英雄強化計画②
三日目はヴァネッサによる護身術の特訓だ。
夕暮れ時の訓練場。
茜色に染まる陽射しの中、ヴァネッサはマントを翻しながら静かに佇んでいた。
その姿はこれから戦うというより、まるで舞踏会の始まりを待っているかのようだった。
「さあ、始めようか。剣も魔法もないとき、どう身を護ると思う?」
「え、えっと……殴るとか、蹴るとか?」
「ふふ、乱暴だね。答えは……」
ヴァネッサが一歩、また一歩と近づいてくる。
その足取りはどこまでも優雅で、薔薇を思わせるほのかな香りが鼻をくすぐった。
だが、次の瞬間、ヴァネッサの手が俺の手首を捉えた。
「うわっ!?」
抵抗する間もなく体勢を崩され、ふわりと身体が宙に浮く。
気づけば、背中から砂の上に倒れていた。
何をされたのか理解するより先に、彼女の流れるような動きに目を奪われていた。
「力ずくではなく、相手の力を利用する。そうすれば、華奢な女でも大男を倒せるのだよ」
ヴァネッサは小さな牙を覗かせ、どこか得意げに微笑んだ。
その口調は穏やかで、先ほど俺を投げ飛ばした人物とは思えないほどだった。
立ち上がって再び向き合うと、ヴァネッサは軽く会釈をしてみせた。
「構えてごらん。これは舞踏会ではないが……余と踊る気持ちで挑めばいい」
そう言って差し出された手を取った途端、再び体勢を崩され、そのまま地面に転がされた。
「ぜ、全然勝てる気がしない!」
「当然だろう? だが、いずれは余の動きを読み、受け流せるようになるはずさ」
砂埃にまみれた俺に、ヴァネッサは微笑みながら手を差し伸べた。
その後も、幾度となく地面に投げ飛ばされた。
『呼吸を乱すな』『力を抜け』『相手の重心を読め』。
そのたびにヴァネッサは的確な助言をくれた。
穏やかな口調ながら、指導に一切の妥協はない。
だが、何度も投げられるうちに、一つ気づいたことがあった。
ヴァネッサは俺の力に正面から逆らおうとしない。
こちらが踏み込めば、その勢いを利用して体勢を崩してくる。
……だったら、無闇に力を込めなければいいんじゃないか?
再び向き合い、差し出された手を取る。
ヴァネッサが俺の手首を引くのに合わせ、今度は逆らわず、足を一歩踏み出して重心を保った。
「……ほう?」
彼女の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
先ほどまでとは違い、身体が宙に浮くことはなかった。
何とか踏みとどまり、姿勢を保つ。
「よしっ!」
思わず声を上げた、その瞬間だった。
ヴァネッサがするりと身体を入れ替え、俺の足を払った。
「しまった!」
足元をすくわれ、踏ん張る間もなく砂の上に転がされた。
「ふふっ。今のは悪くなかったよ」
「……結局、投げられたけどな」
「それでも、ただ力任せに抗うよりは、ずっとよい。相手の動きを感じ取り、自分で考えたのだろう?」
差し伸べられた手を取り、身体を起こした。
「まあな。でも、まだまだヴァネッサには敵いそうにない」
「当然だとも。余を相手にするには、まだ修練が足りぬよ。だが、その調子で励むといい。力を失ったからといって、戦う術まで失ったわけではないのだからね」
身体はすっかり砂埃まみれで、あちこちが痛む。
それでも、不思議と心地よい充実感が胸に残っていた。
◇ ◇ ◇
四日目はセレナによる魔法の特訓だ。
森の奥、朝焼けが湖面を黄金色に染め始める頃。
早朝の空気はひんやりと冷たく、辺りには鳥のさえずりが響いていた。
湖畔に佇むセレナは、長い蛇体を緩やかに伸ばし、金色の瞳を俺に向けている。
「いい? 魔法はただ念じれば使えるものじゃないの。大切なのは冷静さと、論理的な制御よ」
「……で、どうしてこんな時間にやるんだ?」
欠伸を噛み殺しながら尋ねると、セレナは唇を尖らせた。
「朝なら周りも静かだし、余計なことに気を取られずに済むでしょ。魔力の制御には集中力が大切なのよ」
なるほど、確かにこの時間なら人の気配もほとんどない。
もっとも、眠気までどうにかなるわけではないが。
「ほら、いつまでも眠そうにしてないで。さっさと始めるわよ」
セレナはそう言うと、俺に向かって手をかざした。
「まずは、アンタ自身に魔力があるか確かめるわね」
彼女が短く呪文を唱える。
しばらくすると、セレナは納得したように頷いた。
「……うん。魔力自体はあるわね」
「本当か?」
「ええ。でも、魔力があることと魔法を使えることは別よ。アンタは今まで、自分の魔力を意識して使ったことなんてないでしょ?」
「まあ、闇の力に頼ってたからな……」
「だったら、まずは魔力の流れを感じるところからね。手を出して」
言われるままに手を差し出すと、セレナはそっと自分の手を重ねた。
すると、彼女の手から何かが流れ込んできた。
まだ冷たい朝の空気の中、それは不思議な温かさを伴っていた。
荒々しさはなく、規則正しい鼓動のように、一定のリズムを刻んでいる。
「感じる? これが魔力の流れよ。まずはこの感覚を覚えなさい」
「……ああ、確かに何かが流れてる……」
「じゃあ、今度は自分の身体に意識を向けてみなさい。私の魔力とは別に、何か感じない?」
言われた通りに集中すると、彼女から伝わる温かさとは別に、身体の奥で何かが動き始めるような感覚があった。
「……これか?」
「そう。それがアンタ自身の魔力よ。今度はそれを手のひらに集めて、炎を生み出すことを意識してみなさい」
セレナがそっと手を離す。
先ほどの感覚を頼りに、意識を集中させた。
身体の奥にある魔力を、手のひらへと集めていく。
だが、思うようにはいかない。
少しでも意識が逸れると、せっかく集めた魔力が散ってしまう。
「焦らないで。さっきの感覚を思い出しなさい」
セレナの声に頷き、もう一度集中する。
すると、手のひらにかすかな熱を感じた。
やがて、その熱が小さな炎となって灯った。
「よし、できた……!」
しかし、喜んだのも束の間。
湖畔を吹き抜けた風に炎が揺らぎ、慌てて維持しようとしたものの、あっけなく掻き消されてしまった。
「……失敗か」
肩を落とす俺に、セレナは腕を組んで答えた。
「……ふん。まあ、初めてにしては合格点ね」
「えっ、いいのか?」
「魔力を形にできたんだからね。ただし、制御はまだまだよ。これからも練習を重ねなさい」
「そっか……ありがとう、セレナ」
「べ、別にお礼なんていいわよ。でも、よくやったわね」
その小さな一言は、静かな朝の空気に溶けて、確かに胸に届いていた。
◇ ◇ ◇
五日目はエルザによる鍛冶の特訓だ。
……いや、どうして鍛冶なんだ?
正直、俺にもよくわからない。
だが、エルザが教えてくれるというのだから、ひとまず従うことにした。
鍛冶場に足を踏み入れると、炉から立ちのぼる熱気が肌を刺した。
早くも額に汗が滲み、慣れない環境に少しばかり圧倒される。
「持って」
エルザが差し出したのは、一本の鍛冶用の槌だった。
彼女が戦闘で振るっている大槌に比べればずっと小さい。
だが、いざ受け取ってみると、見た目以上にずっしりと重かった。
「これで鉄を叩けばいいのか?」
「そう。何度も。形になるまで」
淡々とした口調とは裏腹に、その大きな一つ目は真剣そのものだった。
槌を握り直すと、金床の上に置かれた赤く焼けた鉄に向き合った。
――カンッ。
最初の一打は、思いのほか手応えがあった。
だが、続けて振り下ろした槌は狙った場所からわずかにずれ、鉄の表面に不格好な凹みを作ってしまう。
「力、入れすぎ」
エルザが俺の手元を見つめながら呟いた。
「同じところ。丁寧に」
「同じところって……簡単に言うけど、結構難しいぞ、これ」
言われた通り、狙いを定めて槌を振り下ろす。
――カンッ、カンッ。
だが、何度繰り返しても、思うように同じ場所を叩けない。
力加減も安定せず、鉄の表面には不揃いな凹みが増えていく。
「違う」
エルザの指摘に頷き、もう一度槌を振り下ろした。
最初こそ何とか集中できていたものの、繰り返すうちに腕が重くなり、狙いも次第にずれていく。
おまけに、炉から伝わる熱気が容赦なく体力を奪っていった。
額から汗が滴り落ち、握った槌の柄も滑りそうになる。
「なぁ、エルザ……俺、本当に形になってんのか、これ?」
俺の問いかけに、エルザは金床の上の鉄をじっと見つめた。
「まだ」
「だよなぁ……」
金床の上にある、いびつな鉄の塊を見てため息が漏れる。
あれだけ叩いたというのに、思い描いた形にはほど遠かった。
「貸して」
エルザは俺から槌を受け取って脇に置くと、火箸で鉄をつかみ、炉の中へ戻した。
「えっ、もう一度やるのか?」
「うん。まだ、終わってない」
しばらくして、再び赤く熱せられた鉄が金床に置かれる。
エルザは槌を俺に差し出した。
「焦らない。少しずつ」
「そっか。そうだよな」
槌を受け取り、もう一度鉄に向き合う。
今度は力任せに叩くのではなく、一打ごとに狙いを確かめながら振り下ろした。
――カンッ。
まだ思い通りにはいかない。
それでも、さっきよりは槌の感触が手になじんできた気がした。
何度も叩き、少しずつ形を整えていく。
すぐに結果が出るわけではないが、こうして積み重ねていくしかないのだろう。
……そう考えると、今の俺も同じなのかもしれない。
その後も黙々と槌を振るい続けた。
やがて腕が限界を迎え、ようやく一息ついたところで、エルザが俺のそばに歩み寄ってきた。
「……頑張った。偉い」
そう言って、彼女は小さく微笑んだ。
「ははっ。エルザに褒められると、なんだか嬉しいな」
エルザの何気ない一言が、疲れた身体にじんわりと染み渡るようだった。




