063
次の朝、怜と佐藤君はいつもより早く起きて庭へ出ると、真っ青な空を見上げた。
「もう帰ってきてもええ頃やな」
昨晩、一度戻って来た鈴木君は、怜に文を渡すと直ぐに淀屋のいる大坂へ発った。時間を考えると、とうに京に戻っておかしくない頃合いだが、まだその姿は見えない。
「ブヒブヒ…」
「大丈夫や。鈴木君はできる子やから」
心配性の佐藤君は怜が踵を返して部屋に戻っても、まだ空を見上げたままである。怜は軽く溜め息を吐くと台所へと歩いていった。
「お嬢さん、おはようございます」
「おはよう。筍ある?」
「はいはい。ちゃんと用意しときましたよ」
鈴木君には伊勢海老、佐藤君には大量の筍を買っておくように使用人に託けていたのだ。
「庭に佐藤君がおるから運んであげて」
「わかりました」
カゴの中には何十本という筍が山の様に積まれている。使用人はそのカゴを持ち上げると指示通り庭へと運びにいった。
「怜、もう起きとったの?」
「おはようお母ちゃん」
「もっとゆっくり寝といたらええのに」
「時間が勿体無いからね。出発の準備もせなあかんし」
「お着物は小栗様のお屋敷に送らせてもろたから、あとは細々したもんばっかりや」
「でも……」
「髪飾りも小物も、帯や襦袢も全部新調したんよ?身分に相応しい高価な物ばっかりや。怜は何も心配せんでええ」
当たり前の様にハツは言うが、怜にとっては寂しいことこの上ない。この屋敷にある自分の私物が無くなる事を意味するのだから無理もなかった。
「ああ!それと……」
ハツはニンマリと笑みを浮かべた。
「小栗様から支度金まで用意してもろたんや」
「支度金!?」
「そうや。ほんによう出来たお方やわ。一度ウチらも江戸へご挨拶に行かなあかんねぇ」
その時怜は思い出した。
「あぁああぁあ!!」
「ななんや!?」
以前江戸で仙台へ向かう際、小栗に金子を用立ててもらったことである。あの巾着にいくら入っていたかわからないが、あの男は(一応)幕臣であり、小さく見積もっても五両くらいは用意していたはずだ。
(そうや……すっかり忘れとった。私の稼いだ金子もあの荷物袋に入れたんやった!)
その全てを東郷に持たせていたのを思い出し、怜は歯噛みした。
(くそ!私としたことが!)
「奥様、朝餉の準備が整いました」
「あらそう。ほな怜、頂きに行こか」
「先行っといて!」
怜は心配で仕方がなかった。
東郷に限って勝手に使うなど有り得ないが、あの”真面目君”が耳を揃えて小栗に返金する可能性は極めて高い。怜との養子縁組の件を伝え聞けば尚更であろう。
怜は直ぐ様部屋に戻ると文を書いた。
むろん江戸の薩摩藩上屋敷、東郷仲五郎宛である。
「そうや。小松君にも書いとかなあかん」
小松とは年が明けたら江戸で会う約束をしている。(前述)しかし再会が叶うのはもっと先、早くても来年の夏かそれ以降になるだろうと見越したのだ。正直、約束した金子さえ貰ったら小松に用などないのだが、送ってくれるよう頼んだとしても、おそらく首を縦には振るまい。それにあの「生麦事件」の問題もあった。あれは夏の終わりに起きた事件である。
とりあえず長州→肥後と予定しているものの、春に西瓜の種を植え、しばらく留まって成長過程を観察し、出来れば収穫まで見届けたいと考えている為、それに間に合うか微妙であった。
「”生麦村は通るな”とか書いたらマズイかな……」
小松は鋭い性格である。
もしそんなことを書けば、今以上に疑念を持たれてしまうかもしれない。
現状少々やり過ぎ感が否めないだけに自業自得と言わざるをえないのだが、これ以上の歴史介入は避けたいのが本音である。とはいえ従来の性格から本能のままに行動してしまう己れの無鉄砲さをいかに制御出来るか難しい問題であった。
「うーむ……」
怜は一瞬考えてーーーーー
「まあ、今はええかな」
ーーーーー考えるのをやめた。
◇◇◇◇◇◇◇
江戸小栗邸
「忙しそうだね」
小栗忠順は妻の背中に向かって恐る恐る話しかけた。数ヶ月ぶりにこの屋敷に帰ってきた彼女だが、やはり養子縁組の”報せ”を受けてのことである。
「まだ半分も終わっていませんの」
彼女は荷を解きながらにっこりと笑みを浮かべて振り返った。その表情に嘘は見えないけれど、小栗は何故か落ち着かない。
「何の相談もなく決めてしまって済まないね」
「何を仰いますの?此度の件は御断り出来ぬ筋からのもの。貴方様がお受けになるのは当然ですわ。私のことはお気になさらず」
「大切な妻である君を気にしないなど、夫としてあり得ないよ」
「……まあ」
そもそも彼女が実家に帰ったのは、ある出来事が原因であった。むろんその事実は当の本人・小栗に自覚が無い為「一体何が彼女を怒らせたのか」という疑問と共に地雷を踏まぬよう細心の注意を払っているのだ。
「しかし凄い荷物だね」
「ええ。本当に…」
十畳ほどの和室は衣装箱が雑多に積まれ、足の踏み場もない。その隣りの板間には小さな文机と壁いっぱいの書棚、そして四角い造りの置行燈が置かれていた。どれもこれも新調したもので、畳すら真新しいイ草の香りがしている。
「一人娘を養子に出されたのですもの。無理もありませんわ」
「そうだね」
逸らされた伏し目がちの瞳はやや潤んでいるようにも見える。小栗は素早く彼女の前に座り、その白い手を握り締めた。
「あなた……?」
「心配しなくていいよ」
「心配など……。養子とはいえ、私達にもようやく子が出来たのですから問題ありませんわ」
「ま、まあ…そうなんだけどね」
「あなたは心配してらっしゃるの?」
「そりゃあもう!何せあの子は普通の童ではないからね。なんて言うんだろう!……そうだな…”見た目は子ども、頭脳は物の怪…”いや違うな。”狐”……待てよ。狸だろうか…」
「あら…」
「でも大丈夫だよ。国子」
小栗は安心させるように彼女を抱き寄せる。
久方ぶりの妻の香りは、春に咲く木蓮のようだった。
「どんなことがあっても私が守るからね」
「まあ……」
彼女は微かに微笑んだ後、ゆっくりと頷く。
そろりと立ち上がって襖に手をかけるとーーー
「あなた」
「な、なななんだい?」
冷めた目付きで小栗を一瞥した。
「私の名は”道子”ですわ」
◇◇◇◇◇◇◇
江戸出発を明朝に控えた夜。
後藤家は近所の人々を招いて大宴会となっていた。怜は善治郎の膝の上に乗り、(内心では次の再会を決意しつつ)別れを惜しむように傍から離れられずいた。
「すっかり赤ちゃん返りしてしもて」
「怜ちゃんも、そうしとったらまだまだ子どもなんやなぁ」
「昔からお父さんっ子やもんねぇ」
そう言われて嬉しそうな善治郎は、もうだいぶ出来上がっていて顔も朱に染まっている。怜が大きめの盃に水を足しても気付きもしなかった。
しばらくして怜は厠へ行くと言って部屋を後にする。ハツを含めたほとんどが昔話に花を咲かせ、怜の存在に注意する者はいなかった。
「キョキョ」
自分の部屋に戻ると、鈴木君が開けた庭から飛んで来た。
「どうやった?」
「キョキョキョキョ」
「15人!?…朝より増えとる。あのジジィなかなか鋭いな」(※ジジィ=一翁)
見張りの役人達は後藤家の要所要所に配置されている。外部からの進入を警戒しているというより内部、つまり”怜”の脱走を警戒しているのは一目瞭然だった。むろん指示しているのは一翁だが、後藤家の人々はそれに気付いていない。単に警護だと思っているのだ。
怜は用意していた子供用の作務衣のような紺の着物に着替えた。そして押入れに隠しておいた藁の束に白い布を貼った人形を取り出すと、たった今脱いだ着物をそれに着させ、庭先にちょこんと座る佐藤君を手招きした。
「準備はええな?」
「ブヒン!」
怜の脱出劇が開始された。
◇◇◇◇◇◇◇
鳴り響く法螺貝。怜と一翁の間に戦いの火蓋が切って落とされる。
敵軍総大将は言わずと知れた大久保一翁である。深く刻まれた眉間の皺は、この『戦』に対する真剣さを物語っていた。
「坂本に動きは?」
「坂本ら両名は、昨晩に続き今日も祇園の方へ向かったようで」
一翁はギロリと睨んだ。
「確かめたのか?」
「は。旅館の女将に聞いたところ、そのように申したと」
「女将ではなく、仲居に聞いてみよ」
一翁は静かに言った。
「仲居ですか?」
「怜と接触せぬのはおかしい。それに我々に気付いていないとも思えぬ」
役人を欺く為、女将に口止めしている可能性が高いと一翁は考えた。しかし下働きの者までは通じていないだろうと思ったのだ。
「怜の方はどうだ」
「最後の夜ということで宴をしているようですが、町民などの出入りが激しいと。しかし此方の警備は万全にございます。横門裏口に各三名、正面には五名、残りは敷地内を巡廻させ、万全の策を講じております」
一翁は「ふむ」と息をつき、しばし目を閉じて思案した。
不気味とも思える怜の沈黙。
外出すらしていないという。
それが余計に薄気味悪さを覚えた。
「では参るか」
「は…?」
壁に掛けられた羽織りを掴み、馬の用意を命じた一翁は大股で廊下を出ていく。半ば呆然に見送っていた池田(※東町奉行所の役人)は、我に返ってあとを追った。
「自ら向かわれると?」
「無論じゃ。おぬしは旅籠屋へ行き、今一度確認して参れ」
「はは」
池田は勘違いしていた。
一翁は”坂本らに対し警戒している”と思っているのだ。
「……奴(怜)を侮ってはならぬ」
一翁は険しい面持ちで呟いた。
◇◇◇◇◇◇◇
木津屋橋通”後藤家”は宴もたけなわだった。家人以下数十人はご機嫌な様子でやいのやいのと騒ぎ、そのうち誰かが大声で歌い出したり、それに合わせて踊り出したり、皆が皆異変に気付かなかったのである。
「あら、喜助は?」
最初に気付いたのは朱美だった。
「さっき厠へ行く言うて出ていったぞ?」
長男の返事に朱美は「ちょっと見に行ってくるわ」告げて広間を出ると、コの字の長廊下を右へ曲がり、更に右、左へと進んで厠へ続く縁側へと辿り着いた。
後藤家の厠は敷地内にはあるものの屋敷の裏手に建てられており、小便用・大便用と二つが並ぶ独立式の厠であった。
「喜助ぇ」
朱美は草履を履くと息子の名を呼びながら近付くと板戸を叩いて呼びかけた。
「お腹壊したんか?」
しかし返事も無く、物音一つしない。
朱美は扉を開けた。
「あら……おらんわ」
中はもぬけの殻だった。そこへ使用人の一人がやって来た。
「若奥様、どないしはったんです?」
「喜助見んかった?」
「坊ちゃんならさっきお庭の方に」
「あらそう。ほんなら行ってみるわ」
とその時だった。蔵の方面から大きな物音がしたと思ったら、男らの雄叫びが聞こえてきたのだ。
朱美らは顔を見合わせた。
「……何事でございましょう」
「酔っ払いが暴れとるんやろか」
朱美達がいる場所から蔵までは、垣根(竹垣)さえなかったら直ぐの距離である。屋敷から蔵へ通じる入口(人ひとり通れるくらいの幅)はあるが、この位置からだと大きく迂回しなければならない。それならば一度屋敷の正面玄関から外へ出て、蔵のある横門から入った方が早い。
「急いでみんな呼んできて」
「承知致しました」
朱美はただならぬ何かを感じ、使用人に善治郎とハツ、そして長男を呼びに行かせ、自分は玄関へと小走りに向かった。
「若奥様!」
ちょうど前から血相変えた男衆が走り込んで来た。
「あらあら何があったの?」
「猪がっ……!」
「猪?」
朱美は怜が猪を連れてきていたことを思い出した。喜助は怖がって近付こうとしなかったが、大人しく利口な猪だった。特に昼間などは、男衆が荷物を運搬する際、自ら手伝いを買って出たものだから、ハツが大層気に入り「働き者の猪や」といたく感心していたほどである。
「突然暴れ出しましてっ…」
「まさか……あの猪が?」
どちらかといえば怯えているような気の弱い猪に見えた。勿論、所詮”動物”であり、ふとした瞬間に豹変することだって有り得る。しかし朱美は信じられないといった調子で首を横に振りながら、自分の目で確かめようと外へ出た。
周囲一帯は手に行灯を持つ町民の所為で、夜だというのに昼間のように明るい。人数はそれほど多くないが、雰囲気は戦々恐々とし、皆一点を見つめていた。
「一体何が…」
朱美は言いかけて言葉を切った。
そこには座り込む役人一人と刀を構えた役人ら数名がおり、真向かいに大猪が対峙している。その大猪の上には子供が跨っており、背に顔を埋めて震えているのだ。
「娘を返せ」
その一言に反応した大猪は、前足で地面を掻き、ギロリと役人らを睨みつける。ゆっくりと役人に向かって前進し、腰を抜かしていた男は真っ青になって叫んだ。
「うわぁああぁ!」
「馬鹿者!立て!踏み潰されるぞ!」
「皆の者引くな!!!」
鼻息荒い大猪は役人の制止も聞かずその横を素通りする。町民の間を抜けて朱美の前にたどり着くとジッと彼女を凝視した。
「止まれ!止まらんと斬るぞ!」
「背に乗せた娘を降ろせ!」
虚しく響く怒声は恐怖の色を隠せず、周囲一帯にこだまする。佐藤君の表情はそれ以上近付きもしない役人らを嘲笑っているようにも見えた。しかし吠えもせず無言なのは、けして余裕があるわけではない。
佐藤君は大きな荷物袋を咥えているのだ。
「止まれっ」
猪へと足を進めた朱美を役人が制する。
「踏み潰されるぞ!」
「で、でもあの背に乗っとるんは……」
「わかっている!今助けようとしているのだ!危険だから向こうへ行ってろ!」
ドンと肩を押された朱美を、男衆の一人が支える。朱美はそれを振り切って役人に食い下がった。
「あの子を傷付けんといて下さい!」
「邪魔だと言っただろう!!」
「きゃっ…」
「若奥様っ……!」
腕を振り払われた拍子に尻もちをつく朱美だったが、それでもけして諦めなかった。刀を構える役人など、彼女にとって”恐怖”の対象ですらない。
「若奥様!危険です!」
「後ろに下がれ!さもなくばっ……」
と、役人が刀を振りかざした時だった。上空からバサバサと翼の音がしたと思ったら、町民の一人がそれを指差して叫んだ。
「何だアレは!?」
おそらく先ず誰もが物の怪かと疑ったことだろう。しかし目を凝らすと、その物体が人の形をしていると直ぐに認識出来る。
悠々と夜空を飛ぶ夜鷹とふわふわと浮かぶ小さな物体。それはどう見ても夜鷹にぶら下がる子供の姿だった。
「怜ちゃんや!」
またも町民の一人が声を上げた。それに呼応するように口々に皆が笑い声を上げる。
「またいつものヤツやな!怜ちゃんの奇想天外な発想や!」
「そういえば前は野犬を沢山取っ捕まえて”犬ゾリや”言うて町中走り回っとったな!」
「しかしあの鳥、ちんまいのに力持ちやなぁ」
突如和やかな雰囲気になった周囲に、役人らは「まさか」と困惑の表情で猪へと目を向ける。
「喜助ぇ!」
猪の背で震えていた子供は、朱美の声に反応し、ゆっくり顔を上げた。
「な、…!」
「娘……ではない…!?」
それは紛れも無く半泣き状態の喜助であった。




