散りぬるをも、なお君を⑦
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年。
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
ライア
種族:リザードマン
流浪の剣士。エルザとは幼馴染。
月嶺景継
種族:人間
ジパングを治めている人物であり、人間側の長。
桔梗
種族:人間と妖怪のハーフ(くのいち)
月嶺景継に仕える五華衆の一人。多彩な忍術を持つ。
私は一人、薄暗い城の廊下を駆けていた。
どれだけ時間が経ったかなんて、正直もうわからない。
ただ胸の奥に渦巻く焦りだけが、私の背を押していた。
(…皆は無事か?)
焦燥に駆られながらも、剣を抜いたまま慎重に進む。
周囲は静まり返り、灯りの薄明かりが床に長く影を伸ばしている。
その時だった。
ピリ、と空気が揺れた。
本能が警告を鳴らす。背筋を冷たいものが這い上がる感覚。
まるで闇そのものから、ふわりと滲み出るように――目の前に影が現れた。
現れたのは、一人の女だった。
整った顔立ちに尖った耳、艶やかな黒髪が揺れる。
桔梗の花柄があしらわれた忍装束を纏い、無音のまま、そこに立っていた。
「名乗るが礼儀――某は桔梗。景継様に仕える五華衆の一人」
「五華衆……か。私はライアだ」
自然と構えが入る。
桔梗の表情は微塵も崩れず、静かに淡い気配だけが張り詰めていく。
「此方へ――」
桔梗は無言のまま、隣の障子戸をそっと開けた。
敵の誘いに乗るなんて本来なら論外。
だけどこのまま廊下でやり合うよりはマシだ。
警戒を緩めずに、その中へ足を踏み入れた。
――勝負の間。
部屋の中に入った私に対し、桔梗はすでに静かに間合いを取っていた。
そのまま腰に差していた忍刀を、すらりと抜き取る。
「景継様は今、謁見の間にて語らいの最中。妨げとなる者には、容赦はせぬ」
「…なら、私も遠慮はしない。ここは、力づくで通る!」
私は剣を握り直し、正面から構えを取った。
その瞬間、桔梗が疾風のように踏み込んできた。
「くっ――!」
私は反射的に剣を構え、正面から受け止める。
忍刀と私の剣が高く甲高い音を立ててぶつかり合う。
腕にずしりと重い衝撃が走る。
見た目以上に、力も速度もある!
(こいつ、只者じゃないな)
息を飲みながらも、私は必死に踏み止まった。
力比べで押し込まれはしない。
桔梗はほんの僅かに眉を寄せたが、すぐに重心を戻し、静かに距離を取る。
「…その程度か?五華衆ってのは随分控えめなんだな」
軽口の一つでも叩かなきゃ、気圧されそうだった。
少しでも相手の冷静さを崩せれば、こちらの反撃の隙になる――そう思っていたが、桔梗は一言も返さなかった。
ただ淡々とした無表情のまま、無言で腰の忍具袋に手を伸ばす。
「……フッ」
シュンッ!
瞬時に放たれたのは苦無。
鋭い軌道でこちらへ飛来する。私は身を捻り、ぎりぎりで回避する。
「まだだッ!」
続けざまに手裏剣が二枚、扇状に放たれる。
私は剣を振り上げ、回転しながら飛来する手裏剣を弾き落とした。
だが桔梗は再び間合いを詰めず、一定の距離を保ったまま、流れるように暗器の投擲を続けてくる。
苦無、手裏剣、また苦無――その動きには一切の隙が無い。
(翻弄するつもりか……!)
こちらの動きを探りながら、完全に主導権を握ろうとしている。
私はわずかに呼吸を整えつつ、桔梗の出方を伺い続けた。
桔梗は一定の距離を取りながら、静かに手を組んだ。
その所作は一切の無駄がなく、静謐な緊張感を孕んでいた。
「――分身の術」
低く呟かれた瞬間、桔梗の周囲に淡い霞が立ち上った。
煙のように揺らめく残像の中から、桔梗の姿が次々と複製されていく。
「なっ――!?」
目の前に、まったく同じ姿をした桔梗が八人。
全ての分身が同じ忍装束、同じ構え、同じ無表情のまま、静かに忍刀を構えている。
(まるで全員が本物みたいだ…っ!)
分身の誰一人、僅かな乱れも誤魔化しもない。
呼吸まで同調しているかのような完全な統率。
視線が無意識に泳ぎ、思わず足がわずかに後退しかける。
「逃げ場はないぞ」
八人の桔梗が一斉に動いた。
半円を描くように私を囲み込み、間髪入れず苦無と手裏剣が同時に放たれる。
「くっ――!」
私は咄嗟に身体を回転させながら、剣で次々と弾き落としていく。
刃が舞い、金属音が連続する。
ガキィン!ギンッ!キィィィン!
それでも捌ききれなかった刃が頬を掠め、腕をかすめ、細かな傷が刻まれていく。
(くそっ…!どれが本物だ!?)
さらに分身達はめまぐるしく立ち位置を入れ替え始めた。
左右から、背後から、次々と暗器が飛ぶ。
攻めのテンポが速い。翻弄されている隙に、着実に体力を削ってくる動きだ。
「――どうした。守るだけでは勝てぬぞ」
桔梗の声はどこからともなく響く。
その冷たい声音に、焦りとは違う苛立ちが胸に滲んできた。
(……落ち着け、私)
私は歯を食いしばり、踏み留まる。
このまま翻弄され続ければ、その先に待つのは敗北だ。
けれど、諦めるつもりなど微塵もなかった。
(このまま翻弄されていたら、ジリ貧になるだけだ!)
私は思い切って踏み込んだ。
飛び交う苦無を紙一重でかわし、分身の一人――右斜め前にいた桔梗の一体へ、渾身の剣を振り下ろす。
「はぁああっ!!」
鋭い手応えと共に、刃が桔梗の肩口を断ち割る。
だが次の瞬間、斬りつけた桔梗の身体がぐにゃりと歪んだ。
皮膚が木の表皮に変わり、瞬く間に一本の木の幹へと変わって崩れ落ちる。
「これはっ…!」
「身代わりの術」
驚愕する私に桔梗が低く、冷徹に告げた。
その声に感情はなく、まるで当然の処理のように淡々としている。
しまった――そう思った時にはもう遅かった。
シュン――!
残った分身の一人。
否、本体の桔梗が疾風のように間合いを詰め、忍刀を閃かせていた。
(まずい、間に合わない!)
私は剣を振り上げる間もなく、反射的に目を閉じた。
けど、痛みは来なかった。
「……?」
私は恐る恐る、ゆっくりとまぶたを開く。
薄暗い光の中に、静かに立つ一人の影が視界に映り込んだ。
その背はすらりと伸び、腰まで流れる艶やかな髪がふわりと揺れている。
ゆるやかな微笑みを浮かべたその横顔――それは、間違いなくリリアだった。
闇の中でも、彼女の姿は不思議なほど柔らかく光に包まれて見えた。
まるで最初からここにいたかのように、自然に、静かに、私を庇うように立っている。
「危なかったわよ?ライア」
優しく、いつも通りの落ち着いた声。
その瞬間、胸に張り詰めていた緊張がほんの少しだけ緩んだ。
「リリア…!?どうして…」
「あなたがいくら粘っても、この相手は簡単には倒せないわ。だから――ここからは、私が引き受ける」
静かに微笑むリリアの横顔は、まるで何でもないことのようだった。
「でも、これは私と奴の勝負だ…邪魔しないでくれ!」
私は思わず声を荒げてしまう。
だがリリアは肩をすくめて、柔らかく答えた。
「そんなにムキにならないの。…さあ、早く行って。カケルの所に、貴女が必要よ?」
「…カケルが?」
その言葉に私は一瞬だけ迷った。
リリアはそんな私の迷いを見透かすように、ふっと微笑む。
「ええ、きっとあなたが必要よ。今は彼の傍にいてあげて」
その柔らかな言葉に背を押され、私はそっと唇を噛んだ。
ほんの僅かな逡巡の後、私は決意を込めて頷く。
「――任せた!」
リリアの肩越しに桔梗を睨みつつも踵を返す。
その瞬間、桔梗が疾風のごとく動いた。
私を逃がすまいと、地を蹴って一気に間合いを詰めてくる。
「逃さん!」
だが、リリアの鋭い蹴りが桔梗の斬撃を寸前で受け止め、弾き返した。
「ここは通さないわよ?」
蹴りの衝撃で桔梗が一歩後退する。その隙に私は走り出した。
「…カケル、今行く!」
廊下の闇を蹴りながら、私はまっすぐ駆け抜けていった。
◇ ◇ ◇
部屋の空気は、静かで、重苦しい緊張に満ちていた。
景継は座したまま、まっすぐにこちらを見据えている。
背筋の伸びた姿勢、揺るぎのない眼差し。
その瞳の奥にあるもの――それが何なのか、俺にはまだ測りかねていた。
「――さて、客人よ」
景継がゆったりと口を開く。
その声は落ち着いてはいるが、底に薄く張り詰めた硬さが滲んでいる。
「問おう。貴様は“力”とは何だと考える?」
「……力?」
不意の問いに、一瞬言葉を探してしまう。
だが景継は俺の迷いを待たず、静かに言葉を重ねた。
「この世は無情だ。正しき願いも、清き想いも、力なき者の声は風に消える」
「力ある者こそが、大切なものを守れ、理想を現実に変えられるのだ」
その口調は淡々としていながらも、どこか噛み締めるような苦味を孕んでいた。
まるで誰よりも、その現実の重さを知っているかのように。
「どうだ?貴様はどう考える?」
「……難しいな」
俺は正直にそう答え、しばし言葉を探し、言葉を紡ぐ。
「俺も、力が無ければ守れないものがあるってことは…理解してるつもりだ」
「だけど――力を振るう理由は、自分のためじゃない。
誰かを想う気持ちがあって初めて意味を持つんじゃないかって、思ってる」
景継の眉がわずかに動いた。
だが、その目に浮かぶ色はどこか静かに、しかし決然としていた。
「左様か。しかし――その力も、強さが伴わねば意味を成さぬ」
「志があろうとも、非力であれば踏み潰される。正しき理想を貫くためには、まず強さを示してこそだ」
その声には怒りも苛立ちもなかった。
ただ、己の信じる道を語る者の、静かな確信があった。
だからこそ――逆に、その言葉の裏側にある“何か”が、妙に気になった。
その時ふと、ぬらりひょん・雅が呟いていた言葉が脳裏をよぎる。
(…“強さ”にこだわる理由――それが、哀しみから来ているとしたら)
「景継殿…貴方のその信念の裏にあるのは、もしや――亡くなられた姫君が、関係しているんじゃないか?」
俺の言葉で、部屋の空気が一段と重くなった。
景継の肩が僅かに揺れる。
息を詰めるような沈黙の中で、その表情に初めて微かな迷いが浮かぶ。
「――姫君の死が、今の貴方を形作った。違うか?」
問い詰める俺の声に、景継の瞳が細く光を灯した。
「姫君は、最後に我へこう言葉を遺した――“強く、生きて”と」
その声音は、どこか痛ましげだった。
景継は拳を強く握り締め、まるで何かを押し殺すように語る。
「我はその言葉を胸に刻んだ。力無きまま後悔し、何も守れずに失う愚を、二度と繰り返さぬと――!」
握りしめた拳がわずかに震えているのが見えた。
俺は静かに、しかし逃さず問い返す。
「…でも、その“強さ”は本当に、今のような道を望んでいたのか?」
景継の目が微細に震え始める。
その奥に潜んでいた何かが、ゆらりと滲み出していく。
「何が正しいかなど、今さら誰が答えを出せようか!」
「貴様にわかるのか!?愛する者を失い、無力に膝を折った者の悔しさが!」
「我は――もう、誰も失いたくはないのだ!そのためならば、武力すら厭わぬ!」
景継の声が激しさを増し、ついに怒気がその声音に混じり始めた。
同時にその背後で一本の刀から黒き靄が静かに立ち上り始める。
(…まずい、抑えが利かなくなってきてる)
「…景継殿!」
俺の呼びかけも届かぬまま、景継はゆっくりと立ち上がった。
その手に握られた刀が、不気味な闇を纏い、脈動している。
目に宿る光は、もはや理性の色ではなかった。
「もう引くことはできぬのだ…我が道を阻むなら――!」
景継がゆっくりと立ち上がり、不気味な闇を纏い、揺らめく刀を抜き放った。
「――排除するまでよ!!」
景継の殺気が満ちる中、俺は剣を構え、わずかに足を開いて重心を下げた。
空間そのものが、ねっとりとした重苦しい闇気に包まれていく。
(避けられないのか……なら、やるしかねえ!)
景継は静かに、しかし鋭く俺を見据えたまま口を開いた。
「…名を聞こう客人よ」
その問いは、まるで儀式のように、静謐な威圧を伴っていた。
武人として、これから命を懸ける戦いに臨む相手への最低限の礼儀――そんな気配さえ感じられた。
俺は一瞬だけ呼吸を整え、答えた。
「カケル――ただの旅人だ」
「カケル…」
景継は俺の名を一度だけ静かに口の中で転がした。
だが、次の瞬間、その目に宿る光は再び凶気へと塗り潰されていく。
「――斬り伏せる!!」
景継の足がわずかに沈み――次の瞬間、鋭い踏み込みと共に一気に距離を詰めてきた!
「くっ――速ぇ!」
俺は咄嗟に転移を行使し、景継の斬撃を紙一重で躱す。
しかし景継は素早くこちらの移動先を視線で追ってくる。
(さすがだな…この人、視線と勘の鋭さが段違いだ!)
鋭い刃が俺の視界を切り裂いた。
景継の踏み込みはまるで音が消えたかのように無駄がなく、剣閃は迷いなく俺の急所を狙い続けてくる。
ギンッ!ギィイン!
咄嗟に剣を合わせ、なんとか受け流す。
鈍い衝撃が腕に響き、足元に力が抜けそうになるのを踏みとどめる。
(――速い。重い…けど、それだけじゃない)
一振りごとの重心移動、間合いの取り方、崩しの仕掛け。
目の前の男の剣には、無駄が一切存在しない。
これは本物の武だ。鍛え上げられた、職人の剣。
「防ぐのがやっとか、カケル」
景継の声音には、どこか静かな確信めいた余裕が滲んでいた。
息苦しさが胸を締めつける。
――シュッ!
再び踏み込み――袈裟斬り。
踏み込みの切れ味が尋常じゃない。
俺は転移で背後に回り込む。だが――
「甘いぞ」
景継の体がまるで俺の動きを予測していたかのように旋回する。
振り返った瞬間、刀が闇の靄を纏いながら肩口を狙っていた!
「……っ!」
俺は闇の剣を肩越しに掲げる形でその一撃を受け止める。
刀身と刀身が高い金属音を響かせ、火花が散った。
(マジかよ……転移の読みも完璧か!?)
転移すら通用しないのかと、思わず背筋に冷たいものが走る。
景継は暴走などしていない――なおも冷静に俺の思考を追い詰めている。
「貴様の動きは、既に見切っている」
景継の瞳に浮かぶ色は、戦場に立つ者のそれだった。
感情ではなく、徹底した読みと技術で俺を仕留めにかかってくる。
ギン!ギィン!ギャン!
斬撃が矢継ぎ早に押し寄せる。
俺は必死に剣で受け流し、時に跳ね上げ、なんとか応戦を続けた。
だが気づけば、徐々に足が後退していく。
(距離を詰められたままじゃ、押し込まれる……!)
景継の剣筋は一撃ごとに隙を削り取り、少しずつ俺を追い詰めていく。
恐ろしいのは、それが決して力任せではなく、計算された確実な“削り”であることだった。
――そして、その剣だけじゃない。
景継の刀は斬り結ぶたびに、まるで瘴気が腕へと絡みついてくるような嫌な違和感を残していく。
身体の奥底に染み込んでくるような不快な痺れ――
(これは…長く受け続けるわけにはいかない)
焦燥が胸を掻きむしる。
景継は決して急がない。だが着実に俺の体力と判断力を削ぎ取っていく。
(このまま防戦だけじゃ、いずれ潰される!――なら)
俺は後方へ転移して間合いを広げ、深く息を吸い込むと左手を突き出す。
闇の気が渦を巻き、床板の上に黒々とした瘴気の渦が生じる。
「――出てこい!」
漆黒の靄が弾けるように拡散し、そこから蠢く異形が這い出した。
姿を現したのは、狼に似た四足歩行の獣――だがその身体は細長く、しなやかさと異様さが入り混じる。
筋肉質の肢体にびっしりと生えた黒銀の毛並み。そして何より、頭部と胴に無数の赤黒い眼が蠢いていた。
――グルルルゥゥ……
静かに、低く唸り声を上げる。
その瞳の群れが一斉に景継を捕捉していた。
「…ほう。獣か」
景継が眉をわずかに上げた。
だがその表情に怯えはなく、むしろ鋭く動きを観察し始めている。
魔獣が咆哮と共に突進する。
四足で床板を砕きながら一気に距離を詰め、鋭く伸びた前脚の爪が景継目掛けて振り下ろされる。
――ガギィッ!!
景継は剣で受けるが、魔獣の巨体が勢いのまま押し込んでいく。
弾かれた景継の肩口に、浅いが明確な裂傷が走った。
(やった……通じた!)
景継が初めて血を流した。
「なるほど、侮れぬ力だ。だが――動きは読める」
狼魔獣が再度唸り声を上げながら跳躍する。
景継は冷静に後退し、鋭い眼差しでその軌道を読み取ると、刃先を構え直す。
魔獣の尾が横薙ぎに襲いかかる。
しかし景継は身体を低く沈め、その下をすり抜けた。
そして次の瞬間には、一気に懐へと滑り込み、素早く一閃――!
ズシャッ――!
魔獣の右脇腹に深い裂傷が刻まれる。
悲鳴のような呻き声を上げ、魔獣がよろめく。
「我が剣に死角無し――消え失せろ!」
景継は一気に踏み込み、二の太刀、三の太刀を連続で叩き込む。
魔獣の身体を闇の靄が包み込みながら、その巨体は崩れ落ち、やがて完全に霧散していった。
静寂が戻る。
ただし、景継の肩口には確かな血が滲んでいた。
「悪くはない…だが、それだけでは我を倒せぬ」
傷つきながらも景継の眼差しは変わらず鋭かった。
俺は荒い息を吐きながらも、再び剣を構え直す。
(…だが、まだだ。ここからだ!)
――ギィィィィィン!!
激しくぶつかり合う剣と剣。
景継の猛攻はなおも止まらない。
斬撃は寸分の狂いもなく正確で、俺の剣が僅かにでも遅れれば、すぐにでも喉元を裂かれていただろう。
――ガッ!ギン!ギィン!
振り上げた闇の剣でどうにか打ち払い、足を踏み返してなんとか耐え続ける。
だが――もう防ぐだけでは限界が近い。
(くそっ…押し込まれてる…!)
次の一閃が互いの剣を重ね合わせ、鋼と鋼がきしむ音を響かせた。
鍔迫り合う中、俺の額に汗が滲み、景継の双眸が目前に迫る。
「――それが貴様の“誰かを想う気持ち”とやらの限界か、カケル!」
景継の言葉が、剣圧以上の重さで胸に突き刺さる。
「貴様の語る綺麗事で、一体誰を守れる?誰を救える!?誰を救えた!?」
景継の吐き出す言葉は、次第に苦悶と怒り、そして――深い悲しみに染まっていく。
「なぜだ…なぜ彼女が死なねばならなかった!?」
「なぜ病などに命を奪われねばならなかった!?」
「なぜ、我は何もしてやれなかった!?何も救えなかったッ!」
震え混じりの叫びは、剣を通じて伝わるほど熱を帯びていた。
それは怒りではなく――もはや絶望に近かった。
その瞬間、景継の剣が一気に強く押し込まれ――
「答えろ、カケルッ!!」
鍔迫り合いの力が弾かれ、俺の体勢が崩れた。
景継の刀先がわずかに跳ね上がり、そのまま胸元へ一直線に突き込まれてくる。
「――ぐっ!」
避けきれなかった。
俺は寸前で身を捻り、心臓を外すように逸らす――だが、鋭い痛みと共に刀身が胸を穿った。
ズブリ――!
景継の刀が、肉を貫き、俺の背中側まで突き抜けているのが感じ取れた。
景継の眼が鋭く光る。だが俺は歯を食いしばったまま、呻きも叫びもしなかった。
俺は――怒りを押し殺せなかった。
「…………」
ゆっくりと右手を伸ばす。
そして、景継の握る刀身を自らの傷口の中で掴んだ。
「な……!?」
景継が驚愕の目を見開く。
だが俺は構わず、傷口の痛みに耐えながら刀を掴み締め、食い下がる。
「…死は、避けられない。どんなに願っても…誰も抗えない」
「悲しみで自分を見失うことだってある。逃げたくなることだってあるさ…!」
血を吐きそうになりながら、言葉を吐き出す。
「――だけど!姫君が本当に伝えたかったのは、決して今のような生き方じゃない!!」
景継の顔が、怒りとも苦悶ともつかない歪みに揺れる。
「黙れぇぇっ!!貴様に彼女の何がわかる!!」
景継が刀を強く引き戻そうとする。
だが俺は血で濡れた手でなおも刀を離さず耐える。
「…わからないさ!俺にも、貴方にも、誰にも…」
「けどな…姫君は、貴方がそんな風に苦しみ続けることなんて――きっと望んじゃいない!」
景継の瞳が揺れ、混濁した色が渦巻く。
「貴方だって、わかってるはずだ!」
「だったら――悲しみを乗り越えて……!」
景継の表情が崩れる。
その手がわずかに震え、刀を握る力が一瞬緩んだ。
その隙を――俺は見逃さなかった!
「――強く生きてみろよおおおおおおおおおお!!」
闇の力を右拳に集中させ、黒き気流を纏わせる。
振りかぶった拳が――景継の顔面を正面から撃ち抜いた。
――ゴッ!!
「……ぐっ!!」
景継の身体が後方に弾き飛ばされ、床に転がる。
景継はそのまま仰向けに倒れ、微かに息を吐き――意識を失った。
静寂が戻る。
だが、俺の胸には今もなお、鋭い痛みが残っていた。
胸元を見下ろす。
景継が突き立てたままの刀が、肉を抉り、深々と刺さっていた。
刀身からはなおも黒き靄が漂い、肉体の奥へと絡みつこうとしてくるようだった。
(…くそっ、まだ!)
俺は更に歯を食いしばる。
呼吸を荒げながら、俺は両手を伸ばし――柄を掴んだ。
ギリギリギリ……ッ
痛みが背骨にまで突き抜けるように走る。
だが、俺は叫ばなかった。
痛みを怒りに転化し、渾身の力で――
「ぬぅぅぅ……ああああッ!!」
ズブリ――グッ、と音を立てて、刀身がゆっくりと胸から引き抜かれていく。
血が滲み、呼吸が荒くなる。
それでも、最後まで力を緩めず、ついに――
――ズシャッ!
完全に抜き取った。
刀をそのまま握り直し、俺は振り被って床へ叩きつけるように放り捨てた。
カラン、と乾いた音を立てて刀が床を滑っていく。
禍々しい闇の靄がうっすらと舞う中、俺は膝をつきながら、荒く息を吐いた。
「…終わった、か…」
視界の先、景継は静かに倒れたまま、安定した呼吸を続けていた。
まだ、生きている。
――だが。
投げ捨てられた刀から、黒き瘴気が再び渦を巻き始めた。
まるで意思を持ったかのように蠢き、闇がその形を変えていく。
禍々しい圧力が、空間全体にじわりと滲み出す。
俺の肌が粟立った。
「……まだ、かよ」
胸の痛みに耐えながら、喉の奥で唸るように、低く絞り出す。
激痛が胸を貫き、全身を襲う怠さに膝は震えている。
それでも俺は声にならぬ呻きを押し殺したまま、視線だけは闇の蠢きから逸らさなかった。
もはや祈るような言葉でもなく――
苛立ちと諦念と、それでも抗う意志だけを込めた、吐き捨てるような呟きだった。