048
芙蓉の間
張り詰めた空気。
ゴクリと唾を飲み込む音がする。
皆の表情は一様に切羽詰まったもので、唯一怜だけが無表情であった。
「つまり、ジュリエットの計画は追放されてたロミオに伝わらなかったんです。だからジュリエットが死んだと思ったロミオは彼女の棺の隣りで毒を飲んで死んでしまいました」
途端、すすり泣きが聞こえた。
「あんまりでござる……うぅ…殿…」
「何とも非道なことよ……くっ…」
「そ、それで怜!その”じゅりえった”はどうしたんだい!?」
「先生。”ジュリエット”です」
怜はコホンと咳払いをし、神妙な面持ちで皆を見渡した。
「仮死状態から目覚めたジュリエットは、彼の亡骸を見て悲嘆し、短剣で自らを刺して、ロミオの後を追いました」
怜が「おーわーり」と頭を下げると、皆が口々に声を張り上げた。
「なんとォオ!若い女子が”切腹”とはァ!」
「武士として見事な最後であった!」
「あっぱれ!」
「義を貫く為に命をもかけるとは、これぞ誠の武士なり!」
「昨日の”女人魚”(人魚姫)も、命の限りまで尽くす立派な武士であったが、これもまた見事な」
斜め上をいく奉行方は、その結末に満足気である。怜はやはり時代の”差”というものを感じずにはいられなかった。
「それでは今日の話はこれまでです。お粗末様でした」
「大義であった!」
「また明日も頼むぞ、怜殿」
「はい!」
奉行方やその小姓らが退散し、残ったのは小栗と平馬、東郷である。
「いやぁ……誠に良い談義でござった!」
「梶原殿、蘇鉄の間にご案内致しましょう。向こうでゆっくり茶など」.(※蘇鉄の間=家臣の詰所)
「おお…かたじけない」
「では怜、五郎。後は頼んだよ」
「「はい先生」」
小栗と平馬が出て行くと、二人は片付けを始めた。とはいえ怜は貰った金子を数えるのに夢中で、東郷が九割九分九厘動いていたが。
「これでやっと二貫かぁ……」
「稼いだね」
「そうかな。思ったより少ない」
「欲ばりだよ」
「あ、この前の飛脚代(郵便)返す」
「えっ、いいよあんなの」
「借りは作りたくないねん。はい」
「いいったら!」
珍しく東郷が声を荒げたので、怜と鈴木君は目を丸くした。
「あ、…いや……その…」
東郷は焦っていたのだ。
怜が注目を浴びる度に誰かに興味を持たれ、突然自分の前から連れさられていくのではないかと。
「五郎君って……」
「え…」
潤んだ瞳で見つめる怜。
東郷の鼓動が早くなっていく。
「太っ腹やな!」
「へ?」
怜はヒューヒューと言わんばかりに立ち上がり、バンバンと東郷の背中を叩く。
「やっぱ薩摩隼人はかっこええね!」
「そ、そうかな…」
「よ!色男!」
「うはっ、ちょっ」
怜と鈴木君は東郷に飛びかかるとそのまま板間に組み伏せて”くすぐりの刑”に処した。
「キョ。キョ、キョキョ~」
「っ、ははっ…!や、やめて…っ…」
「おらおらぁ~」
怜にかかれば色恋など皆無だ。
どれだけ知識があったとしても身体も心もまだ未成熟なのである。
「早くお金稼いで仙台に行きたいねん。その後もやらなあかんこといっぱいある。その為にはお金が必要やねん。だからおおきに」
怜は改まってきちんと正座するとぺこりと頭を下げた。
「いいんだ。でも仙台には僕も行くよ。お金は小松さんに言えば何とかしてくれる。だから一緒に行こう」
「でもな、私の失敗で小松君から貰ったお金無くなったんよ。帰りは来年出してもらうからええけど、これ以上は借り作りたくない。だからやれるだけ自分でやってみる」
東郷は思い出した。
怜はこういう子どもなのである。きっちり境界線を決め、出来るだけ人に頼らず、自ら動いて難関に挑んで突き進んでいく。その表情は女の子だと忘れるくらい自信に満ち、頼もしくも見えるのだ。
「だったら僕も一緒に頑張るよ!自分の船代くらい稼がないと!」
「うん!」
しかし二人が決意を新たにした次の日、思わぬことが起きた。
いつものように談義を始めようとした矢先、噂を聞きつけたある一人の男がやって来たのだ。
「安藤様のお越しでございます」
隔てた襖の向こうから近侍の声がすると、奉行方はハッと息を飲んでその場に平伏した。
(坂下門外の変の……)
怜はこうべを垂れたまま、記憶を手繰り寄せた。
安藤信正は幕府最高権力者であり、事実上幕政を取り仕切っている”老中”である。井伊直弼の「強硬派」とは違い「穏健派」「公武合体」を推進する一人であった。
現状幕府は久世広周と安藤信正が実権を握っている。一般的に”久世=安藤政権”として広く知られているが、実際表立っていたのは久世の方であり老中首座という地位でもあった。しかしそれはあくまで表面的なものでしかなく、実質的に掌握していたのは安藤である。詰まる所敢えて久世にその席を譲り、自身は対外国に携わる老中として実務に専念しているというのが現在の幕府の実情であった。
その安藤が自ら足を運ぶのは珍しいことではないようで、皆最初は緊張の面持ちであったものの、安藤の才なのか持って生まれたものなのか柔らかなその物言いに次第に和やかな雰囲気となっていた。
ただ小栗に限ってはいつもの調子は一切表に出さず、ひたすら鉄仮面であったが。
「其の方らが小栗殿の小姓か」
奉行方との話が一区切りつくと、安藤は怜と東郷に視線をやった。
「東五郎と申します」
「後藤怜と言います」
安藤は表情こそ穏やかであるが、視線の鋭さはやはり「大名」の風格を兼ね備えている。とはいえ怜は何と無く気に入らなかった。
「皆が噂しておったが、小栗殿の小姓はなかなかの切れ者だとか」
どのような噂を聞いたのか皆目見当がつかなかったが良い内容ばかりではないのだろう。”小栗殿”と丁寧な口調ではあるが、探りを入れているのは明らかだった。
「それは単なる”噂”にございます。人というものは何かと尾鰭をつけたがる生き物。私からすれば、その辺りの子どもと何ら大差ないと」
小栗は下げた頭をゆっくり持ち上げた。
「もっとも無能な役人方に比べれば、この者達の方がよほど役に立ちますが」
安藤は目を細めて口角を上げた。
「ほう。それは頼もしい」
ひやりと嫌な空気が流れ誰かの息を飲む音がする。小栗のこういった性分が敬遠される原因なのかもしれない。
安藤は扇子をパチパチと鳴らし、しばらくすると近侍の者に何やら耳打ちする。近侍はコクと頷いて横手の襖を開けた。
「明日メリケン国の使者が参られる。それについて今より対策を協議したいゆえ、そなたも来られよ」
「は」
(メリケンの使者?)
小栗の立場から察するに「勘定奉行勝手方」という肩書きは勘定内におけるトップの要職である。罷免を繰り返しつつもこういった重要職に再び任命される理由は小栗の手腕によるものなのだ。その彼を協議に出席させるということは財務に関する内容だと容易に想像が出来る。
安藤が退出するに従って小栗はその後を追う。怜と東郷も引き続いたが、ちらりと東郷へと振り返った彼の表情を見て、怜は一抹の不安を覚えた。
◇◇◇◇◇◇◇
雁之間の一室に案内された小栗は、怜達を廊下に待たせて一人中へと入っていった。むろん中の声は全くと言っていいほど聞こえない。勿論防音設備があるわけでは無く、雁之間自体が広く襖二枚を隔てている為、廊下までは届かないのだ。
「何の話だろうね」
メリケン国の使者といえばハリスだ。あの金銀比価問題の件だろうか。それともまた違う何か。
「うーん…」
今アメリカは南北戦争の真っ只中である。それを幕府は知っているのだろうか。鎖国中とはいえ、そういった情報はどこからか入るものである。知らぬはずはない。まあ知ったところで何がどうと言うわけではないが。
そういえば前世において中学生の頃、グループ研究の一環で南北戦争を取り扱ったことがあった。あの時は特に深く考えずに淡々とレポートを書いて発表したものだ。
「なんか感慨深いもんがあるな...」
「え?」
「ううん」
「もしかしたら外国人殺害事件のことかな」
東郷の呟きに怜は「あっ」と短く声を切った。
「数ヶ月前に東禅寺で襲撃があったって小松さんが言ってたんだ」
「あれはエゲレスとの事件やろ?それじゃなくてヒュースケンの事件ちゃうかな」
「ああ、そういえばあったね」
ヘンリー・ヒュースケン殺害事件は、10カ月ほど前に起きている。彼はハリスと共に来日し秘書兼通訳を務める人物としてその名を馳せていた。
語学が堪能で通訳でありながらハリスが病で倒れた時は代理としても直接交渉を行い、またイギリスやプロシア(ドイツ)の対日交渉における支援にもあたっていたのである。
乗馬を趣味としたヒュースケンは江戸城の周辺をよく散歩したといわれるが、結局これが薩摩藩出身の攘夷浪士の怒りを誘い殺害されたのだった。
「賠償金の話かな…」
「そうかもね」
大事な部下を殺されたのだ。当然と言えば当然である。しかしこの件は一方的に日本が悪いわけではないと怜は見解している。
そもそも「攘夷」の世の中で頻繁に多発する「外国人排除」の動きは後を絶たないのだ。幕府はそれを懸念し、在日外国人に通達を出すと共に警護にも力を入れている。しかしヒュースケンは再三の忠告を無視し、不用意にも出歩くことを繰り返していたわけである。
むろん人道的観点から考えれば殺害しても良い理由にはならないが、かといって必要以上に幕府が下手に交渉するのは後々悪影響を及ぼすのは考えずとも容易に推測出来ることであった。
「…おもしろくなりそうやね」
「どうして?」
「外国人は容赦ないからとんでもない賠償金を請求してくるわ。ユスリみたいなもんやよ」
「ユスリって…」
「日本は舐められとるからね。だってずっと鎖国やもん。唯一オランダと清くらいやろ?海外の情報なんて何も知らん」
「それはそうかもしれないけど」
「国が強くなる為には門戸を開かなあかん。蘭語なんか推奨しとるの日本くらいやよ」
「そうなんだ……」
「世界の共通言語は英語。五郎君もどうせ習うんやったら英語勉強した方がええよ?」
「英語かぁ…」
「ジョン万次郎って知ってる?」
「その方は知っているよ。随分前に我が藩の開成所で教授をやっておられたと聞いたことがある」
「薩摩にも洋学校あるんやー。知らんかった」
「今は軍艦操練所にいるんじゃないかな」
「江戸におるん?」
「多分そうだと思うよ。以前は長崎の伝習所にもいらっしゃったようだけど」
間者扱いされていたと本で読んだことがあったが、どうも一部から敵視されているだけで実際はそれほどではないかもしれないと思った。いつの世も疑り深い輩はいるものだ。
「Hello。Nice to meet you.」
「な、何て言ったの?」
怜の英語に東郷はギョッと目を見開いた。
「”はじめまして”や。そう言われたら相手は”Nice to meet you too.”って言うの。ほら言うてみて」
「な、ないす…ちゅ…」
「OH…That's terrible..」(最悪…)
怜とて人の事は言えない。特にこの世に生を受けてからはほとんど使うことが無かったから、以前のように瞬間的に出てこないのだ。
「一度海外に出た方がええよ?そしたら嫌でも覚えるから」
「海外に言ったことがあるの!?」
怜の口ぶりに東郷は更に目を丸くした。
「寺子屋(学校)で習っただけやよ」
「その寺子屋では英語を教えたりするんだ」
とその時、頭上の鈴木君が「キョ」と警鐘を鳴らした。
「ほう。さすが小栗さんの小姓。英語まで習得しているとはね」
勝海舟であった。
◇◇◇◇◇◇◇
勝は言うまでもなく「東五郎」という少年にいちもく置いていた。真面目で礼儀正しく、小栗の小姓として手となり足となって忙しく動き回り、その容姿も加えれば江戸城内では女中などにも評判が良かったからである。
しかし大久保から聞いた「稀に見る奇才」と称された子どもは、この少年を指しているのではない。
「成る程…」
勝はようやく気付いたのである。
それは隣りの小さな子どものことなのだということを。
「どこの寺子屋だ?」
「いえ、あの、もう潰れたから」
「潰れた…」
「えーっと、その先生が死んだんです!」
「亡くなったのか…」
勝はしばらく考え込むと何も言わず雁之間へと入っていく。しかしそれは束の間だった。
「怜」
中から顔を出したのは小栗である。
「先生…」
「英語を話せるというのは本当かい?」
小栗は二人の前に膝を付いた。
酷く疲れた様子である。中でどのような会話がなされているかわからないが、どう見ても行き詰まっている表情である。
「話せるっていってもネイティブには無理です…」
「ねいてぃぶ…」
「だから流暢な英語は無理やし、ゆっくりなら聞き取れますけど...」
逆に読み書きに関しては自信がある怜だったが、下手なことは言えない。巻き込まれるのは御免だからである。それにジョン万次郎のように英語を話せる人物だっているわけで怜の出る幕などないのだ。
「来なさい」
「先生、僕もお供を」
「五郎は鈴木君と先に帰るように」
「先生!?」
食い下がる東郷だったが、怜は先ほどの小栗の様子を思い出しそっと鈴木君に耳打ちした。
「先生、お願いします!」
「…こればかりは駄目だ」
怜が考えるに、お気に入りの東郷を締め出す理由は一つしかない。それは「東五郎」が”薩摩藩”の者だと小栗は知っているのだ。
「五郎君。私なら大丈夫や。先生がおるし。……そやから先に帰っといて」
「でも!」
「キョキョォオ」
「痛っ!」
鈴木君は東郷の頭の上にずしゃりと飛び降り、髪を引っ張るように足踏みをする。
「鈴木君、お腹空いとるみたいやからご飯頼むわ。ほな後でね」
「怜!待って…痛てて」
「先生行こ」
そうしていよいよ怜を含む会議が始まったのであった。




