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(c)基礎担当
武田信繁は、信玄の弟で、各戦場で現場指揮に当たった。1561川中島で戦死。
【鑑定】いわば当主の名代であり、その基礎力がいかんなく発揮されたことだろう。一門に存在したことにより、武田家臣団は盤石になり得た。
一条信龍は、信玄の弟で、甲斐上野城主、主に本願寺や畿内に対する外交に当たった。勝頼を後見し、1582上野城を織田氏に攻められ戦死。
【鑑定】当主をよく補佐したであろう。外交は能力外だが、その粘り強さで成果を上げたのであろう。
海野信親は、信玄の次男で、幼くして盲目になり出家した。穴山信君の娘婿。1582自害したといわれる。
【鑑定】出家イコール俗世から離れたわけではない。穴山と縁戚になり、子孫は徳川の高家。相当の教養を有し、意見者として当主を補佐したのであろう。耳学問は侮れない。
小山田信有は、信茂の兄で、北条氏や今川氏との外交に当たった。26才で病死。
【鑑定】外交は能力外だが、基礎力を生かし粘り強く当たったことだろう。
小幡憲重は、上野出身で、山内上杉氏、北条氏、武田氏と主を変えた。1575川中島で戦死。
【鑑定】出仕先を転々と変えても、基礎力ある者はぶれないので順応性が高い。
(d)向上心担当
板垣信方は、晴信擁立の中心で家臣団筆頭、諏訪上原城代として諏訪旧臣を率い信濃攻略に当たった。1548村上氏との上田原の戦いで戦死。
【鑑定】初めから筆頭だったわけでなく、旺盛な意欲の賜物だったのであろう。その意欲が、武田氏に信濃攻略の道を開くことになった。
浅利信種は、120騎侍大将、箕輪城代。1569北条氏と三増峠で戦い戦死。
【鑑定】下層から頭角を現し、出世していったことが見受けられる。
曽根昌世は、義信の乳兄弟で、義信事件で逃亡した。帰参後は、三増峠の激戦で撤退作戦に戦功をあげ、駿河攻略に活躍。1582徳川氏に降り、のち蒲生氏に仕え会津若松城の縄張りをした。
【鑑定】逆境に強いのが、この天命能力の特色である。再三苦難に巻き込まれたが、驚異的な意欲で歴史に名を残した。
真田信綱は、幸隆の長男、昌幸の兄。信濃、駿河、西上作戦など転戦し、譜代に準ぜられた。1575長篠で戦死。
【鑑定】他国出身のハンデをバネに、逆に意欲を持って活躍し、真田の名を天下に広めた。
真田昌輝は、幸隆の次男、昌幸の兄。信玄の小姓から出発し歴戦で先陣や殿軍を努めた。1575長篠で戦死。
【鑑定】兄と共に、意欲を持って新天地で活躍した。