生霊
「…怪我はなかった?」
「…はい…」
駅の外は暗闇の中、ぽつりぽつりと雨が降り出していた。香月に支えられながら待機していた堀越の車に乗り込んだ晶は、香月の問いかけに震える声で答えると、詰めていた息を細く吐く。
やがて動き出した車内には、低いエンジン音と窓に当たる雨粒の音だけが聞こえていた。
先ほどからずっと身体の震えが収まらず、死を目前にした恐怖がまだその身に巣食っていた晶は、自分自身を抱くようにしてシートの背もたれに身を沈める。すると香月が気遣うような視線を向けた。
それに大丈夫だと笑顔で応えようとするが、顔が強張って上手く笑えない。そんな晶の様子を見て眉を顰めた香月は、顔を俯かせると「すまない…」と呟いた。
「…あの時、僕は離れた場所で君の周りを注視していた。けど、大勢の人が入り混じる電車のホームは人じゃないものも多く存在していて、どれが君に悪意を持っているのか特定に時間がかかってしまった。…そんな中、君が誰かと話し始めた途端に明確な悪意が膨らんで、それまで存在していなかった霊体がいきなり君の近くに現れた。危ないと思った時には、もう君が突き飛ばされていたんだ」
「そう、だったんですね…私も、まさかこんなことが起こるなんて、思いませんでした…」
突き飛ばされる寸前、晶はあの刺すような視線を間近で感じた。それが香月の言う明確な悪意というものなら、今回のことは通りすがりの気まぐれな霊の仕業などではなく、確実に晶を狙ったものだということになる。
晶は思わず自身の腕を掴む指に力を入れる。一体誰が何のために自分を狙うのか。得体の知れない恐怖にぎゅっと目を瞑り、さらに身を固くすると、何かひんやりしたものが背中に触れた。
目を開けると、香月が無表情で晶のことを見つめながら、その手で晶の背中を擦っていた。
「…あんな大口を叩いた後だったのに、僕はまた君に怖い思いをさせてしまった。今までこんなに自分に腹を立てたことはなかったよ」
いつもの瑠璃色ではなく黒茶色の瞳は、何の感情も写していないように見える。しかしよく見ればそこに仄暗くもチリチリとした怒りの色が見えた気がして、晶は慌てて首を振る。
「そんな!私が狙われているのは香月さんのせいじゃないですし、そこまで気に病まないでください!…それに、今こうして私のこと慰めてくれているのだって、守ってくれているのと同じです」
背中を擦る彼の手に慰められるのは、もう何度目だろう。その度に晶は、もう一人で恐怖と戦わなくて良いのだと安心できた。今だってそのおかげで先ほどよりも大分震えが収まってきている。
そのことに感謝を込めて、晶はぎこちなくも口角を上げて笑顔を見せる。先ほどよりもマシになっただろうかと思っていると、香月は真顔でぐっと何かを飲み込んだような表情を見せて、晶から顔を背ける。
「…でも、実際に君を助けたのは別の人間だ。彼は君の知り合い?」
「え…宮代先輩ですか?先輩は同じ体育祭実行委員の委員長なので、最近よく関わるようになったんですが…それよりも前に、香月さんが留守の間に助けてもらったことがあって…」
その言葉に香月は少しだけ目を瞠り、手の動きを止める。
「…もしかして、静野さんが襲われそうになった時の?」
「はい。あ、そういえば香月さんもお祭りの時に少しだけ会ったことがありましたね!あの時の彼です。まさか同じ学校の先輩だったなんて驚きでしたけど」
宮代と偶然夏祭りで再会したとき、香月は確か面を付けていた。宮代は香月を晶の彼氏と勘違いしたようだが、香月の顔を見ていればそんな勘違いはしなかっただろうと今更ながら思う。
「……そうだったかな。彼のことはよく覚えていないけど、静野さんの浴衣姿が眩しかったことはよく覚えているよ」
「へっ!?」
いきなり何を言い出すのか。思わぬ言葉に晶が驚いて顔を赤くすると、その様子を見た香月はやっと表情を改め、いつものように柔らかく微笑んだ。かと思えば途端にその笑顔は甘く妖艶な香りを放つ薔薇のようなものに変わる。
「…また見たいな。君の浴衣姿」
(ふぉあぁぁぁぁ!?それはこっちのセリフなんですけどぉぉぉ!!??)
あの時の香月の色気垂れ流しの浴衣姿を思い出すと、今でも鼻血が出そうになる。それくらいの破壊力があった。正直飛んだ。ぶっ飛んだ。意識が。
晶が何も言えずに真っ赤な顔であわあわしていると、香月は満足そうに口角を上げた後、ふと真剣な顔に戻って切り出した。
「それはまた別の機会にお願いするとして、静野さんの顔色が戻ったところで本題に移ろう。今回、君を襲った霊のことだけど…僕の見たところ、あれは『生霊』の可能性が高い」
「い、『生霊』?それって…何ですか?」
晶の問いに、香月は長い脚を組んで膝の上に片肘をつき、その手に顎を乗せて思案するように話し始める。
「…生霊とは、生きている人間の魂が体から抜け出し、他者へ取り憑く現象やその霊体のことを言うんだ。強い執着や怨み、あるいは愛情が原因で発生すると言われている。時には死霊よりも力が強くて、取り憑かれた相手に病気や精神的不調、不幸をもたらすことがあるとされる―――今回の霊はそれまで実体のなかった所に突然現れて、確実に君を狙った。そのことを考えると、生霊の可能性が高い気がする」
「それってつまり…強い執着や恨みを抱いた、生きている人間の仕業ってことですか?」
「そう。昨日話した『呪い』が具現化したようなものだね。生霊はその恨みを抱いている人間の強い思念から生まれるものだから、解決するにはその人間をどうにかすればいい。…ただ厄介なのは、生霊はそれを飛ばした本人が無意識の場合が多いんだ」
「え…自分の意思とは関係なく、魂を相手に飛ばしちゃうんですか?」
「そう。ただこの場合、飛ばすのは自身の魂そのものではなくて、思念の塊だという説もある。まぁどちらにしても強い思念を持つ人物の仕業なんだ。…静野さんは心当たりがないと言っていたけど、視線を感じるようになったのは学校に行き始めてからだよね?だとすると、学校関係者で最近になって関わった人物が怪しいと思う」
「最近になって…」
その言葉に、真っ先に思い付いたのは宮代のことだ。新学期に入って関わり始めたといったらやはり彼か、あるいはその周りにいる人間。宮代が生霊を飛ばすほど晶のことを恨んでいるとは考え難いが、だとすると―――
「生霊を飛ばすというのは、本人の気付かないところでかなりのエネルギーを消費する。もし周りに目に見えて疲れていたり、体調が悪そうな人間がいれば疑ってもいいかもしれない。とにかく、静野さんの身の安全を考えるなら生霊を飛ばしている人物の特定を急ぐべきだ。タマの守りがあるとはいえ、不意を突かれたらそれも効かない可能性があるからね」
「なるほど…。分かりました!自分の身を守るためにも、色々探ってみます」
調子を取り戻した晶は、香月のアドバイスを受けて両手をグッと握りやる気を見せる。それを見て、香月は心配そうに眉を顰めた。
「僕も出来る限り力になるけど、危ない橋は絶対に渡らないようにね。何かあればすぐに相談して」
「は、はい…」
そう返事を返しつつも、晶はこれ以上彼を煩わせないようにしなければと気を引き締めるのだった。
***
「宮代先輩は、中学の時から人気者だったらしいよ。誰にでも気さくで顔も良いからそれはそれはモテてたらしいけど、そのわりに浮ついた話はあまりなかったみたい」
次の日の休日。晶は以前約束した通り、有紀と遊ぶために少し遠出をして大きな港のある市街地に行くことになった。
目的地に向かう電車内で、晶は生霊を飛ばしている人物のことを探るため、まずは一番身近な人物からと情報通の有紀から宮代の話を聞き出していた。
「先輩に告白したって子はそれなりにいたらしいんだけど、みんな断られたらしくてさ。だから中学時代は誰とも付き合ってる様子はなかったみたい。それで、宮代先輩のファンクラブみたいなのができちゃって、先輩を慕う女子同士が暗黙の了解を作ったんだって」
「ファンクラブって…それは、すごいね。でも暗黙の了解って?」
「確か、必要以上に宮代先輩に近づかないとかいう決まりだったかな?どういう訳か、宮代先輩が特定の女子と親密にならないように避けてたみたいで、それを察した女子たちが作ったんだって。まあ、女子同士の牽制のし合い、みたいな?」
「わぁ…」
彼はそこまで人気者だったのかと妙に納得したところで、車内放送で終着駅の名前がアナウンスされた。乗客がそれぞれ降車の動きを見せ始める中、スピードが緩みはじめた車内で晶たちも立ち上がると、ドア付近に移動する。
「そこまで人気だったんだ…それって今もあるのかな?」
「いや、さすがに高校では聞いたことないけど、でも先輩が人気があるのは確かだね。だから今、あんたとの仲が一部の女子の間で噂されてるよ」
「え、そうなの!?」
いきなり自分の話題が出てきたことに驚いた晶は目を丸くする。すると、メイクを施していつもよりも可愛くなった有紀が、その顔をチェシャ猫のようにして笑った。
「最近、一緒にいるところをよく見かけるからじゃな~い?今まで女子と二人で話すところなんて見たことなかったって誰かが驚いてたよ?晶、ファンの誰かに後ろから刺されないように気を付けな」
「うっ……」
晶の反応に有紀は声を上げて笑うが、晶は笑えなかった。刺されてはいないが、事故に見せかけて殺されそうになったとは流石に言えない。やはり宮代に好意を抱く者からして見ると、自分は決まりを無視して彼に付きまとう目障りな女に写るのだろうか。
晶はふと、美稀の鋭い目を思い出す。彼女以外にも晶を快く思っていない女子が思いのほか多くいるらしいと知って、犯人探しが余計に難しくなったと途方に暮れる思いがした。
やがて滑るように電車がホームに到着しドアが開くと、晶たちは降車して人混みを進み、改札を目指す。
階段を上りながら、とりあえず別の人物も探ってみようと、晶は有紀に再び尋ねた。
「あのさ、隣のクラスの中川美稀さんって、どんな子か知ってる?」
いきなりの質問に有紀はキョトンとした顔を見せたが、何故か得心のいったように頷いた。
「ああ、美稀ちゃんね。あの子も宮代先輩を慕ってる一人でしょ?すごく分かり易いよね。感情がすぐ表に出るタイプで、それを隠そうとしてない感じ?だからクラスでも少し浮いてるみたい。でも、同じ部のマネージャーの麻衣ちゃんがいつもフォローに入ってくれて、何とかトラブルも回避してるらしいよ」
なるほど、と晶は出会った時の二人を思い出して納得する。麻衣はいつも美稀のことを上手く宥めていた。彼女はマネージャーらしいが、適材適所といった印象だ。
「美稀ちゃんは態度があからさまだからすぐ分かるよね。最近は晶のこと敵視してる感じする」
「…やっぱり、分かる?」
「この前晶と宮代先輩が話してる時、あからさまに睨んでたよ。でも、ああいう感情が表に出やすい子って陰湿なことはしなさそうだから、付き合うと面倒くさいけど私はそんなに嫌いじゃないかな」
「そうなんだ…」
有紀の印象だと、美稀は生霊を飛ばすような執念深いタイプではないということだろうか。でも、生霊は本人の意思とは関係なく飛ばしてしまうこともあるらしいので、やはりその為人を聞いただけでは怪しい人物と判断するのは難しい。
そうこうしているうちに、晶たちは改札を出て駅構内から市街地に足を踏み入れた。今日は天気の良い休日ということもあって、街の大通りには人が溢れ返っていた。外国人観光客や家族連れの姿が多く、そのあまりの人の多さに二人は思わず嘆息する。
「うわ~迷子になりそう…いつもこんなに人多かったっけ?」
元々歴史的な景観の美しさを売りにしていたこの街は、建物の老朽化に伴い近年都市開発が進んでいた。その結果、レンガ造りの歴史ある建物と近代的なビルが見事に融和した美しい街並みに生まれ変わり、以前よりも多くの観光客を呼び込む結果となった。
「私が何年か前に来たときは、ここまでじゃなかったような…」
晶はこの街に来ること自体が随分と久しぶりで、そのあまりの変わりように別の街に来たような感覚だった。駅前には以前はなかった近代的な商業ビルが建ち並び、僅かに昔の面影を残すのみで生まれ変わった街の景観に、晶はお上りさんのごとくきょろきょろと周りを見渡しては嘆息を漏らす。
二人でそれぞれ呆気に取られていると、「ん」という声と共に有紀の前に大きい手が差し出される。
「これで迷子にならない」
手を出して真面目な顔をしているのは、切れ長の目に黒い短髪と姿勢の良さが印象的な背の高い青年で、名前は松谷陽太。彼は最近できたばかりの有紀の彼氏で、晶は先ほど待ち合わせした地元の駅で軽く紹介を受けた。
晶たちと同じ歳の陽太は、今時珍しいくらいに真面目そうな青年で、電車では空気のようにほとんど晶と有紀の会話を静かに聞いているだけだった。しかし、一見寡黙そうに見える彼は必要とあらば適切な発言を挟んだり、相槌を打つなど気遣いもできる好青年で、さらに有紀に一目惚れだと言った通り、彼女に対しての気遣いがとてもスマートだった。
さり気なく有紀を庇ったり、危なくないようにそっと手を差し伸べたりする姿に晶の中で彼への好感度が既に爆上がりで、有紀への好意を隠そうとしていないのがいっそ清々しく、晶はここまでくる間の短い時間の中でもそんな彼の行動を目にする度に微笑ましく思っていた。
今も彼が有紀と手を繋ごうとしているのを見て、晶は『きゃ~!』と心の中で盛大に二人を冷やかしていたのだが、対する有紀は顔を少し赤くするもスンと冷静な顔で陽太を見る。
「今日はそういうのいいから…っていうか、だったら晶と繋ぐし!」
「え!いやそこは私に気を遣わなくても…」
「今日は晶とのデートに陽太がおまけで着いてきただけってことになってるんだから、いいの!ほら行こ!」
有紀に引っ張られるまま、晶は人の溢れる歩道を進む。魅力的にディスプレイされたショーウィンドウや道行く人々の華やかな装いについ目を奪われながら、友達とこうして目的もなく街を歩くのは久しぶりだと新鮮な気持ちになった。
ついこの間まで、晶の世界は狭く閉じていた。先の見えない真っ暗な孤独の中で、ただ息をしていたようなものだった。必要最低限の行動で必要に迫られたものだけを消費する生活の中で、街を歩いても見ていたのは自分の足元だけ。
でも今は、顔を上げて歩けるようになった。すると、色々なものが見えるようになった。モノクロに見えていた世界は実は眩しく鮮やかで、そのすべてに血肉が通い、意味を持つことに気付いた。それを知ったらもっと世界が広がった。
もちろん、不安がなくなった訳ではないし、孤独も悲しみもどうしようもない寂しさも消えたわけではない。眩しさの影にポッカリと口を開ける暗闇は消えていない。
でも、踏みとどまって前を向くと決めた。
(やっぱり、この恩はなかなか返しきれそうにないな…)
香月の顔を思い出し、心の中で両手を合わせて拝んでいると、突然「あ~!」と有紀が叫び声を上げた。
「これ!今めっちゃ人気のやつ!うわ〜!かわいい!!」
有紀が興奮して見ていたのは、雑貨屋の店先に並んだカラフルなサルの人形で、今世界的に流行しているアニメのキャラクターのものだった。晶も最近学校で女子生徒が鞄にこのサルのキーホルダーをつけているのをよく見かけるようになったので、人気があることは知っていた。
店先にはズラリといろんな色のサルの人形が並んでいて、周りには同じように若い女の子が群がっている。
「え〜欲しいなぁ…どの色にしよう?晶はどれがいいと思う?」
「そうだなぁ…有紀に合うのは…」
有紀と晶は真剣に物色を始める。これだけ色の種類があると、逆に決められない。中にはレアな色もあったようだが、それはレアなだけあって少し高価だった。
「うーん、迷う。陽太はどれが良いと思う?」
有紀が振り向くと、陽太は少し考える素振りを見せた後、至極真面目な目を向けた。
「全部。全部有紀に似合う」
「え…あ、そう?…ありがと」
予想外の褒め言葉を貰い、有紀は驚きつつも顔を赤くして眉尻を下げながら照れたように微笑んだ。その顔はとても可愛くて、これは良いものを見たと晶が内心でホクホクしていると、陽太は突然店先に並んだサルの人形を端から順に手に取り始める。
「え?陽太?」
突然の行動に有紀が戸惑ったように声を掛けるが、彼はそのまますべての色のサルをその両腕に抱えると、店の中へ入っていく。やがて彼は大きな紙袋を抱えて戻ってきた。
「これ、君に」
「え!!……今の、まさか全部買ったの!?」
驚き固まる有紀と共に、晶も目を見開いて陽太をまじまじと見つめる。この人形一つだって晶にしてみれば決して安い値段じゃない。それを、ざっと数えただけでも数十種類をすべて購入したなんて、一体いくらしたのだろうか。
紙袋を有紀に差し出したままコクリと頷く陽太はどこか満足げで、有紀は嬉しいやら困ったやら色々な感情が入り混じった複雑な表情を見せたが、最終的には怒った。
「もう!こんなに沢山!…う、嬉しけど…、でもそんなにお金を私のために使わないで!陽太のお金は陽太のご両親があなたのためにって渡してるものでしょ!?」
「いや、これは僕のお金。僕が資産運用で増やした分だから」
「…へ?し、資産…運用?」
およそ高校生の耳には聞き慣れない言葉に、有紀も晶もポカンと陽太を見上げる。
「そう。だから正真正銘、僕からのプレゼント」
「…えっと、陽太君のお家って…銀行員なの?」
思わず晶が訊くと、陽太は少しだけ考えるように黙った後、何かを覚悟したようにぐっと唇を結んだ。そして静かに有紀を見つめたまま口を開く。
「いや。うちはこの辺りの不動産を扱ってる会社を経営していて、僕は小さい頃から金の扱いを教育されて育ったんだ。その一環でうちでは自分の小遣いは自分で資金運用して増やす方針なんだ」
「「…へ…?」」
晶と有紀は同時に間の抜けた声を出す。今、色々な情報が盛りだくさん耳に入ったが、それを処理するのに少し時間がかかってしまった。資金運用の話は理解できたが、その前に彼は何と言ったか。
「…え?この辺りの不動産って?……え?もしかして、陽太の名字の松谷って……まさか、アレじゃないよね…?」
有紀は冗談ぽくも引き攣った笑顔で、駅前に建つ商業施設のビルを指差す。そこにはでかでかと『MATUTANI』の文字が飾られていた。
それを受けて、陽太は至極真面目に頷いて見せる。
「…MATUTANIは元は曾祖父が興した小さな商店だったんだ。それを大きくしたら今度は興味本位で色々な業界に手を広げてね。それが運良く軌道に乗って、それからは一族の力で会社を成長させてきたんだ。今、僕の父親はその中の不動産開発を任されてる」
彼の話に、晶と有紀は今度こそピシリと石のように固まった。今、とんでもないことを聞いてしまった様な気がする。『MATUTANI』とは今やこの国を代表する大手企業の一つで、不動産開発や銀行、商業施設などを手がける大企業だ。この一見普通の真面目な高校生に見える彼は、実はそこの御曹司だったというのか。
衝撃の事実に、ぎこちなく隣の有紀の顔を見ると、彼女はいまだに事態を飲み込めていない様子で、その瞳は虚空を見つめたまま、顔色は蒼白を通り越して土気色になっていた。これはまずいと晶は慌てて有紀の肩を揺さぶる。
「ゆ、有紀!しっかりして!」
「……だからだったんだ…陽太のこと色々聞いても、全然教えてくれなかったのは…」
呆然と呟く有紀に、陽太は「悪かった」と真面目な顔で言った。
「有紀のこと信じていなかったわけじゃないけど、家のことを知ると僕自身を見てもらえなくなる気がして、言えなかった」
「そんな…。じゃあ、なんで今話したの…?」
「もう色々と自信が付いたし、君と真剣に付き合いたいからすべてを曝け出すことにした」
「陽太…」
見つめ合う二人の空気を察して、晶は邪魔をしないよう、そっとその場を離れることにした。
「すごいな…まるでシンデレラじゃん!」
衝撃の事実に興奮しながらも、晶は目に入った近くの本屋を目指す。自分のすぐ近くでこんなシンデレラストーリーが転がっていたなんてと、晶は興奮を抑えきれずにどきどきする胸に手を当てた。自分のことでもないのに胸の鼓動が早まっている。
陽太のあの真剣な眼差しは、本当に有紀のことを想っていることを物語っていた。あれなら、彼がどんな立場の人であろうと有紀を大切にしてくれるに違いない。
興奮する気持ちを抑えながら本屋の店先で平積みされた雑誌を眺めて二人を待っていると、突然、少し離れたところからどよめきと歓声が湧き起った。
「…?何だろう?」
視線をそちらの方に彷徨わせると、少し離れた通りの先で小さな人だかりができている。良く見ると、何かの撮影をしている様子が覗えた。
何事かと気になった晶はその人だかりに近づき、後ろの方からひょっこり覗いてみる。すると、どうやらファッション誌の撮影現場のようで、カメラマンや照明を持つスタッフの前にモデルらしき女の子がフラッシュを浴びて立っていた。
景観の良い街並みを前に秋冬物の可愛らしい萌黄色のコートを身に纏うモデルは、様々なポーズを取りながらカメラの前でくるくると表情を変える。その姿を遠目で見ていた晶は、思わず「あっ!!」と声を上げた。
そのモデルは、例の「さくら」だった。
晶がその偶然に驚いていると、周りの人も次々とさくらに気付いて騒ぎ始めていた。人々が「わぁ!さくらちゃんだ!」「すっご~い!!実物かわいい!!」などと騒いでいる中で、先ほどの晶の声はさほど目立たなかったはずだった。それなのに、晶が声を上げたタイミングでそのさくらがこちらを向き、晶はばっちり彼女と目が合った。
しかし、その視線はすぐに逸らされて、彼女は再びカメラの方に笑顔で向き直る。
(い、今、目が合った…?気のせいだよね?)
さくらが晶のことを覚えているとは思えないし、たまたま声を上げた人だかりに目を向けただけだろう。そう思うことにして、晶は急いでその場を離れる。有紀達がいる場所を探しながら、晶はそっと冷や汗を拭った。
(ま、まさかこんなところで本人に出くわすとは…堀越さんの話では、絶対関わらないほうが良いってことだったし、認知されてたら結構危なかったかも!)
堀越の話では、さくらは何か企みがあって香月を訪ねてきたのではないかと言っていた。その企みとは一体何なのか一般人の晶には想像もできないが、ここはできるだけ関わらないに越したことはない。
念のため、晶は近くにあるドラッグストアへ入りその身を隠すことにした。有紀にメッセージで居場所を知らせると、晶は陳列棚の奥の方へと足を運ぶ。
「ふ~…ここまで来れば大丈夫かな」
外から見えない場所まで来た晶は、ホッと息を吐く。まさかこんなところで再び彼女を目にするとは思わなかった。驚いたものの、改めて思い返せば彼女は初めて見た時もその綺麗な顔にメイクを施し、流行りの服を身に纏っていてその存在自体がキラキラしていたので、モデルと言われても納得しかない。カメラの前で堂々とポーズを決める姿はやはり常人にはないオーラのようなものを感じたし、とても同じ年頃の人間とは思えなかった。
「キラキラ…か。そういえば、今日の有紀もメイクしてたな…」
行き着いた場所はちょうど化粧品コーナーで、晶は今日の有紀がいつもよりも華やかだったことを思い出す。薄化粧を纏った彼女は中学の頃とは違い、服装も少し大人っぽくなって洗練された印象を受けた。
「やっぱり、彼氏ができると綺麗になるのかな…」
有紀のつやつやの唇を思い出し、晶は目の前にあるリップグロスを見つめる。自分がさくらや有紀のように綺麗になれるかどうかはわからないが、色々挑戦するのは悪くないはずだ。
「う~ん…」
初心者ならまずはここから始めるべきだろうか。そう考えていると、いきなり後ろから肩を叩かれた。
有紀かと思い振り返ると、そこには異様にキラキラした生き物、もとい、先ほどまでカメラの前で撮影をしていたさくらが立っていた。
「ねぇ、あなた…あの屋敷にいた人よね?」
「うえっっ!!?な、なんで!!?」
いきなり目の前にさくらが現れたことで、晶は驚きのあまり頭が真っ白になる。やがて動揺を隠しきれない晶は彼女を見つめたまま滝のような汗を流し始めた。
(ななな、何で今ここに?さっきまで撮影してたよね!?それにばっちり覚えられてたじゃん!!!)
いつまでたっても固まったままで質問に答えない晶に、さくらは不可解そうな顔を見せると、ふと何かに気が付いたように晶の背後を見た。
「ああ、これを見てくれてたの?ありがとう!…あなたの色なら…ほら、これが良いわ」
そう言って、さくらは晶の背後に手を伸ばした後、何かを目の前に差し出した。晶が恐る恐る目線を向けて見ると、そこには先ほどまで物色していたリップグロスが一本掲げられている。
「…え?…あの?」
動揺しつつもそのリップグロスを受け取る晶に、さくらは華やかな笑顔を見せながら耳元で囁く。
「―――あの屋敷で働いてるなら、それに相応しいようにその芋っぽさを何とかしなさい。でないと、恋人を作るなんて夢のまた夢よ。―――じゃあね!」
言い終わるや否や、さくらはひらりと手を振って晶の前から去っていった。
「………はい?……」
言われたことがショック過ぎて、晶はその場に立ち尽くす。今、何かが胸にぐさりと刺さった。何故、彼女にいきなりそんなことを言われなければいけないのか。
晶は訳がわからないまま去っていくさくらの背中を呆然と見つめる。すると、彼女と入れ違いで有紀が店に入ってきた。有紀はすれ違いざまでさくらの存在に気付いたようで、ひどく驚いた顔をする。
「え!あれ、さくらちゃんじゃない!?うわ!本物かわいい……って、晶、どうしたの?ひどい顔してるけど」
「…ひどい、顔…」
まるで追い打ちをかけられたような気がしてさらに悲壮な顔をした晶は、ふるふると顔を振ると「何でもない」と先ほど受けたショックを無理やり誤魔化した。
「ちょっと、びっくりしちゃって…」
「ああ、さっき生のさくらちゃん見たから?可愛かったね!今めちゃくちゃ人気だよね。あの子のプロデュースした商品が売れに売れてて…あ、これもそう!晶、このグロス買うの?私も買って今日つけてみたけど、良い感じでしょ?」
「う、うん…」
晶はさくらに渡された桜色のリップグロスに目を落としながら呆然と考える。今日彼女に遭遇したことを香月たちに詳しく聞かれたら、自分は何と答えればいいのだろう。
一言一句違わずに報告する自分の姿を想像すると居た堪れなさすぎて、晶は自分の心を守るために、先ほどの出来事を無かったことにする決心を固めたのだった。




