肺を押さえて立ち上がろうとする私に、奴がゆっくりと歩み寄ってくる。
『お前…ただの戦士ではないな』
その声には、ほんの僅かだが興味の色が混ざっていた。
「――私は、ライア。誇り高きリザードマンの戦士だ!」
『我が名は闇朱羅。何人たりとも、我の敵ではない』
静かな、しかし圧のある声音。重苦しい沈黙が、辺りを支配した。
私は、地に膝をついたまま、剣を支えに息を整える。
(……四本の剣。まともに斬り合っても、決定打は取れない)
焦りを抑え、思考を巡らせる。幻のように揺れる三本の剣…否、本命は一振り。
それさえ叩き折れば、この均衡は崩せる。だが、それを見極めるには――
必要なのは、静寂の心。無の境地。
(…使うしかない。あのとき、道場の老人に教わった技)
だが、あれを使うには一瞬でも集中を要する。敵の殺気に満ちた間合いで、その猶予を得るのは難しい。
そう思ったとき、視界の端に――立ち上がる影が映った。
カケル……!
彼の身体が、既に傷の回復を終えつつある。再生能力の恩恵だろう。
「カケル、少しだけでいい。時間を稼いでくれないか?あいつの“本体”を折る方法が、わかった気がする」
「わかった、だけどあまり長引かせるなよ!」
そう言って、彼は闇の剣を握り直し、闇朱羅へ立ち向かっていく。
重たかった闇朱羅の気配が、僅かにカケルへ向けて動くのを感じる。
(頼んだぞ…私も、必ずやり遂げる)
静心流の老人が語った言葉が、今になって胸に甦る。
刃を当てようとするな。斬ろうとするな。
雑念を捨て、ただ“無”になれ。そうすれば、剣は勝手に最善を選ぶ。
あの時は、意味が分からなかった。ただの精神論だと思っていた。
でも、今なら――わかる気がする。
私は目を閉じた。
深く、息を吸い込む。肺が満たされる感覚に意識を向けて…静かに、吐く。
もう一度、吸って、吐く。今度はゆっくりと、喉の奥から細く、長く。
頭の中に浮かんでいたものが、一つ、また一つと消えていく。
闇朱羅の四本の刀――捨てろ。
カケルのこと――考えるな。
ただ、呼吸と、自分の剣の重みだけに意識を置く。
まるで深い水底に沈んでいくように、私の心は静まっていく。
周囲の音も、気配も、匂いさえも、次第に遠ざかっていくようだった。
やがて、私は何者でもない存在になった。
ただ、剣と一体となった“私”だけがそこにある。
――今だ。
目を開けると同時、視界に飛び込んできたのは、吹き飛ばされたカケルの姿。
そして、わずかに重心を崩した闇朱羅の身体。
私は、一歩を踏み出した。
空気の流れが変わる。闇朱羅の視線が、こちらを向いた。
だが、遅い。
私は加速する。残像が尾を引くほどの疾走。
狙うは一点――あの“刀”だけ。
迷いは、ない。
踏み込みと同時に、全身の力を両手に集め、矢のように突きを放つ。
剣尖が、一直線に突き出される。
『小癪な!来るがよい!』
その瞬間、闇朱羅の影から幻影の刀が二本、殺意を孕んで飛び出す。
迫る鋭い刃――一振りは肩を斬ろうと、もう一振りは喉元を穿とうとする。
それでも私は止まらない。
一瞬、身体を捻って軌道をずらす。
右の頬を掠めて血が散る――が、意に介さず、突きの軌道を一寸も逸らさぬまま、真正面から突破する。
「はぁあッ!!」
突きの刃が、まっすぐに闇朱羅の腕に握られた刀――その“本体”を貫いた。
刹那、金属が砕ける甲高い音。衝撃が柄から手へと走る。
闇朱羅の本体の刀が、根元から真っ二つに――折れた。
砕けた刃の破片が、宙に舞う。
私はそのまま駆け抜けた。闇朱羅の懐を抜け、風となって――振り返ることなく。
『ば、馬鹿なっ!我が、負ける…だと?』
闇朱羅の震える声が響いてくる。その威圧的な気配は、もはやそこにはない。
力の源を断たれた妖刀の幻影は、薄く、淡く、霧のように空へ溶けていく。
『あり……えん――』
断末魔のような呻き声と共に、闇朱羅の姿は掻き消え、最後には床に、折れた刀剣だけが乾いた音を立てて転がり落ちた。
静寂が戻った。だが、それはただの静けさではない。確かに、私達が勝ったという、確かな余韻だった。
振り返ると視線の先に、さっき吹き飛ばされたカケルの姿がある。
「カケル!」
名を呼びながら駆け寄る。肩で荒く息をする自分に気づく。
まだ気を抜くなと体が告げているのか、それともただ心配なだけか。
「…無事か?」
壁にもたれかかった彼に手を差し伸べる。
深い傷こそあるものの、致命傷ではなさそうで私はほっと息を吐く。
カケルは私の手を取り、痛みをこらえながら、ゆっくりと立ち上がり笑みを浮かべた。
「流石、俺の剣の師匠だぜ。格好良すぎて、嫉妬するくらいだ」
冗談混じりのその言葉に、私は思わず目を細めた。
「…馬鹿」
照れ隠しのように呟いた声が、ほんの少しだけ震えていたことに、自分でも気づいていた。
静けさが戻った室内には気を失ったままの景継と、ただ一本の折れた刀が転がっている。
黒紫の刃は根元からぽっきりと折れ、もはや呪具としての威光すら残していなかった。
その時だった。
折れた刀から、闇の瘴気がふわりと立ちのぼる――と思えば、それは一つの光となって空中に留まり、脈動を始めた。
禍々しさを孕んだ、黒紫の光球。けれど、その中心にはどこか――淡く、光のような輝きが瞬いていた。
(…嫌な気配だ。あれは、普通の魔力じゃない)
全身の鱗が逆立つような感覚に、私は本能的な危機を覚える。
しかしその光の球体へ向かって、ふらふらとカケルが歩み寄っている。
「おい、待て…!」
声が自然と漏れた。警戒というより、これは、直感だった。
あれは危険だ。触れれば何かが壊れてしまう――そんな気がした。
だが、カケルはすでに一歩、また一歩と歩み寄っていく。
「大丈夫だよ。今までも、こうやって取り込んできたから」
振り返ることなく、彼は手を伸ばす。
指先が光球に触れた瞬間、それは液体のように彼の手に溶け込み、まるで吸い寄せられるように体内へと侵食していく。
「……っく!」
彼の身体がびくりと跳ね、一瞬、呻くような息が漏れた。
「カケルッ!」
「……大丈夫、大丈夫だから」
彼は浅く息をつきながら、手をひらりと振って見せる。
額に汗をにじませ、口元に無理に笑みを浮かべながら。
けれど、私は見逃さなかった。
いつもより、ほんのわずかだが、彼の表情に影が差していることを。
私の胸に、薄く澱のような不安が沈殿する。その正体はまだ言葉にならない。
けれど確かに、闇は少しずつ彼を蝕んでいるのかもしれない――そんな気がした。
◇ ◇ ◇
闇朱羅の陰謀が砕け散った後、事態は速やかに収束に向かった。
暴走していた景継は無事に意識を取り戻し、
五華衆の面々も闇朱羅の放っていた瘴気から解放され、命に別状もないそうだ。
原因となった妖刀・闇朱羅は刀身が折れたまま動かなくなり、
今は城の地下に設けられた封印具に収められている。
これ以上、誰の手にも渡らないよう、慎重に管理される手はずだという。
それからしばらくして。
俺達は、城の奥にある格式ばった広間へと招かれた。
漆塗りの柱に金の装飾、静かな風が障子越しに揺れる中、正装を整えた景継と五華衆が一同、膝を揃えていた。
「…このたびは、私の不覚により、大きな混乱と危険を招いてしまった。心から、お詫び申し上げる」
深々と頭を垂れる景継の声は、あの戦場での凄絶さとは打って変わって、柔らかく穏やかなものだった。
人柄というのは、これほどまでに変わるものかと思わされるほどに。
そして、傍らに立つぬらりひょんの雅が、ゆるりとした笑みで景継の肩を叩いた。
「いやいや、もう済んだことです。まったく、無茶をしてくれる若殿ですね。
……とはいえ、無事戻ってきてくれたことが何より」
「……はい。多くの者の支えとカケル殿御一行の力があってこそ」
景継が俺達の方へと目を向け、ふっと目尻を緩めた。
「カケル殿、そして皆さん。命を懸けて私達を止めてくれて、本当に感謝している」
その言葉に、後ろで控えていたリリア達も静かに頭を下げた。
どこか張り詰めていた空気が、少しだけ和らぐのを感じる。
そして、雅が手を打つようにして口を開いた。
「さて、そんな真面目顔ばかりでは空気が悪くというもの。
今日はちょうど、ジパングの城下町で“共存記念祭”が開かれております」
「共存…記念祭?」
俺が聞き返すと、雅は愉快そうに頷く。
「妖怪と人との和を祝う、大切な祭です。せっかくの機会ですし、貴方方を名誉客人としてもてなしたいのです」
そう語る雅の声音は、どこか誇らしげだった。
この国の祭――きっとそれは、彼らの誇りと歩みを象徴するものなのだろう。
すると、景継が一歩前に出て、まっすぐこちらを見つめながら続けた。
「この国には、昔から“異なる者たちが寄り添い合ってこそ栄える”という考えがあるのだ。
だからこそ、皆にこそ参加してほしい。…戦いの果てにある和を、共に祝ってくれないか?」
その眼差しは真心が込められているのがわかった。
俺達が、この戦いを越えてここに立っていることを、心から歓迎してくれているのだと。
「…はい。もちろんです」
戦いの終わりに訪れた、ささやかな祝祭のひととき。
それは、血と汗に塗れた戦場を越えた先にある、束の間の安らぎだった。
◇ ◇ ◇
温泉地の奥、岩山に囲まれた隠れ湯に、湯気が静かに立ちのぼっていた。
ぬるめの湯が心地よく、肩まで浸かりながら俺は深く息を吐く。
聞けばここは、ぬらりひょん・雅の「御用達」の秘湯だという。
町や城の者達も滅多に立ち入れぬ特別な場所らしく、今夜は「感謝を込めたもてなし」として貸し切りにされていた。
湯に身を沈めながら、俺はさっきまで楽しんだ祭りを思い返す。
夜の城下町には灯籠が並び、どこからともなく祭囃子が流れていた。
町人も妖怪娘達も、皆が和やかに笑い合っていた。
リリアは舞台の舞に目を奪われていた。
派手な祭りの賑わいの中で、彼女だけがどこか静かな気配で、揺れる舞の影をじっと見つめていた姿が印象的だった。
セレナは金魚すくいに本気で挑んでいた。
髪の蛇達が妙に張り切っていたせいで、屋台のおじさんが冷や汗をかいていたのが少し笑えた。
ヴァネッサは打ちあがった花火の光景に思わず『美しいな……』と呟き、
少しだけ無邪気な表情を見せていた。普段は涼しげな彼女の、そんな姿に少しどきりとした。
ライアはというと、焼き鳥の屋台の前に陣取り、
まるで試合後のような満足げな顔で串を頬張っていた。
『うまっ……これ、もう一本いいか?』という声が今でも耳に残っている。
エルザは、ふわふわのわたあめを両手で持ったまま、『……どうやって食べるの?』と真顔で尋ねてきた。
目が本気だった。あの顔を忘れることはできそうにない。
エリシアは人だかりの中で、笛の演奏を披露していた。
透き通るような旋律が夜風に乗り、町の喧騒すら一時的に静まりかえった。
あの音色には、確かに人を惹きつける力があった。
そして、トーラは型抜きに夢中だった……が、あえなく失敗。
『ちくしょーっ!』と叫ぶ横で、子供達がくすくすと笑い、やがて囲まれ、照れ臭そうに笑っていたのが微笑ましかった。
――そういえば、五華衆の面々とも再会し、皆それぞれ祭りを楽しんでいた。
景継は穏やかな笑みを浮かべ、その時だけは「殿様」ではなく、ただの一人の若者のようだった。
ふっと、湯の揺らぎと共に、心がほどけていく――その時だった。
背後にふと、気配を感じた。人の気配だ。振り返ろうとした瞬間――
「…おや、先を越されてしまったね」
湯けむりの向こうに、あらわな肌と銀髪が揺れた。
そこにいたのは、布一枚だけを身にまとったヴァネッサだった。
「なっ――お、おいッ!?な、なんでお前がここに……!」
驚きのあまり慌てて視線を逸らす。
しかしヴァネッサは悪びれもせず、湯に足を踏み入れながら言った。
「雅から聞いたぞ。ここは“混浴”だと。
君が独占してるのかと思って、ちょっと拗ねそうになったが…空いているなら問題ないな?」
「いや、雅様…そんなこと、一言も俺には――」
悔しさとも困惑とも言えぬ感情が胸をかすめる。完全にしてやられた。
それでも、もう後戻りはできない。
湯に入ってくるヴァネッサに、俺は諦めのようにため息を吐いた。
「隣、失礼するよ?」
「……好きにしろよ」
「ふふ、照れるな照れるな」
からかうように笑いながら、湯面を揺らしてヴァネッサが隣に身を沈める。
その仕草すら、どこか舞うように優雅だった。
「そういえば、こんなものをいただいてね」
彼女が持ってきた木盆には、とっくりと二つのおちょこが乗っている。
「なんでも、清酒とかいうジパングの酒だそうだ」
一口含んだヴァネッサは、目を細めて喉を鳴らす。
「……ん。すっきりとしていて、香りも繊細。君もどうかね?」
差し出されたおちょこを、視線を逸らしながらなんとか受け取る。
だが、ちらと目に入ったヴァネッサの胸元に視線が釘付けになってしまい、慌てて湯の中に目を落とす。
「おや?もっとじっくり見ても良いのだぞ?」
唇の端をつり上げ、ヴァネッサは小さく首を傾ける。
戯れるような声音には、どこか本音を探るような熱がこもっていた。
「…うるさい」
そう言って、俺は手にしたおちょこを口に運ぶ。
清酒は舌にやさしく、喉にするりと落ちていった。
「…うまいな」
自然とそんな言葉が漏れていた。
ヴァネッサは何も言わず、ただ微笑んでいたように思う。
湯船の縁に腕をかけ、視線を上にやると、空にぽっかりと浮かぶ月が目に入った。
静かだった。湯の音と、遠くから聞こえるかすかな笑い声。
湯気越しに、祭りの余韻がぼんやりと残っている気がした。
「……綺麗だな」
月を見て言ったつもりだった。けれど、隣の彼女にも重ねていたのかもしれない。
そんな自分に少し驚いて、俺は視線を湯に戻す。
「そうだね。――どこか、哀しげで、儚い」
ヴァネッサが静かに返す。声は柔らかく、どこか遠くを見つめるような響きを帯びていた。
月の光が湯面を照らし、彼女の銀の髪と深紅の瞳に淡い光を落とす。
言葉は続かず、俺達はただ、湯けむりの向こうの空を見上げていた。
その沈黙を破ったのは、隣から聞こえた、低く落ち着いた声だった。
「君は、永遠よりも今を選ぶかい?」
ヴァネッサがぽつりと問いかけてきた。視線は月に向いたままだ。
「…どうした、急に」
「君も聞いたのだろう?姫君のことを」
その名を聞いて、俺の胸に微かな痛みが走る。
「…ああ」
「彼女の死が、彼等を歪ませたきっかけになったといえる。
――椿はこう言っていたよ。『姫君を妖にすれば助けられた』とね」
月の光が彼女の横顔を照らす。
その表情は、どこか遠い過去を見つめているようだった。
「吸血鬼である余も…嫌でも長く生きてしまう。
ゆえに椿の主張も――わからんでもないのだ」
ヴァネッサの声は静かだった。けれど、その中には複雑な想いが滲んでいた。
彼女もまた、“永遠”を知る者なのだ。
「…俺も、姫君と同じで“今”を選ぶかな」
自然と、そんな言葉が口をついて出た。
ヴァネッサがこちらを見やる。
「何故だ?」
「だって、永遠があったとしても、きっとどこかで満足なんてできないよ」
そう口にしながら、自分の胸の内を探るように言葉を紡いだ。
「確かに…別れはつらいものだよ。それが差し迫ってるなら、尚更だ。
だけど、だからこそ…せめて“今”だけは、大切にしたいと思うんだ」
隣で静かに息をのむ気配がした。
「俺も…“今”を生きたい。君達と一緒に」
それが、俺の答えだった。
どんな終わりが待っていたとしても、この日々がある限り、俺はそれを選ぶ。
思いを言葉にしたとたん、胸の奥がすっと軽くなる気がした。
そして、そんな俺の言葉を、ヴァネッサはしばらく黙って聞いていた。
やがて、ふわりと唇をほころばせて――
「…まったく、君という男は、時々とても眩しい」
どこか寂しげな笑みを浮かべながら、そう呟いた。
「――だからこそ、離れがたいんだ」
そう言って、ヴァネッサが俺の肩にもたれかかってくる。
布一枚隔てただけの柔らかな感触と、濡れた銀の髪が首元にかかり、心臓が跳ねた。
「ちょっ…」
「ふふ、少しのぼせてしまってね。介抱してくれまいか?」
わざとらしく、とろけるような声音で囁かれた。視線を動かすと、すぐそこにヴァネッサの唇がある。
冗談でも、これは――距離が、近すぎる。
触れそうで、触れられない。いや、下手をすれば、本当にキスされるかもしれない。
(まずいって……)
頭のどこかが警鐘を鳴らしていたそのとき、不意に後方から聞こえてきた声が場を切り裂いた。
「――あらあら、もう先に入ってたのね?」
その甘やかな声に、俺の全身がビクリと跳ねる。
慌てて身を引き、ヴァネッサとの距離を取って振り向く。
湯気の向こうに現れたのは、リリアだった。
その後ろには、セレナ、ライア、エルザ、エリシア、トーラ――全員が布一枚をまとい、温泉へと足を踏み入れようとしている。
目が合ったリリアが、にこりと笑った気がした。その笑みに含みを感じたのは――きっと、気のせいじゃない。
(……終わったかもしれない)
俺は額に手を当て、深くため息をついた。
リリアがにこやかに歩いてきたのを皮切りに、他の皆も次々と湯に足を浸す。
「…さっきの、見間違いじゃないわよね?」
セレナはジト目で俺達の方をちらりと見て、蛇の髪をピクリと揺らす。
「ちょっ…あんな近くで…その、何してたんだよ」
ライアは頬をかすかに赤く染め、と言葉を濁しながら、ちらちらと視線を逸らす。けど、耳の先まで真っ赤だ。
「……大人だね」
エルザは湯に浸かりながら俺をじっと見て静かに一言。
(いや、俺、別に何もしてないから!)
「まあまあ、こういうのも旅のスパイスと言いますし……で、で、口づけは、されたんですか?」
エリシアはふわふわとした口調で無邪気に爆弾を投げ込んでくる。
「してねえよッ!!」
思わず声を張り上げてしまった俺に、ヴァネッサが横でくすくすと笑っている。
「ふふ、惜しかったな。あと数センチで奪えたというのに」
「おい、やめろって!」
「ったく、男ってやつはどいつもこいつも!こういう場ではちゃんと誠実に…で、どっちが誘ったんだ?」
トーラは大股で湯に入りながらと鬼の首を取ったようにズイっと顔を近づけてくる。
「いやだから、違うって!俺は何も!」
「……ふーん、じゃあ、のぼせたとか言って甘えてたのはどっちだったのかなー?」
リリアがにっこり。その笑顔の裏に冷たい視線が光っている気がする。気のせいじゃなければ。
(助けて誰か!)
どうしてこうなった、と湯の中で俺は天を仰いだ。
……それでも、見上げた夜空は雲ひとつなく、月明かりが静かに湯けむりを照らしていた。
淡く揺れる光の下で、確かに――この想いは、息づいている気がした。
“永遠”なんてなくていい。
今、この瞬間を――君達と、生きていたい。