森の祈りと鋼の侵略者⑦
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
セレナ
種族:メデューサ
アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。
ヴァネッサ
種族:ヴァンパイア
とある古城に独り住んでいた。幻術・護身術を得意とする。
ライア
種族:リザードマン
流浪の剣士。エルザとは幼馴染。
エルザ
種族:サイクロプス
鍛冶職人。ライアとは幼馴染。
エリシア
種族:エルフ
森に住むエルフ。精霊と心を通わせることができる。
メレティス
種族:人間
魔物娘反対派の技術者。人型兵器グロリアの開発責任者。
魔王アビス
種族:サキュバス
異世界に君臨する現魔王。
「バカな!同調は問題ないはず!なのになぜ制御が効かないのよっ!」
メレティスの怒声が実験室に響き渡る。
次の瞬間、グロリアの左腕が不自然に跳ね上がり、魔力砲がまるで狙いを失ったように壁へと放たれた。
その直後、肩部の追尾魔弾砲が作動――しかし照準はカケルではない。
「うわっ、こっちに来るぞッ!」
「に、逃げ……ぐあっ!」
咄嗟に身を翻した護衛の一人が、閃光に包まれて吹き飛ぶ。
黒煙と火花が舞い、部屋の空気が焼けた金属の匂いで満たされていく。
「エリシア……お前が、やっているのか?」
俺は剣を握ったまま、グロリアの内部にいる彼女へと問いかけた。
応答はない。だが、明らかに“意図された乱れ”が機体を蝕んでいるのがわかる。
魔力の異常な流れ、誤作動、護衛への攻撃…どれも、外部の干渉では説明がつかない。
暴走状態のまま出力を上げ続けた結果、全身がオーバーヒートを起こしていた。
「ッ……止まれ、グロリア……!」
だが、誰の命令も届かない。
――ギィ……ギギギ……!
軋むような音と共に、グロリアが痙攣するように小刻みに震え、
次の瞬間、膝をつくようにして、その場に崩れ落ちた。
制御を失った巨躯は、ついにその動きを止めたのだ。
黒煙を上げる機体からは、もはや攻撃の気配はない。
「エリシア!」
俺は躊躇わずに駆け出した。
高熱で歪んだ空気を突き抜け、焦げた床を蹴り、崩れ落ちたグロリアの胸部装甲へと跳びつく。
剣を逆手に持ち替え、機体の隙間を無理やりこじ開ける。
内部からは、焼けた金属と、ほんのわずかな甘い香りが混じった熱気が溢れ出した。
「頼む…無事でいてくれ…!」
軋む音とともに、拘束解除のレバーを見つけ、力任せに引き抜いた。
がしゃり――と小さく金属音が響き、内壁がスライドし、ようやく中が見える。
その奥にはぐったりと座り込むように倒れ込んだ彼女がいた。
「エリシア……!」
肩を抱き寄せると、微かな呼吸と体温が指先に伝わる。
呼吸は浅く、頬には薄い汗。瞳は閉じられ、意識はない。
けれど、脈はある。まだ生きている。
張り詰めていたものが一気に崩れた。
胸の奥に渦巻いていた不安と焦燥が、彼女のぬくもりに触れた瞬間、涙に変わりそうになる。
「…本当に、よかった!」
俺はその場にへたり込んだまま、そっと彼女を胸元に抱き寄せた。
ふと、腕の中で小さく身じろぎする感触があった。
「……ッ」
呼吸が、微かに乱れる。
その瞬間、俺ははっと顔を上げた。
「…エリシア?」
彼女の睫毛が微かに震え、ゆっくりと瞳が開かれていく。
その瞳はまだ焦点を結ばず、虚ろに宙を彷徨っていた。
「カ…ケルさん…?」
か細く、けれど確かに届いた声。
俺の胸の奥に重く響き、込み上げていた何かが、声にならず喉でつかえる。
「おい、大丈夫か…!意識はあるんだな?」
彼女は微かに頷いた。けれどすぐに眉を寄せて、痛みに顔をしかめる。
「…身体が…重い…なんだか…熱くて…」
「無理するな、もう大丈夫だ。グロリアは止まった。お前が止めてくれたんだよ」
その言葉に、エリシアの瞳が揺れる。記憶を辿るように、ゆっくりと何かを思い出していく。
「…私…確か…あなたの声が、聞こえて…」
「そうだ。だから、こうして戻ってきてくれたんだろ」
エリシアの目元に、涙が滲んでいた。
それが恐怖か、安堵か、あるいは――自分を取り戻した証なのかは分からない。
けれど彼女は、確かに“ここ”に戻ってきた。
「…ありがとう、カケルさん…私…あなたの声に…救われたの…」
その声は震えていたが、確かな温もりがあった。
俺は、そっと彼女の手を握った。冷たくなっていた指先に、少しずつ体温が戻っていく。
「――もう、大丈夫だ。お前は、ちゃんと自分を取り戻したんだから」
エリシアは頷いた。そして、ゆっくりと目を閉じた。
それは眠りではなく、今この瞬間に“生きている”という安堵の呼吸だった。
「くっ…!」
耳に届いたのは、苛立ちを噛み殺すような女の呻き声だった。
「失敗だなんて…ありえない…!あの娘さえ、完璧に同調していれば…っ!」
悔しげに唇を噛み、憎悪を滲ませながら背を向ける女メレティス。
その黒衣の裾が翻るたび、焦りと苛立ちが空気を震わせる。
「ちっ、実験体を失った上に、貴重な兵器まで壊されるなんて…ッ!」
踵を返して駆け出そうとしたその瞬間――
「逃げるつもり?」
低く、氷のような声が響いた。
直後、風を裂く音と共に、疾風のような影が死角から飛び出す。
「がッ…!」
鋭い蹴りがメレティスの腹部を容赦なく打ち据える。
苦鳴を漏らす間もなく、その細身の身体が空中へと弾き飛ばされ、壁際に激しく叩きつけられた。
「くっ…この…ッ!?」
呻きながら立ち上がろうとするメレティス。
だが次の瞬間、鋭いヒールの踵がその喉元に突きつけられる。
「ようやく見つけたわ。ずいぶんと好き勝手してくれたじゃない」
姿を現したのはリリアだった。
彼女の瞳に浮かぶのは、張りついた微笑とは裏腹の冷たい怒り。
そしてその気迫は、まるで深淵から這い出した影のごとく、場の空気を凍らせる。
「まさか、逃げられると思っていたの?」
呻きながらも、メレティスは喉元に突きつけられたヒールの踵を睨みつけた。
「…っは…ハハ…。逃げる? この私が?…フフフッ、ハハハハハ!アーハッハッハッハ!」
乾いた笑い声。無理に笑おうとするその顔には余裕などなく、ただその双眸だけが静かに燃えていた。
「まだよ。こんなところで私は終わらない…見せてあげるわ、私の“真の研究成果”を!」
瞳に黒い霧が差し込む。次の瞬間、メレティスの全身を包むように、どろりとした闇が噴き上がる。
まるで彼女の感情が、黒き奔流となって具現化したかのようだった。
「出でよ、異形の存在達――!」
唸るような音とともに空間がねじれ、裂け目が現れる。
そこから這い出すのは、この世の理から逸脱した、闇の魔獣達――悪夢から這い出たかのような存在だった。
あれは……魔物娘でも、人間でもない。
ただの獣でもない。歪んでる。
闇そのものが形を持ったような、そんな“何か”。
一体は、身体中に無数の眼を持つ狼型の獣。
赤黒い舌を垂らしながら、辺りを舐め回すように見つめている。
無数の目玉がそれぞれ異なる方向を睨みつけ、空間そのものに網を張るかのような不気味さを放っていた。
もう一体は、漆黒の鎧を纏った人型の騎士。
二足で直立し、手には漆黒の大剣。
兜の奥からは野獣のような低い唸りが響き、大剣にまとわりつく闇の靄は、
空気ごと切り裂くように震えていた。
「どう? 可愛いでしょう……私の“子供達”。人間でも、魔物娘でもない、純粋な闇から生まれた“完全な存在”よ!」
立ち上がったメレティスの周囲で、魔獣たちが不気味に身構える。
黒衣が風に舞い、彼女の口元には陶酔にも似た笑みが浮かぶ。
「さあ、やってごらんなさい。“狩り”の時間よ!」
彼女の一声を合図に、闇が咆哮のように炸裂する。
目玉だらけの獣が咆え、跳躍一閃、こちらへ向かってまっすぐに牙を剥いた。
「来るぞ……!」
気づいた時には、もう俺の手には闇の剣があった。
心臓が速く打つたび、刃の根元まで熱く脈打っているのがわかる。
すぐ隣に立つリリアが前に出た。
足元に現れた魔紋は、まるで紅蓮の花。だがその美しさの裏に潜むのは、確かな殺気だった。
「カケル、右の獣は私が抑える。貴方はあの鎧の方を頼むわ」
「…気をつけろ、こいつら、ただの召喚獣じゃない!」
返すと同時に、俺は霧のように姿を消した。
空間を裂くように視界が歪み、気づけば、鎧の魔獣の背後――
「はっ!」
闇の剣を横一文字に振り抜いた瞬間、金属と刃がぶつかる鈍い衝撃が腕を痺れさせた。火花が散り、刃は鎧の表面を滑って消えた。手応えはあったが、決定打には遠い。
くそ、やっぱり硬ぇ……!
背後で響いた轟音に振り向くと、あの目玉だらけの獣が跳躍し、リリアに牙を向けて飛びかかっていた。
だが彼女はわずかに身を沈めたかと思うと、脚を一閃、横から叩き込んだ。
「……軽いわね」
その一撃で片目を潰された獣は、ぐじゅりと粘つくような呻きを上げたが、怯む素振りすら見せない。
痛みを感じてないのか――?ゾッとした。
「リリア、気をつけろ!」
思わず叫んだが、リリアは尾の一撃を紙一重で避け、笑うように俺を振り返った。
考えるな、今はこっちだ。
俺の目の前、鎧の騎士は静かに大剣を構えていた。
その隙間から漏れる闇……それが生きてるように蠢いている。
こいつは反応速度も高い。防御も堅い。だが、動きは見えた。
「やるしかねぇ!」
地を蹴る。斜め下から刃を潜らせ、肩の継ぎ目を狙う。
だが斬撃は吸収されるように弾かれ、逆に大剣の一撃が振り下ろされる
「ぐっ……!」
間一髪、転移で回避。鼓動が早まる。焦るな、まだいける。
俺は鎧の騎士の背後に転移し、勢いよく闇の剣を振り下ろした。
――しかし、手応えは皆無だった。
刃は重厚な鎧の表面を弾かれ、火花を散らすばかり。騎士は微動だにせず、まるで一枚岩のようだった。
「くっ……タフすぎる!」
振り返った騎士が、無骨な大剣を俺めがけて振り下ろす。
慌てて剣を交差させて受け止めるが、その一撃は重すぎた。俺の足が浮き、衝撃が全身に走る。
咄嗟に転移で距離を取るが、次の瞬間にはすでに、やつは目の前にいた。
「速い……っ!」
縦に振り下ろされる一撃。咄嗟に横へ身を翻すと、刃が俺のすぐ横を通過し、俺がいた地面に叩きつけられた。
ドン、と鈍く重い衝撃音が響き、石畳がひしゃげて割れた。空気が揺れ、破片が四散する。
「……本当に、ただの召喚獣かよ……!」
剣を構え直しながら、ちらりとリリアの方に視線を走らせる。
そこでは、異形の獣――無数の目を持つ魔獣が、唸り声と共にリリアの周囲を飛び回っていた。
その動きは異様に素早く、しかも予測できないほど不規則。
リリアの蹴撃が一閃するが、魔獣は地を滑るように回避し、間合いを詰めて逆襲する。
「っ――!」
鋭い爪がリリアの肩を掠め、服が裂け、血のにおいが風に混じる。
「リリア!」
「問題ない……けど、厄介ね……!」
応える声にはまだ張りがあるが、呼吸は浅く、肩もわずかに上下していた。
俺は唇を噛み、闇の剣を強く握り直す。
このままじゃジリ貧だ。
何度斬りつけても傷一つつかない鎧の魔獣。
こちらの攻撃を見切り、躱し、反撃する獣の魔獣。
明らかに、こいつらは“ただの獣”なんかじゃない。
それどころか俺達の戦い方を、学習してやがる。
一瞬の隙を突かれ、俺の剣が弾かれた。バランスを崩した瞬間、鎧の騎士がじわりと間合いを詰めてくる。
鉄の足音が、まるで死の宣告のように響く。
俺は再び距離を取ろうと闇をまといかけた――が、それより速く、鎧の騎士が踏み込んできた。
視界が揺れる。大剣が横薙ぎに振るわれるのが見えた。
「――っ!」
避けきれないと悟った瞬間、腕を交差させて身を守る体勢に入った。
「ぐっ……あああああっ!!」
重さと衝撃が、まるで雷鳴のように全身を貫いた。
骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。吹き飛ばされ、地面を数メートル転がった。
叩きつけられた衝撃で肺の中の空気が抜け、しばらく呼吸さえままならなかった。
「……っ、は……はぁ……」
視界が滲む。それでも、なんとか体を起こす。傷はすぐ再生し始めている。
だが、痛みは容赦なく襲いかかってくる。
再生のたびに、神経が焼き切れるような感覚が全身に駆け巡る。
相手は一歩一歩、容赦なくこちらへ歩を進めてくる。
殺意も、感情もない。ただ命令に従って動く、鉄塊のような敵――だが、それが恐ろしい。
「見たか、これが人と魔の限界だ! 所詮は実験素材。命じられれば踊り、壊れれば捨てられる――滑稽ね!」
メレティスの嘲笑が空間に響いた。
自分の創り出した異形達に踊らされる俺達を、
まるで出来損ないの人形でも見るかのように見下ろしている。
「チッ……!」
次の瞬間、鎧を纏った魔獣の剣が、獣じみた咆哮と共に振り下ろされる。
構えを取り直す間もなく、あの鈍重な見た目からは想像できない速度だ。
間に合わない!だが、その瞬間だった。
――ヒュンッ!
鋭く空気を裂く音が響いたかと思うと、銀白の矢が光の軌跡を描いて飛来した。
ズシャッ!
鎧魔獣の頭部に、眩い軌跡を描いた矢が突き刺さる。
魔獣の動きが一瞬止まり、仰け反るように膝を折った。
「…え?」
俺も、リリアも、メレティスさえも、動きを止めてその矢の放たれた方向を見る。
視線の先、矢の放たれた方向いたのは。
「エリシア……!」
グロリアの残骸――その台座に未だ息も整わぬまま座り込み、薄く光る弓を構えた彼女がいた。
身体はまだ完全には動かないはずだ。だが、その瞳は確かに、標的を射抜く意志に燃えていた。
あの矢には、どこか普通じゃない力が込められているように思えた。
光ではないが、鋭く、清浄で、何かを貫いて否応なく止める、そんな“強さ”があった。
「その口、黙らせてあげます……っ!」
震える指で、しかし確かに、彼女は二の矢を番え、放つ。
矢は鋭く唸りを上げ、もう一体の獣の肩を撃ち抜く。
魔獣が苦痛に呻いてその場でよろめいた。
「まさか…まだ、動けるはずが…!」
メレティスの顔が青ざめ、予期せぬ誤算に動揺が走る。
チャンスだ!
「リリア、今だ!」
俺はリリアと視線を交わし、咄嗟に魔獣の隙間を抜けて前へ踏み込む。
彼女がうなずき、すかさず跳躍して魔獣の注意を引く。
集中が研ぎ澄まされ、世界の動きがゆっくりと見える。
目の前にいるのは、命を弄んだ張本人。あの冷笑を、黙らせるために。
「逃がさないッ!」
闇の剣を再び生み出し、俺はメレティスへと一気に迫った。
前方には、信じられないものを見るように目を見開いたままのメレティスが立ち尽くしていた。
彼女の視線は、なおも矢を放ち続けるエリシアに釘付けだった。
まさかの反撃に、思考が追いついていない。…今しかない。
風を切る音と共に、俺の剣が闇を纏って閃く。
その瞬間、メレティスの顔がこちらを向いた。
「っ――!」
気づくのが一瞬遅い。もう止まらない。
俺は迷いなく、その胸元へと剣を振り下ろした。
「が……ぁ……っ」
刃はメレティスの身体を斜めに裂き、鮮血と共に彼女がのけぞる。
だが、倒れない。息も絶え絶えの中で彼女は立ち尽くし、なおも手を伸ばす。
「私は…私はまだ…ッ!」
もはやその姿に、かつての理性も誇りもなかった。残っていたのは、しがみつくような執念だけ。
「――ッ!?」
彼女の体から、黒い霧のような“闇”が吹き出した。
魔獣の体にもそれが絡みつき、全身を蝕んでいく。
「そんな…! 私の力が…力が抜けていく…っ。いや…いやよッ!!私はまだ――ッ!」
苦し紛れに叫ぶ声は、どこか幼げですらあった。誇り高く冷徹だった女の面影は、もはや残っていない。
闇が膨れ上がり、魔獣もろとも彼女の身体が分解されるように崩れていく。まるで、塵が風に舞うように。
「……終わった、か」
静かに呟いた俺の前に、ひときわ異質な光が漂いはじめた。
空中にぽっかりと浮かんでいるのは、小さな――だが確かな“闇”の結晶。
禍々しさを孕みながらも、不思議と拒絶感はない。ただ、そこに在るだけの、力のかたまり。
「…また、力が」
胸の奥が、うずいた。
それはこれまでに“力”を取り込んだときと同じ感覚──否、それ以上に濃く、重く、底知れないもの。
俺はその光の玉から目を離せずにいた。
俺は手を伸ばしていた。わかっていた、これは“力”だ。
闇の力。メレティスが操っていたもの。そして、俺の中にもあるもの。
「カケル、やめて!」
その声は鋭くも、どこか震えていた。
俺の背に、か細くも強い力で手が伸ばされる。
「それを取り込めば、きっと…もっと貴方の闇は深くなる。貴方じゃなくなってしまうかもしれないわ」
リリアの声が、心に刺さる。
あんなにも震えた声で、俺の名を呼んだのは初めてだった。
いつも飄々としている彼女が、そんな声を上げるなんて──それだけで、胸が締めつけられる。
その声は、拒絶ではなかった。ただ、俺を“守ろう”とする、切実な願いだった。
今彼女と目を合わせればきっと、躊躇ってしまうだろう。
俺は背を向けたまま、光の玉を見つめる。
力がなければ、誰も守れないんだ。
「…ごめん、リリア」
俺の声はかすれていた。
きっと彼女には届いていない。
それでも、目を閉じて、手を伸ばす。
光の玉が、俺の掌に吸い込まれるように消えていった。
途端に、鋭い冷気のような感覚が神経を走る。
闇が、またひとつ俺の中に根を下ろす。
だが、不思議と恐怖はなかった。
たしかに“何か”が染み込んでいく感覚はある。
けれどその闇は、ただ静かに、俺の中で眠った。
俺は、ゆっくりと振り返る。
そこには、俯いたまま肩を震わせているリリアの姿があった。
闇に呑まれそうだった俺を、必死に引き留めようとしてくれた彼女。
「…ありがとう」
声にならない言葉を、ただ唇で形作る。
リリアは微動だにしなかったが、その震えが少しずつ収まっているのがわかった。
その視線の先。
グロリアの崩れた台座に、まだ膝をつきながら座る少女がいる。
「エリシア!」
駆け寄り、その体を支えるように抱きとめる。
呼吸は浅いが、確かに生きている。安堵とともに、全身から力が抜けていく。
その瞳に光はあったが、まだ焦点が定まっていない。
「…ごめんなさい、動けなくて」
弱々しい声。けれど、それが聞けただけで十分だった。
俺はそっと彼女の肩に手を添え、目を見つめる。
「無事でよかった。無理するな、あとは──」
「──カケル!」
背後から、鋭く響いたセレナの声。
俺は、ゆっくりと背後を確認するように視線を動かした。
声に導かれるように顔を向けるとそこには、仲間達の姿があった。
ライア、エルザ、そしてヴァネッサの姿もあった。
みな傷つき、衣服も汚れてはいたが…無事だ。確かに、生きている。
俺達は勝ったんだ。いや…守りきったんだ。
◇ ◇ ◇
静寂に包まれた漆黒の空間――まるで音すら存在を忘れたかのような、沈み込む闇の玉座の間。
魔王アビスは、背もたれに身を預け、頬杖をつきながら、目の前に浮かぶ水晶球を見つめていた。
水晶の奥には、闇の力を取り込んだ直後のカケルの姿が、蜃気楼のように揺らめいている。
アビスの目が細められ、唇から淡い吐息とともに呟きが漏れた。
「…興味深いな。また取り込んだのか」
水晶球の光が、鼓動のように微かに脈動するたび、カケルの身体に宿る“闇”が静かに波を描く。
その蠢きに導かれるように、アビスの視線もなぞる。
「…あの古文書に、特別な力など宿っていたはずはない。だが…」
細く伸びた指が、水晶の縁をなぞる。問いかけるように、あるいは確認するように。
「ではあれは彼、本来の力?…だとすれば、なぜ他の人間たちがあの力の“断片”を持っていた?」
水晶の光が一瞬、陰る。アビスの瞳にもまた、わずかな翳りが走った。
「…我は、あの時…なぜ、あの古文書を使おうと思ったのだ?」
沈黙が落ちる。まるで言葉の続きを拒むかのように、空間が静まり返る。
「気まぐれ…のはず、だったが」
アビスの瞳が、水晶の中でこちらを見返すように佇むカケルの姿と重なる。
「…お前は、何者なのだ? カケル。この世界に、何をもたらすつもりだ…?」
届くはずもないその問いかけは、しかし確かに虚空へと放たれた。
やがてアビスは小さく息を吐き、口元にうっすらと笑みを浮かべる。
「…まあよい。気まぐれは、時として最も面白い変化をもたらすものだ」
──その瞬間、水晶がひときわ強く脈動した。
◇ ◇ ◇
静かなる事件から一夜が明け、森の木々の隙間からこぼれる陽光が、
まだ霧の残る大地に優しく降り注いでいた。
露を湛えた葉の先が、きらきらと光の粒を零すたびに、世界が静かに目覚めていくようだった。
俺達はエルフの集落の近く、森の外れに佇んでいた。
ふと、目をやるとエリシアが一本の矢に何かを結びつけていた。
白い指が震えることなく弓弦を引き、やがて矢は音もなく放たれた。
結ばれていたのは、わずかな手紙。
矢は集落の方角へまっすぐに飛んでいき、やがて木々の彼方に吸い込まれていった。
彼女はしばらくの間、矢の消えた方角を見つめたまま動かなかった。
その背中が、ほんの少しだけ寂しげに見えた。
「…これで、いいのか?」
戻ってきたエリシアに、自然と問いが口をついた。
「…ええ」
彼女はそっと頷き、目を細めて微笑んだ。その微笑みには、どこか吹っ切れたような強さがあった。
「私が戻らないことは、きっと皆も察してくれると思うの。だから…せめて、言葉だけでも届けたかった」
彼女の声には、別れの哀しみと、それを超えようとする決意が宿っていた。
「未練がないとは言わない。でも、私は自分の目で見たものを信じたいの。
だから…貴方達と一緒に行く。もっと世界を知りたい。人間も、魔物も、精霊も…そして、私自身のことも」
その真っ直ぐな言葉に、俺達は誰も反論しなかった。ただ静かに頷き、彼女の決意を受け止めた。
「このまま森を出るとして…人間達が、また動いてくる可能性は?」
静けさの中で、セレナの問いが空気を切り裂いた。
ヴァネッサが腕を組み、落ち着いた声で答える。
「今回の件、どう見ても大規模な動きじゃなかった。
あの女…メレティスの独断って可能性が高い。なら、すぐに追手が来るとは思えない」
「でも、研究施設やグロリアの存在が広まれば…また誰かが動き出すかもしれない」
ライアの指摘に、一瞬沈黙が落ちる。
俺達はそれぞれの思いを抱えたまま、しばし言葉を失っていた。
「…なら、トラディアに向かって直接探るべきか?」
誰かの呟いたその言葉に、場の空気がぴりりと緊張した。だが、リリアが首を振る。
「ダメよ。あそこは、魔物娘にとって危険すぎる。
今の私たちが入れる場所じゃないわ。乗り込んでも、得るものより失うものの方が多い」
「…確かに。危険が大きすぎる」
俺も同意し、全員が静かに頷く。
すると、エリシアが一歩前に出て言った。
「…だから、止めたいの。森だけじゃなく、同じようなことが世界のどこかで起きないように。
そのために、私は皆と一緒に行きたいの」
その声は穏やかだったが、決して揺らぐことのない意志が込められていた。
「…わかったよ。一緒に行こう、エリシア」
その言葉に、場の空気がふっと和らぐ。
「あっ、そうだエリシア。これをやるよ」
ライアが何かを思い出したように、小さな布袋を開いた。
中からそっと取り出したのは、あの一輪の可憐な花だった。
「えっ、いいんですか?」
「ああ…やっぱり、私の柄じゃないからさ」
照れくさそうに花を差し出すライアに、エリシアは微笑みながら受け取る。
「ありがとう、ライアさん。この花…確か、“友情”っていう花言葉だったはずです」
「へぇ、そんな意味があったのか」
思わず口にしてから、俺はライアを見やる。
武骨で、不器用な戦士――そんな印象が強かったが、こんな優しい一面も持っているのかと、少し驚かされた。
「ふふ、まさかこんなに気品あるお嬢様がお仲間になるなんてね。旅が華やかになる」
ヴァネッサが、どこからともなく取り出した扇子で口元を隠しながら、からかうように続けた。
「カケル、ちゃんとリードしたまえよ?」
「そ、そんな…私は皆さんの力になりたくて…っ」
エリシアは思わず顔を赤らめ、慌てて言い訳する。
だが、その瞳には確かな決意が宿っていた。
「これからよろしくお願いします!」
エリシアが深く頭を下げた。けれどその声は凛として、もはや誰の背中も追いかけていなかった。
やがて、朝の風が木々を揺らす音だけが残る。
鳥達のさえずりが空に溶け、陽光が仲間達の顔を照らしていた。
長い夜を越え、闇を抜けてきたこの森に、新たな希望が芽吹き始めている。
そして俺達は、また一歩、未知なる旅路へと足を踏み出す。
それぞれの想いと、まだ知らぬ未来を胸に。