062
「あ、そうや!坂本君らは……」
怜は彼らがいないことにようやく気付いた。キョロキョロと辺りを見回し、縁側へ続く襖を開ける。だだっ広い庭には、佐藤君が旅の疲れを癒すようにごろりと横になり、寒椿の木の枝に鈴木君が羽を休めていた。
「キョキョ!」
「ブォン!」
「こんなとこにおったん。寒いやろ?」
外はかなり冷え込んでいる。上空を見ればちょうど雪がちらちらと舞い降りて、吐いた息も白く消えていった。
「佐藤君はこっちや」
「ブォ」
コの字に曲がった縁側を奥に進むと自分の部屋へと続く。面して建つのは専用蔵だ。この中には怜が作った木製のソリやプール、小さな大八車、巣箱などなど様々な宝物が納められている。早速扉を開くと奥の方から古い布団を取り出した。
「この蔵は佐藤君の家やよ。表札作らなあかんね」
木製プールに布団を敷き詰め猪ベッドを完成させる。
佐藤君は大喜びでその中に入ると途端イビキをかいて就寝した。
「お嬢さん、旦那様がお呼びですよ」
使用人の一人が廊下から声をかけた。
「あ、そういえば坂本君は?」
「坂本...様?」
「私の下僕がおったはずなんやけど」
「そのような方はおられませんけど。帰られたん違います?」
「……そうかも」
坂本とは長州へ行く約束をしている為、京から去ることなどあり得ないが、先程の帰郷した騒ぎに一先ず近くの旅館か何処かに宿泊することにしたのだろうと、怜は後で文を書いて鈴木君に届けてもらうことにした。
それから優に一刻近く経った頃、ひっきりなしの客が漸く途切れたと思ったら応対に追われていたハツがバタバタと怜の元へやって来た。
「怜!奉行所のお役人様が来られたわ!」
「役人!?」
「”大久保様”言わはるお方や」
「大久保……?」
「江戸へ向かう具体的な話しに来はったんやわ」
「ええ江戸へーー!?」」
「これ、はしたない」
ハツは有無を言わせず怜の腕を引っ張り、客間へと向かう。善治郎が身嗜みを整えながら後に続いた。
(大久保って一翁ちゃうやろな……まさか。先生は大坂におるはずや。京なんかに来るわけない。いや待てよ……もしかして小栗先生が)
怜の当たらずとも良い勘は大体的中する。襖を開けるとあの”大久保一翁”が腰を下ろし、不敵な笑みを浮かべていたのだ。
「久しぶりだな。怜」
「先生!何しに来たんですか!」
「怜ッ!!!」
二人は真っ青になった。
「すすすんまへん!!怜はまだ旅の疲れが取れてないんです!!どどどうかひらにお許しを!!」
一翁は卒倒しそうな二人を、穏やかな笑顔で制した。
「いやいや結構。儂らの間に遠慮などないゆえ」
「勿体なきお言葉ァ!!」
平伏する両親を冷めた目で見る怜。一翁の涼しげな顔に僅かながら苛立ちすら覚えた。
「先生、話があるんでしょ?」
「そうだな。……申し訳ないが、怜と二人きりで話がしたいのだが」
「勿論でございます!」
善治郎とハツはささっと部屋を出ると、またも深々とお辞儀をする。ハツの目が「粗相の無いように!」と釘を刺し、怜はウンザリといった調子で頷いた。
二人きりになると怜は前のめりになった。
「先生。私何で小栗先生の養子になったんですか?」
「何も聞いておらぬのか?」
「さっき帰って来たばっかりやし……」
一翁は面白がる風に口元を緩めた。
「おぬし色々とやらかしたそうだな」
「え?……私なんかしたっけ?」
どういった経緯で小栗の養子になってしまったのか状況をいまいち理解出来ていないのが現状であり、寧ろ役人に喧嘩を売った怜には、追われる理由はあっても取り込まれる理由は思い当たらなかった。
「我が身を知らぬのが、ある意味おぬしの良いところかもしれぬな……」
ポツリと呟いた言葉は、怜の耳に届かない。
「取り消すことなんか出来ませんよね?」
「無理だろうな」
怜は大きな溜め息をついた。
「……これからどうなるんですか?」
「おぬしは明後日京を発ち、江戸に行かねばならぬ」
「明後日!?帰ったばっかりやのに!」
「当然のことよ。勝手は許されぬからな。小栗殿に子はおらぬ。おそらく将来は、適当な武家の男子を婿養子に取り、家督を継ぐことになるだろう」
自分の将来を、好きに生きていくことは難しい時代である。特に女というものは身分が高ければ高いほど、お家の道具とされるのだ。
「そんなアホな……」
目の前がガラガラと崩れた。
西瓜糖を全国に広げ、億万長者になるという大きな夢が、いとも容易く消えていくのだ。
「私の夢が……」
生まれ変わってこの時代で生きるに対し、たぶんに慣れてはいたものの、まさか自分の身に起こるとは思わなかったのだ。
「怜。よもや逃げようなどと考えてはおらぬだろうな?」
「……に、逃げる?」
「そんなことをすれば、おぬしの両親、兄弟、親戚は元より、仲間の……何だったかのう……ああ、坂本。坂本龍馬という男もどうなるかわからぬぞ?」
「!!」
坂本のことまで知られているとは思わなかった怜は、一瞬驚いたものの、何とか平静を保った。
「大人しく江戸へ行けば、誰にも危害は加えぬ。おぬし一人の手に、皆の将来がかかっておるのだ。わかるな?」
「先生ーー!!」
怜はその場に平伏し、肩を震わせた。
「かわいそうな子どもにご慈悲を!」
「嘘泣きは止めよ」
「!」
「この場に哀れな子などおらぬ。居るとすれば、生意気な小天狗のみだ」
「ぐぬぬ……!」
一翁に怜の演技は通用しない。
怜はギリギリと歯噛みしながら上目遣いで睨んでいたが、それでも抜け穴を考える為に頭をフル回転させた。
「話は終わりだ。明後日までに準備を済ませておくようにな。念を押すが、間違っても逃げるなど考えるでないぞ」
(そうや、ええこと思いついた。坂本君や....私には坂本龍馬という力強い味方がおった!)
「わかったのか?怜」
この問題を上手く切り抜ける手段は瞬時に解決した。
「承知しました!」
「む……」
突然の変わりように一翁は眉間にしわを寄せる。怜は綻ぶ顔を引き締め、逆に般若の表情になった。
「良からぬことを企んでおらぬだろうな?」
「けしてそんなことは致しませぬ!」
見つめ合うこと五秒。
元上司は殺人的ビームを部下へ施す。
「まことか?」
「武士に二言はありませぬ!」
怜は背筋に冷たいものを感じながらも、早過ぎる勝利に酔いしれる。笑みがこぼれ落ちそうになるのを必死で我慢し、すっくと立ち上がった。
「先生!表までお送り致します!」
「わかっていると思うが、与力らがこの家の警備に付いているゆえ……」
「逃げ出したりしませぬ!」
「……そうか」
成功率は100%
更には自分も家族も責任を取らされる心配はない。
というか、この方法しか家族を守ることは不可能だ。
坂本には悪いが泣いてもらうしかない。
「鈴木くーん!」
「キョキョ?」
「文届けてほしいんやけど」
明後日、坂本は誘拐犯として全国的に指名手配されることになった。
◇◇◇◇◇◇◇
坂本の宿泊する旅館に、一通の文が届いたのは、夕食後直ぐだった。山田が風呂から出て、階段を上っている途中に、仲居が寄越してきたのだ。
「淀屋さんからみたいです」
「淀屋?」
訝しむ坂本は「これは何かあったに違いない」と緊急性を感じ、即座にそれを開き見る。
「……役人が動いとる?」
その内容は、奉行所の役人が淀屋宅に訪れたこと。主に”後藤怜”との関係及び坂本本人の身の上調査を目的とする尋問であったことが記されており、早急に京を発つよう忠告する内容だった。
「あ、坂本さん、鈴木君が...」
とそこへ、開け切った窓からバサバサと翼の音がしたと思ったら、鈴木君がやって来た。
「怜からの文か」
「キョキョ」
山田は鈴木君の足に括りつけていた文を急いで取ると坂本に差し出した。
「どういうことじゃ」
六歳にしては達筆の域を通り越している。いや寧ろ、男が書いたような殴り書きに近い文体でこう書かれてあった。
『明日夜五ツ、伏見で待つ 小栗怜』
「小栗....」
京を発つと暗に知らせているが、最後に明記された名を見て、バラバラだった脳内のピースが一つの絵に完成したのを感じ取った。
「”小栗怜”……成る程のう」
淀屋の元へ来たという役人。
帰宅した際の怜に対する周囲の反応。
とうとう幕府が動き出したのだ。
小栗家に養子となった怜を江戸へ連れ戻す為にーーー
「山田、出立の準備じゃ」
「今からですか!?」
怜が役人に囚われたら長州に連れて行くことは困難になる。いずれは避けて通れぬ道であっても、みすみす奪われてはここまで来た意味もない。それは怜も同じだった。もちろん長州へ行くのは不本意だが、思い切ってここで動き出さなければ来年の肥後行きは百パーセント無くなることだけは確かだ。
ゆえに目的は違っても、二人の意思は大きな意味で一致していた。
「鼠が二匹張っとるな」
「ね、鼠?」
わざとらしく窓の外を見れば、視界の隅に男がいる。店の間に身を潜めているが、坂本には直ぐにわかった。
「役人じゃ」
「え!?」
坂本は少し考え込んでから筆を取った。
「……鈴木君。ちぃと頼まれてくれるか?」
「キョキョ」
「この文を淀屋と怜に渡してほしいんじゃ。急がせて悪いが、直ぐに出発してくれ」
「キョキョォォオ」
坂本は怜には了承した旨の文を、淀屋には伏見で待機しろという旨の文を書いた。怜がどういった手段で来るかわからなかったが、ここが張られているということは怜の家も張られていると容易に推測出来る。下手に怜を連れて市中を動き回るより、伏見で落ち合い、そのまま淀屋とも合流して船で淀川を進行し、海へ出た方が無難だと考えたのである。
「さあ行くか」
「出立は明日では...?」
「早めに行っても問題ないじゃろ。まあ、言うても今から行くんは祇園じゃが」
「……坂本さん」
呆れ返る山田を尻目に、坂本はニヤリとほくそ笑んだのだった。
◇◇◇◇◇◇◇
一方怜はというと、佐藤君の牙を掴んで脅迫……、いや説き伏せていた。
「……ええな?失敗は許されへんで」
「ブヒ」
「あんたは”私”に成りすまして、役人の目を逸らすんや」
「ブヒブヒィイ」
「もし捕まったら”私は本物の小栗怜です”って言うねん。わかった?」
「ブヒ……」
「大丈夫。バレへんから」
心配そうな佐藤君を勇気付ける怜。
この不可思議な特訓は、既に半刻の時間を費やしていた。
「はい、もう一回最初から」
「ブオ…」
「”おぬし、名は何と申す”」
「ブヒブヒブヒィイ」
「ちゃうやろ!!”小栗怜”やろ!」




