093
「欢迎光临」
色鮮やかな旗袍着た女性が、にこやかに微笑んで怜達の前にやって来た。旗袍とは一般的なチャイナドレスである。とはいえ、今では良く知られるスリムでセクシーなものではない。袖口が広く、スリットは入っているものの足首までゆったりとした衣装である。(以下『英語』)
『呉さんはいるかな?」
『少々お待ち下さい』
怜は目を丸くした。
「五代君が英語を喋っとる件」
「頑張って勉強したんだよ?」
えっへんとばかりに胸を張った五代。
随分前から頑張っていたらしい。中牟田には遠く及ばないが、普通に通じている。やはり元々頭の良い人は何をさせても飲み込みが早いようだ。
『ご案内致します』
『ありがとう』
五代の後に続いて怜は物珍しそうに周囲を見回しながら、ふと立ち止まった。
「小麗?」
後ろを歩いていたはずの小麗が、心を奪われたようにじっと何かを見て佇んでいる。怜は首を傾げてその視線を追った。
「へえ。綺麗やね」
薄紅色の飾り棚には、伝統的な数々の調度品が並んでいる。売り物ではなく、観賞用のようである。壺、陶瓶、茶器、楽器、どれもきちんと管理されているようで、埃一つ見当たらなかった。
「怜、小麗」
「あ、うん」
五代に呼ばれ、怜は小麗の手を取った。一瞬だけ抵抗したように思ったが、怜と目が合うと「なんでもない」といった感じで首を振る。
怜は後ろ髪を引かれつつも、気を取り直して五代の元へ向かった。
「綺麗な景色だろう?」
「うん」
ざっと見た雰囲気からしても、落ち着いた感じの茶楼で、五代の言う通り景観も美しい。客は主に富裕層の清人もしくは外国人が多く、交わす会話はほとんど英語である。接客はほぼ若い女性で、当たり前といえば当たり前だが、小麗くらいの子供は皆無だった。
『やあ。五代さん』
爽やかに登場したのは、茶楼の主人・呉という男だった。歳は三十六と比較的若い。約二十五人の下働きを抱え、なかなか羽振りが良さそうに見えた。
『すまないね。突然押しかけて』
『いやいや。また会えて嬉しいよ』
呉は二人に視線を移した。それに気付いた五代が慌てて口を開く。
『こ、こ、この子は趙、趙……"趙 怜と言うんだ』
五代は額にいっぱい汗を浮かべながら最後まで言い切った。もし五代をよく知る人がいれば直ぐに"嘘"だと見抜かれるだろう。しかし呉は疑いもせず、にこやかに握手を交わした。
『チョレイです』
反対に怜は普段から嘘をつき慣れているので、屁でもない。とにかく身元がはっきりしない小麗の為に、わざわざ苗字を清のものにし、怜と兄弟だということにしたのだ。
『へえ。君は英語が話せるんだね』
『生まれは清ですが、育ったのは英国です。だからこっちの言葉は話せません』
『そうなのか』
『で、この子は趙 麗』
怜は小麗の背に手を置いた。
「我 叫 趙麗」(私はチョリーです)
呉はおや?という顔をした。
五代は怜に睨まれ、慌てて口を開いた。
『こ、この子はずっと清で育ったんだ。だから英語は話せない。二人は小さい頃に生き別れてね、最近になって再会したんだよ』
『そうだったのか。小さいのに苦労したんだなあ』
呉はさも気の毒そうにチョレイとチョリーの頭を撫でた。どうやら子ども好きのようである。これはもしかしたら上手く事が運ぶかもしれない、と五代は元より怜も思った。
『実は、今日はちょっと相談があって来たんだ』
『相談?』
『実はこの小麗なんだが、この店で雇ってもらえないだろうか』
五代は話を切り出した。
『雇う……まあ確かに人手は足りないが』
呉は困惑の表情を浮かべた。
『しかし、まだ五つか六つほどだろう?仕事と言っても...』
『この子は小さいけどしっかりしとるし、気立ても良くて力持ちです!どうか住み込みで働かせて下さい!』
怜が深々と頭を下げると、小麗も同じように頭を下げる。呉は「うーむ」と考え込んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「何故この橋が階段のように曲がっているかというとね、悪霊は真っ直ぐ進むだろう?だからこの池に払い落とす為、らしいよ」
五代は振り返って息をついた。
「そんなに気を落とさないで」
トボトボと歩く少女達。小麗より怜の方が足取りが重い。五代は苦笑しながら二人の手を引いた。
「また探せばいいよ」
湖心亭の楼主人は案の定首を縦に振らなかった。怜が何度も食い下がったが、やはりまだ幼い事が原因である。
「そうだ。今度は役所の方にも回ってみよう。小麗は字が読めるんだろう?もしかしたら使ってくれるところがあるかもしれないよ」
「なあ五代君」
「ん?」
「悪霊が真っ直ぐ歩くって誰が決めたん?」
「えっ」
「霊は物体をすり抜けるのに階段であろうが直線であろうが関係ないやん。しかも身体すらないのに、池に落ちるわけないやん」
怜は八つ当たりをしていた。
自分の不甲斐なさに無性に腹が立ったのだ。
「し、知らないよそんなの」
「知らんのに根も葉もないことを吹聴するんは、大人としてどうやろ」
「吹聴って…」
五代は焦りつつも何とか平静を装った。
「じゃ、じゃあさ、逆に悪霊が物体を通り抜ける証拠もないんじゃないかな?もしかして肉体のある悪霊だっているかもしれないよ?」
「はあぁ!?」
「あ、あの番町皿屋敷だってそうじゃないか!毎夜井戸の前でお菊の幽霊が皿を割りながら一枚二枚と数えるだろう!?」
「お菊ちゃんは数えてるだけで皿なんか割ってへんし!」
「お菊ちゃんって…」
「友達やもん!」
怜が掴みかからんばかりに声を荒げたところで、五代が「小麗!?」と突然叫んだ。
五代の繋いだ手から、小さな身体が傾いた。寸前で引き上げたおかげで地面にはぶつからなかったが、真っ白な顔は粒の汗が滴り、色を無くした唇は小刻みに震えている。
「小麗!」
怜は脈を測ろう手首を取ったが、小麗はそのままくたりと意識を失った。
その夜、小麗は熱を出した。
◇◇◇◇◇◇◇
「女の子だったよな?」
「ええそうよ。何故?」
「実は今日、ちょっと気になる子がいたものだから」
「どんな子?」
「チョレイとチョリーという双子さ」
「……双子じゃないわ」
「だよなぁ。歳は多分"鈴麗"くらいだと思うんだ。それに、君に少し似ている気がしたんだ」
「ほんとに?私と姉さんはそっくりだっていつも言われていたのよ!」
思わず興奮して呉に縋り付く。
「ただ…」
「え?」
「少年だったんだ」
呉の妻・鈴玉は、夫の背中を眺めながら、軽く息をついた。鈴玉は元々福建省出身である。数年程前に上海に来て、呉と知り合って結婚した。
上海に来たのは理由があった。自分の姉・神美を探しに来たのである。鈴玉の家は裕福で厳しい家庭だった。姉も自分も幼い頃から英才教育を受け、毎日が息の詰まるような生活を強いられていた。
そんなある日、姉に結婚話が持ち上がった。相手は従兄弟でよく知る間柄であり、二人姉妹だったため婿を取るという形だった。それについては一般的ともいえるし、従兄弟も特に申し分ない人である。
しかし神美には、別に愛する人がいたのだ。それは鈴玉も良く知る人物で、"朱"という男だった。彼は薬師で、若いながらに腕は確かなものだったから我が家によく出入りしていた。しかし両親の知るところになり、当然猛反対され、朱は出入り禁止、姉は屋敷に監禁される日々が続いた。
しかしある夜、神美がいなくなった。
二人は駆け落ちしたのだ。
あれから幾年。
全く音沙汰がなかった姉から手紙が届いたのは四年前だった。そこには今までの事が全て書かれてあり、子供がいると書かれてあった。
子供の名前は『鈴麗』(リンリー)。
最初で最後の写真だろうか。
姉の夫・朱は、膨らんだ姉のお腹の上に、重なるように手を置いている。まだ子供が生まれていない頃の写真である。
その後、彼はかの戦火に巻き込まれ、亡くなったという。けれど姉は気丈にも当時三歳の鈴麗と二人きりで暮らしていた。泣き言もなく、毎日が幸せだと、貧乏だけど、娘がいるから幸せだと、そう締め括っていた。
それから私達は両親には内緒で、頻繁に手紙のやり取りをした。私は姉が心配だったし、姉もまた両親のことを気にかけていた。しかし数十通目の文通の後、突然音信不通になった。
何度手紙を書いても宛先不明のまま返送され、役場に問い合わせても"わからない"の一点張り。上海の状況を考えると仕方の無いことかもしれない。
私は両親に全てを伝えた。
勿論その時は怒られたけれど、やはり両親も心配だったらしく、何度か足を運んで探しに行った。
しかし見つからなかった。
姉の手紙に書かれてあった場所は、戦場から近い場所で、父が行った時には既に、草一本も見当たらぬ不毛の地となっていた。
その後、外国に接収される形で租界地になり、避難民も戻ってきたが、その中にも姉の姿を見つけることは出来なかった。
でも、私は諦めきれなかった。
姉の一言が、私を上海に留まらせたのだ。
『どんなことが起きても鈴麗だけは守りたい』
だから私は信じている。
「大丈夫さ。きっと会えるよ」
「ええ…そうね」
その為に上海にいるのだから。
◇◇◇◇◇◇◇
「小麗、大丈夫?」
「うんアル」
小麗は力無く笑った。
医者に診てもらうとただの風邪だと言われ、薬も飲ませたがまだ熱は下がらない。色々連れ回したものだから、何処かでもらってきたのだろうと、怜は責任を感じていた。
「お腹空いてる?」
小麗は首を振った。
「あ、そうや。お土産があるんよ」
怜は小さな冊子を取り出した。
「"西遊記"って知ってる?」
「知らんアル」
「猿の子供が豚のオッサンとパンツと旅をする話。面白いよ」
西遊記と何かが混合しているようだ。
小麗は頭の中に猿と豚のパンツを想像した。
「ずっと寝てばかりやったら暇やしね」
怜は冊子を手渡した。
「おおきにアル」
嬉しそうに礼を言った小麗だったが、パラパラと冊子をめくって怜に押し付ける。
「読んでほしいん?」
「うんアル」
「わかった。……昔ある所にヤムチャがおって、パンツがーー」
怜は読めない字を見ながら適当に話を作り出す。小麗は横になったまま聞いていたが、そのうち瞼がゆっくり閉じて寝息を立て始めた。
「小麗…おやすみ」
しばらく寝顔を見ていた怜だったが、扉の向こうから名前を呼ぶ声が聞こえて、そうっと部屋を後にする。
目の前には高杉が立っていた。
「小麗はどうだ?」
「今寝たとこ」
「そうか」
二人で廊下を歩きながら食堂へと向かう。もうとっくに夜も更けているのに、相変わらず酒を酌み交わす男達で賑わっていた。
「商城にある質屋を知っているか?」
「ああ。"徳〜"なんたらって言う店じゃなかったか?」
「そこだそこ。日本の物は結構売れるらしい」
「そりゃ珍しいからだろう」
「こいつなんて、勾玉一個でメキシコドル4枚と交換してくれたんだ」
「まことでござるか!?」
「そりゃ質のいい石だったんだろう?」
「いや実はあの勾玉は、俺が趣味で作った物で、瑪瑙でも硝子でもない。割れた茶碗の欠片で作った全く価値の無い物さ」
「な、なんと!!」
ワーッと歓声が上がり、更に盛り上がりを見せる集団の横を、怜は聞き耳を立てながら、席についた。
「何の話?」
「ああ……質屋だろ」
「もうすぐ帰国だからね。土産代稼ぎだよ」
中牟田が数冊の書物を抱えて隣りに座った。
「何それ?」
「上海の古地図だよ。見てみるかい?なかなか興味深いよ。租界地が拡大されていく様が良くわかる」
「へえ…」
怜は中牟田から本を一冊受け取って、中をペラペラとめくってみた。地区毎に区切られた詳細なものから、全体を見渡せる地図まで多様だ。主要な場所にはレ点が付けられ、名が記されている。
「道台府、上海県署、西園……」
怜は点と点を結ぶようになぞりながら、ふとその手を止めた。
「地底人が、おる」
「あ?喧嘩売ってんのか?」
高杉が立ち上がった。
「た、高杉さん、急にどうしたんだ」
しかし怜は高杉に目もくれず、中牟田に詰め寄った。
「これ、何の店!?」
「え?」
「ホラ!ここ!この店」
怜が指した場所は湖心亭近くの商城地域。
"徳興館"だった。




