086
鈴木君は怜が上海行きの船に乗船した事実を最初から知っていたわけではない。彼がそれに気付いたのは、捜し求めて有明海に到着した時だった。
高い波を目の前にして、微かに流れる怜の香りという名の軌跡。強風と共にそれに気付いた。佐藤君も同じく感知し、導かれるように一つの可能性に辿り着いたのだ。
こんな手荒な真似をするのは長州しかいない。
久坂か………いや、違う。あいつだ。
名前はなんだったか……タカタ……高須…、……まあ、何でも良い。とにかくあの男に違いない。
てことは、心配あるまい。
怜を傷付ける真似は”奴”には出来ない。
もし手出しする馬鹿がいるとしたら、むしろーー
鈴木君は追うのをやめた。
もっともこの天候ではいくら世界最強の夜鷹でも困難である。(※鈴木君主観)
執念深い中村と行動を共にするのは面倒だったが、致し方あるまい。適当に探すふりをしつつ小松と再会し、真実を伝えた上で佐藤君と植木に帰ろう。
鈴木君は眼前で目を丸くしている小松を見つめた。
「怜が……上海に」
ならば怜の身柄は安全だ。何せ五代もいるしグラバーという男もいる。仮に居ないとしても簡単にやられる子どもではないが。
「……で、これから君はどうするつもりだ?」
事態を一瞬で把握した小松は幾分表情が柔らかくなった。
「良かったら一緒に江戸にいかないか?」
「……」
しかし鈴木君は無表情だ。
「え……」
「……」
「な、何なの……その目」
「……」
「ちょっ!鈴木君!私は別に君のことを」
「……」
「いやいや!私は妻もいるし、そんな趣味は」
「……」
「ましてや君は”鳥”だろう!百歩譲って雌だとしても!」
「……」
「……」
見つめ合う二人。
許されぬ恋のーーーー
「キョキョキョ」(雄に興味なし)
「.....同じく」
ーーーーー予感は無さそうだ。
◇◇◇◇◇◇◇
長州・久坂家
「お帰りお待ちしておりました」
「……うむ」
「何か楽しいことでも?」
「……そのように見えるか?」」
「ええ。とても嬉しそうです」
「そ、そうか」
「久しぶりに妻の顔を見たからかしら?」
「それはない」
「……」
久坂に女心をわかれという方が無茶な話である。
妻・文は夫の背中を睨み付けながら甲斐甲斐しくその後を追った。
結婚して三年。
その間様々なことがあった。
特に兄である吉田松陰が亡くなってからその意思を継ぐ久坂はほとんど家に帰ってこない。長州に戻ってきたと報せがあっても夫婦の家に帰らないのだから、全くもって無意味である。
「今日はこちらに?」
「うむ」
「では夕食の準備をして参ります」
「ああ。今夜は桂さんが来るから酒を多めに」
「承知致しました」
嬉しかった。
今日は泊まるのだ。
「泊まる」というのも妙な言い回しだが、事実そうなのだから仕方がない。
文はいそいそと準備に取り掛かる。
大体彼女は久坂が長州に戻ったと聞けば、いつ帰ってきてもいいように米や酒等、食料を調達して待っている。しかし久坂はまるで妻の存在を無視するように夫婦の家に足を運ぶことはなかった。
今回、何故彼が帰ってきたのか、文はわかっていた。親切な人がわざわざ教えてくれたのだ。
久坂に新しい”女”が出来た。
更に結婚の約束をしているという。
つまり、”妾”、”愛人”
いや、側妻というべきだろうか……
彼はいたくご執心だという。
頭の痛いことである。
特段好いて一緒になったわけではないが、たった三年の結婚生活を経ての、女にとってみれば”裏切り”である。
あまりに薄情なのではないだろうか。
「子供でもいれば、問題なかったのに……」
文はぽつりと呟いた。
三年という短くも長い月日。
生活に困ることは無かったが、やはりひとり寝の夜は寂しかった。
「よし!夜這いしよう!」
そう決意を込めて拳を握ったところで、久坂家に桂がやって来た。
「しばらく見ない間に綺麗になって」
「いやだわ…桂さんったら」
ほんのり頬を染めた文は、久坂をちらりと見た。
「高杉は上海に着いただろうか……」
「!」
「役人らに虐められていないだろうか」
「……」
あるとしたら逆だと桂は思った。
いやそれより、妻が褒められているというのに、高杉の話をするなど以ての外である。桂が見る限り、文の目は冷ややかだ。
しかし久坂はいつもこうである。家庭を顧みず、頭の中はいつも攘夷、倒幕、そして友人の心配。
けれど文にしてみれば、だからこそ安心していたのだ。こんな男が”浮気”などするわけがないと……
(桂さんの方がよっぽど私の心を理解しているわ……)
当初、桂に嫁ぐ話もあった。
その時まだ文は14歳そこらで、精神的に未熟でもあったし、兄も乗り気では無かった為、その話は流れてしまったのだ。
しかし、桂の元へ嫁いだ方が、女としては幸せだったと今では思う。むろんもう過ぎ去ったことなのだから、今更なのだが。
「今日はお話があって来たのでしょう?」
「えっ…」
文はにっこり笑って見せた。
ここはドンと構えておかなければならぬと思ったのだ。どんなが相手来ようとも、自分を脅かすことは出来ない。誰であろうと自分を貶めることは出来ないのだ。
何故なら自分は”吉田松陰の妹”なのだから。
「ほう。話が早くて助かる」
久坂がほくそ笑んだ。
「久坂!お前な…」
「いいんですのよ。桂さん」
「しかし…」
「殿方ですもの。妾の一人や二人」
余裕の表情に桂は内心ホッとしつつも、文の背後に黒い靄のようなものを見た気がした。
「当然だな」
久坂はさらりと言う。
文の額に1センチの見えないヒビが入った。
「気立ての良い娘だ。容姿端麗、有智高才…」
「容姿端麗…?」
桂が首を傾げた。
「貴方が女性を褒めるなんて…よほどご執心ですのね。でも私も負けていませんわ」
「怜…あの娘だけは特別だ」
「怜……というのね」
「美しい名だろう?」
「いえ全然。私の名の方が美しいですわ。近頃は近所の方々から”ふーみん”なーんて呼ばれていますのよ?」
「まさに完璧だ」
「恐縮ですわ。貴方も良かったらそう呼んでもよろしいのよ?ーーええ。特別に許可します」
「しかしこの煮付け…」
「ああ。それは今朝獲れたばかりの鯖の味噌煮ですわ」
「クソまずいな」
「恐縮ですわ。兄もこれが好物でしたわ。”文は料理上手だね”とよく褒めてくださいました」
「二度と作らないように」
「明日もこれにしますわ」
桂は頭を抱えた。
この夫婦ときたらいつもこの調子なのだ。大体話が噛み合わない。久坂は全く話を聞かないし、文も文でわけがわからない。
桂は意を決した。
「文さん」
「はい?」
「祝言はまだ先の話ですが、このまま何事もなく進めば数年後には」
「あらいやだわ」
「え?」
「直ぐにでも結婚なさってよろしいのよ?何なら明日でも明後日でも」
「某もそうしたいところだが、まだ怜は若いからな」
文の額のヒビが2センチになった。
”お前と違ってピチピチのギャルだからな”と聞こえた気がした。
「そ、そうですか。貴方も隅におけないわね」
「怜が希望するのだから仕方がない」
3センチになった。
「一体お幾つですの?」
文の問いに、久坂はあたかも当たり前のように言い放った。
「6歳だ」
久坂家では近所の住人が驚くほど、女の高笑いが聞こえていた。
「ふ、文さん?」
「おーっほっほっほっ!おーっほっほっ」
文はすっくと立ち上がると、ビシッと久坂に指を差す。ちなみに額のヒビは綺麗に修復されていた。
「まさか貴方にそんな趣味があるだなんて!おーっほっほっほっ」
「趣味…」
久坂は小首を傾げて腕を組んだ。
「そうよ!最初からおかしいと思いましたわ!もしかしたら衆道かしらと疑ったこともありましたけど……そういうことだったんですのね!おーっほっほっほ!」
「文さん、落ち着いて」
「大丈夫ですわ。桂さん。私、ようやく主人が理解出来ましたの」
「は?」
「どうぞどうぞ。その”6歳”の”幼女”と結婚なさって下さいな」
「むろん。その予定だ」
「い、いいんですか?文さん」
「当たり前ですわ!私が6歳ごときに負けるはずがございません!」
「既に負けているが」
「さあて、”文”だけに文を書かねば!」
「え?ど、どうしてですか?」
「夫が幼女と結婚するのです!夫の変態性を皆に知らせるのが妻の努めですわ!」
「おお……それは助かる。玉木さんにも報告を頼む」
「ええ!長州全土に知らせますわ!」
「すまぬな」
「お安い御用です!」
桂はそっと久坂家を辞した。
◇◇◇◇◇◇◇
大風が通り過ぎた後の千歳丸は、大陸を目指して順調に進航し、既にその影を右に捉えている。あと一刻もすれば到着するとのことで、甲板では上陸に備えて皆が準備に追われていた。
「いよいよだな」
高杉は嬉々とした表情である。
揺らめく三つの旗。
高杉によれば、幕府船がまず目指すのは上海の阿蘭陀領事館だという。ちなみに千歳丸のイギリス乗組員の中に実際には一名の阿蘭陀人通詞が同行しているが、怜にしてみればグラバー以外全く区別がつかなかった。むろん相手側からすれば逆も然りである。
「そこの者」
声をかけてきたのは根立である。
すっかり回復した表情は血色も良く、声にも張りが出ている。見るからにお偉い役人様だが、鋭い瞳の中に穏やかな光を感じた。
高杉は感情を隠した顔で根立の前に出ると、ちらりと振り返って怜に「来い」と目配せしながら顎をしゃくりあげた。
怜は半ば走りながら近付いてやや手前で前転し、床に膝を付けた状態で高杉の後方にぴたりと控えた。
”長州藩の小姓は変わった登場をするのだな”と根立は思った。(※そんな登場の仕方をするのは怜のみである)
「我らに何か御用で?」
「此度はそなたらのおかげで皆が助かった。改めて礼を言う」
「いえ。当然のことをしたまで。礼には及びません。それに幕府を助けるのが我々の努めですから」
高杉は思ってもいないことを無表情に(面倒くさそうに)言った。
「ふむ。良い心がけだ」
「根立様」
満足そうに頷く後ろから、中年の男が前に進み出た。
「おお、そうだ。紹介しよう」
その男は見るからに医者だった。
よく考えればこういった御用船に医師が同行するのは当然である。加えて彼は、船旅にも強いという理由で同行しているわけで、まさか自分まで苦しむとは思わなかったのだろう。口元は固く結ばれ、しかし同時にバツが悪そうな表情をしている。
己の不甲斐なさを嘆いているかのような表情である。むろん悪天候の状況では仕方のないこととはいえ……
「貴殿は医学の心得があると見受けたが、どなたかの……」
いつか問われるであろうと思っていた高杉は、何の躊躇いもなく答える。
「以前、どこかの医師より手解きを受けた次第です。……此奴が」
高杉はあっさり怜を犠牲にした。
「なんと!」
「ほう!……このような子供が」
「聞きたいことは何でも聞いて下さい。……では失礼」
目上の者に対し、許可なく退散するなど余りにも無礼な態度であったが、医師と根立はそれよりも子供が医学に通じているという事実に困惑し、咎めることも忘れていた。
高杉はさっさとその場を離れ、ちらりと怜を見ると、かまぼこ目で口角を上げる。怜はギリリと歯噛みし、口を開いた。
「……以前、阿蘭陀人医師より手解きを受けたことがありまして」
「阿蘭陀……蘭方医学と言うわけですか」
「はい」
「蘭方医学に”梅干し”など聞いたことはないのだが……」
「その医者は日本在住歴が長いものですから独自に調査したと思われまする」
「しかし”指圧”というのは清国の”経穴”と見受けられましたが」
「その医者は清にも長く滞在しており、その際に学んだと述べておりましたでございまする」
「成る程。なかなかの人物とお見受け致しました。失礼ですがその医者とは?」
「……シーボルト、というオッサンでございまする」
「おお……シーボルト医師でござったか!納得致しました!」
「あの御方か!以前お会いしたことがある。確かにあの方なら」
感心したようにしきりに頷く二人組。
シーボルトってやっぱり有名なんやな、と改めて思った。
「一時はどうなるかと思ったが、童とはいえ貴重な存在。これからも良しなに頼むぞ」
「は…」
「医者が船酔いとはいえ体調を崩すなどお恥ずかしい限り。これも貴殿のおかげでございます」
「いえ。それがしは主人の命に従ったまで。それよりも根立様」
「ん?なんだ?」
「少々お聞きしたいのですが」
「何なりと申せ」
「上海の滞在期間は何日ぐらいでござりましょうか?」
根立は目を丸くした後、何故か笑い出した。医師もくっくっと声を漏らす。
「何日などと冗談を申すな。まだ着いてもおらぬのに」
「予定では二ヶ月の滞在。私はその間に清国の医学を学ぼうと考えております。貴殿も良ければ私と一緒に……おや?どうかしたのですか?」
怜は言葉を失った。
まさか二ヶ月も逗留するとは思わなかったのだ。適当に日本から持ってきた特産品を販売し、適当に清国の情勢を見学し、適当に向こうの商品を購入した後さっさと帰ると思っていたのである。
二ヶ月後。帰る頃には季節が一つ過ぎてしまう。つまり夏の盛り。ちょうど西瓜の収穫時期である。
オーナーたる自分がいなくてどうするのだ。いや、佐吉がいれば収穫期を見逃すことはないだろう。しかしいつ帰るかわからない怜を、ずっと待ち続けるとは思えない。なんだかんだで農業に携わる佐吉だけに、収穫した後、西瓜を腐らせるよりはと考え、市場に卸してしまう可能性がある。
(こんなことになるんやったら、西瓜糖の作り方教えとけばよかった…)
怜は空を仰いだ。
いくら前向きな怜といっても、さすがに今回は打ちのめされた。後悔先に立たずと言うが、絶望感しか残らない。
自分がしっかりしていれば防げたかもしれない。自分が悪目立ちさえしなければ回避出来たのだ。今まで様々な人々に出会って、思いのままに行動してきた。家族は元より小松や小栗、そして東郷があれだけ心配していたにもかかわらず。
怜は誓った。
もう二度と目立つ行動はしない。
もう二度と未来の知恵を使うことはしない。
もう二度と誰とも関わらないーーーー
半刻後、千歳丸の甲板ではイケメン水夫と小さな子供が、それは楽しげに遊んでいる姿が乗組員全てに目撃された。
その水夫は満面の笑みで「そおら!ぶぅうーん!」などと訳のわからない雄叫びを上げていたが、反面小さな子供は死んだ魚の目だったという。




