087
残酷な描写あり。苦手な方はお控え下さい。
上海が現在のように発展を遂げたのは、20年程前に結ばれた南京条約以降である。開港された上海は西欧列強の手によって近代都市に生まれ変わり、世界中の商船が集まる貿易都市と共に、街並みもまた西洋そのものの様態であった。
外海からひた走る千歳丸は長江の支流・黄浦江を入り港へと到着する。そこへ待ち構えていたのは、イギリス人やオランダ人の関係者ばかりで、中国人はほんの一握りだった。
仰々しく挨拶を述べる役人らの後方で、怜は辺りを見渡す。とまあ、それは怜に限らず誰も彼もが上海の街並みを珍しそうに眺めていた。
「黄浦江、と言ったな」
「ええ。清を代表する汚ったない川でござりまする」
「へえ」
「けして川の水を飲んだりしてはいけませぬ。身体に浴びるのも駄目でございまする」
「……そんなにか?」
高杉の問いに怜はコクリと頷く。
「さすが怜。博識だね!」
反対隣りの五代が、感心したように頭を撫でた。(即座に振り払った)
いつの間にか高杉と五代も表向きは打ち解けた間柄になっていた。長州と薩摩をそれぞれ背負う彼らは、現時点では相容れぬ仲だと言っても過言ではないが、やはり日本から遠く離れている今では、そんな関係も小さな物事と一つにしか過ぎないのかもしれない。
「ところで五代君。今日の予定は?」
「歓迎会が終わったら観光しようかと」
「俺もついていこうかな」
「もちろん!怜も来るよね?」
「それがしは旅の疲れが出ておりますゆえ、ゆっくり宿舎に……」
「此奴は小姓だから当然」
「……」
「な?」と振り返ってニッコリと微笑んだ高杉に、怜は底知れぬ恐怖を感じた。
(こやつめ…)
きっと知りたいのだ。五代が何の為に水夫になってまで上海に来たのか。無論、藩命をもって訪れたのは明らかだが、薩摩藩がどんな目的を持っているか探ろうとしているのだろう。
いくら傍目で仲良くなった見えても、さすがに五代も手の内を明かすことはしないだろうがーーー
彼は今浮かれている。
「異国の地で怜と一緒なんて、何だか新鮮な気分だなぁ!ひゃっほーい!」
浮かれ過ぎてトンチキだ。
「そういえばグラバーさんとは会ったのかい?」
「……はて、誰でござりまするか」
「やだなあ!怜ったら!そもそも君が斡旋してくれたおかげで、私がこの地に来れたんじゃないか!」
高杉の目がキラリと光った。
「ほう……」
「ち、違いまするー!」
「怜は謙虚だね!」
高杉の中で新たな疑惑が芽生えた。
元々、薩摩藩と面識があることは知っていたが、怜が久坂と結婚の約束をしたことで、現状では少なくとも長州の味方であると思っていたのだ。しかしよくよく考えれば、薩摩藩お預けの身だった怜を、強制的にこちら側へ引き込んだのは高杉自身である。寧ろ恨んでいても不思議ではないのだ。
「いや、まてよ……」
「うん!待つよ!」
「(……黙れ)」
ならば、どうして怜は久坂との縁談を承諾したのだ。
「怜」
「な、何でございまするか……」
高杉はマジマジと怜を見つめた。
「お前、久坂を好いているのか?」
「は?」
突拍子もない発言に怜の頭は疑問符でいっぱいになった。
「まさか、本気で奴を……?」
「ちょっと待って!どういうことなんだい!?」
二人に割り込む形で五代が怜の肩を掴む。
「れれれ怜!き、きみは、君には好きな男がいるのかい!??」
「え、……そうなのでござるか?」
「こっちが聞いているんだが」
確かに久坂とは色々あったものの、心底嫌いではない。そもそも結婚の約束をしたのは、単純に彼の死にゆく様が見えた気がして胸が苦しくなったのだ。
だがそれが高杉の言う”好き”に当てはまるのかどうか、恋愛経験の乏しい怜には全くわからなかった。
「私が先生を?」
「だから結婚の約束をしたんだろ?」
怜は今迄を思い返した。
”死んでほしくない”という気持ちそのものが”恋愛感情”に結び付くのか?
もしそれが他の誰かだったら、果たして同じ行動に出たのか?
「うーむ.,...」
恋とは一体どういうものだろうか。
今の怜には全くわからなかった。
◇◇◇◇◇◇◇
長州
夏にはまだ早い季節。明朝ともあって少々肌寒かった。
早々に上京の準備を終えた久坂は仲間と共に馬関港にいた。彼らが乗船する大坂行きの船は、出航準備に追われ水夫達が大忙しで行き交っている。
暖をとるように輪になって談論していた久坂だったが、僅かな音に気付き突発的に抜刀して振り返った。
「何奴」
キィイィンとぶつかり合った金属音が響き渡る。
「久坂玄瑞!貴様の命、この中村半次郎が貰い受ける!」
交差する刃。
向き合う格好で両者は睨み合った。
中村が纏う圧倒的威圧感が周囲を畏怖した。
それを冷ややかに俯視する久坂もまた、凄まじい気迫を漂わせている。
「お嬢は何処だ」
「……お嬢?」
「貴様が攫ったのだろう!調べはついている!」
「人違いではないか?」
「何だと!?」
二日前長州に到着した中村は、人伝てに久坂を探し出していた。もっとも藩庁を行き交う役人にそれと無しに聞いてみれば、彼を探し当てることはそう難しくはなく、昨日から気配を消して付け狙っていたのだ。だが中々一人にならず、今朝になって仲間と共に白石家を後にした際上京する話を盗み聞きし、出発する前に仕留めてしまおうと姿を現したのだった。
「人違いとは見苦しい言い訳だな」
刀を振り払い一歩後退した中村は、中段に構え更に続けた。
「今すぐ解放すれば、命だけは助けてやろう」
「何の話をしているのかさっぱりわからん」
「しらばっくれるな!」
怜の居場所さえわかっていればとうに始末しているはずだった。しかし話を聞き出すまで久坂を殺めるのは憚られた。
一歩も引かぬ中村を見据え、久坂は仲間に声をかける。
「おい。お前達お嬢を知っているか?」
仲間達はハッと我に返り目を見合わせた。
「は、え?……いや、はて」
「わ、私は存じ上げませぬが」
「く、久坂さん」
そこで一人の若い男がチラチラと中村を見ながら小声で言葉を発した。
「ん?」
「もしや文さんのことでは?」
「文?」
確かに文は昔、親戚筋から”お嬢さん”と呼ばれていた。「何処がお嬢さんだ。じゃじゃ馬め」と心の中で毒突いたものだ。
「成る程な……」
それを思い出した久坂はニヤリと口角を上げ、刀を鞘に収めた。
「……貴様、命が惜しくないのだな」
「いや、まだ死ぬわけにはいかん」
「ならば剣を取れ」
「その必要はない」
「…何だと?」
中村はジリジリと間合いを詰めた。
「お前の”お嬢”は我が家にいる」
「やはり貴様が!」
「すまぬ。まさか”お嬢”にお前のような恋仲がいるとは思わなかったのだ」
「こ、恋仲っ!?」
中村は大きく目を見開いた。
と同時にみるみる内に顔が赤くなる。
「そ、某とお嬢は、恋仲などではない!」
「お似合いだと思うが」
「お似合いっ!?」
中村は思わず刀を下げ、胸に手を当てて「落ち着け!落ち着くのだ!」と心の中で唱えた。いくら中村とて六つの子供に恋慕などあり得ない。確かに成長すればなかなかの美人になるかもしれないが、それこそ希望的観測に過ぎない。
「そ、某はお嬢をイヤラシイ目で見たことはけしてない!この命に賭けて断言するっ」
「ほう…」
「某はお嬢を敬愛し、お嬢をっ」
「それが愛だ」
「お嬢……えっ?」
「敬愛こそ、”愛”そのものなのだ」
「な、なに...」
矢立を取り出した久坂は、古びた紙片にサラサラと自分の住所を記し満足げな表情で中村に手渡す。
「”お嬢”は此処にいる。きっとお前を待っているだろう」
「…な、……某を待っている?」
「そうだ。何処へなり連れて行くがいい」
思わぬ展開に中村は呆気に取られた。
「元々(松蔭先生に)頼まれて仕方なく引き受けたに過ぎない。それがしは殆ど家にも帰らず、寂しい思いをさせるだけだ」
「誰ぞに頼まれたのか……?」
「ああ。本人の希望もあったが」
「お嬢自ら?」
「うむ。しかし正直持て余していた」
クソ不味い料理の数々、自意識過剰な態度、口を開けば「兄は…」と松蔭を持ち出し説教を繰り返す傲慢な態度。どれもこれも辟易していた。(因みに久坂は味音痴である)
「アレは普通ではない。わかるだろう?」
「……そ、それは」
中村は考えた。
確かに怜は普通ではない。
その辺の男では到底太刀打ち出来ない特殊な性質を持っている。
「私に気を使わなくとも良い。とっとと持ち帰ってくれ」
「あ、ああ」
「そして二度と現れないでほしい」
「……うむ」
「では、さらば」
すっかり毒気を抜かれた中村は、颯爽と去っていく久坂の背に一礼した。
「……感謝する」
中村がこの一連の勘違いに気付くのは、当然ながら文と対面した瞬間である。「お嬢!」と迎えに上がれば「お嬢などと久方ぶりに呼ばれましたわ。ーーええ。勿論許可します」と訳の分からぬ女(文)の話を延々と聞かされ、やっと解放されて港に戻ればもうそこに久坂は居なかった。(当たり前だが)
一方、瀬戸内海を横断する久坂は、朝焼けの空の下、清々しい表情だったのは言うまでもないだろう。
両者が再び合間見えるのは遠くない未来である。
◇◇◇◇◇◇◇
上海
路地裏でゴミを漁るのは日々の日課であった。仕方あるまい。そうでもしなければ生きていけないのだから。
無造作に伸びた黒髪は腰の辺りまであったが、土や埃にまみれて灰色がかっている。もはや少年か少女かも分からない風貌で、野良猫のように目だけがギラギラしていた。
小麗
ほんの少し前までそう呼ばれていた。
今では誰も呼んではくれない。否、呼んでくれる人がいなくなったのだ。
小麗は狭き道をふらふらと歩きながら、通りからほんの少し顔を出した。
立ち並ぶ屋台から美味しそうな匂いが漂い、グウゥと腹が鳴る。
『お腹空いた……』
ゴクリと唾を飲み込み、大皿に積まれた茶色い饅頭を見つめた。
一つ、いや一口でいい。
もしあれを口にすることが出来たら……
小麗は饅頭屋台の店主らしき男を伺った。優しげな髭モジャの小男だ。しかし知っている。ああ見えてあの男はとんでもない男なのだ。以前匂いにつられた野良犬が屋台の前にやって来た時、奴は用意周到に準備してあった木刀を振り上げた。野良犬は逃げる力も無く、されるがままに力尽き、そして死んだ。
けれど、それで良かったのかもしれない。毎日毎日空腹と戦うより、いっそ死んでしまった方が楽になれる。
小麗の精神状態は極限に達していた。
だからこそ、”死”というものに何の執着もないのだ。
小麗は意を決した。
野良犬のように殺されてもいい。
ひと口さえ食べることが出来たら本望だ。
そうしてふらりと数歩歩み出たその時、一人の子供が饅頭屋台の前に駆けてきた。
「なぁオッサン。この饅頭、黄浦江の水で作ったんちゃうやろな?」




