最終話 どろだんごの神さま
土石流から約一年後の話です。
描かれない一年に、どんなことがあったのか。
拓や一穂に、どんな変化があったのか。
そんなことを想像しながら読んでいただければ幸いです。
この第10話で。最終話となります。
──七月、お盆。
あれから、一年。
望月拓と宮沢一穂は、からりと晴れた静岡駅に降り立った。
一年振りに訪れた拓の故郷静岡市は、厳しい暑さではあるが非常に平和である。
「大丈夫、ですか」
「ああ。ありがとう」
日傘を傾けて心配そうに見上げる一穂に、拓は不器用に笑って見せた。
今年は、ふたり揃って三日間の有給を取得しての里帰り。
そのために拓も一穂も、前倒しできる仕事は残業や休日出勤ですべて片付けてきた。
週間天気予報も確認済み。拓は天気図まで念入りに調べていた。
「今回は神さまがいないからな」
「キュイくんは、山に還ってしまいましたからね」
今回の拓たちの帰郷には、二つの目的があった。
ひとつは、拓の叔父夫婦へのお礼と挨拶。
そしてもうひとつは──
拓たちは、静岡市の中心街にホテルをとった。
静岡市街では比較的新しいこの綺麗なビジネスホテル、このホテルを予約したのは一穂だった。
「だって、このお値段でカレー食べ放題ですよっ。おでん街やおでん横丁にも近いですし」
去年静岡おでんを食べそびれた、そのリベンジの意味もあるらしい。
一穂のリベンジはその夜、おでん横丁での夕食で達成された。
「はんぺんが黒いのにはびっくりしましたけど、ウマウマでした〜」
拓は横浜に居を移した当初、白いはんぺんに衝撃を受けたのを思い出して、思わず笑いが溢れる。
「あ、笑いました? いま笑いましたよね?」
「笑ってない」
「ウソ」
「……ちょっとだけ笑った、かも」
おでん横丁からホテルまでの夜道を、ほろ酔いの拓と一穂はゆっくりと歩く。
街灯の下、微かに吹く夏の夜風は、ふたりに湿気を残して去った。
晴れた夜空はビル街の灯りに圧されて、星を見せてはくれない。
が、ふたりに残念な様子はない。
明日は、拓の生まれ故郷のダイラボウ。
星なんて、手が届きそうなくらいに見えるのだ。
「ホテルに帰って、もう少し飲みますか」
「魅力的な提案だな。けど、明日は──」
「そうでした、うっかりしてました。一穂うっかり」
舌を出して片目を瞑る一穂の姿も、拓は見慣れていた。
だからといって、ドキッとしないわけではない。
拓は頬が紅潮するのを自覚して、考えるふりをして視線を夜空へ逃した。
「ビール、やっぱり買ってくか」
「では、そこのコンビニで良いですかね。どのくらい買っていきましょうか」
「明日は朝九時に出発だよな。てことは七時には起きなきゃならない。だもんで……あ」
「今、だもんで、って、言いましたね?」
しまった、と拓は慌てて口に手を当てる。
一穂は、標準語の「だから」「なので」を意味する静岡弁、「だもんで」が気に入っている。
拓の方言を聞くたびに、一穂の知らない拓の素顔を垣間見たような、そんな喜びを感じるのだ。
「そんなこと言われても、静岡の生まれだからしょんない……あ」
「また静岡弁、登場〜」
常日頃から方言を出さないように話す拓も、地元の空気と酒、そして隣に一穂がいる安心感に、気が緩んでいた。
「もう、しゃべらん」
「あーウソですウソです。静岡弁の先輩も可愛いですよっ」
じゃれつくように一穂が腕に絡みつけば、拓はたいていの事は許してしまう。そういう間柄になっていた。
その夜。
ふたりが就寝したのは、ホテルに帰って数時間後、夜半過ぎだった。
食べ放題のホテルのカレーは、翌朝のありがたい朝食となった。
「あらあら。久しぶりの顔が来たと思ったら、別嬪さんと一緒かい」
翌日の昼前。
ふたりがタクシーで訪ねたのは、ダイラボウの近くにある拓の叔父夫婦の家だ。
去年の夏、拓と一穂はこの叔父夫婦に救われた。今回はその後の報告やお礼を兼ねての訪問だったが、目的は他にもあった。
叔父は、拓の祖父の山を引き継いで管理してくれている。その叔父に、山に入る許可をもらいにきたのだ。
庭と家を囲む垣根の中にふたりが入ると、さっそく玄関口で揶揄われた。
応対してくれたのは、拓の叔母。
拓と一穂にスリッパを勧めながら、叔母は奥へ叫ぶ。
「拓ちゃん、来たけん。一穂ちゃんもおるで」
「聞こえとる。なんなら、見とった」
叔父の声だ。
が、その声は拓たちの後ろから聞こえた。
「よく来たな、拓」
野良着の叔父は、被っていた緑のキャップを取って、くしゃっと笑った。
「一穂さんも、元気そうで」
「はい、ご無沙汰しております」
一穂の傍らに立つ拓に、叔母が笑いかける。
「いい彼女さんだね、拓ちゃん」
「本当に、そう思います」
「拓ちゃんは小さい頃から苦労してきたから。きっと神さまが見ていてくださったんだよ」
神さま、と聞いた拓は、身が強張る。が、気づいて振り返る一穂の視線に、拓は小さく頷いた。
「本当に、神さまのおかげだと思ってます」
笑顔で話す拓に叔母は笑みを浮かべ、一穂は涙を滲ませた。
その涙を気づかれないように、一穂は口を横に開いて笑顔を作る。
「そうですね。私も神さまのおかげで、こーんなに素敵な彼ピが出来ました!」
「彼、ぴ?」
ぽかんと口を開ける叔母の姿を見て、拓と一穂は笑みを交わす。
「ま、とりあえず上がって上がって」
二人が通されたのは、八畳の仏間だった。
部屋の真ん中には重厚な長方形の大きな座卓が据えてあり、一足先に叔父が湯呑みを傾けていた。その横には、半分ほど減った一升瓶。
「もう、せっかく拓ちゃんと一穂ちゃんがいらしてくれたのに」
「いいだろ、拓が元気になった祝い酒だ」
溜息を吐く叔母に苦笑しながら、拓は仏壇の前に。
この叔父の家の仏壇には、拓の両親と祖父の位牌が納められている。
線香を立てて、拓は仏壇の前に据えられたお鈴を、ひとつ鳴らす。
高く澄んだ響きの中、手を合わせた拓は、ただいま、とだけ呟いた。
一穂は、拓の後ろで手を合わせた。
祖父への挨拶を終えた拓は、座卓に並ぶ座布団にあぐらをかく。
が、しかし。
「どうして座布団の上に座らないの、一穂ちゃん?」
「本日は、ご挨拶に参りましたので」
一穂は座布団をずらして、畳の上に正座をした。拓も慌てて座布団から降りて、一穂の横に並んで正座する。
そして互いに顔を見合わせて、揃って三つ指をついた。
「叔父さん、叔母さん。俺は、ここにいる宮沢一穂さんと婚約しました」
「義叔父さま、義叔母さま。拓さんとの婚約、どうかお許しください」
拓と一穂は、叔父に頭を深く下げる。
そのまま少し待つが、ふたりに叔父の返事は聞こえない。
ふたりが恐る恐る顔を上げてみると、拓の叔父は泣いていた。
「拓が、ガキ大将にイジメられて泣いてた、あの拓が……とうとう」
「お父さん、よしてください。あたしまで泣けてきちゃう」
叔父につられて叔母が泣き、それを見た一穂までもが泣き出す。
どうしようと拓が思案していると、目の前の叔父は湯呑みの中身を一気に干した。
「母さん!」
「あいよ!」
短く交わした叔父夫婦は、揃って仏間を出ていった。
数分後。
仏間の座卓に、ご馳走が並んでいた。
煌びやかな蒔絵の描かれた大きな寿司桶と、唐揚げやフライドポテトなどのオードブルの大皿。
そこに、日本酒と赤白のワインの瓶がドンっと置かれた。
「さあ、食え。一穂さんも遠慮するなよ、もう身内同然なんだから」
叔父の不思議な勢いに押される拓と一穂は、顔を見合わせて頷き合う。
そして。
「「いただきます」」
ふたりは遠慮なく寿司桶の中トロへ箸を伸ばした。
数十分後。
寿司桶はあっという間に空になり、拓と一穂は食後のお茶を、叔父は湯呑みで白ワインを飲んでいた。
「しかし、去年の土砂崩れはすごかったな」
煙草に火をつけた叔父は神妙な顔を向ける。
「川沿いの法面がえらく崩れてな。川まで堰き止めとった。大雨で緩んでいたのかもな」
「それは、なんとも……」
「その土砂崩れのおかげで土石流が止まったんだから、わしらは幸運だったな。拓たちも助かったし、このへんの集落も無事だった」
返す言葉に悩む拓に、一穂は苦笑を向ける。
「幸い、山にあるじいさんたちの墓も無事だったけん。まあ、こうして拓も元気になったのが何よりだ」
「ほんと。あん時の拓ちゃん、抜け殻みたいだったもの」
去年の夏の夜。
あの大雨の中、土石流が迫る車からふたりを救い出してくれたのは、叔父だった。
その時の拓は放心していて、記憶がない。
どうやって助かったのかも覚えていない。
一穂から状況の説明は受けてはいたが、未だ拓に現実感はない。
すべて悪い夢の出来事のような気分なのである。
そんな拓に代わって、一穂が話を引き受けた。
「義叔父さま、義叔母さま。一年前は大変お世話になりました」
「ほんと、あん時はびっくりしたわ。山が崩れた音がして様子を見に行ったら、雨の中であんたが叫んどって」
「今思うと、お恥ずかしい限りです」
「いんや。あん時、一穂さんが大声で叫んでくれたもんで、わしは拓を見つけられただよ」
「そうそう。一穂ちゃんは、拓の恩人だけん」
お茶を配り終えた叔母も、お盆を傍に話へと加わる。
「一穂さん。本当に、ありがとうな」
まだ長い煙草を揉み消した拓の叔父は、一穂に頭を下げる。
「ちょ、やめてください。助けてもらったのは、私もなんですから」
慌てて膝立ちになる一穂の横で、拓は縮こまる。
「なに、お礼を言いたいのは、あん時のことだけじゃない」
さっき消した煙草に再び火をつけた叔父は、紫煙を燻らせる。
「一穂さんが、拓と一緒にいてくれることへのお礼もある」
「そうねぇ。拓ちゃん、友達いなかったもんねぇ」
「まあ、赤ん坊の頃に両親を亡くしたのも、大きかったんだろう」
拓の目の前で、拓の昔話が広がる。
拓にとって、あまり居心地が良くない場だ。
それを察したのか、畳の上についた拓の手に一穂は手を重ねて、軽く握る。
拓に視線を向けられた一穂は小さく頷き返して、それから拓の叔父夫婦による幼少期の拓の話に相槌をうち、驚き、笑う。
「拓を引き取ったじいさんも人付き合いが下手でな。そんで出来上がったのが、そのボンクラだ」
「ボンクラだなんて。拓先輩は、今や我が営業課の不動のエースなんですよ」
「ま、真面目でコツコツやるのが取り柄だったからな」
「ですですっ」
叔父と話す一穂の横で、拓は黙ってふたりの話を聞いていた。
思い出すのは、祖父のしかめっ面。そして──
──叔父の家を出て、ダイラボウへ向かうタクシーの中。
すっかり満腹のふたりは、後部座席で車窓を眺めていた。
ふたりの間には、去年神さまを連れてきた時の、籐編みのバスケット。
「去年泊まったあの旅館、無事だったみたいですね」
「ん、ああ、そうだな」
拓は一穂の指差す方には目もくれずに、ぼんやりとダイラボウを見続けている。
その気持ちは、一穂にも痛いほどに理解できる。
去年、ただ生きるだけの存在になってしまった拓が今の状態に回復するまで、数ヶ月を要した。
その拓を間近で見守り、世話をしたのは、一穂なのである。
拓の叔母が手を貸すと言っても、一穂は拓の世話を誰にも譲らなかった。
拓と一穂を退職ではなく休職扱いにしてくれた井上課長が心配して訪ねてきても、一穂は頑なに拓の世話を続けた。
その甲斐あって、拓は年明けから会社に復帰できたのである。
不意に、一穂が拓の肩に手を添える。
「先輩、知ってます?」
「何をだ」
拓は相変わらずぶっきらぼうだが、一穂は構わず笑顔で続けた。
「ダイラボウって、だいだらぼっちが語源らしいですよー」
「そうだな」
「え、もしかして先輩、知ってたんですか?」
「……ま、一応地元のことだし」
タクシーに揺られながら、一穂は頬を膨らませる。
「じゃあ、これは知ってます? ダイラボウの頂上には──」
「だいだらぼっちが転けそうになって手をついた跡が残ってるんだろ」
「なんでぜんぶ知ってるんですか、せっかく調べた今回の自慢ポイントなのにー」
提灯のように頬を膨らませた一穂は、冗談混じりで拓に当たる。
「知らんがな」
「知れっ、私のすべてを知れっ!」
「無理」
拓が即答すれば、一穂もすぐに返してくる。
他人が苦手な拓が、こうして他の人間と会話のキャッチボールを出来ている。
それが拓には嬉しく新鮮で、心地よい。
「挑戦する前に諦めないでください。諦めたら試合終了ですよ!」
「へいへい」
挑戦する前なら試合も始まってないな。などと無粋なことは拓は言わない。
言えば話が長く、ややこしくなる。
山裾でタクシーを降りて、幼い頃に拓が見つけた石の祠があった場所を目指して山に分け入る。
「小さい頃の記憶だからな、迷ったらすまん」
「大丈夫ですって。でも諦めたら試合終了ですよ」
果たして、山に入って数分。
あの場所は、呆気なく見つかった。
しっかりと人の手で、祀られていたのだ。
「かわいいお社ですね〜、義叔父さまと義叔母さまがやってくれたのかな」
あのどろだんごを見つけた石の祠は、木で建てた簡素なお堂に納められていた。
お堂の傍には手水場代わりに沢の水が引いてあって、丸太を組んだ簡素な鳥居まで拵えてあった。
「これは……菓子折りひとつじゃ足りなかったな」
「ですね。横浜に戻ったら、義叔父さまたちに何かお礼を送りましょう」
「よしきた崎陽軒のシウマイだな」
「どんだけシウマイ好きなんですか、先輩って」
ひとしきり笑い合って。
拓と一穂は沢の水で手を清めて、並んで柏手を打つ。
「持って帰らなきゃですけど、形だけ」
籐編みのバスケットから取り出したのは、みたらし団子。
そのひとつを串から抜いて小皿に取りながら、一穂は微笑む。
その隣で拓は、もう一度手を合わせて深く頭を下げた。
──なあ、神さま。
俺たち、結婚するんだ。
だから、ちょっとだけ。
ほんの少しだけ、山の土を分けてくれ。
一穂と俺で作る家の、守り神になってほしいんだ。
ちゃんと神棚も用意するし、みたらし団子もお供えするから。
お願いします──
「……え」
「どうした、一穂」
「今ね、声が聞こえたの。キュイ、って」
「そうか」
言葉少なに答えて、拓は空を見上げた。
あの日の土砂降りが嘘のような、高い青空だ。
「え、なんで驚かないんですか!?」
「ここは、神さまの故郷だし、神さまはここの御神体だからな。鳴き声くらい聞こえても、不思議じゃないさ」
拓が幼かったあの日に出会った、どろだんごの神さま。
ずっと拓と一緒だった、神さま。
拓たち二人を助けてくれた、神さま。
神さまは、いなくなったのではない。
もともと山の一部だったんだ。
だから神さまは、元の山に戻っただけ。
都合の良い考え方だが、今ではそう思えるようになってきていた。
どろだんごの神さまはこのダイラボウの、小さな小さな「だいだらぼっち」だったんだ、と。
拓はもう一度空を見上げて、心の中で神さまに「ありがとう」と告げた。
「キュイ〜っ」
「──えっ、キュイくん!?」
一穂が叫ぶ。
そんなはずはない。神さまはあの時、山に還っ──え。
「キュイ! キュイキュイ!」
拓の耳にもはっきりと聞こえたその鳴き声は、祀られた石の祠の陰から聞こえてくる。
覗き込んでみると、拓の見慣れたまんまるなどろだんごが、恥ずかしそうに覗き返していた。
その拓の横に顔を並べた一穂も、どろだんごの神さまの姿を見つめる。
「やっぱりキュイくんだ! 先輩、キュイくんですよ!」
「何度も言わなくたって、聞こえてるよ」
拓は、神さまと目があった瞬間に大量の涙を流していた。
けれど視界はすぐに涙でぼやけて、どろだんごの神さまの姿もぼんやり見えるだけ。
そのぼんやり見える神さまは、何やら一穂とジェスチャーで話している。
「……先輩。みたらし団子、食べていいか、ですって」
「え」
……感動の再会ではなかったのか。
拓はなんだか神さまに「してやられた」気分になる。
けれど、嬉しいことには違いない。
涙の向こう、みたらし団子の前でクルクルと踊るどろだんごの神さまを眺める拓は、思わず笑ってしまった。
「一緒にお団子食べよ、キュイくん!」
「キュイ〜♪」
翌朝。
東海道新幹線、上りの「こだま」の車内。
静岡駅で買った東海軒の鯛めし弁当を平らげた拓は、目を閉じていた。
──神さまがいなかったこの一年、いろいろあった。
それを、ゆっくりと話していこう。
俺と、一穂と、そして──
「──先輩、富士山行っちゃいますよっ」
「ああ、そうだな」
目を閉じていただけの拓は、すぐに一穂に返答する。
「あれ、今日は寝てないんですか?」
「キュイ〜?」
「失礼だな、俺だっていつも寝ているわけじゃ……って、神さまの声がしたぞ!?」
「大丈夫ですって。他に誰もいませんから♪」
「キュイ〜♪」
相変わらずな一穂と、既視感たっぷりの一穂の行動に頭を抱える拓。
そんなふたりを、どろだんごの神さまは寝転びながら笑顔で見守っていた。
了
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
今回の物語は、大人向けの童話というイメージで書き上げました。




