047
江戸城内
「むむ…」
「平馬。やはり誰かに」
「……その誰かがおりませぬ」
若き藩主とその家臣は城内の入り組んだ廊下で立往生していた。右へ行き、左へ曲がり、更に突き当たりを左へ進む。
「この壁に仕掛けがあるのではないか?」
「あるわけがございませぬ」
つまり迷い子であった。
彼らの目的地は”溜之間”という控えの間であり全く逆方向に向かっている。だが本人らは気付いてはいなかった。
初めての登城なら仕方ない。と思うだろうが初めてではないのだ。何度となく来ているにも関わらず、彼らは異常なまでの方向音痴であった。
むろん、案内役はいる。
いるのだが、たまたま当たった茶坊主が凄まじい速さの持ち主であった為、途中で見失ってしまったのである。
「困った…」
「はい…」
とそこへ。
頭に鳥を乗せた小さな子どもが現れた。
「どないしたん?道に迷たん?それとも人生に迷たん?」
怜と鈴木氏である。
「おお!天の助け!」
平馬は怜の両手を握り締めた。
「お前は茶坊主か?」
「ううん。小姓や」
「小姓か。なるほど。ならばこの城内のことは知り尽くしているだろう。済まぬが溜之間まで案内してくれないだろうか」
「……ええけど」
怜は手のひらを見せつけるように右手を出した。
「……か、金を取るのか?」
「良いではないか。今は急ぐ。渡してやるのだ」
「は…」
平馬は溜め息をついた後、ゴソゴソと袖に手を入れ、小さな袋を取り出して、それを逆さにした。
「……これだけです」
チャリーンと小粋な音に怜の目は輝くも、一瞬で半目になる。
「一文て……きょうび二歳のガキでも百文は持っとるで」
「くっ……!」
平馬は拳を握り締め、悔しそうに顔を逸らした。
「な、なんと!平馬…」
藩主の目から涙が溢れた。
「不甲斐ない私の所為でお前達にまで苦労をかけているのか……済まぬ!」
「何を仰います!けして殿の所為ではごさりませぬ!ささっ!お涙を…」
「平馬…!」
「…殿!」
怜が二人の三文芝居を冷ややかな目で見ていると、平馬はその視線に気付きサッと顔を赤らめた。
「あ、あの、申し訳ござらぬが、後払いにしてはもらえないだろうか」
「……ええけど」
「おお……有難い」
「ほな付いてきて」
後払いは大嫌いな性分の怜だがこの者らに対しては特別許すことにした。
むろんそれには理由があった。
「会津の殿様。顔色が良くないですね」
「な、なんと。我々がどこの者かわかっていたのか」
会津藩主・松平容保だったからである。
「溜之間は限られたお偉い方以外禁じられとるし、そんなん直ぐにわかりますよ」
溜之間は黒書院で将軍に謁見する際の控えの部屋であり、徳川氏と縁のある高松藩松平家、会津藩松平家、彦根藩井伊家の三家が常にここに詰める”常溜”(じょうだまり)と位置づけされている。
とはいえ、この三家以外は入れないという意味ではなく、一代に限り溜之間に詰める大名家は飛溜と言ったり老中を永年勤めて退任した大名が一代に限り末席に詰める”溜詰格”も存在する。
もっとも怜の場合未来の写真で「松平容保」を知っているからに過ぎず、目下記憶による彼は「貧乏くじばかり引かされた可哀想な藩主」だった。
「いかがなされました?」
「いや……」
溜之間に近付くにつれ容保の顔が少しずつ険しくなっていく。
「もう直ぐです」
そう告げると今度は鼻をすする音がし、怜は再び振り返りそして二度見した。
「何で泣いとるんですか?」
しくしくと少女のように涙を零す容保。
「殿ォオ!」
「ああぁ……行きとうない!」
「おおお恐れていたことがーー!」
片膝を付いた容保に平馬が寄り添う。
「殿の”行きとうない病”がーー!」
「済まぬ…平馬……私はもう…」
「今日ばかりはー!今日ばかりはお出にならねばなりませぬー!」
二人のやり取りから月に四~五回と定めらた登城日を彼は重病と称してひと月半も休んでいるという。何がそこまで彼を苦しませるのか皆目想像すらつかぬ怜であったが、この二人があまりにおかしくて三角座りでその様子を見学していたのだった。
「ゲホッ…ゴフッ……」
「殿!?」
「も…う……駄目じゃ……」
「殿ー!お気を確かにーー!」
平馬の胸の中に崩れるように寄りかかる容保。手は小刻みに震え、御臨終間近である。
「あのー、大丈夫ですか?」
「……さら…ば…じゃ」
「殿ー!」
容保の手がパタリと床に落ちた。
「小姓殿!申し訳ござらぬが玄関まで案内してはくれぬだろうか!」
「……帰るんですか?」
「致し方あるまい!」
「医者呼んできましょか?」
「お心遣い有難いが殿は医者が苦手なのだ!」
「そんなん言うとる場合ちゃうでしょ。もう死んどるやん」
怜は即座に立ち上がる。、
しかし容保の手がニュッと伸びて袴の裾を掴んだ。
「待…つのだ……」
容保は息を吹き返した。
「殿ー!?」
「平馬…お前の涙が”生”を与えたもうた…」
「殿ーー!!」
「………」
そこへけたたましい足音が近づき、見知った二人が顔を出した。用事を言いつけたまま帰って来ない怜を心配して小栗と東郷が探しにやって来たのだ。
「怜!こんなところに」
「先生、五郎君…」
「何をして……」
「ちょっとこの方々に案内を頼まれたんで」
歓喜の声を上げたのは平馬であった。
「これは小栗様!良いところへ!」
「おや。梶原殿に、これはこれは肥後守様」
小栗はサッとその場に座すると恭しく頭を下げた。東郷も同じように平伏する。
「そなたは又一…」(※小栗の通称)
「もう病の方は良くなられたご様子」
「い、いや…先ほどまでは良かったのだが、ここへ来て、急に気分が悪うなってしもうて」
「どの辺りが悪うございますか?」
「む、胸が苦しゅうなって熱も出てきたようだ……ついでにこの辺りも」
容保は手で胸の辺りを押さえた。
小栗は「失礼」と容保の傍に近付き、顔色を見たり脈を測ったり医者のように一通りの作業をした後、ハッと息を飲んだ。
「こ、これは……ッ!!」
「お、小栗様!もしや殿はー!」
コクリと頷く小栗と平馬。
そして病名が宣告された。
「持病の”気のせい”でございます!」
「な、なんとー!それは不治の病ー!」
「ハァハァ……やはりそうであったか…」
息絶え絶えの容保の目尻から一筋の涙が零れた。(東郷と怜は冷ややかに見ている)
「梶原殿。お手をお借りしてもよろしいですか?」
「はい!勿論でござります!」
小栗は怜と東郷に目配せする。
東郷はササッと数メートル先の溜之間の前にやって来て、声を張り上げた。
「会津肥後守様のお越しでございます!」
「なっ!?何をする!」
同時に怜がスパーンと襖を開けると、二人に抱き抱えられた容保がポイッと中へ放り込まれた。
「おお!肥後守殿!待ちかねたぞ!」
「あは……はは…」
「そのように意気揚々と姿を現すとは、病はすっかり癒えたようだな」
「はは…あ、あの……」
「さあ!こちらへ参られよ!さあさあ!」
怜は一ミリの隙間なく襖を閉め切ると、平馬はハーッと肩を撫で下ろした。
「お三方、まこと助かりました」
「いやいや。お気になさらず」
「大変やな、家臣て」
「”慣れ”れば何ということはないでござる」
「梶原殿は家臣の鑑ですな」
平馬は微かな笑みを浮かべ溜之間に視線を向けた。
「殿は心の弱いお方なのでござるよ」
「単に甘いんやろ」
「怜!」
東郷が嗜めると平馬はそれを制した。
「だからこそ我々が殿をお助けしなければならないのでござる」
「そうは言ってもなかなか骨を折るでしょうな」
「いえ、恥ずかしながらあの瞳で涙ながらに訴えられるとどうも思考が停止致す次第で」
顔を赤らめて頭を掻く平馬を見て、容保を甘やかしているのは家臣団なのだと怜は思った。
「先生。それはそうと、皆様が」
「おお、そうだった。怜、奉行方がまたお前の談義を聞きたいそうだ」
「……ああ、アレですか」
「礼もはずむと言っていたな」
「先生!行きましょう!!」
「うむ」
ルンルンとステップで廊下を駆ける怜の後ろで、平馬が首を傾げて小栗に聞いた。
「談義とは?」
「良ければ梶原殿も来られますか?あの者の話はなかなか勉強になりますよ。むろん私には及ばないが」
「おお……是非とも」
「では参りましょう」
怜の談義は少しずつ浸透し、方々へと拡大されつつあった。噂が噂を呼び当初より人が倍以上になっているのだ。小遣い稼ぎに過ぎない本人にとっては万々歳だが、東郷は心配でならなかった。ただ怜も馬鹿ではない。万が一を考えて逃げる準備だけは怠らなかった。
「あ、鈴木君」
「キョキョキョーキョー」
「ちッ長州め...また何か良からぬことを企らんどるな」
「キョキョ」
「まあえーわ。お金さえ貯まったらこっちのもんやからね」
未だ金を支払わない貧乏藩(長州)など見限るのは当然だった。加えて鈴木氏の主張「キョキョキョキョォォオキョキョォォオ」(※)を聞けば、愛する相棒を侮辱する行為に、恨みの念を抱かずにはいられなかったのである。
「怜、早く来なさい」
「はあい」
※もう嫌や!いつもちっさいミミズやもん!




