第36話 一人で立ち、五人で帰る
単独試験場は、幅三歩の石廊下を折り重ねた迷路だった。
入口の案内図には三つの出口が描かれているが、本物は一つだけ。廊下の中央には負傷者人形が置かれ、仲間の補助、外部からの声、黒影歩は禁止。制限時間は十五分だった。
カイは入口で位置を確認した。観察窓の向こうに監査官とレイガ、その後ろにミナたちがいる。声は届かない。ミナが不安そうに拳を握り、セレスは記録板を抱え、リゼットは真っ直ぐこちらを見ていた。ガロウは左拳を胸へ当て、「行け」と口だけ動かす。
一人でできることを示す。その目的は理解している。だが、一億年の孤独を終えて戻った直後に、また一人で試されることが怖くないわけではなかった。
開始灯が青へ変わる。
カイは最短と思われる右廊下へ入った。床の継ぎ目、壁の風、足音の反響を読む。七界の迷宮なら、この程度の偽装は一目で抜けた。
十歩目で床が抜けた。
身体が腰まで落ち、左脛を石の縁へ打つ。痛みで息が止まった。偽床の下は浅いが、這い上がるまで一分を失う。
保存された虚空掌握なら、落下前に床を固定できた。だが今、限定承認されているのは蒼天鎧だけだ。カイは青い光を脛へ集中させ、三呼吸だけ石の衝撃を受け流した。観察窓の監査官が息を呑み、ミナは安堵で両手を胸へ押し当てる。レイガだけは光の薄い継ぎ目を見抜き、視線一つで「全身には広げるな」と制した。
「使わない」
誰も聞いていなくても、声にした。
覚醒段階は変わらない。今ある限定技法を、安全に使う。試験に勝つために、自分を壊さない。
偽床から上がり、傷へ布を巻く。最短路の判断は失敗した。ならば次は、壁の下を流れる冷たい風を追う。本物の出口には外気がある。
立ち上がる前に、カイは三つのことを確認した。左脛は痛むが体重をかけられる。出血は布一枚で止まる。残り時間は十一分。続行できる条件は揃っている。ただし跳躍と走行は避ける。自分の状態を声に出してから、壁へ手を当てた。
石はどこも冷たかった。目を閉じ、掌ではなく濡らした指先で風向きを探る。最初の分岐では右から弱い流れを感じたが、進むほど温かくなった。外気ではなく、壁内の送風管から漏れた空気らしい。
「感覚一つで決めない。温度と匂いも見る」
床近くには古い油の臭いが残っていた。送風術式のある偽路だ。カイは来た道へ白墨で印をつけ、中央分岐まで戻る。引き返す間にも、脛の痛みで左足が短くなり、歩調が乱れた。四歩一呼吸を二歩一呼吸へ切り替え、痛い側へ合わせる。
観察窓の向こうでミナが何か叫んでいる。音は届かないが、両手を胸へ当てて呼吸を示しているのが分かった。補助は禁止でも、彼女が心配している事実まで消えるわけではない。
遠回りの左廊下へ入った。剣は攻撃に使わず、鞘先で床を確かめる。三つ目の角で人形を発見した。
人形は成人一人分の重さがある。カイは背負わず、脇へ腕を入れて引き起こした。背負えば速いが、負傷した脛と小さな現世の身体では転倒時に共倒れになる。
最初の十歩で肩が震えた。以前の単独搬送限界だ。
人形の腕がずれ、硬い手が床へ落ちた。乾いた音にカイの肩が跳ねる。実物の負傷者なら、骨折した腕をさらに打ちつけていた。
カイは時間を気にしながらも人形を下ろし、脇へ差し込む腕の位置を変えた。肩だけで吊らず、腰布を帯へ通して重さを分散する。結び目を作るのに四十秒。急いで運ぶより遅い。しかし十一歩目からは両手の自由が増え、壁へ触れて風を確かめられた。
失った四十秒が、次の二十歩を安全にする。七界では瞬時にできた判断を、今は痛みと時間の中で選び直した。
観察窓の向こうでミナが口を押さえる。助けを求めたくなる。しかしこれは、一人で立つための試験だ。
カイは四歩一呼吸へ戻した。一歩ごとに人形の踵を床へ置き、重さを預ける。十五歩。二十歩。速くはないが、止まらない。
二十五歩目で偽出口が現れた。扉の隙間から風が吹いているように見える。だが紙片を近づけると、吸うのではなく吐いていた。内部の送風術式だ。
「不正解を、恥じて急がない」
自分へ言い聞かせ、引き返す。残り三分。
本物の出口はさらに五歩先、壁の低い亀裂から外気が入り込む角の向こうにあった。
残り一分を切る。走れば間に合うが、人形の頭が壁へ当たる。カイは焦りで喉が狭くなるのを感じ、いったん停止した。出口までの幅、身体と人形の横幅、左足の可動域を見直し、人形を正面ではなく斜めに抱える。
「速さではなく、通れる形を選ぶ」
一歩ごとに人形の頭と壁の間を確認した。観察席の時計が赤く点滅する。それでも最後の角で無理に引かず、腰を落として重心を移す。人形の身体は一度も壁へ触れなかった。
三十歩目。カイは人形を退避線へ横たえ、その隣へ座った。
終了灯が点く。残り二十二秒だった。
扉が開き、ミナたちが駆け込んでくる。ミナは脛の血を見て顔を歪めた。
「怪我してるじゃない! どうして合図しなかったの」
ミナの目は達成した三十歩ではなく、血の滋んだ脛に釘付けになっていた。
「続けられる傷だった。封印は開けていない。十歩しか運べなかった人形を、三十歩運べた」
達成を言葉にした途端、嬉しさが込み上げる。同時に、心配させた痛みも分かった。
「でも、怖かった。一人で選ぶのも、失敗して戻るのも」
合格の奥に隠していた震えを聞き、ミナは責める声を少し緩めた。
「それもちゃんと言って。合格した顔だけ見せないで」
ミナの目には涙が浮かんでいた。
監査官が記録板を確認する。
「単独救助、合格。これで仲間がいなくても行動できると証明されました」
カイは立ち上がった。脛の痛みで身体が揺れ、ガロウが左側を支える。
「違います」
監査官が眉を上げた。
「一人でできる範囲を示しただけです。仲間が不要だと証明する試験ではありません。一人で立てることと、五人で帰ることは両立します」
以前なら制度へ反論する声は震えていた。今も胸は速く鳴っている。それでも視線は逸らさなかった。
レイガの口元に、ごく薄い笑みが浮かぶ。
「次の合同訓練は、カイを観察席へ置く。残る四人だけで人形を運べ」
今度は自分が助けないことを試される。カイは驚きながらも、四人の顔を見た。彼らは不安そうだったが、誰も拒まなかった。
医療室で左脛を冷やしながら、カイは単独試験の経路を紙へ描いた。最短路の偽床、送風術式の偽出口、最後に見つけた外気。成功だけなら一本の線で済むが、彼は間違えた二本も残した。
セレスが記録と照合し、最初の落下でHPが20/20から18/20へ減ったことを確認する。ミナは数字を見て顔を曇らせた。
「二点だから平気、って言わないでね」
数値だけで痛みを小さくされないよう、ミナはカイの目を確かめた。
「言わない。痛かったし、次は鞘で床を確かめてから体重を乗せる」
痛みと対策を両方口にしたのを聞き、ミナは唇を尖らせたままうなずいた。
「ならいい。……よくないけど、隠されるよりいい」
リゼットは、監査官へ言い返した言葉について尋ねた。
「怖くなかったの? あの人は退学判断を持っているのよ」
リゼットの声に残る後怖さを感じ、カイは監査席の空いた椅子を見た。
「怖かった。でも、一人で合格したことを仲間不要の証拠にされたら、次の試験で誰かが無理をする」
ガロウが大きな手でカイの頭を乱暴に撫でた。
「一人で三十歩は大したもんだ。だが次は俺らが、お前なしで運ぶ。助けたそうな顔しても黙って見てろ」
髪を乱されたまま、カイは助けずに見守る自分を想像した。
「努力する」
約束と言い切らない返事に、ガロウの大きな手がもう一度頭を揺らした。
「そこは約束しろよ」
四人が笑った。単独行動の成果は孤立ではなく、互いが欠けた時にも救助を続けるための余裕になる。カイはその意味を、七界で得たどの技法より慎重に記憶へ置いた。
その晩、五人は医療塔の休憩室へ集められた。単独訓練で擦れたカイの手首、火花を使い続けたミナの指、支柱を支えたガロウの右肩。大きな怪我ではないからこそ、翌日へ残さない手当てが要る。
ミナは包帯を引き出し、カイの手首へ勢いよく巻いた。
「痛かったら言って。今度はちゃんと頼ってよね」
心配の分だけ巻き方が強くなり、カイの指先がわずかに強張った。
「分かった。……でも、たぶん少しきつい」
遠慮がちな申告を聞いた途端、ミナの指が包帯から離れた。
「もっと早く言って!」
リゼットが向かいへ座り、包帯の端を丁寧に巻き直す。
「指先の色を見るんですの。守るつもりで血を止めては逆効果ですわ」
セレスはカイの指へ一本ずつ触れた。
「感覚低下なし。熱も左右差なし。現在の締め方なら適正です」
五本の指から手を離したセレスへ、ミナが感心と呆れの混じった目を向けた。
「セレス、それ毎回指を数える必要ある?」
問われても、セレスは確認済みの指を一本も省かなかった。
「五本あることも、動くことも確認対象です」
ガロウは自分の肩を後回しにし、片手で薬箱を押し出した。カイは箱を受け取ったが、蓋を開ける前に止まる。
「ガロウ。右肩の留め具、俺一人だとずらしそうだ。リゼットにも見てもらいたい」
薬箱を受け取ったカイがすぐ開けなかった理由を知り、ガロウは目を細めた。
「俺の肩だぞ」
任せることへの抵抗に、カイは肩ではなくガロウの顔を見て答えた。
「だから頼みたい。明日も一緒に立つから」
ガロウはしばらく黙り、やがて背中を向けた。リゼットが固定具を確かめ、ミナが新しい布を渡し、セレスが交換時刻を記す。
入口に立っていたレイガは口を挟まなかった。全員の手当てが終わると、人数分の水と冷却布だけを長椅子へ置く。
「休め。明日の強さは、今夜休めた分も含む」
短い命令に、五人は素直に背を預けた。誰も鍛えていない時間なのに、互いの呼吸が揃っていく。訓練後の静けさも、孤立とは違っていた。
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:七紋人
個体ランク:B
レベル:Lv.10
HP:244/254(ランクB)
魔力:271/286(ランクB)
攻撃:98(ランクB)
防御:87(ランクB)
速度:116(ランクB)
技能:基本剣術(ランクB・Lv.6)/黒影歩(ランクB・Lv.5)/迅雷駆(ランクC・Lv.1)/蒼天鎧(ランクD・Lv.1)/虚空掌握(ランクD・Lv.1)
状態:通常安全出力B・条件付き上限Aへ到達。ただし長期高出力と三技能同時使用は不可。




