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#1 何のために

エルナンが転移し、視界から消えた瞬間、セクエは我に返った。怒りを向けていた対象の気配を感じ取れなくなったからだ。


(大丈夫。殺してない…殺してない…。)


頭の中で、何度も繰り返す。念のために辺りを確認したが、死体はなかった。ほっと胸をなでおろす。だが、安心している暇などなかった。


(…グアノ様を助けないと。)


セクエはグアノの様子を確認するためにそばに着地した。むせかえるほど強い血の匂いが鼻をつく。セクエは顔色一つ変えることなく、さらにグアノに近づいた。


血が大量に流れてしまっている。体力的な問題もあるが、まずは流れ出た魔力を補わなくてはならない。セクエは血だまりに指先をつけ、その魔力を吸い取って自分の中に蓄えた。自分の中に他人の魔力が入るというのはかなり違和感があったが、今はそんなことは言っていられない。


セクエは生まれつき、回復魔法が一切使えない。だから、この状態のグアノを助けるために、普通の魔法使いが使う手段を選ぶことができない。セクエはうつぶせに倒れた体を負担をかけないようにそっと仰向けにし、そして片手を取って強く握った。


これからしようとする方法では、彼を助けることはできないかもしれない。それどころか、殺してしまう恐れすらある。しかし、セクエにはそれしか方法が分からなかった。セクエは意を決して、目を閉じ、意識を集中させた。


ーーーーーー


グアノは夢を見ていた。それは激痛を伴い、どこまでも暗く、そして何より死ぬほどに苦しい夢だった。


腹部には太く大きな槍が突き刺ささっており、自分は水の中にいた。槍は苦しみにもがくほど深く体をえぐり、もがけばもがくほど体力を奪う。水面ははるか彼方でうっすらと光を放っていたが、体は浮かび上がるどころか、槍の重みでさらに深く、暗い水底へと沈んでいく。当然息ができるはずもなく、苦しみは増していくばかりだ。


痛みに身をよじればその分だけ苦しみは増し、やがて耐えきれなくなりグアノは咳き込むように空気を吐き出した。一瞬にして肺が水で埋まる。今まで経験したことのないその苦痛にグアノは気絶を願ったが、意識が薄れるたびに激痛がその意識を覚醒させ続ける。死がグアノを終わらせるその時まで、グアノは苦しみ続けるしかなかった。


(早く終わってくれ。どうせ死ぬのなら、早く…早く死なせてくれ…。)


そう思った矢先だった。背中に、何かが当たった。それは柔らかくグアノを受け止め、そしてその体を上へ、水面へとゆっくり押し上げていく。もはやその存在すら忘れていた、ゆらゆらと光る水面が近づくにつれて、心なしか痛みも和らぐような気がした。グアノは体が痛むのも忘れ、まだ少し遠いその光に思わず手を伸ばした。


ーーーーーー


グアノはうっすらと目を開けた。体全体が熱く重い。空気を吸えているはずなのに、夢の中と同じような息苦しさが続いていた。そして何より、腹部の激痛はそのままだ。


思わず小さく呻くと、体が少し軽くなり息が楽になった。痛みに耐えながらゆっくりと何度も息を繰り返していると、声が聞こえた。


「回復魔法を使ってください。」


苦しみの中で、それでもはっきりと聞こえたその声は、どこかで聞き覚えのある声のような気がした。


(かいふく…まほう…。)


意識が朦朧とする中で何とかその意味を理解し、自分の魔力に命令を与える。しかし、その魔力を抑え切ることができず、命令も不完全なものになってしまう。


不完全な魔法が自分の中を暴れまわる異様な感覚に息が止まり、その後に来るであろう暴走を抑え込もうと反射的に体がこわばる。それは深手を負っているグノの体には、あまりにも大きな負荷になった。腹部の痛みが激しさを増し、意識が遠のいていく。その意識を、誰かの魔力が支えた。


その魔力はグアノの意識を支え、魔法を落ち着けた。それは暗闇の中で道を照らす灯のように、グアノが今すべきことをはっきりと示していた。


もう一度魔力に命令を与える。だが、そう簡単にうまくはいかない。何度も失敗し、その度に意識を魔力に支えてもらいながら、グアノはようやく簡単な回復魔法を一つ作ることに成功した。


じわじわと傷が癒え痛みが薄れるにつれて、意識ははっきりとしたものになり、思考も働くようになった。そこで初めてグアノは自分の置かれた状況を思い出した。


自分はエルナンに攻撃され、そのまま意識を失ったのだ。それから何があったのかは分からないが、セクエは自分を助けてくれたのだろう。セクエはグアノのすぐそばにおり、祈るようにグアノの手を握っていた。


しかし、なぜこの状況になったのかが分からない。セクエは呪いの毒に侵され、いつ死んでもおかしくない状態だった。グアノを助ける余裕などなかったはずだ。


(まさか、エルナンに新たな主を定められてしまったのか?いや、だとしたら奴がそばにいないのはおかしい。)


そこまで考えて、自分にかけた回復魔法の効果が切れていることに気づく。かなり弱い魔法だったため、傷はまだ治しきれていない。再び魔法を使おうとして、違和感に気づいた。


痛みはだいぶ薄れているというのに、体が全く動かない。全身をぴったりと硬い殻で覆われているかのようだった。


そして、自分の中の魔力が異常に多い。傷を負っている今は魔力が減っているはずなのに、今の魔力の総量は普段よりも多いくらいだ。そしてその魔力の大半はセクエのものだった。


(セクエは私に何をしたんだ?)


回復魔法を使ったのだと思っていた。だが、それならばこんな状態にはならない。回復魔法を使わずに、一体どうやって自分を助けたというのか。


セクエに目を向ける。セクエはまだ祈るような姿勢でグアノの手を握っていた。


(…魔力過多による自然回復を狙ったのか?)


一般に、魔力を多く持つ者は傷の治りが早い。さらに抑えきれないほどの魔力を持つ場合は、体力の回復が異常なまでに早く、ほとんど休む必要がなくなると聞いたことがある。セクエがそれを知識として知っているかは分からないが、彼女の魔力の量を考えれば、感覚的にそれを知っていてもおかしくない。


もし本当にそうだとしたら、かなり危ない選択だ。だが、それならばさっきまでのあの息苦しさも納得がいく。大量の魔力を体に溜め込むのは相当に危険な行為で、暴走しないように抑え込めば抑え込むほど、体にかかる負荷が大きくなるのだ。もし魔力が暴走すれば命の保証はないし、たとえ魔力が暴走しなかったとしても、体にかかる負荷に耐えられなければ同じことだ。


(…セクエは回復魔法を使えないのかもしれない。)


じっと見つめているグアノの視線に気づいたのか、セクエが目を開けた。


「あ、すみません。今魔法を解きますね。」


そう言うのとほぼ同時に、グアノを縛っていた魔法が解ける。魔力による体の重さもなくなり、グアノは自由に動けるようになった。


「……。」


グアノはしばらく何も言わずに黙っていた。だが、やがて口を開く。


「…片付けをしなければなりませんね。もう空が白み始めています。誰かが起きてこないとも限らない。」


セクエもグアノも、服は血で真っ赤に濡れてしまっている。地面にできた血だまりも相当に大きなものだ。このまま放置しておけば騒ぎが起こるのは避けられない。


グアノは上体を起こす。体力は回復しているとはいえ、大量に血が流れたことに変わりはない。回復魔法で血が出ない程度に傷は治してあるが、めまいがして視界が一瞬真っ暗になる。


「グアノ様…!」


倒れかけた体をセクエが支えた。


「まだ動かない方が…。傷が開くかもしれませんし、休んでください。」

「しかし…このままでは…。こういった場合の処理は…私の方が心得があります…。傷はあとでも…治せますから…。」


そう言いながらも、めまいは収まる気配がない。頭の中で耳鳴りがうるさく響き、視界がぐるぐる回っている。


「指示をしてください。その通りに私が動きます。」


セクエが言った。グアノはしばらく黙って考え、そして言った。


「…血だまりを。」


口を開いて驚いた。言葉が続かない。グアノは一つ深呼吸をして目を閉じ、もう一度言葉をつないだ。


「血だまりを、空中へ、浮かべて…。」


セクエの魔力が動いたのが分かった。続けてグアノは言う。


「そのまま、火をつけてください。」


セクエが魔法を使う。空中で燃やせば、地面に焦げ跡が残らない。少しは違和感を減らすことができるはずだ。だが、それと同時に強い熱がグアノに降り注いだ。すぐそばで炎が燃えているのだから当然なのだが、グアノはそこまで考えていなかった。


熱を浴びて体温が上がったせいで、傷が開いたのかもしれない。腹部の痛みが強くなり、グアノは小さくうめく。


「グアノ様、大丈夫ですか?」


セクエがそう言うのと同時に周囲に結界を張ったのが分かった。荒く息を繰り返しながらグアノは考える。


傷を塞ぐために再び回復魔法を使ってもいい。だが、傷を塞いだとしても体力がもたず、気絶してしまうのが目に見えている。それなら、優先すべきはセクエに指示を与えることだ。


「燃やし、終えたら。」


なんとか言葉をつなぐ。息が苦しい。グアノは閉じていた目を開け、少しでも意識を保とうとした。


「部屋に、戻って…服を…きが、えて…。部屋の、どこかに…替えの服が……ある…はず…です。」


視界が霞む。まだだ。最後まで指示を与えなければ。


「脱いだ、服は…見つから、ない、ように…か……」


目の前が真っ暗になり、言葉が途切れる。最後まで言わないうちに、グアノの意識は暗闇の中に落ちていった。


ーーーーーー


目を開ける。目の前には天井があった。自分はベッドに寝かされているのだと気づく。


(ここは…セクエの部屋か。)


窓からは日の光が差し込んでいる。光の強さや角度から考えると、昼を少し回った頃か。


(…セクエは?)


首を回して部屋の中を確認する。だが、ここにはグアノ以外はいないようだった。


(どこに行ったんだ?周囲に怪しまれてはいないのか?セクエは周りにどう説明した?自分が長い時間ベッドに寝ていては怪しまれるのでは?)


色々な疑問が頭の中を飛び交う。とにかく今は回復に専念しなければ。休むばかりでは体力の回復は難しい。食事を取れればいいのだが、体を起こして傷が開くとまずい。


グアノは自分に簡単な回復魔法をかけ、しばらく動かずにじっと天井を見つめていた。


ーーーーーー


どれほど時間が経ったのか、グアノは扉の向こうが騒がしくなったことに気づいて物思いから覚めた。


(人が来る…のか…?)


グアノはゆっくりと体を起こした。そして扉を見つめる。


遠慮がちに扉を叩く音が聞こえ、ゆっくりと開いた扉の向こう側にいたのは、セクエとオルサだった。


セクエは不安げな表情をしていたが、グアノの様子を見ると安心したように少し微笑んで部屋の中に入ってきた。その後ろからオルサも続く。その手には食べ物の載せられた盆があった。


「グアノ様、昨日はありがとうございました。もう大丈夫ですか?」


セクエが尋ねる。グアノが答えに詰まっていると、オルサが言った。


「セクエから聞きましたよ。具合の悪いセクエを心配して、一晩中寝ずに看病してくれたそうですね。朝食…というより、もう昼食の時間になってしまいましたが、持ってきたので食べてください。」


オルサがそう言って盆を机の上に置く。そしてグアノとセクエを交互に見た後、嬉しそうに微笑んで部屋から出て行った。ふと気づいて自分の服を見る。部屋の中にあったのだろう、厚手の上着が着せられていて、血で汚れた服は見えないようになっていた。


「セクエ…。」


オルサの気配が遠くなってから、グアノは口を開く。


「順を追って説明してもらえますか。昨夜、私は確か、奴から攻撃を受けて…。」

「そのまま気を失いました。」


セクエは答える。


「私はその後、彼を追い返して、そしてグアノ様を助けたんです。オルサさんにはさっき言っていたように、私の看病をして疲れて寝てしまったということにしました。」

「…呪いについては?」


グアノは恐る恐る尋ねる。セクエはすぐには答えなかった。それでも辛抱強く待っていると、観念したように口を開いた。


「ごめんなさい。」


そう言って、セクエは深く頭を下げた。


「…私は、グアノ様をこの呪いの主にしました。」

「私、が…?」

「はい。…本当にごめんなさい。こんな…勝手なことをして、グアノ様を巻き込んで…。」


グアノは少し呆然として、視線をセクエから逸らした。


(自分が…セクエの呪いの主に…?)


不思議と、腹立たしいとは思わなかった。自分が主になれば、もうセクエが呪いのせいで死ぬかもしれないと怯えることはなくなるのだ。


「謝らないでください。」


グアノは視線を戻さずに言う。


「別に怒ってはいませんよ。」

「でも…。」

「セクエ、私がなぜあなたを助けようとしたか、分かりますか?」


答えは返ってこなかった。グアノは少しうつむき、続ける。


「…私は、あなたを利用するために、あなたを助けようとしました。」

「……。」

「私はあなたを善意から助けようとしたのではないのです。そんな私に、あなたが謝る必要なんてありません。あなたが生きるために私を利用したように、私もあなたのことを利用するのですから。」


それを聞いて、セクエは少し驚いたようだった。


「私の、何を利用しようとしているんですか。」

「…あなたの魔法と私の魔法で、何が違うのか。それを知りたいのです。」


グアノは答えた。だが、まだ自分の中でもなんと言って説明すればいいのか分からない。


「あなたの魔法は、美しかった。私は今まで、あれほど美しい魔法を見たことがない。同じ魔法を使っても、同じようには到底できない。だから…。」


なんと言えばいいのか分からず、手で頭を抱える。グアノは言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。


「だから私は…あなたの魔法の、根底にあるものを知りたい。それがきっと、私の…求めているものの、手がかりになる気がして…。」


それを聞いたセクエはしばらく黙っていたが、やがて耐えきれなくなったようにフフッと笑った。


「やっぱり、グアノ様は優しい人ですね。」

「……。」

「安心しました。もしかしたら、また誰かを傷つけることになるかもしれないと身構えてしまいましたよ。」


明るい声でセクエは言う。だが、グアノはそれでも納得できなかった。


「……私は許せない。私はあなたを利用しようとしている。私はあなたを、苦しめてばかりだったのに。何の償いもしないままあなたを…。」

「グアノ様。私は苦しめられてなんか…。」

「それはあなたが何も知らないだけです…!」


思わず語気が強くなる。グアノは吐き捨てるように言った。


「あなたを無理矢理な方法でこの国に連れてきたのは私です。それに、あなたが呪いを受けた時、私はリガル様からあなたをすぐに帰すように言われていました。国境での時も、私はあなたを止められず、何人もの兵を殺させた…!私はいつも間に合わない。あなたを救える位置にいたのに…!」


自分の無力さが歯がゆくて仕方ない。グアノは両手を握りしめた。


「…グアノ様。」


先ほどまでとは違う、はっきりとした強い口調でセクエが言う。


「これは言うかどうか迷っていたのですが、でもグアノ様が呪いの主になった以上、一緒にいる時間も長くなると思うので、この際言わせてもらいますが…。」


そう前置きして、セクエは話し始める。


「私は……国境で自分がしたことについて、もう後悔も恐怖も、何も感じていません。」

「…それは嘘でしょう。」


グアノはセクエの方を再び見た。


「あなたはあの時、幻覚が見えるほどに動揺していました。今は落ち着いているとしても、何も感じていないはずが…。」

「でも、本当にそうなんですよ。」


セクエはそう言って困ったような笑みを浮かべた。


「ある人が言っていました。私には、本来人間に備わるべき要素が大きく欠落している、と。それが何なのか、今までは特に気にすることもありませんでした。…でも、あれだけのことが起これば、さすがに自分でも気づきますよ。」


セクエは目を閉じた。何かを思い出そうとするように、あるいは、何かから目を逸らそうとするように。


「恐ろしいと思っても、憎いと思っても、その感情が消えていく。自分の記憶だって分かっているのに、まるで誰かの記憶を覗いているみたいに、他人事に思えてしまう。…本当は、普通の人でも時間がたてばそういうことが起こるのかもしれません。でも私は、それが異常に早い。だから私は、この国に無理矢理連れてこられたことも、呪いをかけられたことも、嫌だとは思っていないんです。ただ、そう言う過去があったと覚えているだけで。」


セクエは目を開けた。グアノとは視線を合わさなかったが、その目は悲しそうに見えた。


「だから私は、グアノ様のせいでこの国に連れてこられて、呪いをかけられて、大勢の兵士を殺すことになったのだとしても、グアノ様のことを憎いとは思いません。」

「……。」

「それに、感謝しているんですよ。」


セクエは何も言わないグアノに向けてさらに続ける。


「国境で、私を抱きしめていてくれたのは、グアノ様でしょう?もしあの時、私があの様子をはっきりと見ていたら、私はどうなっていたか分かりません。もしかしたら、もう元に戻れないほど傷ついていたかもしれない。」


そう言って、セクエは笑った。


「だから、グアノ様は精一杯のことをしたと思います。結果的にうまくいかなくても、それはきっとグアノ様のせいじゃありません。だからそんな風に、自分を悪く言うのはやめてください。」


そう言う彼女の微笑みが、自分の中の暗い部分を少し照らしてくれたような気がした。彼女が許してくれるなら、もう少しわがままでもいいのかもしれない。そう思うと、自然と笑みがこぼれた。


ーーーーーー


それから二日後、リダム王国の一行は魔導国を後にした。その中にはやはりエルナンの姿は無い。兵士や召使いの者にさりげなく尋ねてみたが、初めからそんな人はいなかったと言うような答えしか返ってこなかった。


(エイム様を操っていた時と同様に記憶を操作したのか…。まさか全く証拠を残さないなんて。)


記憶を操作された場合、普通なら記憶に食い違いが出たり、はっきりと思い出せないなどの違和感が残るものだ。だが、誰にもそんな様子はなかった。奴らが再びセクエを狙いに来た場合、そこまでの技術を持つ者を相手にどうやって彼女を守ればいいというのだろう。


(赤い髪の魔法使い…か。調べてみる価値はあると思ったが、なかなか難しいな。)


開いていた本を閉じ、グアノは考える。はっきりとは思い出せないが、どこかで聞いた記憶はあるのだ。王城内にある図書室なら何か資料があるかもしれない、と思って来てみたはいいが、それらしい資料はまだ見つからない。そもそも分かっている情報が少ないので、それも当然のことなのだが。


グアノは立ち上がった。本を元の場所に返し、セクエの様子を見に行くためだ。今はセクエも図書室に連れてきている。グアノはセクエの魔力をたどって歩き出した。


魔導国の王城の図書室には、多くの書物が保存されている。中には普段は見ることを許されない貴重なものもあるが、大抵の本はいつでも読むことが許されている。セクエは字が読めないというし、連れてくるか迷ったのだが、セクエが行きたいというので連れてきている。


グアノが見つけた時、セクエは辺りを見回しながら本棚の間を縫うように歩いていた。


「あ、グアノ様。」

「どうかしましたか?」

「高いところにある本が届かなくて…台がないかと思って探していたんです。」


今はセクエに魔法を使わないように言いつけてある。本来なら浮遊魔法を使えば簡単に手が届くだろうが、セクエの立場上、あまり目立つことをさせたくない。浮遊魔法ならばセクエくらいの年齢の子供でも使えなくはないが、念のために使用は控えさせていた。その他の魔法も同様に控えるように言ってある。


「踏み台なら、部屋の四隅や本棚の脇に置いてありますよ。ここからで近いのは…まっすぐ進んで四列目の本棚ですね。」


奥の方を覗き込みながらグアノは答え、セクエと一緒に台を取りに行く。歩きながら、セクエのことを少し考えた。


本来備わるべき要素の欠落。グアノはその言葉の意味を、正しく理解できているとは思っていなかった。それは生まれつきのもので、大げさに言うのなら精神障害のようなものなのかもしれない。しかし、グアノはそう思えなかった。セクエは何か、大きなことを隠しているような気がしてならないのだ。


(いや、隠していると言うよりは、言う必要がないから言っていないだけなのかもしれないが…。)


もともと、気になる点はあるのだ。村の中でセクエだけが白い髪をしているのは違和感がある。彼女があの村の出身で間違いないのなら、なぜ他の人には無い特徴が現れたのか。


それに、バリューガのことも気になる。バリューガとセクエが幼馴染であることは知っている。それならバリューガは幼い頃からあの村に住んでいたことになるが、あの村の剣使いは彼一人だけだ。外から来たとしても、あの村は深い森の中に位置しているので、それは考えにくい。とするならば、彼は一体どこからやってきたのだろう。


セクエは台を持ち上げ、元の本棚のところへ戻る。それを追って歩きながら、グアノは尋ねた。


「何か気になる本があったのですか?」

「はい。…なんとなく、表紙が気になって。」


セクエはそう答え、元の場所に戻ると、台を置いてその上に立ち、さらに背伸びをして一冊の本を手に取った。ちょうどその本だけ、他の本に立てかけるようにして置いてあり、表紙が見えるようになっていた。表紙には白い髪をした人が魔法を使う様子が描かれていた。気になったというのはこの絵のことだろう。


「民族学…ですか。」


その本は、カロストに分布する民族についてまとめられたものだった。


カロストには多くの国があり、それはさまざまな種族の人間によって構成されている。剣使いと魔法使いという大きな区別だけではなく、剣使いや魔法使い同士での種族の対立によって争っている国もあるのだ。


セクエは本を開き、ページをめくる。しばらく難しい顔をして覗き込んでいたが、やがてパタリと本を閉じた。


「ダメですね、書いてあることが難しすぎて、よく分からないです。」


残念そうに呟いて、セクエは本を戻そうとする。グアノはその手を止めた。


「戻さないでください。私が使いますから。」


グアノが調べた限りでは、カロストには赤い髪を持った人が統治する国はない。だとするなら、自分が探している赤い髪の魔法使いは少数民族と言う可能性もある。もっとも、赤い髪が一族特有のものであればの話だが。


「グアノ様は、何を調べているんですか?」

「赤い髪の魔法使いについてです。」

「赤い髪って…あの人の?」

「はい。どこかで聞いた覚えがあるので、調べれば何か対策を立てられるのではないかと思っています。」

「そうですか…。なんというか、すみません。」

「いいんですよ。これは私自身のためでもありますから。」


そう言ってグアノはセクエから本を受け取り、閲覧用の机へ向かった。


ーーーーーー


グアノが机へ向かい、セクエの視界から消えると、セクエは一つため息をついた。


なぜだろう。ここ最近はどうも落ち着かない。焦燥感、というのだろうか。何かやらなければならないことがあるような気がして焦ってしまうのだ。気を紛らわそうと、セクエは再び本棚を見て回る。


これは当たり前の話だが、この図書室にある本はシェムトネにある本よりもはるかに多い。広い部屋の中に背の高い本棚がずらりと並び、その上の段までぎっしりと本が詰まっている。セクエはこれだけの数の本を見たことはなかったため、たとえ本が読めないとしても見飽きることがなかった。


すぐ近くに人の気配を感じて、セクエは思わず立ち止まる。この部屋は足音を消すためなのか、厚い絨毯が敷き詰められているため、足音がほとんどしないのだ。意識が本に向いていると人がいることに気づけない。


相手は数冊の本を抱えていた。閲覧用の机に向かう途中なのだろう。相手はいきなり立ち止まったセクエに少し視線を向けたが、特に気にした様子もなくセクエとすれ違った。


すれ違ったその瞬間、ゾクリとした。別に相手が何かしたわけではない。ただ、人と近づくとあの焦燥感が強くなるのだ。もっと言うと、それがグアノやオルサだった場合はさらに強くなる。そしてさらに厄介なことに、それが日に日に強さを増しているのだ。はじめは少し違和感がある程度だったのだが、今は人とすれ違う時に平静を装うことさえ難しい。


この感覚が何なのか、セクエには分からない。呪いのせいなのかもしれないと思うが、それならグアノ以外の人でも焦燥感が強くなるのは違和感がある。第一、これが始まったのはエルナンに会うよりも前のことなのだ。自分は一体、何に焦っているのだろう。


何にせよ、呪いの影響である可能性があるならグアノにも伝えておくべきかもしれない。そう思って、セクエはグアノのところへ戻る。しかし、また人とすれ違うかもしれないと思うと、足取りは重かった。


本棚の向こうにグアノの姿が見えた。すぐそばに先ほどすれ違った人もいた。それを見て、またあの感覚に襲われる。


(何かしなければならない。早く、早く、早く。手遅れになる前に…。)


訳も分からないまま、また焦りだす。


(やらなければならない。私は、彼を…。)


そこまで考えて、セクエはハッと我に返った。


(私は…何を考えていたんだろう…。)


いつのまにか両手を握りしめていた。グアノが不安そうにこちらを見つめている。だが、セクエはこれ以上グアノに近づこうとは思えなかった。自分が何をしようとしているのか分からない。その事実がどうしようもなく怖かった。


耐えられなくなって、セクエは逃げ出すように図書室を後にした。


ーーーーーー


何も考えられないまましばらく歩いて、セクエは立ち止まった。ふぅ、と大きく息を吐き出す。


いきなりこんなことをして、グアノは不審に思ったかもしれない。今からでも戻って、ちゃんと話をするべきなのかもしれない。だが、どうしても戻る気になれなかった。ひとまず部屋に戻ろう。そこで待っていれば、グアノもすぐに来るだろう。


目を閉じて少し魔力を集中させ、簡単な探知魔法を使う。誰にも会わずに部屋に戻るために、この城の中のどこに人がいるのかを調べるのだ。


城内は広い。廊下や階段がいくつもあるので、部屋に戻る経路はいくらでもある。人を避けつつ戻ることはそう難しくはないだろう。


セクエは目を開け、再び歩き出す。そして、その直後。


「……っ!?」


突然背後に、人の気配を感じた。自分の真後ろ、すぐそばに人がいる。その人物が明らかにセクエに敵意を持っていることにもすぐに気づいた。


セクエはとっさに振り返ったが、相手から感じる敵意、殺意、そして自分の中に再び生まれたあの感覚と恐怖、驚きなどが一斉に自分の中に押し寄せてきて、思考が一瞬止まった。どうすればいいのかも分からないまま、目の前が真っ白になったような気がして、そして。


気がつくとそこには誰もいなかった。


(……?)


気のせい、だったのだろうか。さっきの感覚はやけに現実味があって生々しかったのだが…。


心臓が早鐘のように鳴っている。どうにも、間違いだったとは思えない。それとも、自分は疲れているのだろうか。だからあんな幻を…。


「セクエ?」


不意に名前を呼ばれて、セクエは驚いて声のした方に視線を向ける。そこにいたのはグアノだった。


「どうしたのですか。少し、様子が変でしたが…。」


グアノがゆっくりと近づいてくる。セクエは思わず後ずさった。それを見て、グアノの足が止まる。


「セクエ…?」

「……。」


何も言えなかった。今の自分は、おかしい。でもそれが何なのか分からなくて、それが怖くて仕方がない。


「え…と……。」


セクエはゆっくりと言葉をつなぐ。


「人の…そばに、いるのが……怖くて…。」

「彼のことがあったからですか?」

「そう、じゃ…なくて…。」


何と言うべきか。言葉が頭の中でぐるぐる回って、無意識のうちにセクエは呟いていた。


「このままじゃ…おかしいから…。」


グアノは再びセクエに近づく。セクエは少し身構えながらグアノが来るのを待った。


「…なぜ、そう思うのですか。」

「…わかり…ません。」


セクエは俯く。グアノがそっと、慰めるようにセクエの肩に触れた。だが、セクエは反射的にそれを振り払った。


バチン、とやけに大きな音が響いた。しまったと思ってグアノに視線を戻したが、手遅れだった。


グアノは左手を右手で抑えていた。その指の隙間から血が滲んでいるのが見えていた。ぬらりとした感覚が手の甲から指先に伝うのが分かった。グアノを傷付けたことで自分にも傷がついてしまったのだろうが、今のセクエには傷口を確認するだけの余裕はなかった。


グアノは何か言っているようだったが、口が動いているのが分かるだけで何も聞き取れない。傷の痛みも感じない。ただ、頭の中で誰かの声が響いていた。


ーやらなければならないー


ー役目を果たさなければならないー


ー役目を、役目を果たさなければ…ー


ー果たさなければ、私は…何のために…ー


なぜかセクエは冷静だった。怯えも恐怖もなかった。ただ、絶えず聞こえ続けるその声が誰のものなのか、それだけを思い出そうとしていた。


ー邪魔を許してはならないー


ーそのために、奴を…ー


ー目の前にいる、奴を…ー


心臓の鼓動が、わずかに早まるのを感じる。誰だっただろう。その声は、誰のものだっただろう。


ー奴を…殺さなければならない…!ー


不意に、胸の奥底を強く突かれたような気がした。ぐらりと視界が傾き、意識が遠のく。しかし、それでもなおセクエに恐怖はなかった。意識がなくなる直前、はたと気付く。


(そうか、この声は……私の声だ。)


ーーーーーー


「…セクエ?」


セクエがいきなり抵抗したことに驚きつつ、グアノは呟くように再びセクエの名を呼んだ。しかし、反応は無い。


(様子がおかしい。)


今の彼女は、ただ怯えているだけのようには見えない。傷付けたことを謝るわけでもなく、グアノから距離を置くわけでもなく、セクエは呆然としたようにグアノを見つめたまま動かない。


ふと、その口が言葉を呟いているのが分かった。何を言っているかまでは聞き取れないが、何か自分に言い聞かせるように、口をわずかに動かしながら声を出している。


その目からは、もはや何の感情も読み取れなかった。じわじわと凍りついていくようにセクエの中から感情が消えていく。この状態は特定の催眠魔法にかけられた時の反応とよく似ていた。


(憑依魔法、か…?)


憑依魔法とは、自身の意識を相手の体に移すことによって、相手の意識、感覚を完全に乗っ取り、自分の体のように扱う魔法だ。その魔法が継続する限り、相手の意識が元に戻ることはなく、魔法をかけた者も元の体を動かすことはできなくなる。


難度が高く、魔法を使っている間は本人の体は無防備になるため、あまり使われることはない魔法だ。だが、相手の体を操りやすいという点では、他の催眠魔法よりもはるかに優れている。まさか、奴らがまたセクエを狙ってきたのか?


「セクエ…!」


とにかくセクエを正気に戻さなくてはならない。魔法がかかり切る前なら、意識を強く保つことで魔法に対抗できるはずだ。グアノはセクエに再び手を伸ばした。


手を伸ばした、つもりだった。しかし、気づけばグアノはセクエに押し倒されていた。体はピクリとも動かず、その顔から目をそらすことすらできない。その顔には、何の感情も無い。


(違う。)


その様子を見て、思った。これは通常の憑依魔法ではない。体が動かせるようになったということは、すでに意識は相手のものになっているはずだ。それならば、感情が消えたままになるのはおかしい。


(もともと無表情な人、というのは考えにくいな。ここまで人形のように感情を消せる人間などいないし、そうする必要もないはずだ。となれば、操っているのは…?)


思考はそこで途切れた。喉に痛みが走ったからだ。表情に気を取られて忘れていたが、こちらの動きは封じられている上に、距離がここまで近いのだ。相手が攻撃してこないはずがない。


(まずい…殺される…。)


体は動かせない。だから先程から魔力を集中させているのだが、なぜか魔法が使えない。魔力を魔法に変えた瞬間、魔法がかき消されてしまうようだった。セクエはその手に氷でできた小刀を持ち、それをグアノの喉に押し付けているような状態だった。


グアノは一瞬死を覚悟したが、セクエは動かなかった。ふと見れば、セクエの首に赤く線が走っているのが見えた。呪いの影響で、自分につけた傷がそのままセクエにもついてしまったのだろう。


呪いがある限り、セクエの体を使ってグアノを殺すことはできない。相手はそれに気づいて動揺しているのかもしれない。


「…なぜ。」


グアノの考えを裏付けるように、セクエが呟く。しかし、やはりその声には感情はない。


「…なぜ…殺せない…。」


やはりそうか。グアノは納得する。


「私が、お前の主だからだ。」

「違う…!」


セクエの語気がわずかに強くなる。


「お前は…主ではない…。」

「……?」

「なぜ…なぜ…。」


(何を言っている?主ではないとはどういうことだ?)


セクエが自分を呪いの主にしたというのは嘘だったのか?しかし、この首の傷は呪いの影響によるもので間違いない。それなのに自分が主ではないとはどういうことだ?


セクエは小刀を握る手に力を込めるが、それがグアノの喉を貫くことはなかった。この程度の痛みなら、殺すどころか、血もほとんど流れていないだろう。


「なぜ…邪魔をする……?お前は…何のために…?」


わずかに顔を歪めながら、しかしほとんど抑揚のない声でセクエは呟く。


「私は……役目を……。果たせ…ないなら……なぜ…わた…しは………。」


不自然に言葉を区切りながらセクエは呟き続けている。グアノはそれにも違和感を感じた。


魔法が途切れかけている。それについて考えられる可能性は二つだ。


一つは、セクエの意思がまだ残っていて、相手に抵抗している可能性。セクエの魔力量を考えれば不可能ではないのかもしれないが、本来、憑依魔法は相手の意識を完全に封じ込める。それができないほど未熟な者がわざわざこの魔法を使う理由が分からない。他の催眠魔法を使った方が効率がいいはずだ。


二つ目は、相手が憑依魔法を長時間維持できるほどの技術を持っていないという可能性。だが、この場合でも、体を乗っ取った時点ですぐにグアノから離れれば良かったはずだ。殺そうとする時間が無いと分かっているのにグアノに攻撃してくるのはおかしい。


どちらにせよ、相手の意図が読めない。それに、相手の言っている言葉の意味も分からない。何かに動揺しているように思えるが、その声にも表情にも感情がまるで無いため、憶測も立てづらい。


「わた…しは……なんの…ため…に……。」


フッと糸が切れたように、セクエはグアノに倒れかかった。意識を失ったのだ。グアノは自分の体が自由になったことに気づき、体を起こす。


「セクエ…?」


声をかけるが反応はない。その顔には、先ほどまでとは違い、確かに表情があった。


両目をぎゅっとつむり、唇を噛んでいる。そのまぶたの隙間から涙がにじみ出て、頰を伝って流れた。グアノはそれ以上何も言うことができず、その苦しそうな表情をただ見つめるしかなかった。


ーーーーーー


セクエは夢を見ていた。だが、それがただの夢ではないと分かっていた。


目の前に自分がいる。それがよく似た別人ではなく、他ならぬ自分自身であることは直感で分かる。だが、それを見ている自分もまた、紛れもなく自分自身なのだ。


相手の顔には感情を読み取れるほどの表情はない。


「でて…いけ…。」


相手はかすれたような小さな声で言う。


「ここから…でて……いけ…。」


聞き覚えのある言葉だった。学舎で、『あの夢』の中で、何度も何度も繰り返して聞いていた言葉。もっとも、あの時のセクエには、その言葉の意味を理解することはできなかったが。


あの時とは違い、セクエは怒りを感じることもなく、相手の言葉を聞いていた。これが『あの夢』の続きであることを、理解した上で。


相手が何を言いたいのか、セクエは分かっていた。それが決して八つ当たりなどではなく、自分に非があることも分かっていた。だから、相手が自分の首に手を伸ばし、締め上げていることも、何も疑問に思っていなかった。


「おま…えを……こ…。」


あの時と同じように、相手は同じ言葉を繰り返し、自分の首を締め上げている。だが、あの時とはずいぶん違う。相手の力が、格段に弱くなっていた。首を締める力は弱々しく、声は途切れ途切れで、なによりも、その姿を自分の前に晒してしまっている。


「私を、殺す?」


相手の言葉を遮ってセクエは言う。


「そうだね。私を殺さなければ、私をここから追い出さなければ、あなたは役目を果たせなかった。でも、でもね…それは、できない。」

「……なぜ…。」


相手は自分の首から手を離し、両手をだらりと下げた。力尽きてしまったようなその様子を見て、どうしようもなく苦しくなってしまうのはなぜなのだろう。


「私が消えれば、あなたも消えてしまう。」

「……。」

「私も、あなたのことを憎いと思ったことがある。あなたが消えればいいと思ったことがある。でも、そうしたらきっと、私自身も消えてしまう。」


セクエは相手の体に手を伸ばし、少しだけ小さく感じるその体を、優しく抱きしめた。


「…ごめんなさい。」


自然と言葉が溢れた。そうだ。こうすべきだった。あの時私は、怒りや疑問を感じるより先に、謝罪の言葉を相手に伝えるべきだったのだ。たとえ相手に、それを理解するだけの感情が無いとしても。


「私はあなたの役目を奪ってしまった。どんなに望んでも、あなたはもう、役目を果たせない。それは全て、私のせい。」

「おま…えは…なぜ……。」

「……?」

「なぜ……なんの…ため……に…?」

「何のために…。」


呆然とその言葉を繰り返した。


分からなかった。自分は、相手のように明確な役目を持っていない。ならば、自分は何のために生まれ、何のために相手の邪魔をしたのだろう。


「何のために、私は……。」


ーーーーーー


目を覚ますと、見覚えのある天井が見えた。グアノが部屋まで運んでくれたのだろう。時間もそれほど経ってはいないようだった。ほう、と一つため息をつき、セクエはしばらく動かなかった。


自分の身に何が起こっているのか、それは完全に理解している。だがその現実が、あまりにも重かった。大声で叫びたくなるような、泣きたくなるような、あるいは何かを壊したくなるような、そんなやり場のない感情を必死に押し留めて、セクエは上体を起こす。そして掌を顔の前まで持ってきて、ゆっくりと握りしめ、開いた。


(大丈夫。『まだ』動かせる。)


それだけ確認できればいい。今やるべきことは決まっている。気持ちは進まなかったが、そんなことを言っている場合ではないのだ。


ふと、扉の向こうが騒がしいことに気づく。一人はグアノだ。だが、もう一人はその声も魔力も、覚えのないものだった。二人は何か言い争っている。その内容が自分のことだと気づくのに、そう時間はかからなかった。


自分のことについて、話をしている。とうとう自分のことを不審に思う人が現れたのだろう。グアノはなんとかごまかそうとしているようだが、今のセクエにとっては好都合だった。


セクエは立ち上がり、目を閉じて深呼吸をする。恐れる必要などない。自分を隠す必要は、もうどこにもないのだから。セクエは目を開けると、ためらうことなく扉を開けた。


ーーーーーー


「ですから、何度も言うように、彼女には何もやましいことなど無いのです。私が目をつけている限りは、大事になることはありません。」

「それでは理由にはならないのだ。分かるだろう、グアノ?」


そう迫られ、グアノは言葉を詰まらせた。


(駄目だ、ごまかしきれない。このままでは、セクエが…。)


ゴクリと唾を飲みこむ。セクエが倒れてから、部屋まで運び込んだのはいいものの、厄介な人間に目をつけられてしまったものだ。彼の名はギシトア。この国では相当に高い地位を持ち、魔法においても剣術においても、グアノを圧倒できるだけの実力を持つ男だ。


「前国王の不審死、そして南東の国境での惨劇。その両方に、お前が面倒を見ている娘、セクエが関与しているというではないか。」

「そのような事実はありません。」

「無理に隠そうとするのは無駄だ。リガル様がお亡くなりになられた時、その場に少女が一人居合わせていたというのはすでに噂になっている。南東の国境でも、例の惨劇が起こったのはお前があの娘を国境に連れて来てすぐのことだったらしいな。」

「それだけならば、偶然という可能性もあるはずです。」

「残念だがそうもいかない。彼女はシンシリアから海をまたいでこの国の王都まで、ただ一度の転移魔法で移動した。それも単独ではなく、集団での転移だ。それはすでに第四警備部隊の副隊長より報告を受けている。それだけの力を持つ者を危険視するなと、そう言うのか?」

「それは…。」


グアノは再び言葉に詰まる。やはり隠しきれないのか。


「しかし、ギシトア様。たとえそのような事実があったとしても、だからといって彼女をすぐに捕らえよというのは、あまりにも…。」

「そんなことは言っていないだろう。まずは彼女と話をさせてもらう。判断はその後だ。」

「しかし、彼女は今…。」


気を失っている、とは言えない。それを話したところで、なぜそんなことになったのかと問い詰められるだけだ。何者かに狙われていると分かれば、彼女の立場はますます危うくなる。


「あまりこのようなことは言いたくないがな、グアノ。これ以上あの娘を庇うようなら、お前の立場も危うくなるのだぞ。」

「それは…どういう…?」


動揺するグアノに対し、相手は厳しい顔で続ける。


「グアノ、お前はあの娘の世話、及び監視をしているのだろう?」


監視、という言葉にグアノは思わず嫌悪感を覚えた。


(違う。彼女はそんな危険な存在ではない。彼女はただの被害者であるはずなのに…なぜ誰にもそれが分からないのだろう。)


だが、そう思っていても口には出せなかった。


「それ以上の関係はない。それは間違い無いな?」

「…はい。」


呪いのことは言えるはずがない。呪いをかけたのが先王のリガルだと知られれば、国王の、ひいては王族の権威に関わる。そうなれば、最悪この国が立ち行かなくなる可能性さえあるのだ。


「ならば、二つ確認すべきことがある。」

「二つ…ですか。」

「そうだ。まず一つ、国境での惨劇の直後、帝国兵による王都への襲撃があった。その鎮圧にお前も関わっているが、その際のお前の行動にはどうにも不審な点がある。」

「どういう意味でしょうか。」

「襲撃の際、帝国兵はみな魔道具で姿を隠していた。その精度は可視化魔法がほとんど通用しないほどに高かったそうだな。だが、お前はそれを次々に見つけ出した。他の兵士の話によれば、まるでお前にだけは見えているようだったという。」

「それで、私が怪しいと。」


ギシトアは頷く。


「私は、お前が何者かの協力を得て彼らを捕らえたのではないかと思っている。捕らえられた兵の魔道具はすべて効力を失っていた。魔道具に与えられた命令を完全に無効化する技術は、今のところこの国には無い。お前だけがその方法を知っていたのだと仮定することもできるが、この状況ならば、あの娘がそれをお前に教えたと考えるのが筋だろう。」

「…分かりません。それでなぜ、私の立場が危うくなるようなことになるのでしょう。」


グアノは言うが、ギシトアは冷静に続けた。


「まあ、それだけならばお前をここまで疑うことはない。問題は、もう一つの方だ。」

「……。」

「先日、中庭で魔法を使った戦闘の痕跡が見つかった。わずかではあるが、血痕も見つかっている。」

「……!」


(まずい、隠しきれていなかったか…?)


「見つかった魔力の残骸は間違いなく、お前とあの娘のものだった。」


そう言って、ギシトアはグアノを睨みつける。


「あの娘と私を会わせたくないというのならそれでもいいが、ならばお前に答えてもらおうか。その日中庭で何があった?お前とあの娘は、一体何を企んでいる?」

「企みなど、そんなものは…。」


何と言って逃れればいいのか分からない。もう諦めるしかないのか。このままでは自分の立場さえ危うくなってしまう。しかし、セクエを見捨てるわけにもいかない。どうすれば…。


答えに詰まり、諦めかけた瞬間、扉が開いた。開いた扉の向こうにいたのは、言うまでもなくセクエである。


「私のことで、何かお話しでしょうか。」


私のこと、とわざわざ言うということは、自分が不審がられていることに気付いているということだ。だが、セクエには怯えた様子も、焦った様子もなかった。先ほどまでのセクエと、何かが決定的に違っている。


(何を考えているんだ…?)


「セクエ…?」

「グアノ様は静かにしていただけますか。」


抑揚のない声でセクエが言う。その威圧に、グアノは思わず黙り込む。それを確認するような間を開けて、ギシトアが口を開いた。


「これはこれは。わざわざ相手から話をしに来てもらえるとは、手間が省けたな。」

「……。」

「そういえば、まだお前には名乗っていなかったな。私の名は…。」

「ギシトア。」


相手の言葉を遮ってセクエが口を開く。


「第一番突撃部隊の隊長にして、すべての兵士を束ねる総隊長を務めている方。この国の中でも、相当に高い地位を持っている方。ですよね?」


セクエはあたかも全て知っているように、スラスラとよどみなく続けた。当然、グアノはそんなことは一度も教えたことはない。ほとんど表情を変えないセクエを見てギシトアはわずかに驚いているように見えた。


「…知っていたか。」

「はい。」

「そうか。ならば前置きなど不要か。…単刀直入に聞こう。」


そう言って、ギシトアは右腕の袖をまくった。あらわになった腕には、まるで腕を切り落とそうとするように深い切り傷ができている。血止めは済んでいるようだったが、つい先ほどできたばかりのような、生々しい傷だった。それをセクエに見せながら、ギシトアは問う。


「この傷に、覚えはあるか?」

「…はい。」


予想が外れた、と言った様子でギシトアは眉をひそめる。セクエはさらに続けた。


「それは、私があなたを殺すためにつけた傷です。避けずに直撃していたら、あなたの首は切り落とされていたでしょうね。」


グアノは息を呑んだ。セクエは何を言っているんだ?なぜそんな、自分が不利になるようなことを?


「驚いたな。隠そうとしないどころか、殺そうとしたと明言するとは。」

「隠したところで、意味はありませんから。」


あくまで冷静に、セクエは答える。


「私が図書室を出てすぐ、あなたは私の背後に、強烈な殺意を待って現れた。おそらく私が一人になったところを狙ったのでしょう。その場で私が殺されればそれでよし、私が反撃したとしたら罪に問うという算段ですか。総隊長ともあろうお方が、随分と汚い手を使うものですね。」

「…まるで全てお見通しだという言い方だな。」

「憶測に過ぎませんけどね。あの時の私はかなり動揺していて、記憶がはっきりしていないので。」


ギシトアは何も言わなかったが、警戒するような鋭い視線をセクエに向けていた。セクエは続けて言う。


「…ただはっきりと言えるのは、私が殺意を向けるのは、私に殺意を向けてきた人だけだということです。ですから今は、あなたを殺す必要はない。あなたの中には、敵意はあっても殺意は無い。ですがもし、あなたが今ここで私を捕らえ、殺そうというのなら、私はそれ相応の対応をさせてもらいます。」


そう言って、セクエは魔力を集中させた。魔法をいつでも使えるように構えているのだ。


「私はまだ、死ぬわけにはいかない。役目を果たすまでは。」

「役目…?」

「あなたも勘付いているでしょう。私がただの娘ではないと。」

「……。」


次の瞬間、セクエの首元に剣が突きつけられた。しかしそれでも、セクエは眉一つ動かさない。


「役目とは何だ?何を企んでいる?答えによっては、今ここでその首が飛ぶぞ。」

「つまり、あなたは私を殺そうというのですね。」


わずかに語気を荒げるギシトアをあざ笑うように、セクエは冷静に言う。セクエは投げかけられた問いに答えることはなく、首元の剣にそっと手を添え、目を閉じた。


バリィン、と耳障りな音を立てて、剣が粉々に砕け散る。残った柄だけを握りながら、ギシトアは怯えたように一歩後ずさった。


「驚いているんですか?魔法や魔道具を無力化させる力があることには気付いていたんでしょう?魔道具の武器を向ければ無力化されることは予想できたと思いますが。」

「貴様…!」

「セクエ!」


グアノは二人の間に割り込むようにしてセクエに向き直った。彼女が何を考えているかは分からないが、このままにするわけにはいかない。


「何を言っているのです?兵士たちを敵に回して、一体何をしようというのですか!」


しかし、セクエはグアノのその態度にも驚く様子はなかった。ただ面倒そうに、グアノを睨む。


「静かにしてくださいと、言ったはずですが。」


セクエにそう言われたその瞬間、視界が白くぼやけた。体から感覚が無くなり、自分が立っているのかすら分からなくなる。


「グアノ!」


そう叫んだギシトアの声はくぐもっていて、少し上から聞こえたような気がした。


(それなら、自分は立てていないのか…?)


頭の中がぼんやりして思考が働かない。自分に何が起こったのか分からないどころか、それを考えることすらできなかった。


ー貴様、何をした!ー

ー邪魔をしないようにしただけです。ー


ギシトアの声が、セクエの声が、兵士たちがやってくる足音が、やけに遠くから聞こえる。


ーいったいなにが…!ー

ーきをつけろ、こいつは…ー


声がする。聞こえている。それなのに、なぜだろう。


ーソウタイチョウ…ー

ーニガスナ、トラエロ…ー


(……?)


彼らが何を話しているのか、分からなかった。言葉であることは分かるのに、その意味が全く理解できない。


ーダイ………ブカ…、グアノ…ー


声がかすれていて聞き取れない。自分に向かって話しているのか、それとも別の何かに向けているのか、霞む視界ではそれすら確認できない。


やがて何も聞こえなくなり、何も見えなくなり、グアノは真っ白な空間に取り残された。自分は立っているのか、倒れているのか、浮いているのか、あるいは落ちているのか、それも分からない。ただ、何もないこの空間にいるのは、とても心地よかった。澄んだ水の流れにゆらゆらと揺られているような心地よさの中で、グアノはいつしか目を閉じていた。


『グアノ。』


声がする。先ほどまでのくぐもった声とは違う、はっきりとした声だ。


『グアノ、一緒に来てくれるか?』


(この声は、陛下…?)


グアノは目を開ける。すぐ目の前に、差し伸べられた手があった。自分よりも少し大きな、力強い掌。見間違うはずがない。


『この手を取ってくれるか。共に、戦ってくれるか。』


(陛下…。)


断るはずがない。自分は恩を返すためにここにいるのだ。救ってくださった陛下の、その思いに報いるために。


差し伸べられた手に、ゆっくりと手を伸ばす。体が重い。だが、あの手を取らなければ。そうしなければ、自分がここにいる意味がないのだ。自分はそのために、ここにいるのだから。


手が届く。あと少しだ。


『グアノ…。』


何度だって手を取ろう。貴方が手を差し伸べてくださるのなら。貴方がこの名を呼ぶのなら。貴方の望みを、私が叶えられるのなら。


そのためなら、たとえ何があったとしても…。


ー駄目だ、グアノ…!ー


パシャリと冷たい水をかけられたように、意識が覚醒する。と同時に、激しい頭痛が襲った。


「うぐっ…。」


あまりの痛みに思わず声を漏らし、頭を抱える。誰かがそばにいるのは分かったが、それが誰なのかは分からなかった。頭痛はさらに強くなり、グアノはそのまま意識を失った。

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