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落第剣士が古代魔法に巻き込まれ一億年修行 ~七王の技を宿して世界を救う~  作者: バナナ


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第62話 三十人目は、ここにいる

白い救助領域へ最後の担架が入ったあとも、ミナの左手首に結ばれた青い紐だけは、境界の外へ伸びたままだった。


二十九人の生存者は、レイガ先生が床へ引いた白い区画の中に横たえられている。呼吸の浅い者から順に治療が始まり、濡れた外套が絞られ、冷えた手足へ布が巻かれていた。全員を運び終えたという報告も、担架の数も、セレスの記録札も二十九で一致している。


それなのに、青い紐は緩まなかった。


「引かれてる」


ミナは掠れた声で言った。赤茶色の髪は頬へ張りつき、両腕には何人も支えた跡が赤く残っている。それでも紐を結んだ左手だけは胸の前へ固定し、指一本ぶんも緩めていなかった。


俺は紐の先を見た。白い領域の向こうには、地図の外で渡ってきた十二枚の浮石が暗闇へ続いている。最後の石は半分崩れ、黒い水が下から逆さに噴き上がっていた。紐はそこへ向かっているように見える。けれど、見続けるほど、何のために結んだ紐だったかが分からなくなった。


二十九人を運んだ。全員いる。なら、もう切ってもいい。


その考えが自然に浮かび、俺の右手が鞘の近くから紐へ動いた。


「触るな」


レイガ先生の声で指が止まった。


先生は白い領域の中心に片膝をつき、二十九人分の呼吸と床の亀裂を同時に支えていた。黒い教師服の上へ羽織った灰色の外套は水と血で重くなり、左眉から頬へ走る傷の脇にも細かな石粉が付いている。先生の視線は紐ではなく、紐を切ろうとした俺の手へ向いていた。


「今、お前は何をしようとした」


「……不要になった紐を切ろうとしました」


口にした途端、胸の奥が冷えた。不要だと判断した理由を、自分で説明できない。


ミナが左手を引いた。青い紐が一寸だけ震え、境界の外から弱い力が返ってくる。


「誰かが持ってる。何度忘れても、これだけは分かる」


ミナは紐を自分の手首へもう一周巻いた。


「離さない。誰がいないのか思い出せなくても、離さないから」


リゼットが青い腕輪を掲げた。金色の高い髪束から水が落ち、整った制服の裾は泥で汚れている。それでも紫がかった琥珀の目は、紐と全員の顔を順番に確かめていた。


「一条件だけ共有します。《蒼律》――青い紐を離さない。強制ではありません。同意する者だけ受けて」


青い文字はミナの手首の上へ浮かび、俺、セレス、ガロウへ順に届いた。三人とも頷く。最後にレイガ先生が短く「同意する」と答えた。文字は六人を縛る鎖にはならず、忘れかけた時に同じ選択へ戻る目印として薄く残った。


六人。


その数を意識した瞬間、俺は周囲を見回した。俺、ミナ、セレス、リゼット、ガロウ、レイガ先生。確かに六人いる。けれど、地図の外へ入った調査班は五人で、先生は救助領域側に残っていた。六という数は合うはずなのに、どこかがずれている。


セレスが二枚の古地図を床へ広げた。長い銀髪を肩の後ろへ払い、濡れないよう透明板で地図を押さえる。一枚は水路設備部の旧図面、もう一枚は避難施設の手描き図だ。縮尺も方角も合わず、重ねても通路が一つも一致しない。最初に見つけた時から、互いに別の場所を描いた地図にしか見えなかった。


「同じ場所を示す線はありません。ただし、紙の欠け方が同一です」


セレスは二枚の右下を指した。どちらも三角形に切り取られ、切断面へ青黒い染みが残っている。


「地図の内容ではなく、描かれなかった外側が共通しています。この欠けを基準にすると、十二枚目の浮石から右下へ一人ぶんの空間が残ります」


「見えない空間を、紙の欠けで測るのか」


ガロウは両手で主索を握ったまま尋ねた。大柄な身体は二十九人の搬送で限界に近く、前腕が細かく震えている。それでも縄を床の固定環へ結び直し、自分の握力だけへ任せない形を作っていた。


「空間があるとは断定できません」とセレスは答えた。「ただ、二枚が別々の内容を持ちながら、同じ部分だけを持っていない。その不一致は残せます」


アステリアの投影が、白い領域の縁へ淡く現れた。透ける白銀の髪と星の杖は暗闇の中で輪郭を保っているが、紐の先へ杖を向けた途端、先端の光点が一つ消えた。


「観測可能なのは、青い紐のこちら側の結び目、十二枚目の浮石、紐へ加わる張力です。張力の原因は観測できません」


「人がいるかは?」


俺が尋ねると、アステリアは仮面を紐の先へ向けたまま答えた。


「断定できません。ただし、無風状態で張力が三度変化しています。現在の力は、幼い人族が片手で保持した場合と矛盾しません」


人がいるとは言わない。いないとも言わない。見える事実だけを渡すアステリアの声で、消えかけていた目的が戻った。


俺たちは二十九人を救助領域へ運んだ。だが、紐の先には二十九人へ含まれていない何かがいる可能性がある。


「戻ります」


言うと、ミナがすぐ隣へ立った。


「私も行く」


「紐を持ってるから、ミナが先頭になる。俺は足場を見る」


以前なら、危険だから残ってほしいと言ったかもしれない。だが紐の張力を確かめられるのはミナで、彼女は離さないと自分で決めている。役割を奪って安全にしたつもりになるのは違う。


レイガ先生は白い領域から動かなかった。二十九人の呼吸と崩れかけた既知区画を保つには、先生がここを離れられない。


「境界の外へ白帝領域を伸ばせるのは十呼吸だ」と先生が言った。「対象を人として認識できない。足場と縄だけを固定する。十で戻れ。届かなければ中断だ」


「分かりました」


「分かった顔をするな。復唱しろ」


「固定対象は足場と縄。十呼吸で戻る。人を見つけても、十を越えて抱え込まない」


言葉にすると、最後の条件が喉へ引っかかった。見つけた人を置いて戻る可能性まで含まれている。


レイガ先生は俺の迷いを見たが、条件を緩めなかった。


「十を越えれば、二十九人とお前たちを同時に失う。中断は見捨てることではない。次の手段を残す判断だ」


ガロウが主索を固定環へ通し、腰の補助帯まで使って支えた。


「引く合図は二回。止める合図は三回だ。紐の先が誰だろうが、俺は合図どおりに動く」


セレスは自分の手の甲へ《空白一件》と書き、同じ文字を俺とミナの袖口にも記した。紙は書き換えられる。記憶も消える。だから身体に残す。


リゼットの《蒼律》が、青い紐を離さないという一条件だけを保つ。


準備が整うと、レイガ先生の白い光が境界から一歩ぶん伸びた。


「開始」


俺とミナは十二枚目の浮石へ戻った。


一呼吸。


足裏へ冷たい振動が入る。白い光は石の縁と主索だけを包み、黒い水へは触れない。ミナは青い紐を両手で持ち、張力が向く方向へ身体を傾けた。


「右下。さっきより低い」


二呼吸。


十二枚目の石の右側には何も見えない。剣先で探れば、対象へ当たるかもしれない。だから振らない。俺は石の縁へ腹這いになり、左手で主索、右手で空間を探った。


指先へ冷たい雫が当たる。次に、布らしい柔らかさ。触れた瞬間、何に触ったのか分からなくなり、手を引きかけた。


袖口の文字が目に入る。


《空白一件》。


「ここに何かある」


三呼吸。


ミナが紐を一度引いた。返事はない。もう一度、今度は弱く引く。


向こうから、一回だけ引き返された。


「いる」


ミナの声が震えた。


「聞こえる? 名前は言わなくていい。紐を持ったままでいて。私たちは戻る道を作るから」


四呼吸。


暗闇から、息を詰める小さな音がした。声ではない。泣くのを我慢している呼吸だった。


俺は目を閉じた。見ようとするほど認識が滑るなら、必要なのは張力と音だけだ。青い紐が石の縁で擦れる位置。小さな呼吸。右手へ触れた濡れた布。その三つを一つの対象にまとめる。


人の顔も名前も要らない。今は、紐の先を落とさない。


五呼吸。


石の下で何かが動き、青い紐が急に沈んだ。ミナの身体が前へ引かれる。俺は腰の帯をつかみ、二人分の重さを主索へ逃がした。


「足場が崩れてる!」


見えない相手がいる場所ではなく、紐が消える一点を狙う。第一技法を開く必要は一歩だけだった。


「黒影歩、一歩」


意識の外へ滑り、石の右下へ身体を入れる。十六歳の脚に鋭い痛みが走るが、二歩目へは進まない。右手を伸ばすと、小さな手首に触れた。


細い。冷たい。けれど脈がある。


握った瞬間だけ、暗闇の中に子どもの輪郭が浮かんだ。濡れた短い髪、裂けた上着、裸足の片足。次の瞬間には顔の印象が消えたが、手首の脈までは消えない。


「つかんだ!」


六呼吸。


下から黒い水が噴き上がる。水ではなく、触れたものの位置をずらす空間流だ。子どもの身体が俺の手から横へ滑り、肩が抜けそうになる。


鏡砕返しで流れを返せば、子どもへ反動が届く。虚空掌握で全体を止めようとしても、今の範囲では足りない。


使わない。


「ミナ、紐を右肩へ回して。引き上げるんじゃなく、身体を石へ沿わせる!」


ミナは一瞬で動いた。青い紐を引く方向を上から横へ変える。子どもの重さが石の縁へ近づき、俺の腕へかかる負担が半分になった。


七呼吸。


「ガロウ、二回!」


ミナが主索を二度引く。救助領域側から縄が一定の速さで巻き取られた。ガロウは見えない相手を想像で急いで引かず、決めた呼吸に合わせている。


セレスの声が遠くから届く。


「残り三呼吸。張力は一人分増加。記録上、搬送対象を一名追加!」


追加という言葉を聞いた途端、その一人を忘れそうになる。俺は右手の脈へ意識を戻した。


八呼吸。


子どもの肩が石の縁へ触れた。泣き声が漏れる。


「痛い」


初めて言葉が聞こえた。


「ごめん。あと少し。痛い場所は右肩?」


返事はなかった。質問が多すぎた。今必要なのは、続けられるかどうかだけだ。


「紐を持てる?」


小さな指が青い紐を握り直した。


九呼吸。


俺は子どもの身体を抱え上げた。重さは確かにあるのに、視線を外すと腕の中が空に感じられる。ミナが反対側から背中を支え、二人で十二枚目の石へ引き上げる。


白い光が細くなる。


「戻る!」


十呼吸。


俺たちは境界へ踏み込んだ。


レイガ先生の白い領域が閉じ、直後に十二枚目の浮石が暗闇へ崩れた。主索が激しく鳴り、ガロウの固定環が床から半分浮く。先生の白い光が縄だけを切らずに受け止め、崩落の勢いを地面へ流した。


腕の中には、まだ重さがある。


けれど救護員が近づくと、誰を診ればいいのか分からない顔で足を止めた。


「患者はどこですか」


俺自身も一瞬、答えを失った。


ミナが青い紐をたぐり、紐の両端を床へ結んだ。片方は自分の手首、もう片方は見えない子どもの上着。二つの結び目の間に、毛布を一枚広げる。


「この毛布の中。名前が分からなくても、ここにいる」


レイガ先生は子どもを対象にしようとしなかった。白い領域の線を、二つの結び目と毛布の四隅へ引き直す。


「保護対象を人ではなく、この区画へ設定する。救護は区画内の呼吸、体温、外傷へ行え」


治療術の光が毛布全体を包んだ。見えない身体の輪郭に沿って布がわずかに持ち上がり、細い胸が上下する形が現れる。


セレスが二十九枚の救護札を数え、その隣へ番号のない一枚を置いた。


「名称索引は二十九。身体反応は三十。第三区画に、未索引一名を保護」


「三十人目……」


ミナが呟いた。


毛布の列の中から、一人の女性が顔を上げた。頬が痩せ、左腕に包帯を巻いている。女性は三十枚目の毛布を見ても、最初は何も思い出せないようだった。


それでも青い紐の端が揺れ、小さな手が毛布から出た瞬間、女性の呼吸が止まった。


「その結び方……」


女性は自分の首に巻かれた同じ青い糸へ触れた。


「朝、私が……誰に結んだの?」


答えを求める声が震える。思い出せないことを恥じるように、女性は頭を押さえた。


毛布の中から、小さな声がした。


「おかあさん」


女性の顔が崩れた。


名前は戻らなかった。顔も見えていない。それでも声と結び目だけで、女性は毛布へ這い寄り、見えない身体を抱きしめた。腕が空を抱いているように見えるのに、布は確かに沈み、子どもの泣き声が胸元へ埋もれる。


「ごめん。ごめんなさい。忘れたくなかったのに」


「忘れたことは、置いていったことと同じじゃない」


俺は自分へ言い聞かせるように言った。


一億年の間、俺も何度も顔や声を失った。思い出せないことを裏切りだと思い、名前を呼び続けた。けれど今、女性は名前を思い出せなくても腕を離していない。


ミナが青い紐を女性の手へ渡した。


「今は、これを持っていてください。離さなければ、また数え直せます」


女性は何度も頷いた。


三十枚の毛布が並ぶ。二十九枚には名があり、一枚だけが空白。それでも呼吸は三十。体温も三十。水の消費量も三十人分必要になる。


二十九人の重さだけでは足りなかった。


忘れられた一人を、空白のまま人数へ入れて初めて、全員を救助したと言える。


安堵で膝の力が抜けかけた時、子どもの手首から黒い糸が一本、毛布の外へ滑り出した。


青い紐ではない。濡れても光を返さない、髪より細い糸だった。


アステリアの星の杖がそれへ向く。


「認識干渉の接続を確認。起点は子どもではありません」


黒い糸は床を這い、二十九人の毛布の間へ伸びていく。


レイガ先生が立ち上がった。白い領域が一段狭まり、救護区画の出口を閉じる。


「全員、その場から動くな。救助対象として保護を継続する。敵と決めつけて触れるな」


黒い糸は十七番の毛布の下へ入った。


そこには、さきほどまで確かに一人の男が眠っていたはずだった。


けれど毛布を持ち上げる呼吸はなく、床には人一人分の濡れた跡だけが残っていた。


三十人目を取り戻した瞬間、二十九人の中から一人が消えていた。


挿絵(By みてみん)

【主人公ステータス】

対象:夜凪カイ

種族:第一覚醒《七紋人》

個体ランク:B

レベル:記録値なし

HP:記録値なし

魔力:記録値なし

攻撃:記録値なし

防御:記録値なし

速度:記録値なし

技能:

・基本剣術:B/Lv.8(短軌道・停止制御)

・黒影歩:B/Lv.7(安全十五歩・反動十秒)

・迅雷駆:C(直線三射)

・鏡砕返し:C(二連続)

・焔皇砕:D(威力三割)

・蒼天鎧:C(十五呼吸)

・虚空掌握:D(一対象三秒)

・断片形《天断》:未完成(通常発動不可)

状態:七重封印維持・救助行動後の疲労・右脚反動

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