第29話 三歩の代償
黒影歩の使用地点は、地下第一訓練場の南側、開始線の中央に定められていた。
移動先は二十歩先に立つ天城レイガの背後。より正確には、《白帝領域》の障壁が重なる際、一呼吸だけ生じる北東側の死角だった。
床には開始地点を示す黒い円と、移動先候補を示す白い円が描かれている。二つの円の間には中央標的があり、その左右を透明な安全障壁が囲んでいた。
四方の出口は開放されている。
北門には担架を持った医療担当者が二人。
東門には学園監査官と、身体数値を読む測定板。
西門側にはミナ、セレス、リゼット、ガロウが退避線の外で待機している。
監視役の中心はレイガだった。
黒い教師服の上から灰色の外套を羽織り、移動先の白い円から半歩前に立っている。カイが予定位置を外れた場合も、剣を停止できなかった場合も、レイガが《白帝領域》で拘束する。
「試験内容を確認する」
レイガの声が、まだ霧のない訓練場へ通った。
「夜凪。黒影歩三歩、一組のみ。移動先は私の背後。到達後は基本剣術を一振り、自力停止」
カイは訓練用の木剣を握り、頷いた。
「はい」
カイの返事を確認したレイガは、背後三歩と一振りの後に引かれた停止線を木剣で示した。
「目標は有効打ではない。移動後も身体を制御できるかの確認だ。私へ剣を届かせようとして安全停止を失うな」
カイはレイガの背ではなく、三歩目の着地位置へ目を置き、停止を優先する言葉に組み直した。
「移動より、移動後の停止を優先します」
答えながら、カイは自分の両脚へ意識を向けた。
昨日までの疲労は残っていない。医療担当者の検査でも、筋肉と腱に重大な損傷は確認されなかった。
それでも、黒影歩を使った後に何が起きるかは分かっている。
帰還直後、落下する石梁から仲間を救ったとき、カイは安全三歩を使った。複数技能まで接続したため最後にはレイガの肩を借りたが、黒影歩だけならどこまで戦闘へつなげられるかは、まだ測れていない。
今回は、反動を推測で終わらせないための試験だった。
医療担当者が測定板を読み上げる。
「事前予測を記録します。黒影歩三歩の使用後、両脚に一時的な筋出力低下が発生。全力歩行を制限すべき時間は、およそ九十秒」
九十秒。
技能を使う時間は一瞬だ。
その一瞬のために、九十秒間は全力で戦えなくなる。
監査官が東門から問いかけた。
「予測を超えて筋出力低下が継続した場合は?」
レイガが医療塔へ続く通路を顎で示すと、医療担当者は搬送用の白い担架へ手を掛けた。
「直ちに医療塔へ搬送します」
医療担当者が答える。
「右脚または左脚の感覚消失、強い痙攣、腱損傷の兆候が確認された場合は、九十秒を待たず試験を終了します」
レイガは西門側へ視線を向けた。
「待機役も確認しろ」
セレスが銀の記録杖を上げる。
「私は発動時刻、到達位置、反動開始、脚部出力の回復時刻を記録します」
ガロウは固定帯の残る右肩を左手で押さえたまま言った。
「俺は退避線の外から見る。それ以上はするなと言われてる」
固定帯の上から右肩を押さえるガロウを見て、リゼットは組んだ指をほどき念を押した。
「実際、それ以上はなさらないでくださいませ」
リゼットが釘を刺す。
彼女はミナの隣に立ち、青い術式腕輪へ指を添えた。
「ミナが退避線を越えようとした場合、事前同意に基づいて《蒼律》の『停止』を表示します」
ミナは不満そうに唇を尖らせた。
「分かってるよ。勝手に走らない」
勝手に走らないと言い切ったミナの爪が、先ほどの不安を隠すように袖口へ食い込んだ。
「先ほどの確認では、夜凪君が倒れた場合に限って自信がないと答えましたわ」
カイが倒れた場面を想像しただけで、ミナの指先から退避線の内側へ火花が一粒飛んだ。
「だって、倒れたら行きたくなるでしょ」
行きたくなる自分を否定できず、ミナは火花の出た手を青い腕輪のある袖へ引き込んだ。
「だから同意したのでしょう」
同意の意味を突きつけられ、ミナは赤い髪を耳へかけて退避線から足を引いた。
「……うん」
ミナは青い腕輪へ触れた。
「カイが倒れても、救護の邪魔になる場所へは入らない。《蒼律》の『停止』が出たら、自分で止まる。同意します」
リゼットが頷く。
カイはそのやり取りを聞きながら、胸の奥が少し重くなるのを感じた。
自分が一歩を使うだけで、これほど多くの準備が必要になる。
監視役。
救護役。
記録役。
二次事故を防ぐ役。
一億年をかけて習得した歩法は、七界では呼吸と同じように使っていた。距離を詰め、攻撃を避け、崩れる世界から抜け出すため、何度使ったかも覚えていない。
今は三歩一組だけ。
それでも、皆が自分の失敗に備えている。
羞恥に似た感覚が、試験前から胸に混じった。
だが、逃げる理由にはしなかった。
危険だから訓練を受けたい。
評議室で自分が口にした言葉を、カイは思い出した。
危険性を知るには、使った後まで測らなければならない。
「準備はいいか」
レイガが尋ねる。
「はい」
カイは木剣を右手に持ち、開始地点の黒い円へ入った。
足を肩幅に開く。
膝を深く曲げない。
黒影歩は、脚力だけで速く移動する技能ではない。
重心が移る直前の一点を捉え、影と影の間に生じる最短距離へ身体を滑り込ませる。七界で完成させた本来の黒影歩なら、相手が移動を認識するより早く、連続して死角を渡ることができる。
今は三歩一組だけ。
開始地点から、レイガの背後まで。
それ以外の経路は捨てる。
白い光が床を覆い始めた。
《白帝領域》。
音の位置がずれ、レイガまでの距離が長く見える。
正面に立っているはずの教師の輪郭が、白い霧の中で左右へ揺れた。
カイは見えている位置を追わなかった。
昨日までに観察した領域の切り替わりを待つ。
中央標的の右側へ障壁が生まれる。
同時に、北東側の光がわずかに薄くなる。
死角が開いた。
「開始」
レイガの声がした。
カイは一歩目を踏み、二歩目で白い偽距離を抜け、三歩目でレイガの背後へ滑り込んだ。
「《黒影歩》」
床を蹴った感覚はなかった。
身体が前へ進んだのでもない。
開始地点の影が足元から消え、次の瞬間にはレイガの背後にある白い円が視界の下へ現れた。
風が遅れて頬を撫でる。
距離が一歩の中へ折り畳まれ、カイの身体だけが障壁の死角を抜けていた。
成功した。
レイガの背中が、木剣を伸ばせば届く位置にある。
灰色の外套の縫い目まで見える。
七界で何度も味わった、相手の認識より先に位置を奪う感覚が戻ってきた。
胸が高鳴る。
一億年の技は、消えていない。
この身体でも、一歩なら再現できる。
高揚が全身へ広がった。
カイは木剣を構えようとした。
短い一撃。
振り下ろし、胸の高さで停止する。
基本剣術D/Lv.6として、重圧下でも何度も成功した動作だった。
だが、三歩分の反動で右足の踏ん張りが半拍遅れた。
足裏の感覚が急に薄くなる。
続いて左膝から力が抜けた。
木剣を振るどころか、構えへ入るための重心を保てない。
身体が傾く。
保存された技量は、次に行うべき動作を正確に示していた。
右肩を下げる。
左足を半歩引く。
倒れる勢いを回転へ変え、低い位置から木剣を返す。
すべて分かる。
すべて間に合う。
七界の身体なら。
今の脚は三歩を通した反動で重い。それでも、立位と剣の停止は保っていた。
膝が床へ落ちる前に、白い拘束帯が腰と右手首へ巻きついた。
レイガは振り向かなかった。
背中をカイへ向けたまま、右手の指をわずかに動かしただけだった。
木剣を持つ腕が停止する。
カイの身体は床へ打ちつけられず、片膝をついた位置で支えられた。
「終了」
レイガの声が近くで響く。
木剣は振り切られた。普通の生徒なら反応できない速度だったが、レイガは振り向きもせず二本の指で剣身を止めた。
有効打はゼロ。レイガには、なお届かない。
観察窓では監査官が立ち上がっていた。「見えなかった」と誰かが漏らし、ガロウは悔しさより先に笑った。レイガへ完敗した事実と、生徒の水準を明らかに逸脱した事実は両立していた。
白い霧が薄れる。
カイは拘束された姿勢のまま、自分の脚へ力を送った。
動かない。
痛みはなかった。
傷ついた感覚もない。
ただ、脚が自分の身体から外れたように、立つための力だけが消えていた。
「カイ!」
西門側からミナの声がした。
退避線を越えようとする足音が響く。
その直後、蒼い文字が彼女の前へ現れた。
――停止。
リゼットの《蒼律》。
事前に同意した条件だった。
ミナの右足が、退避線の直前で止まる。
身体は前へ傾いたが、自分の意思で左足を引き、線の外側へ戻った。
「でも、カイが……!」
ミナの爪先が退避線へ寄るより先に、リゼットはすでに動いた救護担当者を指した。
「救護担当者が動いていますわ」
リゼットの声も硬かった。
「私たちが入れば、先生が管理する対象が増えます。今は止まってくださいませ」
止まれと言われたミナの袖口から火の粉がこぼれたが、爪先は退避線の手前に残った。
「分かってる。分かってるけど……」
ミナは両手を強く握り、退避線の外に留まった。
二次事故は起きなかった。
カイは安堵するべきだった。
それでも、胸の奥には強い無力感が残った。
レイガの背後を取った。
保存された技量は、確かに相手へ届いていた。
なのに、剣を一度も振れなかった。
一歩を成功させたという事実より、その後に何もできなかったことのほうが重い。
皆が見ている。
監査官も、医療担当者も、仲間たちも。
一億年修行したと知られている自分が、一歩移動しただけで立てなくなっている。
頬が熱くなった。
木剣を握った右手を、隠したくなる。
医療担当者が北門から駆け寄り、カイの両脚へ測定環を当てた。
「筋断裂なし。腱の損傷なし。神経応答あり。魔力経路に一時的な出力低下を確認」
医療担当者の神経応答ありという判定を拾い、カイは痺れる足指を動かして立てる証拠にしようとした。
「立てます」
カイは反射的に言った。
レイガがようやく振り返る。
傷のある顔に怒りはなかった。
「立ってみろ」
拘束が腰から外れる。
カイは木剣を床へつき、腕の力で身体を持ち上げようとした。
両脚へ力を込める。
膝が一瞬伸びる。
次の瞬間には崩れた。
医療担当者が肩を支え、床へ倒れることだけは防ぐ。
「脚部出力、通常時の四十二パーセント。自力歩行は可能ですが、九十秒間の戦闘継続は禁止です」
測定板へ記録が入る。
「念のため担架を待機させます」
担架の車輪が床を擦る音に、カイは座位を保てると示そうとして背を起こした。
「必要ありません。ここで座って待てます」
担架を断った直後、カイの膝が内側へ揺れ、結界灯の影が腰の傾きを大きく映した。
「待機中に体勢が崩れれば、腕や腰を傷めます」
腕や腰まで傷めると言われても、カイの指は寝台の縁を掴んだまま離れなかった。
「でも――」
言葉が続かなかった。
保護されるのが嫌なのではない。
皆に運ばれる姿を見られるのが恥ずかしかった。
戦えるのに止まると認めることが、黒影歩を失敗するより苦しい。
レイガがカイを見下ろす。
「夜凪。試験の目的を言え」
九十秒の計測板を向けられ、カイは背後三歩より後に残る反動を試験項目として言い直した。
「黒影歩の使用後まで、反動を測ることです」
目的を口にしたカイの両脚はまだ震えている。その震え自体をレイガは試験の続きとして見ていた。
「なら、今からが試験だ」
カイは息を止めた。
黒影歩を使った瞬間だけが試験ではない。
まだ歩けても戦闘停止が必要な自分を、どう扱うか。
誰に助けを求め、誰の記録を受け入れるか。
それも含めて、一歩の代償を知るための試験だった。
カイは木剣から手を離した。
「……規定どおり、ここで停止します。担架は待機のままでお願いします」
医療担当者が頷く。
カイは二人が支えられる位置で、その場へ腰を下ろした。担架は横に置かれたままだ。
天井が見える。
仲間たちの足音が、退避線の外から近づいてくる。
今度はレイガが止めなかった。
ミナがカイの右側へ来る。
泣いてはいなかったが、赤茶色の髪の下で眉が強く寄っている。
「九十秒、きちんと測るから」
九十秒を測り切る約束が出ると、ミナは退避線で握り続けた袖をようやく放した。
「うん」
カイの返事を聞いても、ミナは掌に残る火花の熱と測定板の四十二パーセントを見比べた。
「九分で立てそうでも、勝手に立たないで」
勝手に立たないという約束を受け、セレスの筆圧が「停止継続」の欄でわずかに緩んだ。
「分かった」
セレスは前回破られた停止時刻の欄をカイにも見える位置へ引き寄せ、返事だけでは記録しなかった。
「本当に?」
セレスが念を押した後も筆先は新しい約束欄へ触れず、カイが自分から期限を示すのを待った。
「今度は守る」
セレスはカイの左側で記録杖を構えた。
「反動開始時刻を、黒影歩発動直後として記録します。現在、十八秒です」
ガロウはカイの足元側へ立ち、重く震える両脚を見た。
「三歩でレイガ先生の背後を取って、まだ立てるのか」
ガロウに足元を見られ、カイは窓へ映る両脚の震えを隠せないまま頷いた。
「うん」
返事だけは平らなカイの顔と、支えを求める膝の動きが噛み合わず、ガロウの眉が寄った。
「俺より無茶が顔に出ねえ。厄介だ」
無茶が顔へ出ないという指摘を受け、レイガは四十二パーセントを示す測定板へ指を置いた。
「見た目で分からないから、正式に測る必要があった」
倒れた後にも数値を説明するカイを見下ろし、ガロウは使えない右腕ごと胸元へ抱え込んだ。
「それを倒れてから冷静に言うな」
ガロウの声には呆れがあったが、責める響きはなかった。
リゼットはミナの青い腕輪を解除してから、カイへ視線を向けた。
「先ほどの《蒼律》は、あなたではなくミナを止めるために使いました」
退避線で止まったミナの火花を見て、カイは救護対象を増やさずに済んだ意味を理解した。
「ありがとう。ミナが入ってきたら、先生が二人を止める必要があった」
礼を受けたリゼットは咳払いを飲み込み、退避線を越えなかったミナの足元へ視線を送った。
「礼を言う相手が違いますわ。止まったのは、同意した条件を守ったミナです。……こほん。私の表示も、少しは役に立ちましたけれど」
カイはミナを見る。
「ありがとう」
ミナは少しだけ頬を膨らませた。
「行きたかった! 今も抱えて医療塔まで走りたい! でも、止まった」
走りたい衝動まで告白したミナが胸元の手をほどくと、青い腕輪は退避線の外側に残っていた。
「うん」
ミナはまだ震えるカイの膝を指し、追撃せず九十秒へ入った選択を自分の停止と並べた。
「カイも、まだ戦えそうでも止まった」
その言葉に、胸の奥の羞恥が少しだけ軽くなった。
誰も、立てない自分を笑っていない。
弱いと責めてもいない。
皆が、九十秒を一緒に測ろうとしている。
五分を過ぎた頃、足先に温度が戻り始めた。
六分三十秒で、右足の指が動く。
六十秒で、左足首の震えが収まった。
セレスが一つずつ時間を記録する。
七十二秒。
膝へ力を入れると、脚部出力が規定値まで戻っていた。
ミナが身を乗り出す。
「もう立てそう?」
ミナに立てるか問われ、カイは足指の感覚を一つずつ確かめてから寝台へ腰を残した。
「まだ立たない」
自分で答えられた。
九分三十秒。
両脚の感覚がほぼ戻る。
それでも、カイは起き上がらなかった。
医療担当者の許可を待つ。
九十秒を示す記録音が鳴った。
「反動開始から九十秒」
セレスが告げる。
医療担当者が両脚を再測定した。
「筋出力、基準値まで回復。座位へ移行してください」
カイは上体を起こす。
レイガと医療担当者が左右に立ち、倒れた場合に支えられる位置を取った。
座っていた床からゆっくり立ち上がる。
冷たい感触が足裏へ伝わる。
ゆっくり立ち上がる。
膝は震えたが、今度は崩れなかった。
一歩。
通常の歩法で前へ出る。
停止する。
歩けた。
大きく息を吐くと、胸に安堵が広がった。
黒影歩の保存技量は変わっていない。
それでも現世の身体は、安全三歩から剣撃までをつなぎ、九十秒で戦闘可能域へ戻った。
有効打は与えられなかった。相手がレイガでなければ、という監査官の呟きだけが、試験の異常さを示していた。
何より、その九十秒を一人で隠さずに済んだ。
監査官が東門から歩み寄る。
銀縁眼鏡の奥の視線が、カイの歩行記録と移動距離を確認する。
「黒影歩による移動自体は、予定地点の誤差内です」
レイガが答える。
「安全三歩と剣撃接続の再現は成功した」
予定地点の印と剣撃痕を結ぶ記録線の先で、脚部出力の曲線だけが急落していた。
「しかし、使用直後に戦闘継続能力を完全に失っています」
監査官が指した四十二パーセントの数値を、レイガは成功記録と同じ板へ残していた。
「それも記録した」
監査官は数値板を閉じた。
「三歩で背後を取り、剣撃まで接続できる。生徒の技能としては十分すぎるほど危険です」
訓練場に残っていた安堵が、わずかに冷える。
監査官は評議会へ提出する提案欄を開いた。
「監査部は、黒影歩の学園内使用を全面禁止とするよう提案します」
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:七紋人
個体ランク:C
レベル:Lv.5
HP:172/176(ランクC)
魔力:158/164(ランクC)
攻撃:62(ランクC)
防御:54(ランクC)
速度:72(ランクC)
技能:基本剣術(ランクC・Lv.3)/黒影歩(ランクC・Lv.2)/迅雷駆(ランクD・Lv.1)
状態:レイガの集中同調修行中。格上には届かず、複数技能の同時使用は不可。




