第31話 敵を見ない訓練
記録室の壁いっぱいに、四つの模擬戦が同時再生されていた。
セレス・ノアは中央卓へ両手をつき、青白い術式文字の流れを追っていた。白帝領域へ踏み込んだ瞬間だけ、五人全員の視線が同じ一点へ吸い寄せられている。天城レイガ。彼の周囲だけ記録線が密集し、その外側では救助人形の印も、出口の番号も、黒影歩後に倒れたカイの位置さえ薄くなっていた。
記録が消したのではない。記録者である自分たちが見ていなかったのだ。
正確さを自負してきたセレスの指先が冷えた。銀髪が頬へ落ちても払えない。誤差を見つける役の自分が、最も大きな欠落を作っていた。
背後にはカイ、ミナ、リゼット、ガロウが半円に立っていた。カイは帰還前より静かな顔で映像を見上げている。ただし達観した目の下には、連日の模擬戦で消えない疲労があった。ミナは唇を噛み、ガロウは包帯を巻いた右肩を左手で押さえている。リゼットだけは背を伸ばしていたが、閉じた扇を握る指が強張っていた。
セレスは喉の乾きを飲み込んだ。
「結論を言います。私たちは先生に負けたのではありません。先生しか見なくなって、他のものを自分から捨てています」
ガロウの眉間に皺が寄った。
「敵を見ずに戦えってのか」
反発を真っ向から受け、セレスは壁の記録とガロウの顔を交互に見た。
「違います。敵だけを見るな、と言っています。四戦とも、攻撃開始から三呼吸以内に救助人形の記録が途切れています。出口も、仲間の反動もです」
壁へ指を向ける。黒影歩の直後、カイの印が床へ落ちる。すぐ近くにいるはずの四人の視線は、なおレイガへ向いたままだった。
ミナが息を呑んだ。
「私、カイが倒れた音を聞いてから振り向いてる……。見てたつもりだったのに」
ミナの告白が、セレスの胸にも同じ見落としの痛みを呼び起こした。
「私もです」
認めた瞬間、胸が痛んだ。けれど記録は、自尊心を守るためにあるのではない。
扉が開き、レイガが入ってきた。黒い教師服に灰色の外套、鍛えた長身。左眉から頬へ走る傷まで静止画と同じなのに、本人が立つだけで室内の空気が引き締まる。カイが一億年を過ごして帰ってきても、この教師の前では生徒の顔をする。その理由が、セレスには少し分かるようになっていた。
「気づいたなら、次は目を外せ」
レイガは短く告げ、床へ五枚の標識板を置いた。
***
地下第一訓練場には白い霧が満ちていた。中央にレイガ。北西、北東、南西の三出口。床には色の違う標識が十歩間隔で並び、倒れた人形が二体ある。
課題は単純だった。レイガを見ず、床の標識と仲間だけを確認し、二体を南西出口へ運ぶ。攻撃は禁止。黒影歩は一度だけ許可される。
「開始」
白い圧力が広がる。視界の端にいるレイガの存在感だけで、顔を上げたくなる。セレスは術式記録を床へ走らせ、赤い標識と出口番号を重ねた。
「南西まで十八歩。人形一体目は右四歩です」
カイは赤い標識へ目を走らせ、自分の脚で届く距離だけを測った。
「俺が行く。戻ったら座る」
カイは黒い鞘へ手を添えた。ミナが不安そうに彼の膝を見る。
「絶対だよ。格好つけて二歩目、は禁止だからね」
ミナの視線は膝から逸れず、心配を笑いでごまかさなかった。
「分かってる。見ていてくれ」
カイの姿が黒く揺れ、三歩先へ移った。人形の腕を掴むと、彼は約束どおりその場へ腰を下ろした。脚が震えている。だが倒れ込まず、両手を床へついて呼吸を保った。以前は反動に抗って二次転倒していた。今回は自分で止まれた。
セレスはその変化を記録へ刻む。黒影歩C/Lv.2。安全三歩を維持したまま救助対象を掴み、九十秒で戦列へ戻れる。観察窓の教員が思わず記録板を下ろし、「初等部の動きじゃない」と漏らした。ミナは目を輝かせ、ガロウは悔しそうに歯を見せて笑った。
文字列へ集中した、その時だった。
背後で木材が鳴った。ガロウの足元から訓練用の板が外れ、片膝をつく。セレスの術式には記録されている。だから確認した気になっていた。
「セレス、顔を上げて!」
ミナの怒鳴り声が耳を打った。
振り向くと、ガロウの右肩が白壁へ触れかけていた。領域に拘束されれば、負傷が悪化する。セレスは警告文字を出したが、ガロウは床の表示を見られる姿勢ではない。
「記録上は存在します! ……訂正します。表示を見て、本人を見ていませんでした」
白壁の圧が近づくなか、ミナはガロウの肩を見たまま奥歯を噛みしめた。
「出てたって、本人が見えなきゃ意味ないでしょ!」
ミナの声には恐怖と怒りが混じっていた。セレスは反射的に言い返しかけ、口を閉じた。正しい。文字を残すことと、人を助けることは同じではない。
「……私が間違えました。ミナ、現場確認を。私は出口と領域変化を記録します。リゼット、ガロウへ停止条件を」
リゼットが一瞬だけ驚き、それから力強く頷く。
「ガロウ、右肩を動かさないことに同意して」
リゼットは伸ばしかけた手を止め、この状況でも手順を崩さず彼の返答を待った。
「こんな時に確認かよ……同意する!」
青い《蒼律》が彼の視界へ浮かぶ。ミナが左腕を取り、白壁から引き離した。セレスは二系統――出口の変化と仲間の位置――だけに記録対象を絞る。全部を一人で見ようとしない。その選択で、文字の揺れが止まった。
カイは座ったまま人形の腕をガロウへ渡し、通常の歩法で立ち上がる。五人は二体を運び、南西出口を越えた。
終了鐘が鳴る。誰もレイガへ剣を向けなかった。
ミナは肩で息をしながら、セレスを見た。先ほど怒鳴ったことを気にしているのか、栗色の目が揺れている。
「ごめん。私、きつく言った」
伏せかけたミナの顔を、セレスは今度こそ記録板越しでなく見つめた。
「謝らないでください。あなたが怒ってくれなければ、私は記録の中でガロウを見落としていました」
言葉にすると情けなさで頬が熱くなった。それでも逃げずにミナを見る。
「次も、私が文字しか見ていなければ呼んでください」
記録板を下ろした手のそばへ、ミナが小さく指先を近づけた。
「うん。私も、見えてない時は言って」
二人の間に残っていた硬さが、少しだけほどけた。
レイガは南西出口の前で腕を組んでいた。
「次の模擬戦から、私を倒せば勝ちという条件を外す。何をもって勝ちとするか、お前たちで決めろ」
答えを渡されないことが、今までより怖かった。けれどセレスは、その怖さを記録から消さなかった。
訓練後、五人は記録室へ戻った。セレスは成功した一戦だけを中央へ映し、失敗した四戦を消そうとして手を止めた。成功だけ残せば、次に同じ視線固定が起きた時、原因を比較できない。
「失敗も残します。私がガロウを見落とした時刻と、ミナが声を上げた時刻も」
消されずに残る失敗の列へ、ガロウは落ち着かない目を向けた。
「そこまで書くのかよ」
ガロウは気まずそうに包帯を直した。
「書きます。羞恥による筆圧上昇はありますが、可読性に問題はありません。失敗時刻まで残します」
カイが壁の五つの視線線を見上げた。
「七界では、ずっと敵を見ていればよかった。でも現世では、俺が目を外す間も仲間が見てくれる。逆も同じだと分かった」
五本の視線線が同じ場所で重なるのを見て、セレスはその実感に条件を添えた。
「はい。ただし誰が何を見るか、先に決めなければ全員が同じ物を見ます」
セレスは新しい記録欄を三つ作った。敵、退路、仲間。担当名を入れると、昨日まで一本へ重なっていた視線が役割ごとに分かれた。
ミナは「次は怒鳴る前に名前を呼ぶ」と書き足した。リゼットは「指示を出す前に報告者を確認」。ガロウは少し迷い、「痛い時は痛いと言う」と乱れた字で記した。
最後にカイが、「黒影歩後は自分で着座し、返事をする」と記す。
強くなる記録は、勝った回数だけではない。見落とした事実を全員で持ち帰ったことが、今日のもう一つの成長だった。
その記録を、カイは今度こそ一人で抱え込まなかった。
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:七紋人
個体ランク:B
レベル:Lv.5
HP:254/254(ランクB)
魔力:286/286(ランクB)
攻撃:98(ランクB)
防御:87(ランクB)
速度:116(ランクB)
技能:基本剣術(ランクB・Lv.6)/黒影歩(ランクB・Lv.5)/迅雷駆(ランクC・Lv.1)/蒼天鎧(ランクD・Lv.1)/虚空掌握(ランクD・Lv.1)
状態:通常安全出力B・条件付き上限Aへ到達。ただし長期高出力と三技能同時使用は不可。




