085
高く昇った太陽は、もう夏の気配を思わせるほど燦々と照りつけていた。しかし海から流れる潮風が心地良く吹き抜けているためそれほど暑くはなかった。
「高杉さん」
「あー…」
「姿が見えないとおもったら……」
「ずっと部屋に篭ってたら気が滅入る」
高杉の言葉に佐賀藩士・中牟田倉之助は苦笑した。彼もまた高杉と同様、藩の推薦によって加わった1人であり、渡航前の顔合わせの際2人は意気投合したようだ。勤勉家である彼は、長崎滞在の折り英語も取得しており、蘭学にも通じている。なかなか機転が利くようで、さっきの2人の悪戯も中牟田の登場によって両者の誤解も解け、いとも簡単に収束した。むろん旗は意図したものではなく、加えてそのようなちっぽけな物事に拘らない彼らは、こちらの希望通りやや日本側を上に掲げてくれた。
「ところでこの子どもは?」
「ああ。紹介する。俺の小姓だ」
「ほう…」
怜は恭しく頭を下げた。
「金太郎と申しまする」
「某は中牟田倉之助と申します」
「ちょっと変わった奴だが気にしないでくれ」
「御意」
「お前のことだ」
高杉は半眼で怜を見て、中牟田に向き直った。
「そーだ。俺、長州から酒持ってきたんだ。一緒に飲まないか?」
「さすがに酒は辞めておきます」
「下戸なのか?」
「いえ、船酔いすると困りますからね」
二人は中牟田の視線を追った。
船の横縁には居並ぶ数人の男達。全員日本人である。皆一様に顔を海面に投げ出し、地の底から這い出たような不気味な悲鳴を上げながら、ゲーゲーと肩を震わせていた。
「だらしがねーな」
「日本男児に有るまじき行為かと思いまする」
「手厳しい…」
「今からこれじゃあ先が思いやられるな」
怜は空を見上げた。
「荒れまする」
「なに?」
「明日、もしくは明後日…」
「お前…天候が読めるのか?」
神妙な面持ちでコクリと頷く怜。
読めるわけがない。ただの野生的勘である。ちょうど季節の変わり目に差し掛かる今の時期、天候は荒れやすい。まださほど揺れは感じないが生温い風の感触がそう予感させたのだ。
「ほう……それが本当なら更に病人が増えるでしょうね」
「中牟田様は海軍出身でございまするか?」
「はい。長崎伝習所で学び、その後は藩の海軍所で数年…」
「だから海に強いのでございまするね」
「そういえば高杉さんも船酔いしないのですね」
「閣下は幼き頃から長州の片田舎で漁師をしておりましたゆえ」
「ほう…なるほど」
「さらっと嘘をつくな」
そうこうしている内に昼食の時刻となり、三人は船内にあるラウンジのような場所へやってくる。それなりに贅を尽くした室内は、テーブルとイス、窓際には重厚なソファが並び、和の要素は全く感じられなかった。
「お前も座れ」
「は」
ほとんど空いたテーブルに腰掛け、高杉は周りを見渡す。幾人ずつ別れた役人が黙々と食事をしている他は、奥の方で上役と思われる数名がイギリス人とともに歓談しているのが見えた。
「あれは向こうの通詞ですね」
「グラバー…という名だったな」
怜はギクリと肩を揺らした。
そろそろと顔を向けると、なるほど確かにあのトーマス・グラバーである。
「怜、知っているのか?」
「知りませぬ」
怜は背を向けるように座り直すと、心を読もうとする高杉に冷ややかに視線を送った。と、ここで席を立とうとする彼らの様子を感じる。怜は気付かれないよう石と化し気配を消した。
「チェス……ですか?」
「YES。西洋では、貴族は皆タシナンでいるのですよ。ヨケレバお教えしますよ」
「…ふむ。なかなか興味深い」
そんな声が頭上でしたかと思ったら、カランと小気味よい音がして、グラバーの足元にキラキラと輝く花飾りが転がった。
「おっと……」
帯留めである。
何故こんな物が、と考えるまでもなく高杉が落とした物だ。それもわざと……
「落としマシタよ」
グラバーは長身を折ってそれを拾い上げ、片膝を付いたまま怜に目線を合わせた。
「ちっ」
怜は忌々しげに舌を鳴らすと、堂々と胸を張りグラバーに視線を向ける。
「ありがとうございまする」
ハッと目を見張るグラバーに対し、高杉は少々前のめりになった。
「なにか?」
「い、いや……」
「お知り合いですかな?グラバー殿」
「……いえ。シリアイに似ている気がしたのですが、お人違いでゴザルました」
しかし彼が気付くことはなかった。
やや訝しげに見てはいたが、怜が満面の笑みを見せると「oh……」と目を背けた。歯抜けの顔が余程気持ちが悪かったのだろう。
「デハ失礼」
颯爽と立ち去るグラバーに、怜は半眼で見送るとドンと帯留めをテーブルの上に置いた。
「見かけによらず、なかなか可愛らしいところもありまする」
「……は?」
怜はニヤリと高杉を見た。
「愛妻の帯留めを御守りに持ってくるとは……」
「!」
高杉の顔が林檎になった。
「む、無理やり持たされただけだっ」
「それはそれは…」
「ははは。なかなか面白い小姓殿ですね」
弱点を見つけたとばかりに怜はニヤニヤと高杉を見ていたが、給仕係が慣れない手付きで昼食を運んでくるのを見てまたも半目になった。
「失礼します」
暗い表情で現れた男は、二人分の食事を両手に抱えている。食事と言っても、簡単な握り飯と味噌汁だけの質素なもので、黒塗りの膳に乗せ高杉と中牟田の前に置いた。
「済まないが、此奴の分も」
「直ぐに....お持ち致します」
給仕係が伏し目がちに踵を返すと、中牟田が不意に首を捻った。
「あの方は……」
「知り合いか?」
「どこかで見たことが」
中牟田は腕を組んで眼を閉じた。
怜は表情を変えず男の後ろ姿を見送っていたが、それが誰なのか一目瞭然だ。
(五代君ともあろうものが……くくっ…笑える)
水夫として潜り込んだ五代が、まさかの給仕係をしているとは思ってもみなかった。全く怜に気付かず没頭して職をこなしているのを見ればバレる心配は無さそうだ。
「お待たせしました…」
しばらくして再びやって来た五代は、怜の傍らで膳を置いた。ーーーーが、ぐらりと身体が傾いたと同時に、怜の頭に味噌汁が降り注いだ。
「ぐひ熱ィイィイ!!!」
あまりの熱さに飛び上がった怜は、反動でイスから転げ落ちる。その拍子に床に眼鏡を落としてしまったが、バレる心配より先に、怒りの方が勝った。
「何してくれんねん!!」
思わず五代に掴みかかろうとして、ハタと手が止まる。
「………は?」
大の字に伸びている端正な顔立ちはピクリとも動かず、青白い肌はやけに深みを増している。
「五代君?」
怜の声に中牟田がポンと手を叩いた。
「おお!そうだ!この方は五代さんだ」
「五代?」
「長崎伝習所にいた頃、お会いしたことがありましてね。私は二期生でしたが、五代さんは一期生だったんですよ」
「へえ…」
「呑気なこと言うとる場合ちゃうやろ」
のんびりと話を始めた二人に、怜は噛み付いた。
「五代君!」
ペチペチと頬を叩いてはみたが一向に起きる気配はない。前合わせを開いて胸に耳を当てたが、心臓も規則正しく音を立て呼吸もしっかりしている。
「船酔いじゃないですかね」
「ああ、そういえば顔色が真っ青だな」
「船酔いで気絶って……」
怜は冷めた目つきで見下ろし、はぁーと大きな溜め息をつく。命にかかわることならばまだしも、たかが船酔いごときで自分が動くまでもない。しかし、五代をこのまま捨て置くのも気が引けた。何故なら”薩摩藩”とは長い付き合いになりそうだからだ。
「中牟田さん。ちょっと手を貸してくれ」
「お安い御用です」
「え…」
怜は目を丸くして高杉を見つめた。
「知り合いなんだろ?お前の」
「はあ……」
今更シラを切るのは不可能だ。ただこのまま役人の目に止まれば、最悪五代の身元がバレてしまうかもしれなかった。
「このまま役人らに任せてもいいが、船酔いする水夫なんて、疑われることこの上ないぜ?」
「そうですね。ひとまず我々の船室に寝かせましょうか」
二人も同じことを考えていた。
次の日、天候は怜の予想通り、雲行きが怪しくなっていた。早朝はまだ緩やかな波であったが、昼頃になると土砂降りの雨と共に大きく船が揺れる。進路を見失わないよう碇泊した千歳丸は、戦々恐々と不穏な雰囲気に包まれ、イギリス人でさえも船酔者が続出した。
「どうにかならんもんかねー」
「島でもあればいいんですがね」
「このままじゃ死人が出るんじゃないか?」
高杉らが心配するのも無理はない。
彼方此方から聞こえる悲鳴や呻き声、更に辞世の句を読む者、数珠を片手に念仏を唱える者まで現れている。下手すれば悲観した者が、自ら海へと身を投じかねない状況にあった。
「おい、何処へ行くんだ?」
怜は立ち上がった。
黙ってやり過ごしても現状が回復するわけでない。自分が知恵を絞ってこれを打破するしかないのだ。
「船酔いに効きそうもん探してくる」
◇◇◇◇◇◇◇
「お身体の具合はいかがでございますか?」
「……う…む…うっぷ」
込み上げる吐気に、儘ならぬ身体を支えられながら、勘定方の根立助七郎は半身を起こした。上海視察のトップとして千歳丸に乗船した彼は、それなりに幕閣から信用と実績を得てこの任に就いている。言わずもがな船などの乗り物には強い方で、旅にも慣れている。
「君…は大丈夫……かね?」
「それだけが取り柄といっていいくらいですから」
(ああ、確か彼は松田という長崎の商人で船旅にも慣れていると聞いたな……)
「……沼間殿は?」
「ご心配に及ばす」
それはそうだ。船長が船酔いなど笑えない。根立は力なく苦笑し、また質問を変えた。
「他の者は?」
「六割が臥せております」
「……」
今回の上海渡航ではイギリス人を除き、51名の日本人が乗船している。その内、半数は水夫及び賄い係であり、残り高杉ら他藩の随行人、そして通訳、記録掛け等の役人、あとは商人である。
中でも役人らの体調は芳しくなく、そのほとんどが船酔いで臥せっている有様だ。「日本人たるもの強靱な心と身体で船酔いなど蹴散らすのだ!」と豪語したいところだが、根立自身も苦しんでいる為、何とも複雑な心境である。
「食事は……無理のようですね」
「…想像しただけで、吐きそうだ」
「雨風は幾分マシになりました。あと一刻もすれば治りましょう。それまでもうしばらく安静に」
根立は無言のまま頷く。
正直喋ることも億劫になっている。
松田はそれを察し退出しようと腰を上げた。ちょうど扉の向こうからのまた別の男の声がした。
「薬膳をお持ちしました」
二人は思わず顔を見合わせた。
「薬膳……?」
松田が訝しげに扉を開ける。
そこには給仕係の男が立っていた。
手に持った膳には蓋を被せた朱塗りの椀。給仕係はそれを押し付けるように渡し、「ゆっくりと召し上がり下さい」と言い残して去っていく。断る間も無かった。
「薬膳、と言ったな」
「ええ……いかがします?」
根立は一瞬考えて、手を差し出した。
「いただこう」
食欲どころか吐き気しかない状態だが、”薬膳”と聞けば話は別だ。このもどかしい現実を少しでも改善してくれるのであればどんなことでも縋りたいと思った。
根立は蓋を開ける。
「こ、これは……」
そこには梅干しが一つだけ入っていた。
◇◇◇◇◇◇◇
ちびちびと梅干しを舐める男達を眺めながら、怜は五代の手首を指圧していた。
「梅干しは船酔いに効きまする」
「真に……」
「あと、手首の際から二寸内側の中央辺りを少し強めに押すのでございまする。ここは”内関”という吐き気を抑えるツボでございまする」
怜は中牟田に五代を託し、他の者達を一人ずつ診て回った。重傷者には健常者を一人付け、指圧の方法を教えていき、軽病の者には自分でするよう指導した。
「近くを見ず、遠くを見ながら指圧するのでございまする。これで二度、説明したでございまする。三度目は死を意味するでございまする」
「…ひっ…承知したでございまするっ」
高杉はぐるりと周囲を見渡した。
船酔いのイギリス人達も見よう見真似で試している。苦手であろう梅干しも、飴のように口に含んでいた。
少しずつだが正常になろうとしている。
上海に着く前に死者が出る可能性もあったが、回避出来たようだ。もしそんなことになればイギリスは元より清の奴らにも見縊られてしまう。幕府などどうでもいいが、”日本国”が軽視されるのは到底容認出来ない。
「……」
ますます貴重な子供だと思った。
敵に回せばなんと恐ろしいのか。
幸いにも久坂と将来を誓いあった仲。
長州にとって見れば百万の兵を得たも同然でないか。
そんな風に頭を巡らせ、突如訪れた吐気に、高杉は思わずその場で吐瀉物を撒き散らした。
「閣下!?」
「い、いいんだ。気にしないでくれ」
(お前と久坂の接吻を想像しただけだ……)
高杉は盆に山積みされた梅干しを、口の中に放り込んだ。




