第13話 万鏡罪都のユラギ
【鏡罪王ユラギ視点】
万鏡罪都のすべての鏡が、次の客を先に映していた。
濡れた石畳には、まだ到着していない少年が何万通りも立っている。強さに酔う夜凪カイ。失敗を隠す夜凪カイ。嫌われるのを恐れ、相手が望む言葉だけを返す夜凪カイ。そのどれも起こり得る未来であり、本人そのものではない。
鏡の門に腰かけたユラギは、指先で一枚ずつ像を消した。
「一億の失敗より、たった一度の拒絶の方が、この子には難しいでしょうね」
力を返すだけなら、長い反復で覚えられる。だが他人の感情を勝手に決めつけず、拒絶される怖さに耐えて本人へ確かめることは、技術では代われない。そこを越えなければ、少年は守りたい者の力さえ自分の都合で利用する。
雷光が石畳へ落ちた。ユラギは笑みを作り、未来を映す鏡を閉じた。ここから先は、少年自身に選ばせなければ意味がない。
*
【夜凪カイ視点】
万鏡罪都へ投げ出された夜凪カイは、濡れた石畳の中央で立ち尽くしていた。
雷葬天原を越えた身体に傷はないが、加速を三度使ったあとの痙攣は身体記憶へ残っている。第一技法《黒影歩》は一歩、第二技法《迅雷駆》は三回まで。それ以上は自分の位置か軸を失う。
今度の目的は、力を止めるのではなく扱う基礎を得て、第三の世界を通過することだった。
都市にはカイしかいない。
そう思ったのは一呼吸だけだった。通りの両側に並ぶ鏡、尖塔の窓、雨水の溜まった石畳にまで、別々のカイが映っている。逃げた自分。仲間を見捨てた自分。力を得て笑いながら剣を振るう自分。鏡像たちは口を動かすのに、声は聞こえない。
湿った空気には香油の甘い匂いがあり、どこかで細い鈴が鳴っていた。建物の角がすべて反射するため、道の奥行きがつかめない。一歩進むだけで、自分が百方向へ分裂したように目眩がした。
「どれが本物だと思う?」
艶のある声が頭上から降った。
鏡の門の縁へ、一人の人物が腰かけている。銀紫の長髪が腰まで流れ、白と黒を重ねた衣の裾が雨にも濡れず揺れていた。顔の右半分を鏡面の仮面が隠し、露出した左目だけが楽しそうに細められている。男とも女とも決められないほど整った顔に見下ろされ、カイは心臓が跳ねたことを恥じて目を逸らした。
美しい。けれど近づけば、自分が何を隠しているかまで見抜かれそうで怖い。
「あなたが、三人目の師ですか」
順番だけで相手を見た自分へ気づく前に、鏡の人物は微笑みを深めた。
「名も聞かずに順番で呼ぶの?」
柔らかな微笑みのまま、人物の姿が消えた。次の瞬間、カイの右腕が背中側へねじ上げられ、石畳へ頬を押しつけられていた。
「すみません。先に名を伺うべきでした」
頬を石畳へ押しつけられたまま、カイは鏡ではなく彼女の影へ視線を向ける。
「謝る前に相手を見る。鏡罪王ユラギ。あなたの名、帰る場所、守りたい者を、鏡ではなく私の目へ答えなさい」
カイは赤くなった顔を上げ、名、帰る場所、守りたい者を答えた。ユラギの目を見続けることはできなかったが、少なくとも鏡へ逃げずに言い終えた。
直後、一億体の鏡像が一斉に剣を抜いた。
課題は、鏡像を一体も倒さず、都市中央の門へ着くこと。鏡を砕けば破片一枚ごとに新たなカイが増える。黒影歩で死角へ入れば、同じ判断をした鏡像が先回りした。迅雷駆で抜ければ、同じ速度の自分と正面衝突した。
「技を覚えるたび、考え方が単純になるのね」
無数の鏡像が同じ構えを取り、カイ自身の癖を突きつけてくる。
「言い方は痛いです。でも、力比べじゃ勝てない。それは分かりました」
悔しさで剣を握り直す指を、ユラギは見逃さなかった。
「悔しいなら、力比べをやめなさい。相手の力は相手に持たせたまま、行き先だけ変えるの」
ユラギは、カイの全力の斬撃へ指一本を添えた。剣の腹へ触れ、重心を半寸ずらす。カイは自分の勢いで鏡壁へ飛び込み、全身を砕いた。
訓練は力点を感じることから始まった。丸太、岩、濁流、巨大な鏡像。正面から受ければ骨が砕ける。触れるのが早ければ軌道は変わらず、遅ければ刃が肉へ入る。
都市を歩く訓練では、鏡像たちがカイの声で助言をした。
『右へ行け。そちらが正しい』
『ユラギはお前を試して楽しんでいるだけだ』
『謝れば、きっと攻撃をやめてくれる』
どれもカイ自身が考えそうな言葉だった。最初は一つずつ反論し、別の鏡像に背中を刺された。次は全部を無視しようとして、足元の本物の亀裂まで見落とした。
「声が正しいかではなく、今の目的に必要かを見なさい」
ユラギは鏡越しにしか答えない。カイは中央門の位置、足場の安全、攻撃の重心だけを選び、残りの声を聞いたまま進む練習をした。嫌な言葉を消すのではない。聞こえても、判断を渡さない。その区別には、剣を千回振るより長い時間がかかった。
次に、目隠しをした両手へ百本の細い糸を結ばれた。糸の先では重さも速さも違う鉄球が飛び交う。一本でも切れば最初からだった。
カイは掌で止めようとして指を失った。鉄球同士をぶつけて糸を切った。指、手首、肘、肩へ衝撃を順に逃がし、互いの軌道が触れない空白へ返すまで、一本につき千年を費やした。
百万年後、一撃を逸らした背中を二撃目が貫いた。一千万年後、千の攻撃を返したが、返した刃が別の鏡を砕き、敵を倍にした。
「勝つことしか見えていない」
ユラギの声から笑いが消えた。
「あなたは何のために進むの?」
責められると、今も胸が縮む。正しい答えを探し、相手の機嫌を先に見てしまう。カイは膝をついたまま、濡れた自分の手を見た。
「帰るためです。強くなって、ミナたちの隣に立つ。その目的に、ここで全部へ勝つことは必要ありません」
言い切ったつもりでも語尾に迷いが残り、ユラギの瞳がそこだけを捉えた。
「思います?」
問い返されて、カイは誰かの許可を待つ癖ごと息を吐いた。
「勝つ必要は、ありません」
声は小さかった。それでも言い直した。
「ようやく及第点」
長い反復の果て、ミナの姿をした鏡像が現れた。
『助けてくれなかったくせに』
聞き慣れた声で責められ、カイの指が止まる。その隙に胸を刺された。次は言い訳をしようとして喉を斬られた。三度目、カイは震える声で答えた。
「本物のミナがそう思っているかは、本人に聞きます。だから、あなたの言葉だけで決めません」
剣を受けず、側面へ触れる。攻撃の重心を地面へ流し、鏡像を傷つけずに膝をつかせた。
それは技術だけでなく、関係の選び方を変える試験だった。帰ったら、相手の気持ちを勝手に推測して逃げず、聞く。その責任が第三技法へ加わった。
一千五百万年目、その拒絶を口にした直後、ユラギ自身が都市を沈める巨大剣を振り下ろした。言葉だけでなく、相手を傷つけずに境界を守れるかを確かめる一撃だった。逃げれば中央門が壊れる。受ければカイが潰れる。力をそのまま返せばユラギを斬る。
カイは剣を捨て、巨大剣の側面へ両掌を添えた。刃の向き、ユラギの肩、踏み込む足、都市へ落ちる重心。一点で繋がる瞬間まで待つ。
怖さに負けて早く触れ、一万回潰れた。ユラギを傷つけることを恐れて遅れ、一万回門を失った。
最後の一度、カイは相手の目を見た。
触れる。
力を止めず、壊さず、地面と平行へ反転する。巨大剣は都市の上を滑り、鏡の空だけを真っ二つにした。反動で両腕の骨が粉々になったが、門もユラギも残った。
「第三技法、《鏡砕返し》」
【技能獲得】
名称:鏡砕返し
未獲得 -> C/Lv.1
できること:触れて重心を読めた一撃を受け止めず、一方向へ全量返す。
制約:二方向以上は同時に扱えず、返した先の安全確認も自分で担う。
【技法成長記録】
返流可能な力:0割 -> 10割 (+10割)
同時に制御できる力の方向:0方向 -> 1方向 (+1方向)
触れて重心を読めた一撃なら、受け止めずに全量を別方向へ返せるようになった。ただし二方向以上の力を同時には扱えず、返した先の安全確認も自分で担わなければならない。
ユラギは再生したカイの額を指で弾いた。
「綺麗。でも限界を忘れないで。返せるのは、触れて重心を読めた一方向だけ。複数を扱えば、返した先まで見失う」
その直後、百本の矢が三体の人形へ放たれた。カイは全てを返そうとせず、三本だけを選び、その三本で残りの矢の軌道を乱した。人形は無傷だったが、両手首は腫れ、木剣を握れなくなった。
ユラギは落ちた木剣を拾い、カイへすぐ返さなかった。勝手に差し出せば、少年は痛みを隠して握ると知っていたからだ。カイは迷った末、「治るまで持っていてください」と頼んだ。助けを求めるその一言も、鏡に映らない小さな変化だった。
「他人は鏡じゃないわ。帰ったら、ちゃんと本人を見なさい」
都市を出る前、ユラギは鏡ではなく本人へ問いかけた。名と、戻りたい場所と、そこで最初に確かめたいこと。カイは小さな声で、「ミナが本当はどう思っていたのか、俺から聞きます」と答えた。無数の失敗像は封蔵記憶へ、力点を読む指の感覚は身体記憶へ、ユラギの片目に浮かんだ安堵は索引記憶へ収まった。
鏡が赤熱し、都市は巨大な炉へ溶け落ちる。熱風に触れた瞬間、カイの両腕から煙が上がった。
相手の重心を読む感覚が鋭くなり、危険の兆しを以前より早く拾えるようになった。だが二つの攻撃経路を同時に追おうとした途端、判断が衝突して膝をつく。得たのは広い視野ではない。一方向を正確に選ぶ技法と、複数を欲張れば破綻するという身体記憶だった。
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:基底人族
個体ランク:G
レベル:Lv.13
HP:1/18(ランクG)
魔力:1/10(ランクG)
攻撃:4(ランクG)
防御:3(ランクG)
速度:5(ランクG)
技能:基本剣術(ランクG・Lv.1)
状態:入学候補・未登録。現世の基礎鍛錬段階で、七技法は未修得。




