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幕末スイカガール  作者: 空良えふ
第一章
49/139

049

『』英語


「おもてを上げよ」


中央上座には安藤信正。背をむけて二人の男が並び、勝海舟はその内の一人の右脇に座っていた。怜は小栗の傍ら後方に並んで小さな身体をゆっくり起こす。


男達の視線が集中した。


が、突然前触れも無く、勝の横の男が笑い出した。


「まさかこのような童が異国語を?」

「はい。しっかりと我が耳に入りましたので間違いありません」


しれっとほくそ笑む勝の顔を殴りたい衝動に駆られつつ、怜は目を逸らした。


「大久保先生も仰っておられました。”この者は稀に見る神童”だと」

「大久保殿が…!」

「ほう…それは真実(まこと)か?」



真実(まこと)でございます。小栗殿、間違いありましょうや?」


小栗は冷ややかな目で勝に視線を投げつけ、背筋をピンと伸ばすと安藤へと向き直った。


「ええ。確かに仰る通りにございます。しかし何と言ってもまだ子ども。やはり通訳は別の者に依頼した方がよろしいかと」


安藤は「ふむ」と頷いた。

さもあろう。たかが五歳の子どもに大役を任せるなどあり得ないことである。万が一そんなことになればそれこそ幕府の失墜だと、攘夷派は元より民衆までも背を向けることは必至だ。


「しかしこの者は先ほど申しておりましたぞ」


勝は得意げに口を開いた。


「この国は異国からすれば犬猫の餌のようなもの。赤子の如く無知な国だと……。更には此度の案件について、公儀がどのような対処をするか見ものだと、こう申しておりました」

「そんなん私は…っ」(言うたな…)

「怜」


思わず前のめりになった怜を、小栗は押し留めた。


「なんと無礼な!」

「知った風な口を聞くではないか!」


二人の男が青筋を立てて声を荒げた。


「お鎮まり下さい。永井様、水野様」


小栗は冷静だった。


「この者の言葉は私の教えによるものでございます」

「な、なんと?」

「よって全てはこの小栗忠順の責任。どのような罰もお受けいたしましょう。申し開きはございませぬ」


不気味なほどしんと静まり返った。


勝が何を考えているのか、怜は全くわからない。「小栗」に対する対抗心か、はたまた怜を試そうとしているのか、どちらにしても腹が立って冷静に考えることなど出来なかったのだ。


「…いや、間違ってはおらぬ」


安藤がパチリと扇子を閉じた。


「あ、安藤様?今なんと…」

「あながち間違ってはおらぬと申したのだ」


安藤は小栗と怜を交互に見た。

怜は憮然と見つめ返し、小栗は動じる様子も無く、ただ真っ直ぐと視線を合わせている。


「……面白い。では明日の協議は小栗殿に執り仕切ってもらおう。小姓も供するが良い」


それに真っ先に反応したのは外国奉行の両者、永井尚志と水野忠徳である。


「お待ち下さい!小栗殿は勘定方ですぞ!?」

「ならば外国奉行も兼任してもらおう」

「しかしこう言っては何ですが、以前小栗殿は任務途中にて自ら辞職した身。つまり職務放棄をしたと言っても過言ではありませぬ!そのような無責任な者に執務させるのはいささか無謀ではありませぬか」


矢継ぎ早に説き伏せる両者だったが、安藤は苦情など物ともせず立ち上がった。


「これほどに申すのも何やら手立てがあってのことだろう。ならばいかにしてこの件を収めるのかこの目で見たくなったのだ」


それを聞いて水野と永井は顔を見合わせた。


「成る程……そう言われれば適任かもしれませぬ」

「安藤様の仰る通り、小栗殿以外に任せられる方はどこを探してもおられぬやもしれぬ」

「では通詞の件はどのように」

「中濱しかおらぬだろう」

「ではそのように」


一旦話が決定されると後は芋蔓式とように進む。怜は全くついていけず困惑するだけだった。


「怜」


気付いた時にはもう小栗しかいなくて、いつもと同じ笑みで「さあ帰ろう」と腰を上げた。


「あの先生、私は何をすればいいんですか?」

「何もしなくていい」

「え?」

「いや違う。何もしてはならない」

「は?」

「此度の件はほとんど結果は決まっているようなものだ」


怜はようやく気付いた。

彼らは小栗を犠牲にするつもりなのだ。協議が成功すればそれで良し。もし失敗すればその責任を全て押し付けることが出来る。つまり人身供儀というやつである。



「おそらく罷免。最悪切腹かな」


小栗は小さく笑って襖を開けた。



「待って先生」

「なんだい?」

「先生は……その…五郎君が…」

「ああ。薩摩藩士なんだろう?」

「やっぱり知ってたんですか」

「まあね。彼の剣は薬丸自顕流。薩摩と言えば”それ”だからね」


ヒュースケン殺害事件の犯人は薩摩藩士・伊牟田 尚平らによるものである。彼らは脱藩して江戸へ渡り、攘夷派浪士組「虎尾の会」に所属していた。この団体はあの清河八郎が発案者であり、新撰組及び新徴組の前身といわれる組織だ。


「万一、五郎が薩摩藩士と知られればあの子の身が危ない。ここの者達は何かと理由を付けて人を貶めるのを好むからね」


怜はそこまで考える小栗を心の底から感心した。やはり並大抵の男ではない。けして表に出さない感情と冷静な分析。勝海舟の実績は確かに素晴らしいが怜にとってはよほど好感が持てる。


「さあ帰ろう。五郎が心配している」

「はい」


史実の中で小栗忠順がこの件に関わったかどうかわからない。けれど怜がいたことで彼が交渉人になったことを思えば、歴史は確実に変わっていると考えた方がいいのだ。つまり仮に小栗が責任を負わされたら、史実よりかなり早い段階で消えることになる。


そうさせてはならない。


怜が関わっても史実を変えることに変わりはないが、それでも小栗がこの世からいなくなることを思えば、答えは一つしかなかった。



◇◇◇◇◇◇◇



翌日、ヒュースケン殺害事件における日米交渉協議は、米国領事館・麻布にある善福寺で開かれた。


由緒ある寺院の中はすっかり西洋風に変わり、楕円型の重厚なテーブルに肘掛けが付いた椅子が六脚。テーブルを挟んで三つずつ並んでいる。


アメリカ側の交渉人はタウゼント・ハリス。両脇には秘書兼通訳のアントン・ポートマンと書記官の男が鎮座し、背後に二人の警備員が立つ。日本側は外国奉行・永井尚志、小栗忠順、そして目付け兼書記として浅野(伊賀守)氏祐が並んで座り、通訳は中浜(ジョン)万次郎、そして怜は小姓として小栗の背後に立った。


「此度の件について、我が国の宗主エイブラハム・リンカーン大統領より書簡は拝見されたかと思われますが」


ハリスが口火を切ると、通訳のポートマンが流暢な日本語で訳し始めた。


『そちらの要望する開市延期は、この問題が適正かつ平等に補償されるまで譲歩は認められません』


かの通商条約により来年に予定されていた江戸の開市延期を要求した直書が幕府から各公使に出されていた。それは朝廷から条約勅許が得られていないことの他、攘夷派による外国人襲撃事件が後を絶たないことが理由であった。いくら幕府が海外と歩調を合わせて「開国」を唱えても、実際それを実行するにはまだ時期尚早ということである。


つまり幕府は、外国と攘夷派に挟まれて身動きが取れない状況であり、またその足元を見てアメリカ側が賠償金を要求しているのは一目瞭然であった。


『賠償金額はヒュースケンへの慰労金・4千ドル、遺族に対して扶助料・6千ドルの合計1万ドルを要求するとお伝えしましたが、その返答をお聞かせ願いたい』


外国人一人に対し1万ドルの賠償金。途方もない金額である。1万ドルとは現在の約1億に相当するが、今に置き換えてもあり得ない数字であることは理解出来た。


「流石にその金額はこちらも納得出来ませんな。我々は再三注意を促し、幾度の警告を彼に発しておりました。それにも関わらず彼は無用心な行動ばかりしている」


小栗は堂々と意見し、ハリスを見返した。


『我々の国は安全かつ自由な国だ。この国のように野蛮でも危険でもない。それにヒュースケンはこの地に妻子を持つほど日本を尊重していたのだ。その友に対してあまりの非道だと本国では”武器を取れ”という声も上がっているほど』


戦を示唆するような言葉に永井と浅野はギョッと目を見開いた。


『よもやお忘れではないでしょう。この事件が起きた折、他国が皆横浜へ引き揚げた時のことを』


この事件は江戸在住の外国人を震撼させ、フランス、イギリス公使らはそれぞれ公使館を閉鎖して横浜へと避難した。本来公使館とは相手国の首府に駐在することがその意味を成している。つまりこれは幕府への「抗議」という重要な決意があったのだ。特にオールコックは幕府に対して厳しい見解を示し、横浜に引き上げた後海軍の力を借りて自衛の道を進むと決定したのである。


しかしハリスだけは江戸から撤退しなかった。自分の息子とも言えるヒュースケンが殺害されたのにも関わらず彼は私情を挟まなかったのだ。


当然これには外国人公使はおろか幕府も驚くべき行動であった。攘夷派が起こしたこの事件は前述した通り西洋人への反発が主だが、それ以外に幕府と西洋列強の間に火種を作り幕府を窮地に立たせようという目論見もあったのである。


そしてその狙いは見事に功を奏し、アメリカ以外の列強は横浜へ避難するという異常事態に陥った。よって幕府は面目を潰された形になったのである。しかしハリスの説得により各公使は江戸へ復帰し、緊張状態は緩和される結果となった。そういった過去があるだけに幕府がハリスに感謝したのは当然で、強気に出られない原因なのである。


『もしも応じられないのであれば、やはり英吉利・仏蘭西・普魯西は勿論、阿蘭陀と共に自衛の策を講じることとなるでしょうな』


脅しとも言える言葉に怜が思わず舌打ちする。

それに気付いたハリスがこちらを睨みつけた。


『その子どもは?』


と、ハリスが問うとすかさず中浜が『He was disciple.』(彼は弟子(小姓)です)と応じる。


怜は周りが息を飲むのも無視してハリスの隣りに歩み出た。


「My name is Rei Goto.I am pleased to meet you.」




日米大戦の火蓋が切って落とされた。


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