第34話 一億年を捨てる呼吸
夜明けの外周走路は、校舎群のいちばん外側を一周していた。
左には白い城壁、右には朝霧の沈む谷。石畳には百歩ごとの距離標があり、救護所へ戻る短路も三か所設けられている。カイたちの三週間の基礎再訓練は、剣を預け、この走路を走るところから始まった。
担当教師は、鐘の下で秒時計を構えていた。首が太く、短く刈った黒髪には白いものが混じる。袖を肘までまくった腕は丸太のようだったが、腰に剣はない。カイは初対面の大人を観察し、戦う強さより、生徒の身体を見抜く人だと感じた。視線が足首、胸、口元を順に測っている。
「基礎鍛錬担当だ。名乗りは後でいい。四歩で吸い、四歩で吐け。苦しければ止まれ。技を使うな」
短い号令に、ガロウが不満そうに眉を寄せた。
「走るだけかよ」
ガロウが鼻を鳴らしても、担当教師は秒時計の針から目を上げなかった。
「走るだけで倒れない者が言え」
教師は秒時計から目を上げなかった。
カイは静かに息を吸った。七界では一呼吸の間に山を越えた。肺は星気を取り込み、心臓は長い動作を支えた。その完成した呼吸が、記憶層から自然に身体へ降りてくる。
走り始めた一分目、脚は軽かった。二分目、胸が熱くなった。三分目、視界の端が暗くなる。
「カイ、速い! 待って!」
後ろのミナの声が遠い。歩幅を落とそうとしても、身体記憶は次の一歩を要求する。吸気が深すぎる。十六歳の肺では空気を処理できず、指先が痺れた。
距離標を越えたところで膝が折れた。
石畳へ顔を打つ前に、担当教師の腕が胸を受け止めた。大きな手が首筋へ触れ、脈を数える。
「失神まで三分。肺が弱いんじゃない。吸いすぎだ」
脈を数える太い指の下で、カイの呼吸はまだ浅く跳ねていた。
「これは……七界で、完成させた呼吸です」
誇りを守るような答えに、教師はカイの右足の位置を指した。
「俺は七界を知らん。知っているのは、お前の脈が一分百八十を越え、右足だけ二歩先へ急いだことだ」
技を知らない人に、身体の失敗を言い当てられた。恥ずかしさより先に苛立ちが湧く。一億年かけたものが、現世では過呼吸の原因にしかならない。
「完成しているのに……」
周回路に残る自分の足跡を見つめたまま、カイの声はかすれた。
「誰の身体で完成した」
問いに答えられなかった。
七界の身体と、今の身体は違う。分かっていたはずなのに、呼吸だけは疑わなかった。
ミナが隣へしゃがんだ。赤茶色の髪が汗で頬に張りつき、本人も苦しそうに肩で息をしている。それでも心配そうな栗色の目はカイから離れない。
「私が数える。四歩で吸って、四歩で吐く。それだけにしよう」
ミナは自分の乱れた息も隠さず、カイと同じ高さで視線を合わせた。
「君の練習が遅れる」
自分だけが残ることへの躊躇を見抜き、ミナは汗の滋んだ頰を膨らませた。
「今さら何言ってるの。十二分を一緒に待ったんだから、五分くらい一緒に走れるよ」
明るく言った後、ミナは少し怒った顔になった。
「それに、勝手に遠くへ行かれる方が嫌」
カイは目を伏せた。七界の正解へ戻ろうとするほど、現世の仲間を置いていく。
「お願いします。俺の歩幅でなく、今の身体の歩幅を数えてください」
ようやく差し出された頼みに、ミナはすぐ笑って立ち上がった。
「うん。最初からね」
***
二度目の走行では、担当教師が腰へ細い紐を巻いた。反対側はミナが持ち、歩幅が開きすぎれば張る。
走り出す前、教師はカイの靴底へ白墨を塗った。石畳に残る足跡から、歩幅と左右差を確かめるためだ。一度目の跡は右だけが長く、つま先が外へ逃げている。左足で身体を支えきれず、記憶の速度へ右足だけ先行した証拠だった。
カイはしゃがみ、自分の足跡へ指を置いた。七界では意識しなくても揃っていた動作が、現世では一歩ごとに崩れている。胸に湧いたのは恐怖だった。剣技だけでなく歩き方まで失ったように感じた。
「足跡は失った物の印じゃない」
担当教師は次の距離標へ白線を引いた。
「今のお前が直せる場所を、地面が教えている。右を左に合わせろ。速さは測らん」
ミナも足元を見て、自分の歩幅をカイより半歩短くした。紐で引き戻すだけでは、彼の腰を急に捻る危険があるからだ。
「一、二、三、四。吸って。次、吐くよ」
ミナの声に合わせる。記憶層では七界式の長い呼吸が主張していたが、カイはそれを実行せず、四歩ごとに区切った。
二分。胸は苦しいが、視界は暗くならない。三分。先ほど倒れた距離標を越える。嬉しさで速度を上げかけ、紐が張った。
「急がない!」
紐の張りが二人の間で合図となり、カイは前へ逸れた重心を戻した。
「ごめん」
返答に使った息まで無駄にしないよう、ミナはすぐに次の四歩を数えた。
「謝る暇があったら吐く!」
四分を越えた。脚が重くなり、ガロウたちの背中が遠ざかる。それでも停止しない。長い一歩を選ばず、短い歩幅を重ねる。
四分半で右足が再び先へ出た。紐が張る前に、カイは自分で気づいて歩幅を縮めた。肺は焼けるように痛み、喉には鉄の味がする。腕を大きく振れば身体は前へ出るが、心拍が跳ねると分かって肘を畳んだ。
「あと八呼吸!」
ミナの声も掠れている。彼女も余裕で伴走しているわけではない。その事実が、カイを焦らせるのではなく支えた。一人だけが遅れているのではない。二人とも苦しい中で、同じ終点へ進んでいる。
五分の鐘が鳴った。
カイはその場へ座り込み、両手を上げた。
「できた……!」
声が思ったより大きくなった。達観した表情を保つ余裕もなく、子どものように笑っていた。ミナも息を切らしながら拳を上げる。
「やった! 三分から五分! 二分も増えた!」
担当教師は秒時計へ記録した。
「連続運用三分 -> 五分。増えたのは力じゃない。止まらずに使える時間だ。残る制約は、速度を上げると七界式へ戻ること。明日も同じ歩幅でやれ」
具体的な限界を聞いても、喜びは消えなかった。一億年の完成を捨てたのではない。現世で使える形へ、一から作り直す最初の呼吸を得たのだ。
教師は訓練場の方角を顎で示した。
「午後は剣を返す。課題は全力で踏み込み、紙一枚前で止めることだ」
走るより難しい。カイにはすぐ分かった。
昼休み、カイは外周走路へ一人で戻った。成功した五分をもう一度確かめたかったが、担当教師は走る許可を出さなかった。
「増えた直後がいちばん壊しやすい。今のお前は五分走れるんじゃない。条件を守れば一度だけ五分走れた」
教師は水差しを渡し、石段へ座らせた。カイは悔しさを覚えたが、朝の脈拍記録を見る。最初の失神時と二度目では、同じ三分でも心拍の戻りが明らかに違う。
「条件は、四歩一呼吸、短い歩幅、速度を上げないこと」
カイが指を折って数えると、教師は一つ足りないという顔で周回路を見た。
「それと、隣の声を聞くことだ」
支えを条件に数えられ、カイは自分の力と呼んでいいのか迷った。
「一人ではできませんか」
その不安を予料していたように、教師は手元の記録を閉じた。
「最終的には一人でも数えろ。だが他人に合わせて覚えたことは弱さじゃない。身体が正しい間隔を知るまでの支えだ」
そこへミナたちが昼食包みを抱えて現れた。先頭のミナは、石段に座らされたカイを見るなり頬を膨らませる。
「もう! 成功した直後に一人で追加練習って、喜ぶ順番まで飛ばさないでよ!」
膨れた頰の奥に安堵が見え、カイは言い訳より先に目を伏せた。
「五分をもう一度できるか、試したくなった。……先に相談すればよかった」
自分で過ちを言えたことに、ミナは怒ったまま少しだけ肩の力を抜いた。
「思った時点で先に相談! はい、お昼。食べながらなら反省会していいから」
ガロウが大きな籠を石段へ置いた。中には黒パン、燻製肉、ゆで卵が人数分より多く詰まっている。右腕を固定したまま、左手だけで包みを配った。
「五分で大騒ぎか」
強がるガロウの左手は、誰よりも多く食事の包みを並べていた。
「ガロウだって、さっき四分半で膝に手をついてたでしょ」
ミナに見られていたと知り、ガロウはすぐに胸を張った。
「倒れてねえ。腹が減って姿勢が低くなっただけだ」
苦しい弁明の横で、セレスはすでに数値板を開いていた。
「記録上、両手は膝に接触し、呼吸は一分四十八回でした。空腹による前屈という分類はありません」
セレスが真顔で数値板を差し出す。ガロウは一度だけ唸り、燻製肉を一枚、彼女のパンへ載せた。
「食え。記録係は口も動かせ」
パンに載せられた燻製肉とガロウの横顔を見比べ、セレスは一拍置いた。
「栄養補給として受領します。訂正します。ありがとうございます」
行動で返した承認に、セレスは数値板の端へ小さく礼の印をつけた。
リゼットは敷布の皺を伸ばし、包みを等間隔に並べ直した。走った直後なのに長い金髪はきれいに結い直され、汗を拭った横顔にも崩れがない。カイは整った横顔へ目を止め、気づいた瞬間に耳が熱くなった。
「夜凪君、何か?」
見つめていたことを言い当てられ、カイの耳の熱がさらに上がった。
「いや、その……髪が、きれいだと思って。包みも取りやすいです」
最後の一言でリゼットの視線が敷布へ落ち、指先が目立たない皺をまた伸ばした。
「そ、そう。配置の話でしたのね。こほん。当然ですわ。食事中に包帯を引っかける方が出ては困りますもの」
リゼットも咳払いのあと、ガロウの右側へ水筒を置いた。彼が痛む腕を伸ばさずに取れる位置だった。
最後にレイガが、蓋つきの鍋と書類の束を両腕へ抱えて来た。灰色の外套の肩から一枚、足元へ紙が滑る。ミナが拾うと、昼食当番表ではなく、カイの黒影歩使用許可申請だった。
「先生、お昼ごはんと危険技能の書類を一緒に持たないで!」
拾われた申請書を見て、レイガは鍋の上と下へ真面目に視線を往復させた。
「片づけた。鍋の上と下に分けた」
その説明でミナの眉がますますつり上がった。
「上下で分けるのは片づけって言わないよ!」
レイガは鍋を中央へ置き、落ちた申請書を受け取った。平時の顔へ戻った彼は、戦闘中より書類一枚の置き場に迷っている。
「俺の机よりは見つけやすい」
レイガはかすかに胸を張ったが、セレスは数値板を見たままだった。
「比較対象が不適切です。先生の机では、昨日の提出書類三枚が未発見です」
訂正できる数字を見つけたように、レイガがすぐ顔を上げた。
「二枚だ」
譲らない二人の間で、数字だけが静かにぶつかった。
「三枚です。紛失届も紛失しています」
一拍遅れて、ミナが吹き出した。リゼットは額へ手を当て、ガロウは鍋の蓋を開ける。
中には、形の揃わない根菜と、端だけ黒く焦げた肉の煮込みが入っていた。香りは悪くない。しかし一口味見したガロウの眉間に深い皺が寄る。
「硬い。しょっぱい。肉は食える」
ガロウが根菜を噛み切る音を聞き、レイガは鍋と料理書を見比べた。
「手順どおり作った」
セレスが鍋の横に挟まっていた料理書を抜いた。上下を返し、開かれていた頁を全員へ見せる。
「先生。参照していた頁が逆です。塩一匙ではなく、砂糖一匙です」
裏返された料理書を、レイガは戦術書でも読むような難しい顔で見た。
「文字は読めた」
その主張に、セレスは本の上下をもう一度指で示した。
「向きが逆でも文字は読めます。意味の選択に失敗しています」
数字よりもひどい判定に、ミナは鍋を覗き込んだまま吹き出した。
「先生、戦う時はあんなに頼れるのに、どうしてお鍋と書類には負けるの!」
ミナが笑いながら水を足した。リゼットは「食材を捨てる選択肢はありませんわ」と上品に断定し、薄味の保存スープを混ぜる。セレスが塩分を再計算し、ガロウは硬い根菜を左手で小さく割った。
カイは湯気の向こうで動く五人の手を見た。自分にもできることを探し、鍋の脇へ寄る。
「たぶん、水を二杯と保存スープを一杯。根菜は半分にしよう。俺は弱い火を見てる。みんなにも手伝ってほしい」
指示ではなく頼みとして出された案に、レイガは鍋越しに目を細めた。
「お前、料理はできるのか」
カイは鍋の香りを確かめ、七界の経験だけで断定しないよう言葉を選んだ。
「七界で食材の処理はしました。でも、この鍋の味は皆の方が知っています。提案までにします」
仲間の舌を自分より上に置いた答えに、レイガの口元がわずかに崩れた。
「なら採用だ。俺の失敗は、俺だけで完食するより全員で直した方が早い」
勤務中の指揮とは違う、少しお茶目な降参だった。五人がそれぞれ一手ずつ加えると、煮込みはようやく昼食の味になった。
食べ終わる頃、担当教師が全員の走行記録を持ってきた。ガロウは笑みを消し、自分の欄を指す。
「右肩、三分から痛んだ。四分半で増えた。次はそこで歩く」
ガロウが自分から差し出した限界に、リゼットはすぐ記録欄を開いた。
「申告を記録しましたわ。無理をしてから止まるのでは遅いです。三分で私が声をかけます」
責めるより先に次の支えを約束され、ガロウは素直にうなずいた。
「頼む」
短い返事とともに、ガロウは空になった鍋を左腕で持ち上げた。痛みを隠さず、片づけは行動で引き受ける。その横でセレスが全員の呼吸数を表へまとめ、リゼットが中止条件を書き込み、ミナはカイの五分達成欄へ小さな花丸を描いた。
「監査記録に花丸は規定外です」
セレスが筆先を止める横で、ミナは花丸を手で隠すようにして守った。
「じゃあ私の控えだけ! 五分できた日は、五分できたって喜んでいいでしょ」
カイは花丸を見て、静かに頷いた。
「うん。今日は、先に喜ぶ」
午後、剣を返される前に、カイは一人で四歩を数えた。ミナの声がなくても五回連続で同じ間隔を保てた。ただし速度を上げると六回目で崩れる。
「使える行動は五分の低速連続運用。使えない行動は高速戦闘。残る制約は明確です」
セレスの確認へ、カイは頷いた。できたことだけでなく、できないことも全員が同じ言葉で持つ。それが次の停止訓練の安全線になった。
最後にレイガが許可した黒影歩の確認で、カイは三つの標柱を一呼吸の間に抜いた。ガロウは数え損ねて悔しげに舌打ちし、ミナは「三人に増えたみたいだった」と目を丸くする。担当教師はC級判定を書き込みながらも、レイガだけは「まだ遅い」と平然としていた。その一言で、カイは自分の先にある距離を見失わずに済んだ。
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:七紋人
個体ランク:B
レベル:Lv.8
HP:248/254(ランクB)
魔力:277/286(ランクB)
攻撃:98(ランクB)
防御:87(ランクB)
速度:116(ランクB)
技能:基本剣術(ランクB・Lv.6)/黒影歩(ランクB・Lv.5)/迅雷駆(ランクC・Lv.1)/蒼天鎧(ランクD・Lv.1)/虚空掌握(ランクD・Lv.1)
状態:通常安全出力B・条件付き上限Aへ到達。ただし長期高出力と三技能同時使用は不可。




