境界線
「では、体育祭お疲れさまでした!カンパ~イ!!」
九月の最終日。晴天の中、無事に体育祭が終了し、晶たち体育祭実行委員とその有志達は後片付けが終わった後で一つの教室に集まり、慰労会を開催していた。
各々持ち寄ったジュースやお菓子、教師陣のカンパで購入したピザなどが沢山机の上に並べられ、まるでパーティー会場のようになった教室内では実行委員長である宮代の音頭の元、皆で紙コップを掲げて乾杯をした。
それぞれが体育祭の出来事や準備段階の苦労話で盛り上がり始めた頃、窓際に座ってそれぞれの話に耳を傾けていた晶の元に宮代がやってきた。
「静野さん、お疲れ」
「宮代先輩!お疲れさまでした」
コーラの入った紙コップを片手にやってきた宮代は、晶が持っているコップにそれを軽くぶつけて乾杯をすると、隣の空いている椅子に腰掛ける。
「いやぁ~どうなることかと思ったけど、無事に終わったな…どれもみんな静野さんのおかげだよ、本当にありがとう」
「そんな!私なんてほとんど役に立ってなかったですよ。他のメンバーがみんな出来る人達でホント良かったです」
実際、人員不足で始まった実行委員会は、役員も有志もみな優秀だったこともあり、時間が無い割にはしっかり準備を整えて臨むことができた。本番のトラブルも殆どなく、むしろ無駄のないスムーズな進行は生徒たちに好評だった。
「やっぱり校長の話は三分に制限して正解だったな。数少ない出番を削っちゃって申し訳なかったけど」
「そうでしたね!終業式も始業式も話が長すぎて、途中で倒れる人もいましたもんね…先輩の采配、お見事でした!」
「ふふ~ん、そうだろ?そこんところ誰も褒めてくれなかったから、今、ちょっと嬉しい」
「ふふふっ!」
宮代の素直な物言いに晶は笑いながらオレンジジュースに口を付ける。甘酸っぱい爽やかな味が口の中に広がり、飲み込むと疲労を感じていた体に染み渡るようだった。
コーラを飲みながらそれを見ていた宮代は、「あ~…」と何かを思い出したような声を出し、少し複雑そうな顔で切り出した。
「あのさ、話は変わるんだけど…静野さん、本当に陸上部に入る気はない?」
「え?」
思いもよらない話に、晶は宮代の顔を見返す。
「いやぁ…ダメ元でもう一回勧誘させて?やっぱり、惜しくなっちゃってさ。…今日、実際に静野さんの走るところ見ちゃったら、やっぱ勿体ないなぁって思って。…本当にもう走ることに未練はない?」
「未練…ですか…」
晶は思い返す。今日の体育祭でグラウンドを走った時、また中学の時に感じた高揚感を少しだけ思い出した。グラウンドの熱い空気は懐かしく、久しく忘れていた走ることへの渇望も胸に湧き戻った。
でも、晶にとってそれらはもう過去という宝箱に仕舞われて、時々眺めては懐かしんで楽しむものに変わっていた。それらを再び取り出して、またあの頃のような気持ちで陸上に向き合うことはもうできない。そんな気がした。
「ごめんなさい。やっぱり、無理そうです」
申し訳ない気持ちで眉を下げると、宮代が慌てた様に手を振る。
「いやいやこっちこそ、しつこくてゴメン!…そっか、ならもう本当に諦めるわ。ちなみに、その今やりたいっていう恩返し?は順調に行きそうなの?」
「恩返し、ですか…う~ん」
宮代には今やりたい事として、香月への恩返しの話をしていたことを思い出す。晶はその問いかけに眉を寄せて首を傾げた後、肩を落とした。
「…いえ、今回も結局頼っちゃったし、私の中でさらに返さなきゃいけない恩が増えちゃいましたから…ますます遠ざかったというか…」
香月は晶のことを守ることで自分が救われているというようなことを言っていたが、その言い分も良く分からないし、晶の中では命を二度も三度も救ってくれた相手に恩を返さないなんてやはり有り得ない。しかし、そんな大恩をどういう形で返せばいいのかも見当がつかない晶は、結局のところ香月の言い分に甘えるしかない状況だ。
あからさまに落ち込む晶のことを、宮代は不思議そうな顔で眺める。
「今回も?」
「そうです。宮代先輩のミーちゃんから守ってもらって…それ以外にも、私が暴走して失敗した時にも助けてもらって―――」
「えっ!?あ…あの『香月さん』だっけ?あの人が、静野さんのバイト先の恩人…!?」
驚きのあまり仰け反る宮代に、晶はキョトンとした目を向ける。
「え?そうです…けど、話してませんでしたか?…あ、そういえば、宮代先輩は夏祭りの時に少しだけ香月さんと会ってますよ?」
「え?…あっ、もしかしてあの…猫のお面の!!?」
「はい。あの時は事情があって顔を隠してたんですよね…香月さん、歩くテロリストみたいだから」
夏祭りで香月の姿を見た女性たちの反応を思い出し、晶は遠い目をする。あの時の浴衣姿は恐ろしいほど似合っていて、晶も見た瞬間意識が飛びそうになった。
そんなことを思い出していると、気付けば宮代が俯いて何やらぶつぶつと呟いている。
「…そういうことだったのか…俺はてっきりあのイケオジが恩人なのかと…。そうか…あの恐ろしい彼が…って、そうだ!」
宮代はガバリと顔を上げ、突然真剣な目をしたかと思うと周りを気にしながら小さな声で晶に尋ねる。
「…あのさ、ずっと気になっていたんだけど…香月さんって、もしかして…」
「えっ」
晶はギクリとする。まさか今、あの夜の出来事について突っ込まれるのだろうか。
(えぇぇぇ…どうしよう!?香月さんの力のこと、何って言って誤魔化せばいいんだろう!?)
宮代にとってあの夜のことは実に不可解な出来事だったに違いない。しかしそれらをすべて晶が説明するわけにもいかない。当の香月は自分の力の片鱗を見せたにも関わらず、それに対して宮代に何のフォローも入れていなかった。
実はそのことがずっと気になっていた晶は、いつ宮代から問い質されるだろうと内心ビクビクしていたのだが、結局上手い言い訳も思い付かないまま今まで来てしまった。
とうとうその時が来てしまったのかと内心冷や汗を掻いていると、宮代は突拍子もないことを言い出した。
「…もしかして、猛獣使いか何かなの?」
「……へっ!?」
予想外の言葉に晶は目が点になる。そんな晶の様子に宮代は何とも言えない複雑そうな顔で「いやぁ…」と頭を掻いた。
「だってあの夜、ミーちゃんを苦しめてただろ?あの時は何が起こったのか良く分からなかったけど、後になって考えてみたら、彼が蛇が嫌う音とか出してたのかなって…」
思いもよらない勘違いに、これは好都合だと晶はそのまま話を合わせる事にした。
「ああ…た、確かに!!ええっと、私にも良く分からなかったですが、そういうことだったのかもしれませんね!」
晶は首の皮一枚繋がったような気持ちでほっと胸を撫で下ろす。このまま宮代が何の疑問も持たずにいてくれることを願うしかない。
(…香月さんってば、宮代先輩に力のことバレたらどうするつもりだったんだろう?)
それとも、本人にとってはそこまで秘密にするようなことでもないのだろうか。香月が晶に秘密を話してくれた時、まるで何でもないことのように笑顔を見せていたが、こんな重大な秘密を打ち明けることが何でもないことなんて有り得るだろうか。
(それに…)
彼が見せた綺麗な笑顔の中に、寂しさのようなものを感じたのは晶の思い過ごしだったのだろうか。
(ううん…あの顔は、きっと境界線を引こうとしてた)
晶はあの時の香月の顔を思い出す。すべてを諦めたような、他人に何も期待しないような色をその瞳に宿した彼は、綺麗な笑顔でそれを隠して晶との間に見えない線を引こうとしていた。晶はその線が完全に引かれる前に無理やり踏み込んだのだ。
(良く分からなかったけど、私が、嫌だと思ったんだ…)
香月に関して、晶は雇用主と使用人という関係上、あまり深く踏み込まないと決めていた。だから、彼のことを必要以上に探るつもりもなかったし、不思議な事実もあるがままを受け入れて深く考えないようにしてた。
でも、彼のあの時の瞳を見てしまった晶は、線を引こうとする彼をそのまま傍観していられなかった。それは彼の秘密を知ってしまったことで、踏み込まざるを得なかったというのもあるだろうが、それだけではない気がする。
(これって、同情…?だとしても、香月さんに同情なんて畏れ多いな…)
そんなことを考えていると、「しっかし…」と宮代が話を続けた。
「静野さん、あんな怖い人がいる職場でバイトしてるんだろ?怖くないの?」
「…え!?香月さんが…怖い、ですか?」
再び思いもよらないことを言われて晶は驚く。あの通常ならば紳士の(糸に言わせれば仮面らしいが)香月にそんな印象を持つ人がいるとは思わなかった。
首を傾げる晶に宮代は苦笑いを見せる。
「何て言うか、迫力があるっていうの?人間離れした美形もそうだけど、威圧感が半端ないよね。怒った姿がマジで魔王みたいだった…」
「え?魔王…ですか?確かに怒った時は背筋が凍りますけど、そこまでじゃないような…?」
今回分かったことだが、彼はほとんどの場合、その怒りをキラキラした笑顔で隠している。でもあれは魔王というよりも見た目だけで言えば天使だろう。そう答えると、宮代は「マジか…」と若干引いた顔をした。
「…静野さんって、度胸があるんだな…。でも、そうか…やっぱり顔かな?…う~ん…」
何事かをぶつぶつと呟き始めた宮代を見ながら、晶はひそかに思い返す。
(…でも、あの時は違った…)
白蛇の攻撃を受けて晶が夢の世界に落とされ、どうにもならない事態に香月に別れを伝えたあの時。彼のことをまるで別人のように感じた。普段の柔らかな瞳の彼とは一変して、その眼力で射殺されるかと思うほど、激しい感情がその眼に宿っていた。
あれは香月の本性なのだろうか。青い炎がその瞳に揺らめく様は、怖いというよりも、晶にとってはとても美しいものに感じられた。
(ますます香月さんのことが分からない…どれが本当なんだろう?)
穏やかさも、冷たさも、無邪気さも、激しさも、どれも彼の持ち得る本性なのかもしれないが、きっとまだ晶は香月という人間を掴みきれていない。
(やっぱり、曖昧にしておいたほうがいいのかな…)
穏やかな笑顔の中に全てを隠そうとしているくらいだから、彼は晶に全てを見せるつもりはないのだろう。だからそれをわざわざ明るみに出す必要もない。
彼が見せているものを晶がそのまま素直に受け取っていれば、それで彼は満足するはずだ。端から見れば茶番かもしれないが、それがこの先もお互いにとって良い関係性を保つことになるだろうし、彼への恩返しの足しになるのではないか。
そう結論付けた晶は、胸に手を当ててぐっと口を引き結ぶ。
(…後は私が、欲を出さなければ良いだけだ)
これ以上自ら踏み込んだら、もう引き返せない。自分はこの胸に灯った明かりを大切に仕舞っておくことを選んだのだから。
密かな決意をした晶が顔を上げると、同じタイミングで宮代の方も顔を上げた。彼の方も何やら真剣な顔をしていて、晶の顔を見つめながら口を開く。
「…あのさ、静野さん。いきなりだけど俺、正直に言うと、このまま君との関係が切れちゃうのは寂しいと思ってるんだ。だから今度は友達として、今までみたいな関係を続けていきたいと思ってて…ダメかな?」
真摯な目でそう告げられた晶は、キョトンとする。
「そんな…わざわざ聞かなくても、宮代先輩がそうしたいと思うなら、私たちの関係はこのまま切れないと思いますよ?」
そう答えると、宮代は少しだけ目を見開いた後、「はぁ~」と詰めていた息を吐いて晴れやかな笑顔を見せた。
「そっか、よかった!...いや〜一応、そこははっきりしておきたいっていうか?…決意表明も兼ねてたから…」
「決意表明?」
「いや、それはこっちの話!…じゃあ、友情記念に、またクッキー作ってほしいな」
「クッキー、ですか?」
いきなりの話に晶は目を丸くする。友情記念でクッキーとは一体どういうことだろう。
「そう。まぁ友情記念はこじ付けみたいなもんだけど、俺は静野さん…のクッキーに!惚れ込んでるから!だからまた食べたいな~って。アレには中毒性がある…マジで美味しい」
「中毒性…ですか」
「そう。食べ出したら止まらなくなるんだ。本当に」
「…ふふっ!」
どうやら宮代は晶と友情を続けてまでクッキーを食べたいらしい。そこまで気に入ってもらえたのかと、これ以上ない誉め言葉に晶は自分の頬が紅潮していくのが分かった。
「そこまで気に入ってもらえたんですか…?それなら、任せてください!」
晶は嬉しさのあまり、にやけそうになる頬を両手で抑える。胸の底から温かいものが溢れ出てきて、それが空っぽの心を満たしていく。次はもっと美味しいクッキーを作ってあげようではないかと、やる気に満ちた晶は心の中で密かに拳をグッと握った。
宮代は晶の返事が余程嬉しかったのか、頬と耳を赤く染めて「…うん…」と応えると、窓の方に顔を背けてしまった。
つられて晶も窓の外に目を向ける。窓の外では夕日を反射した校舎が茜色に染まり、紫色に暮れ行く空にはピンク色のイワシ雲が浮かんでいた。
窓から吹き込む風に微かに金木犀の香りを感じながら、晶はついこの間、校舎の裏からひとり見上げた空の色を思い出す。あの時は淋しい色にしか見えなかったのに、今見上げる空からは全く違った印象を受けるから不思議だ。
段々と群青色に染まりゆく空は、温かな夜を連れて来てくれる。それを静かに照らす夕日の色は、今この胸を占める温かさを映したかのようだ。
晶はこの光景を忘れないように目に焼き付けると、そっと胸の奥にしまい込んだ。
次で最終話です。




