第56話|黒い粉
黒い粉は、救助した少年の靴底から落ちた。
医療塔の第二処置室。白い寝台の周囲には、治癒術式の淡い光と、湿った地下水路の匂いが残っている。
七層へ続く未登録階段から連れ帰った三人のうち、意識を取り戻しているのは一人だけだった。
年齢はカイたちと同じか、少し下に見える。肩まで伸びた灰色の髪は泥で固まり、痩せた身体にはサイズの合わない作業服が巻きついていた。胸元に所属章はない。名前を尋ねても、少年は首を横へ振るだけだった。
自分の名を思い出せないのか。
それとも、名乗ることを恐れているのか。
まだ判断できない。
カイは寝台から三歩離れた位置で、少年の呼吸を見ていた。
右足を動かすたび、靴の縫い目から黒い粉がこぼれる。
最初は地下の煤だと思った。
だが、粉は床へ落ちても広がらなかった。一粒ずつが互いを避けるように離れ、白い床の上へ小さな円を作っている。
セレスが記録杖を上げた。
「触れないでください」
ミナが少年の靴へ伸ばしかけた手を止める。
「毒?」
「不明です。熱反応なし。魔力反応は……一定しません」
セレスの記録板には、黒い粉を示す点が現れては消えた。
存在を読み取った直後、その一粒だけが記録から抜け落ちる。別の一粒を測れば、今度は先ほど消えた反応が戻る。
十二秒の空白。
階段で消えた三本目の経路。
五人が聞いたはずの打撃音。
報告書から消された救助要請。
そして、名前のない九人目。
これまで別々に起きていた欠落と同じ性質を、黒い粉も持っているように見えた。
カイは腰の黒い鞘へ手を置いた。
七王の印は沈黙している。
ただ一つ、黒影王カゲトラの保存層だけが、遠くで刃を擦るような感覚を返していた。
危険を告げる反応ではない。
知っているものに似ているが、同じではない。
「カイ?」
ミナに呼ばれ、カイは鞘から手を離した。
「カゲトラさんの世界にあった黒砂と似てる。でも、あれは音も重さもあった。これは……見つけた瞬間に、見つけた事実だけが薄くなる」
リゼットが透明な隔壁の外から黒い粉を見つめる。
「物質ではなく、認識へ作用している可能性がありますわね」
「可能性です」
セレスがすぐに言い直した。
「作用対象が認識なのか、記録なのか、名前なのかは確定していません」
以前のセレスなら、最も整合する仮説を急いで選んでいたかもしれない。
今は、不明な範囲を残したまま、確認できた事実だけを並べている。
カイは小さく頷いた。
「確かなのは、少年の靴から落ちたこと。床へ落ちても風で動かないこと。記録結果が一回ごとに変わること。それだけだ」
「もう一つあります」
アステリアの投影が、処置室の隅へ現れた。
白銀の髪は普段より薄く、星の杖の先端も一部が欠けている。未登録階段から戻って以降、投影の安定は回復していなかった。
彼女は黒い粉へ杖を向ける。
光点が一つ、床へ降りた。
次の瞬間、光点だけが消えた。
アステリアは杖を下ろさず、同じ位置へ二つ目の光点を置く。
今度は残った。
「観測結果を比較します。第一観測では対象なし。第二観測では対象あり。観測位置、時刻、投影条件は同一です」
ミナが眉を寄せる。
「同じものを見てるのに、ある時とない時があるってこと?」
「はい。ただし、対象が変化したのか、観測経路が変化したのかは区別できません」
アステリアは三つ目の光点を置かなかった。
「追加観測を続ける選択もあります。しかし投影欠損が拡大する可能性があります」
自分にできるからといって、際限なく観測しない。
アステリアも停止条件を口にした。
レイガは処置室の入口で腕を組んでいた。
「観測は二回で止めろ。粉そのものを隔離する」
医療担当者が封印容器を運び込む。銀色の箱の内側へ、物理、魔力、熱、音の四重遮断が施されていた。
だが、誰が粉を入れるかで手が止まった。
通常の器具で触れた場合、何が起きるか分からない。
かといって、床へ残せば処置室全体へ影響が広がる可能性がある。
ガロウが左手へ厚い手袋をはめた。
「俺がやる」
「駄目」
ミナが即座に止める。
「どうしてだ。腕はもう動く」
「動く人から危ない役を選ぶんじゃないって、何回やれば覚えるの!」
「じゃあ誰がやる」
ガロウの問いに、誰もすぐ答えなかった。
カイなら、虚空掌握で粉だけを移せるかもしれない。
半径も重量も小さい。一対象三秒という現世制限の内側に収まる。
だが、この粉が物質として存在している保証はない。認識や記録へ作用するものなら、虚空掌握で何を掴むのかさえ不明だ。
使える技を先に選び、対象を後から当てはめる。
それは七界で何度も犯した失敗だった。
カイは手を上げなかった。
代わりに、少年の靴を見た。
粉は床だけでなく、靴の内側にも残っている。少年自身は意識を保ち、呼吸にも急な変化はない。
「靴ごと入れられないかな」
全員の視線がカイへ集まる。
「粉だけを動かす必要はない。少年に靴を脱いでもらって、底へ板を差し込み、そのまま容器へ移す。粉へ直接触れない」
医療担当者が首を傾げた。
「本人が動かせる状態か確認が必要です」
カイは寝台の少年へ近づかなかった。
届く距離から、ゆっくり話す。
「靴から黒い粉が落ちている。危険かどうかは、まだ分からない。俺たちは靴ごと箱へ入れたい」
少年の瞳が揺れた。
「無理に脱がせない。嫌なら首を横へ振って。痛いなら右手を上げて。自分で脱げるなら、左手を上げてほしい」
三つの選択を一度に伝え、返事を待つ。
少年はカイの顔を見た。
次に黒い粉。
封印容器。
入口を塞がずに立つレイガ。
長い沈黙のあと、左手が上がった。
「自分で脱ぐ、で合っていますか」
少年が一度頷く。
リゼットが《蒼律》を展開した。
青い文字は一条件だけ。
《痛みがあれば停止》
少年の目の前で表示し、同意を待つ。
彼は文字を見つめたあと、もう一度頷いた。
ミナが薄い板を床へ置き、セレスが動作を記録する。ガロウは封印容器の蓋を支え、カイは少年の顔色だけを見る。
右の靴が脱がれた。
粉は増えない。
左の靴を脱いだ瞬間、少年の足首に黒い線が現れた。
文字ではない。
傷でもない。
細い輪が九つ、足首を囲んでいる。
八つには小さな刻みがあった。
九つ目だけが、塗り潰されたように黒い。
少年が自分の足首を見た途端、激しく息を吸った。
「停止!」
リゼットが叫ぶ。
全員が動きを止めた。
少年は靴を落とし、両手で頭を押さえる。
「ない……」
初めて、声が出た。
掠れていたが、確かに現世の言葉だった。
「何がない?」
カイは問いを重ねすぎないよう、一つだけ尋ねた。
少年の目がカイへ向く。
「九人、いた」
部屋の空気が止まった。
「下に、九人いた。逃げたのは……八人」
セレスの筆先が震える。
前回、階段から連れ帰った人数は、カイたち五人を含めて八人だった。
救助者は三人。
帰りは八人。
だが、少年は九人いたと言う。
「残った一人は、誰?」
ミナが声を抑えて尋ねた。
少年は口を開いた。
音にならない。
舌は動いている。喉も震えている。それでも名前に当たる部分だけが、処置室へ届かなかった。
もう一度。
同じだった。
少年の目から涙がこぼれる。
「知ってる。ずっと一緒だった。顔も、声も……なのに、名前だけ、出ない」
足首の九つ目の輪から、黒い粉が一粒落ちた。
床へ着く前に、カイは一歩進みかけた。
止まる。
触れない。
技を使わない。
まず、失われるものを守る。
「セレス。名前を書かなくていい」
カイは少年から目を逸らさず言った。
「《九人目がいた》とだけ残して。性別も、年齢も、関係も推測しない。今分かる存在だけを記録する」
セレスは新しい記録札を取り出した。
大きく、一行を書く。
《九人目、一名。氏名不明。存在証言あり》
ミナも同じ文を紙へ写す。
リゼットは蒼律の記録へ残す。
ガロウは封印容器の外側へ、文字ではなく九つの傷を刻んだ。
アステリアは星の杖で、八つの光点と一つの空白を並べた。
記録方法を分ける。
どれか一つが消えても、差が残るように。
少年は何度も息を吸い、ようやく靴から手を離した。
靴は板ごと封印容器へ収められた。
蓋が閉じる直前、黒い粉が一度だけ集まり、細い矢印のような形を作った。
向いていたのは、医療塔の床下。
星環学園の地下。
七層への階段がある方向だった。
蓋が閉まる。
四重封印が順番に点灯し、黒い粉の反応は見えなくなった。
レイガは容器を見下ろし、短く命じる。
「封印機関室、地下訓練場、第三弁区画を再封鎖。黒帳院へは複製を三系統で送れ。赫陣院には交戦対象なしと明記。蒼廷院には、九人目の救助を次回調査の第一条件として提出する」
「調査へ行くんですか」
ミナが尋ねる。
レイガはすぐに肯定しなかった。
「救助対象が存在する可能性は高い。だが、急げば存在そのものを消されるかもしれない」
白い光が、封印容器の周囲へ薄く張られる。
「次は、敵を倒す準備ではない。九人目を、九人目のまま連れ帰る準備をする」
カイは少年の足首へ残る八つの刻みと、一つの黒い輪を見た。
名前がなくても、救う対象から外してはいけない。
剣で斬れる敵なら、まだ分かりやすかった。
今度の相手は、傷つけるのではない。
人と人の間にあった事実を薄くし、最後には最初から存在しなかったことにする。
カイは封印容器へ触れず、その位置だけを覚えた。
九人目の名前は、まだない。
だからこそ、名前が戻るまで、存在を数え続けなければならなかった。
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:七紋人
個体ランク:B
レベル:Lv.23
HP:302/320(ランクB)
魔力:403/430(ランクB)
攻撃:136(ランクB)
防御:119(ランクB)
速度:150(ランクB)
技能:基本剣術(ランクB・Lv.8)/黒影歩(ランクB・Lv.7)/迅雷駆(ランクC・Lv.2)/鏡砕返し(ランクC・Lv.1)/焔皇砕(ランクD・Lv.1)/蒼天鎧(ランクC・Lv.2)/虚空掌握(ランクD・Lv.1)
状態:通常安全出力B・条件付き上限A。第51〜58話は実戦C〜B級相当だが、事務上の評価・所属とは区別する。




