はじまりの羽音
登場人物
魔王アビス
種族:サキュバス
異世界に君臨する現魔王。
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚されたごく普通の青年
ここは――とある世界にそびえ立つ、魔王城。
城の外ではいつだって雷鳴が轟き、どこからか香の匂いがふわりと漂っている。
薄暗い雲に包まれたこの絢爛な城には、数えきれない魔物たちが暮らしていた。
……とはいえ、「魔物」って聞いて、いわゆる“化け物”を想像したら大間違い。
この世界にいる魔物は、みんな美しく、若々しい女性の姿をしているのだ。
その理由――それは、この城を治める現魔王が、サキュバスだから。
かつて先代の魔王がいた頃は、見るからにグロテスクな姿をした魔物ばかりだった。
けれど、今の魔王アビスが君臨してからは状況が一変。
その力によって、すべての魔物が“女の娘の姿”になってしまったのだ。
性格まで変わってしまったらしく、今では人間を襲うどころか、誘惑して“伴侶”を作ろうとする魔物がほとんどらしい。
とはいえ、そんなことを知ってる人間はまだまだ多くない。
魔物娘を受け入れる人もいれば、昔のイメージのまま「危険な敵」として恐れる人もまだまだ多い。
そんな混乱のさなか――魔王アビスは今日も、魔王城で。
「退屈ねぇ~……」
深々と沈むようなソファに寝転がりながら、アビスは気怠そうに呟いた。
本来なら魔王としてなすべきことはある。
サキュバスの力を広げるために消費した魔力を回復すること。そして、次なる“計画”のために、さらに多くの魔力を蓄えること。
しかし、それらはすぐに結果が出るものでもなく、今は半ば療養のような日々を送っていた。
そんな生活が続けば、退屈にもなる。
「何か我を楽しませるものはないのか……」
「そのようなざっくりした要求、お応えするのは難しいですよ」
ゆるく投げられた問いに、部屋の隅から柔らかな声が返る。
声の主は、一人のサキュバス――アビスの側近、リリアだった。
「リリア、そなたも暇であろう。この退屈を紛らわす余興でもないのか?」
「申し訳ありませんが、私には大道芸のスキルはございませんので」
軽い冗談まじりに返しつつも、言葉の端々には魔王への敬意がにじむ。
この城で、魔王に対してこんな風に気さくに応じられるのは、きっと彼女だけだ。
「こうもずっと城に籠っていれば、飽きが来るのも当然よ……。旅行でも行ければよいのだが…」
「魔王たる者が、ふらりと城を空けるわけにはいきませんよ」
「……わかっておる、はぁ~……」
大きくため息をついたアビスに、リリアは小さく肩をすくめた。
「でしたら、宝物庫でも漁ってみてはいかがですか?」
リリアにしてみれば、ちょっとした気晴らしの提案だった。
けれど、その言葉がアビスの中に小さな火を灯してしまったらしい。
「ふむ……悪くない提案だ。ひょっとしたら、何か面白いものが…」
先ほどまでの物憂げな様子が嘘のように、アビスはぱっと立ち上がり、そのまま宝物庫へと向かっていった。
(まったく……本当に困ったお方。でも、ああして楽しそうにしてる顔を見たの、久しぶりかも)
しばらくして――
「リリア!見よ!これを!」
勢いよく扉が開かれ、アビスが満面の笑みで飛び込んできた。
よほどの掘り出し物が見つかったのだろう。
「それは何よりです。それで、一体何を……?」
「ふっふっふ……よくぞ聞いてくれた!これだ!」
高らかにかざされたその手には、一冊の古びた本。
「……これは?」
「どうやら、召喚術が記された本らしい」
「こんな本、ありましたっけ?」
「細かいことはよい。それより、なんだか面白そうではないか」
目をきらきらと輝かせるアビスに、リリアは困惑を隠せなかった。
「まさか、本当に召喚を試すおつもりですか?」
「当然だ。何が出るか、楽しみであろう?」
「でも、魔力の消費が――」
「このくらい、問題ない……多分」
あまりにも期待に満ちたアビスの顔を見て、リリアはもう、止める気を失ってしまった。
召喚の手順は単純だった。魔法陣を描き、書かれた文章を読み上げるだけ。
血を捧げる必要もなく、そこらの筆で魔法陣を描きながら、リリアはぼそっとこぼした。
「こんな簡単な方法で、本当に成功するんでしょうか……」
「準備はできた。あとは読むだけ」
「やっぱり、私が代わりに詠唱を……」
「よい。これは“私の”暇つぶしなのだから」
アビスが魔法陣の前に立つ。空気がぴんと張り詰める。
静けさの中、彼女が詠唱を始めると、空間そのものがひそやかに震えた。
――何かが、動き出していた。
魔法陣が白く光り始め、部屋の空気が一変する。
どこか遠くで鐘のような音が鳴った気がした。
そして――
「今こそ、我の命により、その姿をここに現すのだっ!」
声と共に、アビスが両手を魔法陣へ向けて突き出す。
次の瞬間、まばゆい光があたりを包み込んだ。
光の中心で、何かが静かに――でも確かに、生まれようとしていた。
◇ ◇ ◇
突如、目の前がまばゆい光で包まれて、何も見えなくなった。
あれがいつ、どこで起きたことだったのか……今ではもう曖昧だけど、確か一人で外を歩いていた時だったと思う。
身体がふわっと浮いたかと思えば、耳の奥で嫌な音が響き始める。金属をこすり合わせたような、頭の中を引っかく不協和音―。
次に気がついたときには、足元が冷たい石の床に着いていた。
ゆっくりと視界が戻ってくる。見えたのは、金色の装飾が施された巨大な柱と、深紅の絨毯が敷き詰められた広間。
窓の外では黒い雲が空を覆い、雷のような音が時折遠くで鳴り響いていた。
そして、広間の中心に立っているのは――二人の女性。
角、翼、尻尾……人間じゃないのはすぐにわかった。でも、どこか艶やかで現実離れした美しさを放っていて、息を呑む。
心臓がドクンと跳ねた。怖いというより、戸惑いと、言葉にできない不思議な引力を感じていた。
「これはまさか、今流行りの異世界召喚……?いや、もう古いか」
つい口に出たのは、混乱を誤魔化すための冗談だった。
頭ではわかっていても、目の前の光景が現実だなんて、簡単には思えない。
……いや、思いたくなかったのかもしれない。
「見るがいい!召喚は成功だ!」
堂々と玉座に座った女性が、高らかに宣言する。
「人間?」
もう一人の女性がこちらに歩み寄りながら、興味深そうに俺を見つめてくる。
二人とも、ボンテージ風の衣装にブーツを合わせていて、その姿はかなり際どい。
逆に、俺の黒シャツとスーツ姿がやけに浮いて見える。
「ふぅむ、しかし召喚されたのがただの人間とはな。魔法陣の設計が適当すぎたか」
「なんか一方的に残念がられてるの、ちょっと心外なんですけど」
「ねぇ、あなた。どこから来たの?」
ぐっと距離を詰めてきた女性――人ならぬ美しさを持ちながらも、彼女の瞳はどこか無垢で、まっすぐだった。
……けれど、その一瞬。
彼女の奥底に、夜のような深く静かな孤独が宿っている気がした。
すぐに笑顔に戻ったけど、その切り替えがどこか不自然で、逆に胸がざわつく。
「どこって……多分、この世界とは別の世界、かな」
「なるほど、やはり召喚自体は成功しているな!人間よ、ようこそこの世界へ、そしてこの魔王城へ!」
青白い肌をした女性が、少し芝居がかった大きなジェスチャーで語りかけてくる。
「魔王城?ってことは、あなたたち……魔物?」
「その呼び方は古いな。今は“魔物娘”と呼ぶのが正しい」
「そんなに違うもんなの?」
「大違いだ。ま、我々二人はサキュバスだから、見た目はあんまり変わらないけどな」
サキュバス。男を誘惑する魔族――ファンタジーではよく見る存在。
……うん、服装に納得。
「私はリリア。そして、そちらにいらっしゃるのが魔王アビス様よ」
「ま、魔王!?」
異世界転生って、人間側に勇者として召喚されるのが定番じゃなかったか?
混乱する俺の頭が追いつかない。
「して、人間よ。名はなんという?」
「え?あ、俺はカケル。……漢字で書くとちょっと説明しづらいけど」
「カケルか。よい名だ。我々はお主を歓迎しよう」
「……そ、それはどうも。で、なんで俺、召喚されたんですか?」
魔王に呼ばれたってことは、何か役割があるのかと思えば――
「退屈だったからだ。暇つぶしだよ」
え。
あまりにも雑な理由に、思考が停止した。
「……うそでしょ? もっとこう、運命的な使命とかあるのかと思ったのに」
「ない」
「ないのかよ……」
あまりにも即答だった。
「じゃあ、さっさと元の世界に返してくれませんか?」
「それはできん」
「えぇ?」
「古文書には“召喚する方法”しか書いてなかったのだ」
「確かに“帰還の方法”は載っていませんね」
リリアがどこからか取り出した古文書をペラペラとめくっているが、ちゃんと読んでるのか怪しいほど早い。
「いやいやいや、ちょっと待って!?どうすりゃいいんだよ、こんなの……!」
声が少し上ずってしまった。理不尽すぎる。
「まぁまぁ、細かいことは気にするな。せっかくこの世界に来たのだ、大いに楽しむがよい」
「そんな呑気に言われてもっ!」
「いいじゃないの。住めば都って言うでしょう?」
「……もう、なんかいろいろどうでもよくなってきた……」
この二人のマイペースさに、思わずため息がこぼれた。
◇ ◇ ◇
「さて、これからどうしたもんかな~」
与えられた個室のベッドにぼすんと身を投げ出して、俺は天井を見ながらぼそっと呟いた。
アビス様からは「自由に過ごせ」って言われたけど、
正直そんな漠然とした言葉を投げられても、何をしたらいいのかさっぱりわからない。
ただ、このまま城に居続けたって、何も変わらないのは確かだ。
「……自分で元の世界に戻る方法を探してみるしかないか」
自分に言い聞かせるように口にする。
目を閉じると、浮かんでくるのはあの世界の景色。家族や友達、変わらない日常の風景。
……もしかすると、俺がいないことに気づいてないかもしれない。
でも、それでもいい。帰らなきゃ。理由はそれだけで十分だった。
目を開けると同時に、俺はベッドから勢いよく起き上がった。
アビス様はあてにならないし、自分のことは自分でなんとかするしかない。
「このままここに居ても、腐るだけだしな」
◇ ◇ ◇
「俺、この世界を旅しようと思います」
玉座の間に戻って、アビス様にストレートに伝える。
すると彼女は、ニヤッと口角を上げて俺を見下ろしてきた。
「ほう、なかなか行動力があるではないか」
「……正直、不安です。右も左も分からない異世界を一人で旅するなんて。でも――何もしないでいる方が、もっと怖いんです」
「ふむ…よかろう。我は止めはせぬ。好きにするがよい」
その声は、どこか厳かなのに、ほんの少しだけ優しさが混じっているようにも聞こえた。
「ありがとうございます。じゃあ、早速――」
「まぁ、そう急くな。……リリアはいるか?」
「ここにおりますわ」
声のした方を見れば、いつの間にかリリアさんが現れていて、俺と目が合うとウィンクを一つ。すぐにアビス様へと視線を向けた。
「この人間は旅に出たいのだそうだ。リリア、こやつの面倒を見てやれ」
「……命令なら、逆らえませんね」
その声は穏やかだけど、瞳の奥には測るような鋭さが一瞬だけ光った。
本当に命令だからなのか、それとも――
「えっ、無理に付き合わせるのは……俺、ひとりでも――」
慌てて両手を振って遠慮するけれど、
「構わん。退屈しのぎに召喚したとはいえ、どこかで勝手に死なれては目覚めが悪い」
魔王って、もっとこう……冷たくて恐ろしい存在じゃなかったっけ?
それとも、この人が特別なのか。
「リリア、頼んだぞ」
「仰せのままに」
「リリアさんがいいなら……案内してくれるのは、正直助かります」
「決まりだ。……人間よ、何か書くものはないか?」
玉座に座ったまま、アビス様は片手をスッと差し出してきた。
「え? 書くもの……えーっと……」
ポケットを探ってみる。財布とスマホしか入ってない。
仕方なく財布を開いて、目に入ったのは――
「マイナンバーカード……これでもいいんですか?」
「なんでもよい。それをよこせ」
カードを受け取ったアビス様は、なにやら小声で呪文を唱え、すぐにそれを俺に返してきた。
赤い刻印が、カードの隅に浮かんでいる。
「我からの餞別だ」
「……これって、何ですか?」
「その刻印を旅先の店で見せるといいわ」
「見せたら、どうなるんです?」
「タダで買い物や宿泊ができるのよ」
「マジですか!?」
思わず声が裏返った。
なんて手厚いサポート……逆に怖い。
「厳密には我の懐から資金が出ていく。無駄遣いはするなよ」
「あ、なるほど……気をつけます」
「そしてその刻印は魔物娘たちにだけ有効なものだ」
「つまり、人間相手には通用しないってことですか?」
「ご明察。ただし、魔物娘を伴侶にしている者には別だがな」
つまり、使えるかどうかは相手次第ってことか。
俺はありがたく、そのカードを財布にしまった。
「……ありがとうございます!」
「それじゃ、早速外に出てみましょう?」
リリアさんが手招きしてくれて、俺はもう一度アビス様に頭を下げた。
こうして、俺の異世界での旅が始まった。
部屋にひとり残ったアビス様は、手のひらほどの水晶を宙に浮かべてじっと見つめる。
水晶には、城を出ていく俺とリリアの姿が映っていた。
ふっと口元をゆるめて、魔王は静かに笑う。
「さて――愉しませてもらおうではないか」
◇ ◇ ◇
日が傾き始めた頃、俺たちは魔王城のすぐ南にある町――アインベルグにやってきた。
見た目は中世風の石造りの建物が並んでるけど、どの店にも魔物娘が普通に働いていて、人間の客とも笑顔で話している。
「……思ったより、穏やかな町ですね」
「ふふ。魔王様のお膝元だもの。下手な差別なんてしたら、それこそ命がいくつあっても足りないわ」
たしかに、魔王の“影響力”を考えれば納得できる。
(……このカード、本当に使えるんだろうか。魔王様の気まぐれって可能性もあるしな)
宿屋に入って、受付に刻印カードを出してみると――
「これは!魔王様の刻印!?」
宿のおばちゃんが、びっくりしたような声を上げた。……どうやら使えるらしい。
「――ですがすみません、ちょっと…」
「……え、まさか使えないとか?」
「いえいえ、とんでもない!ちゃんと使えますよ。ただ……空いてるのが、ダブルベッドの部屋だけでして」
申し訳なさそうに頭を下げるおばちゃん。
「……リリアさん、どうします?」
「……いいわよ。私が端っこで寝れば問題ないもの」
「いや、女性にそんなことさせるわけには。俺が端で寝ますよ」
「あら、二人で寝るのはもう決定事項なのね?」
「あっ、いや、これはその……」
「ふふっ、いいのよ。お互い床で寝るのは嫌でしょ?」
リリアさんが、いたずらっぽい笑みを浮かべて俺を覗き込む。
なんだか気恥ずかしくなって、思わず視線を逸らした。
部屋に入って、俺たちはそれぞれ寝る準備を始めた。
俺はジャケットとワイシャツを脱いで、下着姿に。
リリアさんはすでにベッドに横になっていた。窓から差し込む月明かりに照らされて、藍色の髪がふんわり揺れて見える。
意を決して、なるべく距離を取ってベッドに潜り込んだ。
……が。
「ふふっ。そんなに端っこに寄らなくても、食べたりしないわよ?」
「いや、これは……!」
視線をそらしたまま何か言おうとすると、リリアさんがそっと囁いてきた。
「ほら、こっちを向いて。もっと近くにいらっしゃい?」
息が止まりそうになる。断るのも失礼……というか、断れるはずがなかった。
おそるおそる振り向くと、リリアさんの顔がすぐそこに。
ベッドの左端にいたはずの彼女は、ほんの少しだけ俺の方へ寄ってきていて、距離は……肩が触れるか触れないかのギリギリ。
目が、つい胸元に引き寄せられそうになるけど、あわてて顔を上げようとした、そのときだった。
──リリアさんの首元に、ひとつ、小さな羽根のペンダントが揺れているのが見えた。
月明かりを受けて、羽根の細工がかすかに光った。
ふわりと、どこか切ない、冷たい風が心を撫でたような気がした。
「…リリア、さん?」
「そーれ、やめましょ?」
「え?」
「その“さん”付けとか、敬語とか」
「あー、じゃあ……」
「リリア、でいいのよ」
「……リリア」
「なーに?」
微笑む彼女。いつも通りの、艶やかな、完璧な笑顔。
──けれど、その笑みの奥に、やっぱり影があるように見えた。
「からかってるだろ」
「ふふっ、そんなことないわよ」
やわらかい声。でも、そのあと一瞬だけ、彼女のまばたきがゆっくりになったように見えた。
その微笑みの奥に、ふっと影が差す。不安?それとも、孤独?
静まり返った夜の空気の中で、それが妙にはっきりと感じられた。
◇ ◇ ◇
カーテンの隙間から、やわらかな朝の光が差し込んでくる。
目を覚ました俺は、ぼんやりと天井を見つめながら深く息を吐いた。
(……ああ、そうか。異世界か)
昨日からの出来事を思い返して、頭の中がまだ整理しきれていない自分に気づく。
それでも、とりあえず目が覚めて、隣を見ると――
リリアが、静かに眠っていた。
仰向けになったまま、まるで人形みたいに微動だにせず……でも寝息は、すごく安らかで。
(なんだろ……やたらと絵になるというか、綺麗すぎるというか……)
あれだけ近くで話して、しかも同じベッドで寝たはずなのに、いまだに実感がない。
でも確かに、距離は縮まった気がしていて――
(あの目。あの微笑み。……やっぱり、どこか寂しそうだったな)
ただ美しいだけじゃない。
その奥に、触れてはいけない何かがある気がして……怖いような、気になるような。
ごそ、と音を立てないようにベッドから抜け出す。
顔を洗って、頭を冷やしてこよう。そう思って、そっと立ち上がったとき――
「……もう起きちゃったの?」
寝ぼけたような声が、後ろから聞こえてきた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん。……ふふ、なんだか不思議な気分」
(不思議、か……俺もだよ)
「誰かと一緒に朝を迎えるのって、あまりないから」
リリアの微笑みが、昨日より少しだけ柔らかく見えた。
(やっぱり、俺……この人のこと、もっと知りたいって思ってる)
◇ ◇ ◇
旅に必要な食料や寝袋を買い終えて、町の通りをのんびり歩いていると、突然、遠くから悲鳴が聞こえてきた。
「きゃあっ! 誰か!!」
リリアが小さく眉をひそめる。
「今の悲鳴は?」
「行ってみよう!」
俺は即座に駆け出した。
「ちょ、ちょっと待って!」
リリアの声を背に、声の方角へ一直線に走る。角を曲がると、魔物娘の商人が地面に倒れ込んでいた。
「大丈夫ですか!?」
「ど、泥棒です!あそこにいる人間が私のお金を!」
指さした先には、小袋を握りしめたフード姿の男が逃げている。
「待てーっ!」
考えるより先に体が動いていた。
フードの男は振り返り、俺の存在に気づくと、さらにスピードを上げて逃げ出す。
正直、走るのは得意じゃない。でもここで引き下がれるか!
「待てってば!」
「くっ……!」
必死に建物と建物の間を縫うように逃げる泥棒。見失いそうになりながらも、必死で追いかける。
もう少し……あとちょっとで追いつく!
俺は泥棒を捕まえようと、思いきり右手を伸ばした――その時。
泥棒が急に立ち止まって、くるりと振り向いた。
まさか、観念した?
……甘かった。男は懐からナイフを引き抜き、構えてきた。
「えっ、うそ、マジで!?」
思わず急ブレーキ。慌てて身構えるが、当然武器なんて持ってない。
素手で刃物相手とか、無理ゲーすぎる。
「うおおお!」
「わっ、やめろって!」
泥棒が勢いよく突っ込んでくる。
俺は必死でかわしながら距離を取ろうとするけど、さっきの全力疾走のせいで足がもつれそうになる。
そして――
「ぐっ……!」
左頬に鋭い痛みが走った。切られた。
熱い。深い。これは、まずいかもしれない。
けど、痛がってる暇なんてない。
後ろに飛び退ろうとした、その時。
「うぐおっ!!」
突然、横から飛んできた華麗な蹴りが、泥棒の顔面を直撃した。
「もうっ、騒がしいわね」
「リリア!」
蹴られた泥棒は地面に転がって、もだえている。
……強すぎじゃない!?サキュバスって、こんなに格闘能力高いのか?
「大丈夫?」
「あ、ああ。なんとか……」
「……っ、ダメじゃない、大怪我してるじゃない!」
リリアが俺の頬を覗き込んで、はっと息をのんだ。
「……なにこれ」
「え?」
驚いた顔でリリアがつぶやく。
「傷が……塞がっていってる」
「な、なんだって?」
慌てて自分の頬を触る。
確かに、さっきまであったはずの痛みがどこにもない。
手のひらを見ると、指先に黒い煙みたいなものが、もやもやとまとわりついていた。
「リリアさん、今、なんかした!?」
「してないわよ!回復魔法なんて使えないもの」
お互いぽかんとしていると、遠くから衛兵たちを引き連れたさっきの商人が駆けつけてきた。
とりあえず、一件落着──か?
◇ ◇ ◇
衛兵たちに泥棒を引き渡し、商人の魔物娘から何度もお礼を言われた俺達は、ひとまずその場を離れた。
「はあ……朝から色々ありすぎだろ……」
疲れた身体を引きずりながら、リリアと並んで歩く。
「でも、無事でよかったわ。ケガも、すぐ治ったし」
リリアがふっと微笑む。それだけで、少しだけ心が軽くなった。
……とはいえ、あの怪我。
あれだけザックリ切られたはずなのに、あっという間に塞がったのは、やっぱりおかしい。
(俺の体……いったいどうなってるんだ?)
指先に残った、あの黒いもやもや。
思い出すだけで、背筋に冷たいものが走った。
「さて、これからどこに行こうか」
気を取り直してリリアに尋ねると、彼女は小さく考えるそぶりを見せた。
「そうねー。それなら、魔法学院に行ってみるのはどうかしら?」
「魔法学院……!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が高鳴った。
本やゲームでしか聞いたことのないような、異世界の響き。
そこには、きっと見たこともない景色と、想像もつかないような人たちが待っている。
それに――
「もしかしたら、あなたが元の世界に帰る手がかりも、そこにあるかもしれないわ」
リリアの言葉が、燃えるように希望を灯した。
まだ何も分からない。でも、行ってみなきゃ始まらない。
「よし、行ってみよう!」
こうして俺達は、目指すべき次の場所──魔法学院へと向かうのだった。